古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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矢沢城

 矢沢城は、上田市殿城城山にある比高40mほどの山城です。現在は矢沢公園となっています。以前に一度訪城していますが、15年以上も前で、まだ山城めぐりの初心者のころで縄張図もなく行ったためもあり、ただの公園といった感じで城址の感じを受けずに、漠然として下城したことを記憶しています。今回は、縄張図持参の為か遺構を確認することができました。                        訪城日:2019.4.19  晴れ
イメージ 1城址へは、上信越上田ICから国144号を北上し、約2km先の下原信号で右折して県道176号に入ります。約1.5km進んだ先で左折して、矢沢公園を目指します。集落内に案内板があります。駐車場は、公園入口に2〜3台とまれ、仙石氏館にも数台とまれます。
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  矢沢城は、天文年間(1532-55)に矢沢薩摩守網頼が築いたと伝わるようです。このイメージ 3矢沢綱頼(1518-97)という人は、真田幸綱(真田昌幸の父)の弟で天文の初め頃矢沢氏を相続したとされるようです。矢沢氏は、諏訪明神系の神氏一族で、応永2年(1468)に神使御頭を勤めていることから、南北朝期にはすでに矢沢郷を領していたものと思われます。隣接する海野氏系の真田氏とは、仲はよくなかったようですが、どのような経過で綱頼が矢沢氏を継いだかは定かではありません。
  天文10年(1541)の海野平合戦(武田・諏訪・村上の連合軍対滋野一族)で、滋野一族は敗北し、海野棟綱や真田幸綱等は上野に逃れますが、矢沢綱頼は諏訪氏のとりなしがあり村上義清の配下になったようです。天文19年(1550)の武田信玄の砥石城攻め際には、村上勢として砥石城内に籠城し、武田勢を撃退しています。(戸石崩れ)翌年、真田幸綱が調略を持って砥石城を奪取したとされています。その調略に矢沢綱頼の内応があったのではないかといわれています。その後、真田幸綱は、信玄に重く用いられ小山田虎満や飯富虎昌らとともに北信濃侵攻の先鋒を任されますが、綱頼は真田氏を寄親とする寄子となり真田勢の一翼を担ったと思われます。ただ、矢沢氏が真田氏の家臣となったわけではなく独立した国人領主(国衆)として存在していたようです。矢沢家文書を分析した利根川淳子氏によれば、矢沢氏が真田氏のの家臣とし確定するのは天正14年以降とのことです。イメージ 6
 矢沢氏の居館跡は定かではありませんが、城下の集落内あったと思われ、矢沢城はその詰め城として矢沢氏によって整備され、真田氏の城塞群の一翼とし南の防御拠点として用いられたとも割れます。また、天正13年の第一次上田合戦の際には、上田城の支城として矢沢頼康が兵800と共に籠城し、依田源七郎らの徳川勢を退けたといわれています。その際に、増強改修されたと思われます。慶長5年の第二次上田合戦の際に道であったかは定かではありません。廃城は、慶長6年の上田城破却の頃か、元和8年(1622)真田信之の松代移封の頃と考えられます。

イメージ 4駐車場から見た矢沢公園入口です。ここから登って行きます。



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5分もかからず8郭に着きます。公園入口からの道が大手道思われますので、この8郭が大手郭だったのでしょうか?
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8郭からの6・7郭です。


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南面の段郭の中でも大きい6郭で、65×12m程の広さがあります。
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段郭郭の切岸は、4〜5mほどあり、5郭と6郭の切岸にそれがよく残っています。イメージ 10




5郭に東屋と社が建っています。主郭南面を守る需要な郭のようです。2郭虎口へは社左手を進みます。














イメージ 11イメージ 12











主郭から見える2郭虎口の道                   2郭虎口                      
イメージ 13
2郭は、主郭から約1mほど低い位置にあります。2郭虎口を通り2郭から主郭へ入ったと思われます。
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主郭で、35×14m程の広さです。主郭西面の壁に石積みが見られます。↓
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イメージ 172郭と3郭の間の堀切1で、上巾10m程ですが、埋まっていてあまりはっきりわかりません。

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3郭です。イメージ 19


3郭と4郭の間の堀切2です。イメージ 20








北端の4郭です。イメージ 21



西面の段郭の一つで、西面と南面か緩い傾斜地のため、帯郭を階段状に設けて防御力を高めています。

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神川対岸の虚空蔵山城を見ると、真田地域の南の関門の役割を果たしていたことがわかる感じします。

公園化によって相当の改変があったと思われますが、意外に遺構が残っていますので、訪城にはいい城址と思われます。

参考文献
『信濃の山城と館 3 上田・小県編』 宮坂武男著
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編
『戦国大名と国衆』 平山優著

『真田氏一門と家臣』 丸島和洋編

閉じる コメント(3)

馬念さんおはようございます!

そして、令和も良い年になりますように…。

矢沢城跡、楽しく拝見いたしました。真田太平記では、大叔父と言われて昌之公も一目置かれていた、矢沢頼綱公の本城でしたよね? 矢沢城跡とは話がそれますが、図で、仙石氏舘跡が乗っていましたが、仙石久秀公と何か関係がある訳では無いですよね?ちょっと気になりまして…。近くに小諸城趾もありますが。ま、近いと言っても結構ありますけどWW

2019/5/1(水) 午前 6:41 [ tak***** ] 返信する

あと、綱頼と言っておられますが、頼綱ったような気もしますが、綱頼が正解何ですか?詰まらない質問ですみません💦

m(_ _)m

2019/5/1(水) 午前 6:45 [ tak***** ] 返信する

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> tak*****さん
宮坂本に寄りますと、寛文9年(1575)に仙石政勝が矢沢領二千石を分知されて、江戸定府の旗本となりこの地に陣屋を構えました。これが仙石氏館です。仙石氏が宝永3年(1706)に但馬国出石に移封になっても引き続き当地を領しています。

綱頼なのか頼綱なのかですが、一説では綱頼から頼綱に改名したのではないかと。その時期が天正4年(1576)で武田勝頼から「頼」を偏諱(へんき)された時といわれます。ただ、その後の天正8年の諏訪社棟札銘(上田氏赤坂の瀧水寺所蔵)に「矢澤薩摩守滋野綱頼」とあることから綱頼が正しいのではないかという説もあります。研究者の方々は、綱頼を使っていられます。

2019/5/1(水) 午後 0:36 [ 馬念 ] 返信する

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