古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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真田氏本城(真田山城)

 真田氏本城は、別名真田山城、十林寺(住連寺)城、松岡城とも呼ばれる比高10m(駐車地点より)の山城です。ここのところ、真田氏関連の城郭の矢沢城・天白城を取り上げてきましたので、その続きに当城を書こうと思いました。されど、何度も訪れている割には、まともな写真がない!「ならば行くしかな」と思い…。
                                                   訪城日:2019.5.12 晴れ
イメージ 1 城址へは、上信越道上田ICから国144号を北上し、荒井信号で右折して真田氏歴史館を目指します。その先の交差点を左折して約1kmで、城址入口に至ります。途中案内日様式がありますのでそれに従えば迷うことはありません。

イメージ 2






                  天白城からの真田氏本城 




 当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、真田氏の根本領地の中にあることから築城者は真田氏にかかわるものが築いたと思われます。当城が、真田氏本城と呼ばれるのは、旧真田町教委の『真田氏城跡群ーその歴史と調査の概要』(1982年)で「十林寺の城」が、「その規模の大きさ構えの在り方からして、これこそが真田氏の本城というべきものと考えられる。」とし、角間の松尾古城や天白城などは、十林寺の本城の支城として位置づけています。この見解は、かなりの影響力があるようで、当城の説明板にも色濃く残っています。
主郭土塁手前にある説明板を記しておきます。
この城跡は、天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに砥石城・矢沢城を望むことができる。イメージ 15
 本郭は東西8.6m南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重な防備をしている。
 規模が大きく水利もあり、周辺城跡等の関係から見て、上田城築城以前の真田氏本城であったと推定される。 
平成27年10月
  上田市教育委員会
                                      ※縄張図は、二の郭に設けられている案内板にあったものです。
 ここで、真田氏の居館と詰めの城を探るため、真田氏の歴史を簡単に追ってみたいと思います。
 真田幸綱以前の真田氏の歴史は、大塔合戦に参戦した真田郷付近の武士の中に「実田」が記されていることからこれが戦国期の真田氏の繋がるものと考えられてますが、あまりはっきりしていないため、真田幸綱意向を見てみたいと思います。                                                                                 真田幸綱は、天文10年(1541)5月の村上義清・諏訪頼重・武田信虎連合軍の軍事侵攻における海野平合戦に敗れ上野に逃れますが、それ以前に真田郷一帯を領していたことは確かなようですが、どこに居館を設けていたのかは定かではないようです。ただ、松尾古城の南麓の日向畑の館跡が真田氏が最初に構えた館跡ではないかという見解があり、その後、山家の真田氏館に移った可能性があります。
 真田幸綱が、上野を去り武田氏に臣従したのが天文15〜6年頃と推定されるようですが、本領の真田郷にはまだ帰還できる状況にはなく(砥石城を抑える村上氏が真田郷周辺を抑えている)、本領回復は村上義清の敗退する天文22年(1553)以降と考えられ、その際の本拠地が山家の真田氏館とする説が有力なようです。
 幸綱は、永禄10年(1567)頃に家督を嫡男の信綱に譲っていると思われるようです。信綱は、居館を本原の御屋敷に移したとされています。当地は、平成2〜3年にかけて発掘調査がされましたが、館にともなう時期の遺物が少なく、輸入陶器などの威信財は検出されなかったようです。このことは、上田城へ持ち出されたと考えられとしています。ただ、信綱が天正3年(1575)に設楽ヶ原で討死したため、信綱が本原の御屋敷に在館した時期は短く、信綱の後を引き継いだ昌幸は、本原には入らなかったようことも遺物が少ないということにかかわるのかもしれません。
 真田家を引き継いだ昌幸は、武田氏の上野侵攻の総指揮者となり岩櫃城に在城していたようです。真田の根拠地としては、砥石城下の内小屋が考えられるようです。
 以上、幸綱、信綱、昌幸の真田氏三代の経過を追ってきましたが、居館と詰めの城ということを考えますと、
幸綱時代ーー山家の真田氏館  (        )
信綱時代ーー本原の御屋敷    (        )
昌幸時代ーー内小屋   砥石城          
となります。幸綱と信綱の詰めの城が定かではありません。本原の御屋敷背後の天白城が、御屋敷が造営された際に築城されたという里伝があることや位置・縄張りなどからすると、信綱時代の詰めの城は天白城考えてもよさそうです。幸綱時代の詰めの城は、どこかとすると、少し離れているのが難点ですが、この真田氏本城なのかもしれません。
イメージ 4イメージ 3








駐車場東側にトイレがありますが、堀切だったと思われます。イメージ 5




駐車場の西側が城址入口になります。イメージ 7




イメージ 6城址入口から少し行きますと、「掘切跡(推定)」の案内板が二か所あります。あまりはっきりとはわかりませんが、奥のところはかなり窪んでいます。(右の写真)イメージ 8


主郭南の段郭で、3〜4段あります。ただ、かつて畑に利用されていたようなので、かなり変形されていると思われます。なだらかな斜面で、見晴らしもよくピクニックの昼食場にもってこいの場所です。イメージ 9







西側のなだらかな傾斜地です。ここも畑に使われていたと思われます。イメージ 11


土塁の東下にある堀切跡のようですが、ここも推定の案内板があります。

イメージ 10





主郭南の土塁を段郭から見ています。高3m長さ13m程の高土塁です。
イメージ 12


主郭で、33×19mほどの長方形で南に高土塁があります。段郭方向からは写真右手から入ります。宮坂氏は、虎口と推定していますが、どうなんでしょうか?
イメージ 13


主郭からの二の郭。主郭から2mほど下がっています。イメージ 14





二の郭で、42×11m広さです。側面の土塁は跡もないことから、なかったのでしょう。




イメージ 16二の郭と三の郭の段差地に虎口の表示がされています。以前から写真右手の帯郭との繋がりから虎口っぽいとは感じていましたが、こうはっきり表示されるとは、意外でした。



イメージ 17虎口から南へ行きますと、石積み遺構がみられます。2016.4に訪れた際に見ています。始めてみましたので、驚いた記憶があります。
イメージ 18その時の写真です。







ここで、問題なのは、この虎口の使われ方です。
イメージ 19現遺構から見ると、大手道は、西山麓の熊久保から慱斜面斜面を登ってきたものと推定できます。(諏訪神社から十林寺の集落にタツ道(※1)が通っている)ただ、三の郭から派生する北東尾根に段郭が続き城道があるようです。このことからすると、虎口の変遷があったと考えざるを得ません。最初に、北東尾根が大手で、純然たる山城とイメージ 20して主郭〜三の郭辺りが設けられ、ある時期に主郭南面に段郭を設けて居住区とし、主要部の虎口をここに設けたのではと。まぁ〜、何の確証もない考えですが…。
※1 タツ道
「タツ道」とは、「館道」の読み名のようで、領主の館や城から主要道に繋がる道だったようです。山家の真田氏館や本原の御屋敷にもその名の道があります。



イメージ 21





三の郭で、43×12m程の広さで、段差があり、北側が低くなっています。北端は、断崖で、北東尾根には到底降って行く感じはないですね。
イメージ 22












城址からの眺めは、すこぶる良く、真田の町が一望でき、周辺の諸城が手に取るように見えます。船の艦橋のような感じです。
3年ぶりに訪れましたが、表示や説明板などカ整備され、遺構の確認などかわかりやすくなっていました。ただ、説明板の開設を現在の研究水準に近づけていただきたいものだと思います。

参考文献
『信濃の山城と館 3上田・小県編』 宮坂武男著
『戦国大名と国衆』 平山優著
『大いなる謎 真田一族』 平山優著
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編


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