古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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 舘山城は、米沢市大字舘山にある比高20m程の断崖城です。当城には、以前(2011.6.9)に訪城しています。その際は、藪に覆われており、枡形虎口や空堀などの遺構は明確に確認できる状態ではなかったです。以前に掲載したものは、「舘山城城―米沢―」です。発掘調査で、麓に家臣団屋敷地や庭園跡とみられる遺構が見つかり、さらに丘上の虎口付近の残存石垣が、積み方から伊達時代ではなく、上杉氏によるものの可能性が出てきて、当城の見方を大幅に書き換えることとなっています。城内整備もなされているようで、是非その石垣造りの枡形虎口を見たいと思い立ち寄ってみました。この記事を書くにあたって、前回の訪城日を見ましたら、全く同じ日でして、自分ながら驚いている次第です。                      訪城日:2019.6.9 晴れ                                                 
イメージ 3城址には、東北中央道米沢中央ICを降り、県道152号を約6km(途中で国121号になる)西進し、県道233号との交差点で右折して400m程進むと左手に城址案内板がありますので、左折して進むと「私有地に付 立ち入り大歓迎」の標柱のある駐車場に着きます。



イメージ 2イメージ 1駐車場と城址遠景。

駐車場手前に舘山城保存会の小屋があり、縄張り図やその他の資料がありますの立ち寄るといいです。


舘山城が誰にかかわる城なのかを考えるには、伊達氏のかかわりを知ることが大切なようです。で、簡単に伊達氏の米沢時代を見ていきたいと思います。
天文17年(1548) 天文の乱の終結後に、晴宗(伊達氏15代当主)は米沢に居城を移す。
 永禄年間(1558-70)に城下町の本格的な成立し、輝宗・政宗期までに家臣の城下集住がすすんだようです。
永禄7〜8年(1564-5)頃 晴宗が輝宗(伊達氏16代当主)に家督を譲る。
 輝宗の家臣新田四郎義直の居城として舘山城が『伊達治家記録』に初めて見える。
元亀元年(1570)  中野宗時・牧野宗仲父子の謀叛が新田義直の自供により発覚。
 宗時・宗仲は、自身の米沢屋敷等に火を放ったため、米沢城下は一宇残さず焼亡しますが、城は「山上」のた  め無事であったと。
天正12年(1584) 輝宗が政宗に家督を譲り、舘山で隠居所の普請を始め、翌年に完成している。ただ、13年10月に非業の死を遂げています。
天正15年(1587) 舘山城の地割・普請をする。
天正19年(1591) 政宗が岩出山へ移る。

伊達氏の米沢時代は、43年間です。その期間の居城が、米沢城であることは間違いないようですが、それがどこにあったのか定かではないのが悩ましい所です。通説では、伊達氏の「米沢城」が、江戸期の米沢藩上杉氏の居城である現在の米沢城と同じとされています。
ですが、、『伊達治家記録』や、「伊達輝宗日記』などを見ると平城の米沢城周辺の地形に該当しない地形がかかれています。
〇「米沢城」には懸崖造りの物見台がある
〇元亀の変の米沢火災で「御城ハ山上ナレバ恙ナシ」
〇「米沢城」に至る坂として一ノ坂、二ノ坂
これらのことからすると、「米沢城」がある程度の高さのある地にあったことが推察できます。ですが、舘山城が丘上にあるからといって「米沢城」であるとは考えにくいのです。晴宗時代から輝宗時代においては舘山の地は新田氏が治めていたのは事実のようですから、そこに伊達氏の城を推定することは無理があるようです。
伊達氏研究者であった小林清治氏は、「米沢城の地は、現在の城跡とほぼ同じと考えられるが、元亀の変の米沢火災に、「御城ハ山上ナレバ恙ナシ」とある。一ノ坂、二ノ坂の存在といい、戦国期の米沢城は、城下町に対して後年よりも高みを保っていたであろう。と、しています。
すっきりとはいたとませんが、舘山城が伊達氏の本拠地の「米沢城」ではないのは確かなようです。

現在の遺構が、伊達期のものなのか、はたまた上杉氏の時期のものかですが、郭Ⅰの内枡形の石垣の存在からすると、関ケ原の役以後に入った、上杉氏によるものと考えるのが妥当のようです。
イメージ 4左図の縄張り図は、舘山城保存会の小屋に掲示してあったものを借用しています。 













①舘山東館
発掘調査で、井戸跡や庭園跡とみられる遺構や石敷きが見られ、中国産陶磁器などが出土して、高位の人が住む居住跡と考えられるようです。北東端の大樽川に架かる橋(対岸に橋桁跡)や虎口が見つかっているようです。
イメージ 5東館の南西端の大手辺りから東館の景観です。かなりの広さがあります。所々に井戸跡などイメージ 6が見られます。









舘山城保存会のパンフから東館の井戸跡と庭園状遺構の写真を借用しています。
イメージ 7

北東端の大樽川沿いに少し突き出た処に虎口(手前の看板)と橋(奥の看板)があったようです。大樽川の対岸には、桧原峠に至る会津街道が通っていますので、屋形の大手口だったと思われます。このことからすると東館は、伊達氏時代のものだったのではないかと思われます。



②山上への道
イメージ 8縄張図で大手と書かれているところです。山上への登り口になります。

イメージ 9







少し入った所です。イメージ 10


九十九折の登城路を登っていくと曲輪Ⅰの南虎口の手前で道幅が広くなります。案内板に寄りますと、下から三つ目のコーナーより上は往時の道幅だったと推定されるようで、約2.5mあります。まぁ〜、馬も登ったと思われますからこの幅は必要なのでしよう。





イメージ 11イメージ 17











イメージ 12曲輪Ⅰの南虎口です。上右の写真は、2011.6の時のもので、かろうじて遺構が判別できる感じでした。
土塁で囲まれた枡形虎口といえますが、曲輪Ⅰへは左手の坂道を経て入ります。
発掘調査で粘土を貼って整地した痕跡や石組路跡が発見されたようです。
左は、曲輪Ⅰの入口から南虎口を見た所です。





③曲輪Ⅰ
曲輪Ⅰの西端にある石垣造りの枡形虎口の形態からすると主郭としていいようです。ただ、現遺構が、戦国期伊達氏の縄張りを江戸時代初期に上杉氏によって改変されたものとすると、戦国期伊達氏時代はどうであったのかです。結論(私見)から言いますと、伊達氏の舘山城では、主郭は現在の曲輪Ⅱだったのではないかと思われます。それについてはおいおい書いていきたいと思います。
イメージ 13











曲輪Ⅰの中央部東寄りから西側を撮ったものです。曲輪Ⅰは、かなりの広さで、西側土塁辺りで南北約80mあり東に向かって細く狭まり南北約30m程にuり、東西は約120m程です。虎口は北虎口、南虎口、西虎口の三か所あります。西側の土塁と東側に腰郭があり、その腰郭に南北にある帯郭が接続しているようです。

イメージ 14北虎口で、北麓にある北館への出入り口だったのではないかと思われます。

イメージ 15







曲輪Ⅰより一段低くなっている東側端の腰郭で、その下が発電所になっています。イメージ 16

米沢市街が一望でき、直線距離で約4kmにある米沢城も見えます。









④曲輪Ⅰ西虎口
平成25年の発掘調査で虎口に石垣が見つかりました。この石垣は、「伊達氏が米沢を木代店とした戦国期の野面積み石垣ではなく、表面をノミで平らに加工した割石を多く用いる慶長年間後半から元和年間頃の石積み技術で普請されていた。関ケ原の戦い以後に米沢を治めたのは上杉氏で、景勝の時代に普請された可能性が高いと考えている。」と『東北の名城を歩く』で舘山城を担当した佐藤公保氏は述べています。ただ、上杉氏が舘山城の普請を行った記録がないようで、残念なところではあるようです。
イメージ 18また、虎口付近が大量の川原石(石垣の裏込め石)で埋め尽くされていたのは、破城によってなされたものと考えられるようです。
破城の時期は、佐藤氏によると、①元和元年の一国一城令に伴って行われた。②慶長14年(1609)に江戸に居た直江兼続の指示(史料あり)によって行われた。という二つの可能性があるようです。





イメージ 19イメージ 20










西虎口をほぼ同じような場所から撮ったもので、左が2011.6月で右が今回の2019.6月です。2011年では、写真では何が何だか判別できませんが、現地で見ればそれなりに枡形虎口の様子が確認できました。
イメージ 21










イメージ 22曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間にある堀切から撮った西虎口です。石垣の高さは、土塁の高さまで積まれていたと考えられるようです。かなり威厳のある枡形虎口だったのではないかと思われます。イメージ 23
曲輪Ⅰの西土塁上から撮ったもので、枡形虎口の様子がわかるかと思います。


⑤堀切
曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間の堀切は、現況では深さが60cm程です。どうも、石垣を普請する際に埋められたようで、本来は幅約13m、深さや九3.5m以上あったもののようです。(説明板より)石垣普請が上杉時代とすると、この堀切は伊達氏時代には本来の規模で機能していたと推定できます。かなりの規模の堀切の存在からすると、曲輪Ⅱが伊達氏時代には、主郭だった可能性が読み取れるのではないでしょうか。イメージ 24
イメージ 25










堀切南端から撮ったもので、左が2011.6月で、右が今回のものです。2011年は、こんな様でかろうじて堀切があるという感じでした。
イメージ 26曲輪Ⅰの西土塁上から撮ったものです。この土塁が、伊達氏時代に子の高さであったのかはわかりませんが、伊達氏時代の主郭が曲輪Ⅱとすると、なかった可能性が高いのではないかと。上杉氏の石垣普請の際に構築された可能性の方が高いのではないかと、考えられます。イメージ 27





土塁も基底部に石が見られますから、石垣造りだったのでしょう。




⑥曲輪Ⅱ
東西約60m、南北約70mの広さで、北西に規模の大きい食違い虎口が有り、西側に高約5m長さやく70m大土塁がある。説明板には、戦国期には主郭だった可能性があると。曲輪Ⅰとの間の堀切がかなりの規模ですが、堀切沿いに土塁がないのがちっと不思議な感じがします。イメージ 28
曲輪Ⅰ西虎口の西側辺りからの撮ったものです。






イメージ 29ここも、2011.6月にはこんな感じでした。



イメージ 30






曲輪内に裏込め石として使われたと思われる川原石が積みあがっています。もしかしたらこの郭にも石垣の痕跡があるのでないのかな〜と主ました。イメージ 31

曲輪Ⅱの西側の大土塁です。小山のような感じで、これほどの規イメージ 32模の土塁を見るのはとても珍しいです。この土塁の存在も、伊達氏時代の主郭を思わせるものといえるのでは。

←土塁南端にある弁財天の石碑。文生2年(1819)8月の銘がある。イメージ 33


曲輪Ⅱの北西にある虎口で、松岡進氏は、食違い虎口としています。

イメージ 34






曲輪Ⅱ北西虎口から見た帯郭。ここから、曲輪Ⅰ・Ⅱの北側に延びる帯郭で発掘で土塁が設けられ、その時期は石垣と同時期に普請されたものとみられるようです。


⑥曲輪Ⅲ
イメージ 36城域西端の曲輪で、東西に大規模の堀切によって囲まれた曲輪で、東西約17m、南北約56mの広さがあります。南端に城内最高地の物見台があります。イメージ 35











曲輪Ⅱと曲輪Ⅲの間にある堀切です。堀底に東北電力舘山発電所の導水路があるため立ち入り禁止になっています。堀は、薬研堀のようで、深い所では10m以上の深さがあるよで、左手(郭Ⅱの西土塁)の土塁上からだと、15mを超えるようです。
イメージ 37曲輪Ⅲの西側の堀切です。藪に覆われていますが、かなりの規模の堀切のようです。


イメージ 38






堀切に架かる土橋で、手前が曲輪Ⅲの虎口になるのではないかと思われます。土橋の先の西側には、かって寺院(舘山寺)があったという伝承があるようです。イメージ 39

曲輪Ⅲです。内部は藪っていてはっきりとはつかみきれませんが、二段になっているようです。奥に見えるのが物見台です。イメージ 40







物見台です。イメージ 41



頂上部は、平らで周囲が整形されていますので、何らかの施設(物見台)が置かれていたと考えられるようです。イメージ 42






物見台からは、木々で見にくいですが、米沢市街がよく見通せ、南下を通る会津街道(桧原峠越え)も一目瞭然です。
なお、舘山城の変容について考えてみたいと思っています。

当城は、平成28年3月に国指定史跡に指定されました。城内は、藪が刈られ遺構がみやすい状態でなっており、遺構の説明板なども行き届いたものでした。ひとえに、市教委や地元の方々のご努力かと思い、感謝いたします。

参考文献
『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編 吉川弘文館
『戦国大名伊達氏の研究』 小林清治著 高志書院

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