古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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 山田城は、別名楠目城城とも呼ばれ、香美市土佐山田町楠目にある比高60mの山城です。城主であった山田氏は、戦国前期に土佐七雄の一つに数えられる有力な国衆でした。(七雄で、香宗我部氏に代えて言われることもある。)  市指定史跡                        訪城日:2018.3.20  くもり一時小雨
 イメージ 1城址へは、国195号の香美市役所のある交差点から東に役1.2km先の交差点(しまむらがある)を左折して錦野中学校を目指します。その手前に町民グランドの駐車場が右手にありますので、そこに車が置けます。城址登城口は、駐車場の少し北側の道を東に200mほど行ったところを左に曲がり、民家の横にある説明板のところからです。


 
 イメージ 2当城は、戦国期土佐七雄の一人に入る土佐山田氏の居城すが、築城者や築城時期は不明です。
 山田氏の先は源頼朝の臣、中原太郎秋家といわれる。秋家は香宗我部氏の祖一条忠通の貢献として土佐に来国、のちに独立して楠目城に住んだ。
 以来三百年余り子孫は山田氏を称し、三千貫の領主となり土佐七雄の一に列したが天文20年頃、元義の代に、長宗我部国親に攻められて落城した。
         現地説明場よりイメージ 3




民家の横に城址説明板が見えます。そこが登城口です。(ほかにもあるようですが、こちらから登城しました。)


イメージ 4






説明板のところから5分(?)ほど歩くと墓地に出ます。そこに堀切1がありました。上巾10m程ですか。左手の尾根にある茶ガ森とを遮断する堀切のようです。イメージ 5

堀切から一段上がって、二ノ段を目指しましたが、ちっと迷ってしまい、3の平場を西側沿いに進んだ先の写真です。ほぼ行き止りで、右手に石積みがあり上に平場が数段見えてきました。イメージ 6






どうやらここが堀切2ということがわかり、ほっとしました、右手が二の段のようです。イメージ 7



堀切2を北側から撮ったもので、かなりの幅のあるはこぼり上の堀切です。奥に見えるのが二ノ段です。


イメージ 8



堀切2から詰の段に向かいます。左右の詰め段下の腰郭に挟まれた坂虎口のようで、左右の腰郭からの横矢掛けになっイメージ 9ているようです。壁に石積みが一部見られますので、腰郭入口あたりは石積みされていたのではないかと思われます。


イメージ 10イメージ 11











イメージ 12左上:腰郭からのから虎口に向かいます。
右上:詰の段虎口
左:詰の段内からの虎口イメージ 13






北西端からの詰の段で、東西30m南北20m程の長方形状の郭です。右手が土塁がです。













イメージ 14ちっと判別しにくいですが、詰の段の北側の空堀です。上巾20m、長さ50mはあるような大規模な空堀です。斜面がきついため下りてはいません。イメージ 15









堀切2から二ノ段に向かいます。右手が二ノ段の北東虎口です。イメージ 16

二ノ段で東西25m南北40m程の楕円形状をしています。周囲は土塁で囲まれています。






イメージ 18イメージ 17虎口は二か所あり、北東虎口(左)南虎口(右)です。






西側の茶ガ森にも遺構はあるようですが、二の郭から堀切1に戻る際に迷ってしまい、迷走して疲れてしまい、行くのをやめにしました。いやはやみっともないことで・・・・。

市の指定史跡でしたが、あるのは入口に案内板1枚という状態ですので、事前に「山田氏関連遺跡確認調査報告書」の「楠目城跡現状図」を入手して訪城されることをお勧めします。

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 岡豊城の続きで、詰(主郭)の西側下段に続く三ノ段・四ノ段と谷を挟んである伝厩跡曲輪です。

イメージ 6※『中世城郭事典Ⅲ』にある池田誠氏作図の縄張図を借用し、説明のため加筆しています。

 三ノ段は、詰の南から西側を取り巻く腰郭です。南側は幅約5m、長さ約45mで、西側は幅約4〜6m、長さ50も程で、土塁で区画されています。重要なのは、西側の郭です。四ノ段からは左右の虎口を通り中央部の階段を経て詰に至るようです。左側の虎口の手前に三ノ段の幅いっぱいの礎石建物跡(南北9間、東西3〜4間)が見つかっています。ただ、四の段からのルートからすると、左手のルートが厳重で石積みなども見せる要素もあることから、こちらが大手筋ではないかと思うのです。そのルートをふさぐように礎石建物があるていうのはとてもちぐはぐな感じです。もしかすると、建物内を通路としても使っていたのかもしれませんが、理解に苦しみますね。イメージ 1





三ノ段西の東側で、左の手の土塁の切れ目が四の段からの虎口(図の右手の虎口)です。イメージ 2




三の段西の西側で、奥に礎石建物跡があり野ます。左手の土塁の下部は、詰下段の土塁と同じで石積みが見られます。イメージ 3




左手虎口の手前の礎石建物跡です。郭の幅いっぱいに立っていたのがわかります。イメージ 4





土塁の内側に径20〜30cmの割石が高1m程につまれていますが、珍しい遺構です。イメージ 5




中央部の詰めへ至る階段です。左手すぐまで建物が建っていようです。説明板には、「通路は南から階段を通り詰へ登る」となっていますから、左手の虎口は使われていないとするようです。



 四ノ段は、三の段の西下を囲むように作られています。ほぼ中央にある虎口の北側のⅠは、約12×15m程の広さの方形の郭で食違いの枡形虎口を通って入ります。南側は、腰郭でⅡの郭に繋がっています。この四の段が、岡豊城縄張りのキーポイントなのではないかと思えます。北側のⅠ郭は、主要部の大手筋の虎口を守り、主郭部の北西方面尾根への防衛拠点、主郭北壁の横矢機能などといった役割が考えられます。南側の帯郭とⅡの郭は、南側の伝家老屋敷曲輪からの大手道への長い横矢機能を持たせていると思えます。
イメージ 7四ノ段北側のⅠ郭です。礎石建物跡1棟見つかっています。イメージ 8







四ノ段Ⅰ郭から三の段北側の虎口に入る所です。見えている階段は、公園化で設けられたもので、往時のものではない遠見います。

イメージ 9







枡形虎口で、クランクしていて、直に四ノ段南側が見通せないです。
イメージ 10

四ノ段虎口と枡形虎口イメージ 11
通路右手に残る石積みイメージ 12







四の段南側、右手の三ノ段の壁がかなりの高さがあることがわかります。広さは、南北約32m、東西約16mです。イメージ 13







四の段から三の段南の虎口への階段です。イメージ 14



四ノ段南から突き出したⅡ郭。この下側に伝家老屋敷曲輪があります。
イメージ 15






四ノ段虎口
イメージ 16





虎口の手前、Ⅰ郭下の横堀です。かなり埋まっていますが、幅は2.5m以上あったようです。



イメージ 17























主郭部の南西の伝厩跡郭です。イメージ 18約30×17mほどの楕円形状の郭で、北西に2本の横堀と南斜面に竪堀群があるようです。本城を西方から守る出城です。

イメージ 19








竪堀が、よく見られます。戦国期の土佐の山城の特徴としいわれるようです。

イメージ 20
最後に伝家老屋敷曲輪です。整備されていないようで、立ち入りはできないようです。平成22年から試掘確認調査が始まり、礎石建物跡や掘立柱建物跡が検出し、虎口、土橋なども見つかり国分川から伝家老屋敷曲輪を通り詰に至るルートが想定できるようです。(赤線が想定ルート)
この郭が城郭全体の中でも重要な曲輪であたようです。



参考文献
「中世城郭事典 Ⅲ」 
「中世城館の考古学」


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 岡豊城は、南国市岡豊町八幡の通称岡豊山にある比高94m(駐車地点からだと比高30m程)の山城です。当城は、戦国期後半、土佐国を統一した長宗我部氏が南北期頃から天正13年(1585)に大高坂山に移るまで本拠地としたところです。今回の阿波・土佐遠征の訪城先の目玉の一つとしていたところです。
                                                                                                       訪城日:2018.3.21 曇り・小雨
 イメージ 1城址へは、高知自動車道南国ICから国32号を南下し、1.6km先の信号を右折して、100m先で左折して県道384号に入り、道なりに1kmで「県立歴史民俗資料館」の標識に沿って左折します。城址は、資料館の背後にあり、資料館の無料駐車場を利用しました。


  岡豊城跡は、長宗我部氏の居城跡として知られる中世の城跡で、平成20年(2008)7月28日に国の史跡としなりました。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐に入国したと伝えられており、それ以後、長岡郡を中心に勢力を広げ、戦国大名へと成長していきました。
 岡豊城が築城された明確な時期は、不明ですが、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えたのは15世紀頃と考えられ、16世紀初頭に一度落城(※1)したとされています。のちに再興され(※2)、大高坂城に移転する天正15?16年(1587・88)頃まで機能した山城と考えられています。イメージ 2
 岡豊山は、高知平野に突き出た丘陵で、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に高知平野をおさめ、遠く太平洋を望むことができます。南にはおりど湾にそそぐ国分川が流れ、自然の要害の地であります。
 城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の2つの出城からなる連郭式の構造になっています。本城は、詰と堀切によりへだてられた二ノ段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、四ノ段からなり、虎口は西部に造られています。
 発掘調査の結果、詰・詰下段・二ノ段・三ノ段では礎石建物跡や土塁とその内側に石積が発見されています。また、多量の土師質土器とともに青磁・白磁・染付と呼ばれる輸入陶磁器、瀬戸・備前・常滑などの国産陶器、銭貨、小刀、鍵、弾丸や鉛製品などの遺物が出土しています。
岡豊城の整備に当たっては、発掘調査の成果をもとに詰、詰下段、二ノ段、三ノ段の土塁や建物の礎石などを復元しています。
                                         図・文は、現地案内板から借用しています。
補足
※1 永正5年(1508)土佐守護細川政元の暗殺後、その威光をかさに着ていた兼序(元親の祖父)を本山氏を     
   はじめとする山田氏・吉良氏・大平氏等の国衆の連合軍が岡豊城を攻め落城し、長宗我部氏は没落しま
   す。イメージ 3
※2 長宗我部氏の没落後、一条氏の元で成長した国親(元親の父)が、一条氏の支援を得て永正15年(1518)
   に、岡豊城に復帰します。
        その頃の土佐の国衆の中で有力
   なものを「土佐七雄」と称していま 
   す。
一条氏(別格) 1万6千貫
安芸氏 5千貫  香宗我部氏 4千貫
長宗我部氏 3千貫 本山氏 5千貫
吉良氏 5千貫  大平氏 4千貫
津野氏 5千貫




イメージ 5

県立歴史民俗資料館を左手に見て階段を進みますと、登城口になります。


イメージ 4一段上の踊り場に、長宗我部元親の銅像があります。槍を突き上げた、なかなかかっこの良い姿です。


イメージ 12

銅像のある所から上がり、二ノ段を目指します。石垣が見えます。 イメージ 7







 









イメージ 8
二ノ段で、奥に詰め下段です。長さ45m最大幅20mの三角形の郭で、南側に高60cm程の土塁(左手)が30mにわたって残っています。建物跡の遺構は確認されていません。



イメージ 6
二ノ段と詰下段を区切る堀切です。幅3〜4m、深さ2m程で椅子。真ん中あたりの凹みは、井戸です。
二ノ段からの深さは4.7mで、岩盤を3.6m程掘り込んでいます。雨水を溜める溜井だったようです。


イメージ 9





 
二ノ段と詰の間にある詰下段です。詰めを守る虎口受けの郭のようです。イメージ 10
2間×5間の礎石建物が立っていたようで、左手の土塁には土止めの2〜3段の石積みが見られます。

イメージ 11
岡豊山頂上にある詰です。土佐では主郭を「詰「」と呼ぶようです。一辺40mの三角形状の郭で、西側に土塁が残っていますが、往時は土塁がまわっていたと考えられています。郭内には、礎石建物跡が見つかっています。5間×5間と1間×1間の2棟で、2層以上櫓のような建物だったと推定されるようで、それで模擬櫓を建てたのでしょうかね。

参考文献
「中世城郭事典 Ⅲ」 
「中世城館の考古学」

三ノ段・四ノ段等は、−その弐ーにします。

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小倉城

 小倉城は、郡山市湖南町中野字諏訪前にある比高20mほどの丘城です。白河から白河街道を通って会津若松に向かう途中に鞍馬城に寄りましたが、その主城に当たる小倉城があるとのことで、すこし寄り道をして小倉城に向かいました。戦国中期頃に構築された鞍馬城に比べると、かなり古い時期の城という感じでした。
                                                 訪城日:2017.10.27 晴れ
イメージ 3 城址へは、東北自動車白河中央ICを降り、国294号を北上し、やくあやkm先の湖南町三代を目指します。国294号と県道6号の交わる交差点を右折して県道6号を2kmほど行くと左手に小高い丘が見えます。そこが城址のある小倉神社です。駐車場はありませんが、神社登り口あたりに路駐できます。

イメージ 1








イメージ 2 


 当城は、文暦2年(1235)東塚丹波守実恒によって築城されたといわれていますが、鎌倉期の前期に城郭を構えるというのはなかったようですから、この周辺に館を構えたということではないかと思われます。
 鎌倉期の後半頃から中地・福良を安積伊東氏の一族の中地氏が領したようです。その後、中地氏は、仙道に進出してきた会津黒川の葦名氏に勢力下入り、15世紀後半田村・二階堂氏などの仙道勢力に備えて長沼城主新国氏が城主として入城したようです。この15世紀後半という時期が、全国的にみて要害の恒常化がなされる画期の時期だったようで、当城も地域の緊張の中「要害」として取り立てられたのではないかと愚考します。
 永禄4年(1561)に再び伊東氏(中地氏)が城主となります。天正17年(1589)の摺上原合戦後に湖南地域の諸城は、伊達氏によって攻め落とされていますので、当城も落とされその後廃城となったのではないかと思われます。
イメージ 4登城口です。主郭部に小国神社が祀られていますので、神社の参道を登ります。


イメージ 5








中腹の平場で、腰郭と思われます。この先も西側に回り込んでいて、その奥から上の段の主郭部に登れます。イメージ 6


どうも、この階段が大手道なのではないか〜と思いました。登り切った神社のある主郭部の西側中央部に虎口らしきくぼみもあもみられますから。
イメージ 7












イメージ 8



主郭で、かなり広く、その中心に小倉神社が建てられています。周囲に土塁の痕跡と思われる高まりがみられます。イメージ 9






城址北側から見ています。駐車場は中野保育園で、ここらあたりに居館があったのかもしれません。




当城は、規模的にも構造としてもかなり古い時代のものと思われます。ただ、郡山に通じる三森峠、白河へ通じる勢至堂峠を押さえる場所として重要な地点だったことから交通の番所的役割を持って戦国期を通じて使われていたのではないかと思われます。

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白河街道

 会津盆地へは年に1〜2回ほど訪れる地です。以前は、よく高速道(東北道→磐越道)を利用していましたが、近頃は白河で高速を降り国289号で下郷町で国121(118)号を経て会津若松に行くことが多くなりました。この国121号が、会津西街道(下野街道)と呼ばれています。昨年は、会津西街道を通らずに白河街道と道沿いの城址もいいのではと思い、通行してきました。下図は、白河街道(白河市側からは会津本街道や会津越後街道)の概念図です。
イメージ 1
















   













 

 白河街道は会津五街道(※1)の一つで会津若松市と白河市を結ぶ街道です。江戸期には会津藩(新発田藩・村上藩なども)の参勤交代の道としても使われ、佐渡の金銀を江戸に運ぶ佐渡三道(三国街道、北国街道)の一つでもあったため、五街道に次ぐ脇街道として重要視されたようです。
※1 街道の名は、行先の名を冠するのが通例のようです。会津五街道も、それぞれの行先を持って付けられい
   ます。白河街道・下野街道(南山通り、会津西街道)・越後街道・二本松街道・米沢街道
 
 江戸期の白河街道の様子も気になりますが、私の関心としては、中世においてのルートがどうであったのかですので、①戦国中期から主要ルートになる勢至堂峠越えの道 ②勢至堂峠越えの道以外のルート に分けていきます。
①戦国中期から主要ルートになる勢至堂峠越えの道
 会津と白河を結ぶ道は、いくつかありますが、国道294号沿いの道が主要道になったのは、天文14年(1545)に葦名盛氏の明を受けた赤目越中父子によって勢至堂峠が開削された以降のようです。この時期、岩瀬郡の長沼周辺の領有を二階堂氏や田村氏と争い、仙道進攻のルートを整備したと考えられます。この時期のルートは、会津〜背あぶり山〜湖南〜勢至堂峠〜白河です。
 羽柴秀吉が、天正18年(1590)小田原攻めの後、奥州仕置のために会津黒川に下向しますが、その際にこのルートが使われ、伊達政宗に領内の会津までの街道整備を命じています。その内容は、幅三間に直し、船渡、橋を整備し、「御座所」(宿舎)を設ける等です。ただ、背炙峠や勢至堂峠では、幅二間だったようで、太閤道として現在も残っているようです。
 寛永4年(1627)に加藤嘉明が入部して、滝沢峠を開削して新たなルート、滝沢北街道を開きます。これは、背炙峠が険しく、政宗によって整備された太閤道を通った秀吉も籠から降りて馬に乗り換えて九折の峠を登ったようです。この新ルートに合わせて鶴ヶ城の大手筋も天寧寺町口から甲賀町口に変わりました。新ルートは、会津〜滝沢峠〜湖南〜勢至堂峠〜白河です。
②勢至堂峠越えの道以外のルート 
 勢至堂峠が開削される以前の道は、いくつかあったようで、安藤峠越えの道、馬入峠越えの道などです。安藤峠越えの道は、羽鳥通りと呼ばれるようで、湯川沿いに溯り東山温泉ー川渓ー一ノ渡戸ー二弊地―安藤峠から大平に出て、羽鳥ー白河のルートのようです。かなり険しい峠越えの道と思われます。馬入峠越えの道は、馬入峠に至るのにいくつかあるようですが、その一つが赤津から馬入峠に至り、大平。羽島に出るようです。馬入峠には、関ヶ原合戦時に上杉氏が会津防衛に築いた堡塁が残されています。戊辰戦争の際には、会津藩がこの土塁を修復して官軍(西軍)の攻撃に備えたされていますので、中世から引き続いて江戸期にも使われていた道といえます。

次に会津を訪れる際は、白河街道の宿場や太閤道の残る馬入峠越えの道から赤津に出て、背炙峠を経て若松に入りたいと思います。

参考文献
『会津若松市史 3 会津葦名氏の時代』
『会津若松市史 19 会津の史的風景』




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