古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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 舘山城は、米沢市大字舘山にある比高20m程の断崖城です。当城には、以前(2011.6.9)に訪城しています。その際は、藪に覆われており、枡形虎口や空堀などの遺構は明確に確認できる状態ではなかったです。以前に掲載したものは、「舘山城城―米沢―」です。発掘調査で、麓に家臣団屋敷地や庭園跡とみられる遺構が見つかり、さらに丘上の虎口付近の残存石垣が、積み方から伊達時代ではなく、上杉氏によるものの可能性が出てきて、当城の見方を大幅に書き換えることとなっています。城内整備もなされているようで、是非その石垣造りの枡形虎口を見たいと思い立ち寄ってみました。この記事を書くにあたって、前回の訪城日を見ましたら、全く同じ日でして、自分ながら驚いている次第です。                      訪城日:2019.6.9 晴れ                                                 
イメージ 3城址には、東北中央道米沢中央ICを降り、県道152号を約6km(途中で国121号になる)西進し、県道233号との交差点で右折して400m程進むと左手に城址案内板がありますので、左折して進むと「私有地に付 立ち入り大歓迎」の標柱のある駐車場に着きます。



イメージ 2イメージ 1駐車場と城址遠景。

駐車場手前に舘山城保存会の小屋があり、縄張り図やその他の資料がありますの立ち寄るといいです。


舘山城が誰にかかわる城なのかを考えるには、伊達氏のかかわりを知ることが大切なようです。で、簡単に伊達氏の米沢時代を見ていきたいと思います。
天文17年(1548) 天文の乱の終結後に、晴宗(伊達氏15代当主)は米沢に居城を移す。
 永禄年間(1558-70)に城下町の本格的な成立し、輝宗・政宗期までに家臣の城下集住がすすんだようです。
永禄7〜8年(1564-5)頃 晴宗が輝宗(伊達氏16代当主)に家督を譲る。
 輝宗の家臣新田四郎義直の居城として舘山城が『伊達治家記録』に初めて見える。
元亀元年(1570)  中野宗時・牧野宗仲父子の謀叛が新田義直の自供により発覚。
 宗時・宗仲は、自身の米沢屋敷等に火を放ったため、米沢城下は一宇残さず焼亡しますが、城は「山上」のた  め無事であったと。
天正12年(1584) 輝宗が政宗に家督を譲り、舘山で隠居所の普請を始め、翌年に完成している。ただ、13年10月に非業の死を遂げています。
天正15年(1587) 舘山城の地割・普請をする。
天正19年(1591) 政宗が岩出山へ移る。

伊達氏の米沢時代は、43年間です。その期間の居城が、米沢城であることは間違いないようですが、それがどこにあったのか定かではないのが悩ましい所です。通説では、伊達氏の「米沢城」が、江戸期の米沢藩上杉氏の居城である現在の米沢城と同じとされています。
ですが、、『伊達治家記録』や、「伊達輝宗日記』などを見ると平城の米沢城周辺の地形に該当しない地形がかかれています。
〇「米沢城」には懸崖造りの物見台がある
〇元亀の変の米沢火災で「御城ハ山上ナレバ恙ナシ」
〇「米沢城」に至る坂として一ノ坂、二ノ坂
これらのことからすると、「米沢城」がある程度の高さのある地にあったことが推察できます。ですが、舘山城が丘上にあるからといって「米沢城」であるとは考えにくいのです。晴宗時代から輝宗時代においては舘山の地は新田氏が治めていたのは事実のようですから、そこに伊達氏の城を推定することは無理があるようです。
伊達氏研究者であった小林清治氏は、「米沢城の地は、現在の城跡とほぼ同じと考えられるが、元亀の変の米沢火災に、「御城ハ山上ナレバ恙ナシ」とある。一ノ坂、二ノ坂の存在といい、戦国期の米沢城は、城下町に対して後年よりも高みを保っていたであろう。と、しています。
すっきりとはいたとませんが、舘山城が伊達氏の本拠地の「米沢城」ではないのは確かなようです。

現在の遺構が、伊達期のものなのか、はたまた上杉氏の時期のものかですが、郭Ⅰの内枡形の石垣の存在からすると、関ケ原の役以後に入った、上杉氏によるものと考えるのが妥当のようです。
イメージ 4左図の縄張り図は、舘山城保存会の小屋に掲示してあったものを借用しています。 













①舘山東館
発掘調査で、井戸跡や庭園跡とみられる遺構や石敷きが見られ、中国産陶磁器などが出土して、高位の人が住む居住跡と考えられるようです。北東端の大樽川に架かる橋(対岸に橋桁跡)や虎口が見つかっているようです。
イメージ 5東館の南西端の大手辺りから東館の景観です。かなりの広さがあります。所々に井戸跡などイメージ 6が見られます。









舘山城保存会のパンフから東館の井戸跡と庭園状遺構の写真を借用しています。
イメージ 7

北東端の大樽川沿いに少し突き出た処に虎口(手前の看板)と橋(奥の看板)があったようです。大樽川の対岸には、桧原峠に至る会津街道が通っていますので、屋形の大手口だったと思われます。このことからすると東館は、伊達氏時代のものだったのではないかと思われます。



②山上への道
イメージ 8縄張図で大手と書かれているところです。山上への登り口になります。

イメージ 9







少し入った所です。イメージ 10


九十九折の登城路を登っていくと曲輪Ⅰの南虎口の手前で道幅が広くなります。案内板に寄りますと、下から三つ目のコーナーより上は往時の道幅だったと推定されるようで、約2.5mあります。まぁ〜、馬も登ったと思われますからこの幅は必要なのでしよう。





イメージ 11イメージ 17











イメージ 12曲輪Ⅰの南虎口です。上右の写真は、2011.6の時のもので、かろうじて遺構が判別できる感じでした。
土塁で囲まれた枡形虎口といえますが、曲輪Ⅰへは左手の坂道を経て入ります。
発掘調査で粘土を貼って整地した痕跡や石組路跡が発見されたようです。
左は、曲輪Ⅰの入口から南虎口を見た所です。





③曲輪Ⅰ
曲輪Ⅰの西端にある石垣造りの枡形虎口の形態からすると主郭としていいようです。ただ、現遺構が、戦国期伊達氏の縄張りを江戸時代初期に上杉氏によって改変されたものとすると、戦国期伊達氏時代はどうであったのかです。結論(私見)から言いますと、伊達氏の舘山城では、主郭は現在の曲輪Ⅱだったのではないかと思われます。それについてはおいおい書いていきたいと思います。
イメージ 13











曲輪Ⅰの中央部東寄りから西側を撮ったものです。曲輪Ⅰは、かなりの広さで、西側土塁辺りで南北約80mあり東に向かって細く狭まり南北約30m程にuり、東西は約120m程です。虎口は北虎口、南虎口、西虎口の三か所あります。西側の土塁と東側に腰郭があり、その腰郭に南北にある帯郭が接続しているようです。

イメージ 14北虎口で、北麓にある北館への出入り口だったのではないかと思われます。

イメージ 15







曲輪Ⅰより一段低くなっている東側端の腰郭で、その下が発電所になっています。イメージ 16

米沢市街が一望でき、直線距離で約4kmにある米沢城も見えます。









④曲輪Ⅰ西虎口
平成25年の発掘調査で虎口に石垣が見つかりました。この石垣は、「伊達氏が米沢を木代店とした戦国期の野面積み石垣ではなく、表面をノミで平らに加工した割石を多く用いる慶長年間後半から元和年間頃の石積み技術で普請されていた。関ケ原の戦い以後に米沢を治めたのは上杉氏で、景勝の時代に普請された可能性が高いと考えている。」と『東北の名城を歩く』で舘山城を担当した佐藤公保氏は述べています。ただ、上杉氏が舘山城の普請を行った記録がないようで、残念なところではあるようです。
イメージ 18また、虎口付近が大量の川原石(石垣の裏込め石)で埋め尽くされていたのは、破城によってなされたものと考えられるようです。
破城の時期は、佐藤氏によると、①元和元年の一国一城令に伴って行われた。②慶長14年(1609)に江戸に居た直江兼続の指示(史料あり)によって行われた。という二つの可能性があるようです。





イメージ 19イメージ 20










西虎口をほぼ同じような場所から撮ったもので、左が2011.6月で右が今回の2019.6月です。2011年では、写真では何が何だか判別できませんが、現地で見ればそれなりに枡形虎口の様子が確認できました。
イメージ 21










イメージ 22曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間にある堀切から撮った西虎口です。石垣の高さは、土塁の高さまで積まれていたと考えられるようです。かなり威厳のある枡形虎口だったのではないかと思われます。イメージ 23
曲輪Ⅰの西土塁上から撮ったもので、枡形虎口の様子がわかるかと思います。


⑤堀切
曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間の堀切は、現況では深さが60cm程です。どうも、石垣を普請する際に埋められたようで、本来は幅約13m、深さや九3.5m以上あったもののようです。(説明板より)石垣普請が上杉時代とすると、この堀切は伊達氏時代には本来の規模で機能していたと推定できます。かなりの規模の堀切の存在からすると、曲輪Ⅱが伊達氏時代には、主郭だった可能性が読み取れるのではないでしょうか。イメージ 24
イメージ 25










堀切南端から撮ったもので、左が2011.6月で、右が今回のものです。2011年は、こんな様でかろうじて堀切があるという感じでした。
イメージ 26曲輪Ⅰの西土塁上から撮ったものです。この土塁が、伊達氏時代に子の高さであったのかはわかりませんが、伊達氏時代の主郭が曲輪Ⅱとすると、なかった可能性が高いのではないかと。上杉氏の石垣普請の際に構築された可能性の方が高いのではないかと、考えられます。イメージ 27





土塁も基底部に石が見られますから、石垣造りだったのでしょう。




⑥曲輪Ⅱ
東西約60m、南北約70mの広さで、北西に規模の大きい食違い虎口が有り、西側に高約5m長さやく70m大土塁がある。説明板には、戦国期には主郭だった可能性があると。曲輪Ⅰとの間の堀切がかなりの規模ですが、堀切沿いに土塁がないのがちっと不思議な感じがします。イメージ 28
曲輪Ⅰ西虎口の西側辺りからの撮ったものです。






イメージ 29ここも、2011.6月にはこんな感じでした。



イメージ 30






曲輪内に裏込め石として使われたと思われる川原石が積みあがっています。もしかしたらこの郭にも石垣の痕跡があるのでないのかな〜と主ました。イメージ 31

曲輪Ⅱの西側の大土塁です。小山のような感じで、これほどの規イメージ 32模の土塁を見るのはとても珍しいです。この土塁の存在も、伊達氏時代の主郭を思わせるものといえるのでは。

←土塁南端にある弁財天の石碑。文生2年(1819)8月の銘がある。イメージ 33


曲輪Ⅱの北西にある虎口で、松岡進氏は、食違い虎口としています。

イメージ 34






曲輪Ⅱ北西虎口から見た帯郭。ここから、曲輪Ⅰ・Ⅱの北側に延びる帯郭で発掘で土塁が設けられ、その時期は石垣と同時期に普請されたものとみられるようです。


⑥曲輪Ⅲ
イメージ 36城域西端の曲輪で、東西に大規模の堀切によって囲まれた曲輪で、東西約17m、南北約56mの広さがあります。南端に城内最高地の物見台があります。イメージ 35











曲輪Ⅱと曲輪Ⅲの間にある堀切です。堀底に東北電力舘山発電所の導水路があるため立ち入り禁止になっています。堀は、薬研堀のようで、深い所では10m以上の深さがあるよで、左手(郭Ⅱの西土塁)の土塁上からだと、15mを超えるようです。
イメージ 37曲輪Ⅲの西側の堀切です。藪に覆われていますが、かなりの規模の堀切のようです。


イメージ 38






堀切に架かる土橋で、手前が曲輪Ⅲの虎口になるのではないかと思われます。土橋の先の西側には、かって寺院(舘山寺)があったという伝承があるようです。イメージ 39

曲輪Ⅲです。内部は藪っていてはっきりとはつかみきれませんが、二段になっているようです。奥に見えるのが物見台です。イメージ 40







物見台です。イメージ 41



頂上部は、平らで周囲が整形されていますので、何らかの施設(物見台)が置かれていたと考えられるようです。イメージ 42






物見台からは、木々で見にくいですが、米沢市街がよく見通せ、南下を通る会津街道(桧原峠越え)も一目瞭然です。
なお、舘山城の変容について考えてみたいと思っています。

当城は、平成28年3月に国指定史跡に指定されました。城内は、藪が刈られ遺構がみやすい状態でなっており、遺構の説明板なども行き届いたものでした。ひとえに、市教委や地元の方々のご努力かと思い、感謝いたします。

参考文献
『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編 吉川弘文館
『戦国大名伊達氏の研究』 小林清治著 高志書院

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山形へ

米沢の舘山城、発掘調査で石垣が現れていました。以前に一度訪れていましたが、その姿みたいと思っていました。今回、肘折温泉に行くついでに訪れました。地元の方々の賜物なのでしょうか、とても良く整備されていまして、隅々まで見ることができるました。

イメージ 1

イメージ 2

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宮本館

 宮本館は、南会津郡南会津町田島にある館址です。会津若松に訪れる際に、この田島辺りはよく通っていました。鴫山城へは麓しかまだ行っていませんで、一度は訪城したいと思っています。今回は、田島の居館跡である田部原館とこの宮本館を南郷経由で訪れてきました。                 訪城日:2019.5.28  晴れ
イメージ 1
 館址へは、田島市街の国121号よりまちの駅南会津ふるさと物産館を目指せば行けます。物産館の西側の田出宇賀神社が館址になります。駐車場は、神社にもあり、物産館の駐車場も利用できます。




イメージ 2 当館についての史料は、ほとんど伝わっていないため、館の創築年代、存続年代、築城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、戦国期には、鴫山城の出城として機能していたようで、長沼氏の四天王家の一つの室井氏が館主だったようです。天正18年の蒲生氏の会津入封を受け、長沼氏は伊達氏の家臣として米沢に去りますが、室井氏は田出宇賀神社の神官として当地に残ったようです。イメージ 3




田出宇賀神社です。熊野神社もあります。田出宇賀神社は、南山八郷の総鎮守で、国指定重要無形民俗文化財の田島祇園祭りが行われています。かなり由緒ある神社のようです。イメージ 4







神社本殿です。見た所では、単郭の館と思われますが、古絵図では三つの郭が描かれてるようです。それに元ずくと、神社本殿のこの辺りが主郭だったのかもしれません。奥の木々の辺りが西の郭となります。イメージ 5
神社本殿背後にある土塁です。どうも主郭は土塁が全周していたと思われます。

イメージ 6







本殿のある所から西に進みますと、いけに架かる橋があり、西の郭の入ります。イメージ 7

西の郭は現在庭園になっています。西側と南側に高3m程の土塁がしっかり残っています。イメージ 8








南側の土塁上からの西の郭です。
イメージ 9

西側土塁の中央部にある虎口です。縄張図では、食違い虎口のようですが、藪っているため確認できません。イメージ 10







外側からの虎口です。確認できていませんが、往時は土橋だったようです。イメージ 11


西堀です。イメージ 12









南堀です。


当館はね東側は神社で遺構はほぼありませんが、にしがわの土塁や堀は一見の価値があります。鴫山城・田部原館などとともに訪れていただきたい館址です。

参考文献
『東国の中世城郭』 中世城郭研究会

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田部原館

 田部原館は、南会津郡南会津町田島字田部原にある方形館で、町指定史跡です。田島を通る国121号線は、かっての会津西街道(下野街道)で、会津を訪れる際にたびたび通っていました。田島の鴫山城があることは知ってましたが、この地に館址が数多くなるとは知りませんでした。今回、南会津の只見・南郷・舘岩などを訪れた帰りに寄ってみました。
                                                 訪城日:2019.5.28  晴れ
イメージ 1館址へは、田島の市街より国121号を東進し、県道347号に入り約1.8km先で左折(館址案内表示有)すると、館址説明板が見えてきます。その手前に専用駐車場(2台駐車可)があります。





 田部原館跡は大川の流れに水無川が合流する地点にあり、北側及び西側は直接この両河川に接することで天然の要害となっている。
 東側の空堀は平面上幅11m、高さ2mの土塁が盛られている。南側の空堀は平面上幅10〜11m、土塁は高さ平均2.5mで北側へ曲がる箇所で一段と高く、物見台状となり南東隅では矢倉台ともみられている。イメージ 2
 この南東隅の矢倉台状から15m北寄り(東側土塁)は「く」の字に屈曲が見られる。横矢掛かりといわれる弓矢の攻撃をしやすくするためのものので、矢倉台との位置関係からみて、この方向での防御の重視が窺え、曲輪内へは南側から唯一の虎口が開かれている。
 館の構築については記録が残されていないが、田島の入り口に位置すること、方形館跡で単郭プランであること、大川・水無川に現れる河岸段丘上に位置することなどの特徴から、鎌倉期から室町期初頭頃の構築で、鴫山城創築以前もしくはその前後に築かれ、戦国期に及んで利用されたと推定される。創築期は水利と高知支配的要素が強く、戦国期では境目番所的な存在として用いられ続けたと考えられ。
 今日残存する遺構は保存状態も良好で、県内でも屈指の方形館跡である。
           昭和60年6月10日指定南会津町教育委員会
                      現地案内板よりイメージ 3

駐車場が、館址入口になります。


イメージ 4







駐車場から左手に少し進むと南側の虎口が見えてきます。イメージ 5

虎口に土橋がかかり、いくつかの石が見られ石積みだったようです。(上の写真に見えます。)イメージ 6






↓土橋の左右に           イメージ 7
  見える南空堀










北西端辺りからの郭内部。東西65m、南北75〜85m程の広さがあるようです。イメージ 8










イメージ 9虎口のある南側の土塁で、高2m程です。イメージ 10







郭内の中央部から西側にかけて、直線状の窪みが見られます。『中世城郭事典』では、「自然地形か、区画の堀(町は通路)であろう。」と。イメージ 11






北西端辺りからの郭内部。写真左が東土塁です。














イメージ 12上幅11mの東側の空堀です。説明板の「く」の字の屈曲があるとのことで、そのあたりを南側撮ったものですが、木があるためか確認できません。ですが、説明板のいうほどの効果のある折りとは思えません。イメージ 13







南東隅が幅広になり櫓台状といえるようです。



 平地における方形館址は、開発等で残存する遺跡があまりないのが現実です。当館は、遺構が良好に残り、この遺構が明確に見れるとても珍しい館址といえます。説明板も、まことに当を得た解説でとても参考になりました。近くの鴫山城などを訪れたついでに、ぜひ訪れていただきたい史跡だと思います。

参考文献

『中世城郭事典 Ⅰ』 村田修三編

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真田氏本城(真田山城)

 真田氏本城は、別名真田山城、十林寺(住連寺)城、松岡城とも呼ばれる比高10m(駐車地点より)の山城です。ここのところ、真田氏関連の城郭の矢沢城・天白城を取り上げてきましたので、その続きに当城を書こうと思いました。されど、何度も訪れている割には、まともな写真がない!「ならば行くしかな」と思い…。
                                                   訪城日:2019.5.12 晴れ
イメージ 1 城址へは、上信越道上田ICから国144号を北上し、荒井信号で右折して真田氏歴史館を目指します。その先の交差点を左折して約1kmで、城址入口に至ります。途中案内日様式がありますのでそれに従えば迷うことはありません。

イメージ 2






                  天白城からの真田氏本城 




 当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、真田氏の根本領地の中にあることから築城者は真田氏にかかわるものが築いたと思われます。当城が、真田氏本城と呼ばれるのは、旧真田町教委の『真田氏城跡群ーその歴史と調査の概要』(1982年)で「十林寺の城」が、「その規模の大きさ構えの在り方からして、これこそが真田氏の本城というべきものと考えられる。」とし、角間の松尾古城や天白城などは、十林寺の本城の支城として位置づけています。この見解は、かなりの影響力があるようで、当城の説明板にも色濃く残っています。
主郭土塁手前にある説明板を記しておきます。
この城跡は、天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに砥石城・矢沢城を望むことができる。イメージ 15
 本郭は東西8.6m南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重な防備をしている。
 規模が大きく水利もあり、周辺城跡等の関係から見て、上田城築城以前の真田氏本城であったと推定される。 
平成27年10月
  上田市教育委員会
                                      ※縄張図は、二の郭に設けられている案内板にあったものです。
 ここで、真田氏の居館と詰めの城を探るため、真田氏の歴史を簡単に追ってみたいと思います。
 真田幸綱以前の真田氏の歴史は、大塔合戦に参戦した真田郷付近の武士の中に「実田」が記されていることからこれが戦国期の真田氏の繋がるものと考えられてますが、あまりはっきりしていないため、真田幸綱意向を見てみたいと思います。                                                                                 真田幸綱は、天文10年(1541)5月の村上義清・諏訪頼重・武田信虎連合軍の軍事侵攻における海野平合戦に敗れ上野に逃れますが、それ以前に真田郷一帯を領していたことは確かなようですが、どこに居館を設けていたのかは定かではないようです。ただ、松尾古城の南麓の日向畑の館跡が真田氏が最初に構えた館跡ではないかという見解があり、その後、山家の真田氏館に移った可能性があります。
 真田幸綱が、上野を去り武田氏に臣従したのが天文15〜6年頃と推定されるようですが、本領の真田郷にはまだ帰還できる状況にはなく(砥石城を抑える村上氏が真田郷周辺を抑えている)、本領回復は村上義清の敗退する天文22年(1553)以降と考えられ、その際の本拠地が山家の真田氏館とする説が有力なようです。
 幸綱は、永禄10年(1567)頃に家督を嫡男の信綱に譲っていると思われるようです。信綱は、居館を本原の御屋敷に移したとされています。当地は、平成2〜3年にかけて発掘調査がされましたが、館にともなう時期の遺物が少なく、輸入陶器などの威信財は検出されなかったようです。このことは、上田城へ持ち出されたと考えられとしています。ただ、信綱が天正3年(1575)に設楽ヶ原で討死したため、信綱が本原の御屋敷に在館した時期は短く、信綱の後を引き継いだ昌幸は、本原には入らなかったようことも遺物が少ないということにかかわるのかもしれません。
 真田家を引き継いだ昌幸は、武田氏の上野侵攻の総指揮者となり岩櫃城に在城していたようです。真田の根拠地としては、砥石城下の内小屋が考えられるようです。
 以上、幸綱、信綱、昌幸の真田氏三代の経過を追ってきましたが、居館と詰めの城ということを考えますと、
幸綱時代ーー山家の真田氏館  (        )
信綱時代ーー本原の御屋敷    (        )
昌幸時代ーー内小屋   砥石城          
となります。幸綱と信綱の詰めの城が定かではありません。本原の御屋敷背後の天白城が、御屋敷が造営された際に築城されたという里伝があることや位置・縄張りなどからすると、信綱時代の詰めの城は天白城考えてもよさそうです。幸綱時代の詰めの城は、どこかとすると、少し離れているのが難点ですが、この真田氏本城なのかもしれません。
イメージ 4イメージ 3








駐車場東側にトイレがありますが、堀切だったと思われます。イメージ 5




駐車場の西側が城址入口になります。イメージ 7




イメージ 6城址入口から少し行きますと、「掘切跡(推定)」の案内板が二か所あります。あまりはっきりとはわかりませんが、奥のところはかなり窪んでいます。(右の写真)イメージ 8


主郭南の段郭で、3〜4段あります。ただ、かつて畑に利用されていたようなので、かなり変形されていると思われます。なだらかな斜面で、見晴らしもよくピクニックの昼食場にもってこいの場所です。イメージ 9







西側のなだらかな傾斜地です。ここも畑に使われていたと思われます。イメージ 11


土塁の東下にある堀切跡のようですが、ここも推定の案内板があります。

イメージ 10





主郭南の土塁を段郭から見ています。高3m長さ13m程の高土塁です。
イメージ 12


主郭で、33×19mほどの長方形で南に高土塁があります。段郭方向からは写真右手から入ります。宮坂氏は、虎口と推定していますが、どうなんでしょうか?
イメージ 13


主郭からの二の郭。主郭から2mほど下がっています。イメージ 14





二の郭で、42×11m広さです。側面の土塁は跡もないことから、なかったのでしょう。




イメージ 16二の郭と三の郭の段差地に虎口の表示がされています。以前から写真右手の帯郭との繋がりから虎口っぽいとは感じていましたが、こうはっきり表示されるとは、意外でした。



イメージ 17虎口から南へ行きますと、石積み遺構がみられます。2016.4に訪れた際に見ています。始めてみましたので、驚いた記憶があります。
イメージ 18その時の写真です。







ここで、問題なのは、この虎口の使われ方です。
イメージ 19現遺構から見ると、大手道は、西山麓の熊久保から慱斜面斜面を登ってきたものと推定できます。(諏訪神社から十林寺の集落にタツ道(※1)が通っている)ただ、三の郭から派生する北東尾根に段郭が続き城道があるようです。このことからすると、虎口の変遷があったと考えざるを得ません。最初に、北東尾根が大手で、純然たる山城とイメージ 20して主郭〜三の郭辺りが設けられ、ある時期に主郭南面に段郭を設けて居住区とし、主要部の虎口をここに設けたのではと。まぁ〜、何の確証もない考えですが…。
※1 タツ道
「タツ道」とは、「館道」の読み名のようで、領主の館や城から主要道に繋がる道だったようです。山家の真田氏館や本原の御屋敷にもその名の道があります。



イメージ 21





三の郭で、43×12m程の広さで、段差があり、北側が低くなっています。北端は、断崖で、北東尾根には到底降って行く感じはないですね。
イメージ 22












城址からの眺めは、すこぶる良く、真田の町が一望でき、周辺の諸城が手に取るように見えます。船の艦橋のような感じです。
3年ぶりに訪れましたが、表示や説明板などカ整備され、遺構の確認などかわかりやすくなっていました。ただ、説明板の開設を現在の研究水準に近づけていただきたいものだと思います。

参考文献
『信濃の山城と館 3上田・小県編』 宮坂武男著
『戦国大名と国衆』 平山優著
『大いなる謎 真田一族』 平山優著
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編


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