古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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  男鬼入谷城は、別名高取山城・男鬼城とも呼ばれ彦根市男鬼・多賀町入谷にある比高60m(駐車地点から。麓の男鬼町からは290m)の山城です。2000年に見つかった山城で、以前から湖東山中の山奥に素晴らしい山城があると聞いていましたので、ぜひ訪城してみたいと思っていました。今回、近江の城友のぶんさんのご案内で訪城できました。普通車が1台ようやっと通れる細い山道で、しかも片側が崖といった具合の道をかなりの距離行きませんと登城口の比婆神社に着きません。かなり難儀な山城でした。 
                                          訪城日:2017.10.14  曇りのち晴れ
イメージ 1  城址へは、比婆神社を目指していきます。ルートは2つあります。
①国8号の佐和山トンネルの鳥居本側近くに比婆神社への案内板がります。案内板に従って細い山道を進むと比婆神社鳥居に着きます。
②鳥居本から県道239号を6km南下して、県道17号の交差点を左折して河内の風穴方面に進み、6km先(落合神社)を左折して林道に入り、男鬼村(廃村)を通ると比婆神社鳥居に着きます。
 比婆神社鳥居から片側が崖の細く急な山道を2km程で比婆神社前の駐車場に着きます。
今回は、行きを②、帰りが①でした。どちらかというと①のルートの方がいいようです。ただ、対向車が来ますと、すれ違いスペースもありませんのでかなりの難儀するかと思います。くれぐれも細心の注意をしていかれるといいと思います。また、携帯の圏外です。イメージ 11
 当城に関する史料や伝承などは一切なく、築城時期や築城主体は、不明です。ただ、中井均氏が、戦国後半期の当地方の様相を推察して、次のように述べています。
「平地を浅井氏に席巻された京極高広・高吉らが、山間部に立て籠もった際に根拠地として築いたと考えられ。」「天文から永禄年間の初めに山間部の城を築き、平野部への寝室を虎視眈々と狙っていたのではないだろうか。」
じつにわかりやすい見解だと思えます。イメージ 2





とても立派な比婆神社の鳥居でした。ここまで来るのも大変でしたが、ここからもさらに厳しい山道でした。ただ、舗装されていましたので、通常の林道の道(わだちで凸凹しています)よりは運転しやすかったです。
イメージ 3






比婆神社駐車場のすく奥に灯篭が立っています。登城口は、この灯篭の左手を進んでいきます。イメージ 4



灯篭の先を進みます。




イメージ 5



意外と真新しい社でした。なぜ真新しいかというと、7〜8年前に玉垣の屋根を覆っていた銅板が盗まれて、地域の元住人の方々修復と聞かされました。不届きな者がいることにも驚きますが、それ以上に廃村になってこの地を離れても大切にここを守る人々の気持ちに敬意を持ちました。イメージ 6


灯篭のある所から約10分ほど(比高で40m程)で標高669mの比婆山頂上に着きます。


イメージ 7




頂上部の平場の奥に三角点の柱石があります。男鬼入谷城へはこれを目印にして、左手(東)に降りていきます。イメージ 8



男鬼入谷城への登城路の途中に見られた竪堀状の凹みですが、城にかかわる遺構とは取られていないようです。イメージ 9





城域の西端の堀切Aです。ここからが城域になり比婆山から約10分ほどで着きます。上から堀切を見ていますが、埋まっているので薄くかろうじて確認できる程度です。イメージ 10


郭3で、18×20m程のほぼ方形の形をしていて、西側の尾根筋に向かって高2m弱程の土塁がある。この郭の南下の尾根に二重堀切があるようですが、未確認です。イメージ 12






郭2の西側の一段低い郭からの郭2です。

イメージ 13

郭2です。10×12m程の広さでです。郭1と郭2ともピークにあり、どちらが主郭か判断に迷いますが、城域の最奥(大手が西側と考えると)にあることや周囲の防御の堅さからすると、郭1を主郭としておきます。※1イメージ 14




郭2の南尾根には、小規模な平場が階段状にあり、先端部に二重堀切があるようですが、未確認です。
イメージ 15





郭2から北東に伸びる尾根上の郭で、この先に郭1があります。

郭1を南西方向から撮ったものです。北側の堀切面に土塁を設けています。


イメージ 16
土塁の城内側裾部に石積みが見られます。
イメージ 17









イメージ 18郭1の北側下にある三重堀切を土塁上から見ています。

イメージ 19









東側から見ています。
イメージ 20
郭1の東下の尾根上の郭の一つです。北側に土塁を設けています。この下に食違いの堀切と、畝状竪堀があるようですが、未確認です。
郭1の土塁や三重堀切とともに、この郭の土塁を見ると、この城が北側に厳重な防御をしていることがわかります。

※1
当城の解説をしている中井均氏は、主郭について「規模が小さいものの城域のほぼ中央に位置している郭2」としておくとしています。また、郭1・2を中心とする一城別郭の可能性もあるとしています。

 以上が男鬼入谷城です。山奥にこれだけの規模の城を構築した主体の執念が感じ取れます。また、山奥だからこそこれだけの遺構が完存の形で残ったのだともいえるようです。

 登城口の比婆神社までの狭い山道や携帯がつながらないことや、更に城址までの案内板も全くないので、単独での訪城はとても危険です。熊もいないと思いますが、念のため熊ベルなども用意して万全な装備でお出かけください。

参考文献
『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』 仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館
(※掲載の男鬼入谷城跡概要図の方位が180度違っていますので、ご注意ください。)
中井均「湖東山中に眠る城塞 近江高取山城」(『歴史群像』93) 


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向羽黒山城ーその参ー

 向羽黒山城の伝盛氏屋敷と北曲輪の紹介です。イメージ 2
 向羽黒山城は、東西1.4km、南北1.5kmという広大な城域です。現在、白鳳山公園として自動車道や遊歩道が整備され、駐車場も何か所かあり、公園整備での遺構破壊もあまりされていませんので、訪れるには良い環境です。                                      訪城日:2017.10.27  晴れ
十日町口大手からくるみ坂を登る大手道の最初の関門に当たるようです。十日町口大手は、北大手口とも呼ばれるようで、西曲輪に入る三日町口大手に対する名称として、用いられたと考えられるようです。垣内氏は、改修によって大手が三日町口から十日町口に変わったのではないかと推察しています。














イメージ 3会津本郷焼資料館の前から公園内部に入る道があり、伝盛氏屋敷・北曲輪へは最初の駐車場を左手下に入ります。
羽黒神社(未訪)は、築城する際に山頂にあった「羽黒権現」の祠を移した云われています。この葦名氏の行為を飯村均氏は「地域の信仰の対象であった聖地・聖山を、意図的に領域支配の拠点」とし、「民衆の進攻を集める「聖なる権威」をも思うままにする、戦国大名葦名氏の「俗なる権威」を誇示するものである。」と述べています。(『中世奥羽のムラとマチ』)










イメージ 1
駐車場から下りていくと、道が分かれます。左手に行くと、伝盛氏屋敷の北西の堀に沿ってくるみ坂に行くようです。右手の道に行きました。

イメージ 4






進むと、左手に伝盛氏屋敷を取り巻く堀が見えてきます。写真ではわかりにくいですが、かなりの規模の堀です。イメージ 5

右手の斜面を見ると、数段の段郭が見えます。屋敷地だったのでしようか。

イメージ 6






左手の堀が浅くなり土橋状で渡れましたが、ここに土橋とは考えにくいので、埋まってこのような形になったと思えます。イメージ 7


伝盛氏屋敷と北曲輪の間の堀です。ここのところに木橋が架かっていたようです。

イメージ 8





北東方向から伝盛氏屋敷です。東西27m、南北21m程の方形の平場です。削平はあまりよくないようで、未完成で放棄された可能性が高い。土塁は4mと高く、コーナーは、櫓台が設けられるほどの広さがあります。イメージ 9

伝盛氏屋敷の北西の張り出しで、枡形虎口(虎口1)といわれています。慶長6年に破却されたとされていますので、よくわかlませんでした。

イメージ 10






北側から、北曲輪の虎口2に向かいます。この切岸をよじ登りましたが、けっこな急斜面できつかったです。イメージ 11



北曲輪の虎口部は、枡形虎口で外側に方形の平場かあり馬出と云われてますが、かなり変形の馬出です。

図は、会津若松市史歴史編3(中世2)より借用しています。

イメージ 12








馬出の虎口から南方向の枡形虎口を見ています。イメージ 13


馬出です。右手中央に虎口があり、イメージ 14その左手の土塁に石塁(石積石垣)がみられました。







イメージ 15馬出から枡形虎口です。→
枡形虎口内から↓イメージ 16









残存が悪いようではっきりとした形が見とれませんでした。

イメージ 17

北曲輪を南から見た所です。三角形状で90×70m程のころ差があります。








 今回訪れた二曲輪ブロックと伝盛氏屋敷・北曲輪は、枡形虎口・馬出・竪堀等が重層的に設けられ、向羽黒山城の大手にふさわしい堅固な造りでした。まだ、訪れていない、三曲輪ブロック・西曲輪ブロックは、次回に訪れてみたいと思っています。

参考文献
『伊達政宗と南奥の戦国時代』 垣内和孝著
歴春ブックレット『向羽黒山城跡』 佐藤金一郎著
『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編          

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向羽黒山城ーその弐ー

 以前、向羽黒山城の本丸周辺の記事を書いた際に、それ以外の箇所はいずれ紹介すると書いていました。今
回、訪れる機会があり、二曲輪周辺や北・伝盛氏屋敷を訪れましたので、ご紹介したいと思います。
                                               訪問日:2017.10.27 晴れ                                                                                                       
イメージ 1向羽黒山城は、葦名氏16代盛氏(1521〜1580)が、隠居城として永禄4年(1561-嫡男盛興に家督を譲る)から永禄11年(1568)までの8年間をかけて新築したものといわれ、廃城になる慶長期までに、葦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏によって改修と拡張整備か行われたとされています。ただ、改修の主体・時期等については、諸説あり定かではないようです。
 2002年以降、発掘調査が継続的に行われており、垣内和孝氏がその成果を簡潔に書かれていますのでご紹介しておきます。
一曲輪
石列遺構と掘立柱建物が見つかり、建物の柱穴に重複が認められ、3〜4時期あると推定された。このため、比較的長期に使用されたと想定できる。
二曲輪群
礎石建物があり、それは二棟が重複していることから、少なくとも二時期が想定できる。
西曲輪
石積を持つ虎口と石積を持つ半地下土岐蔵が見つかった。
伝盛氏屋敷
建物などの遺構が確認できず、発掘担当者(梶原圭介氏)は葦名盛氏の屋敷跡とは言い難いとしています。
十日町地区
城下と想定されていたが遺構は確認されなかった。
以上の結果からの垣内氏の見解は、「曲輪Ⅰ・一曲輪ブロックは、3〜4時期の掘立柱建物の存在を示すように、相対的には長期の利用が想定できる事と、要害の立地、建物は掘立柱建物、丸馬出が主体、という特徴がある。曲輪Ⅱ・二曲輪ブロックは、相対的には短期の利用が想定でき、建物は礎石建物、角馬出を意識した虎口が主体、という特徴がある。建物の構造は一曲輪ブロックが二曲輪ブロックに劣る。両者を比較した場合、前者は古い様相をとどめているのに対し、後者は比較的新しい様相を示すように考えられる。となれば、古い段階は曲輪Ⅰ、新しい段階は曲輪Ⅱが主郭であり、主郭を前者から校舎に変更する構想のもとに、改修が行われた可能性が推測できる。」とし、大手についても盛氏段階は、下野街道のある西側(三日町口)が想定でき、それが改修によって十日町口に変更されたと推察しています。
 今回訪れたところは、垣内氏の推定する改修後の大手道の遺構となります。
まずは、曲輪Ⅱ・二曲輪ブロック
イメージ 19改修時期は定かではありませんが、改修後の主郭と思われる二曲輪とそこに至る城道をたどってみました。
一曲輪ブロックと二曲輪の間の鞍部に駐車場が現在設けられています。ここから、二曲輪の南虎口に行けます。






イメージ 2






二曲輪南虎口(虎口1)です。説明板によると、門と坂道部分には石積石垣があり、南側が堀切・土塁と囲まれていたとありましたが、それらしきものは見つかりませんでした。イメージ 3
坂虎口ですが、道を左右に折れ曲がらせ見通しを悪くしています。イメージ 4


二曲輪です。ここは、一曲輪の険峻さに比べ、曲輪取りも広く、水の手にも近いことからも居住性に富んだ曲輪で、発掘調査で礎石建物が出て、それは二棟が重複していることから、少なくとも二時期が想定できるようです。虎口は二か所あったと思われます。南虎口と北虎口です。北虎口の左手に「三日町口虎口」の立看板がある下る道は、往古のものではないのではと思います。イメージ 5




北虎口(虎口2)を二曲輪から出たところから見ています。かなり狭い道幅で、北側にある水場への道か、あるいは搦手口なのかもしれません。イメージ 6




虎口の平場ですが、それなりの空間があり、この続きの道は急斜面を下りています。桝形とは言えませんが、かなり堅固な造りです。イメージ 7




「三日町口虎口」のある所から虎口3に下りたところです。虎口3のすぐイメージ 9先から二曲輪に登るようになっていますが、城道としては、違和感があり破壊道と思われます。
下の虎口(虎口3か)を三日町口虎口とするのは、違うのではと思います。西曲輪群の入口が三日町口になると思うのですがね。

イメージ 8
ただ、この道からは、虎口3の枡形の形状がよく見れましたのは儲けものです。


巨石を積み上げた石塁で固めた枡形虎口イメージ 10



                                                



イメージ 11





イメージ 12





巨石などは崩落していますが、ところどころに残ろ巨石から大手を意識した見せる虎口の偉容がしのばれます。虎口の先は、両側を堀で狭めた土橋があり、虎口受けの平場があります。イメージ 13

土橋を東側から見たもので、城道は、右下の樋口4の平場に降りていきます。

イメージ 14






虎口4のある平場です。ここは、角馬出のようで、北西に虎口4があり、西側に行くと水手曲輪です。イメージ 15


水手曲輪へ向かいます。出てすぐイメージ 16に虎口4のある郭を取り巻く堀(横堀)で、この辺もかなり堅固な造りです。


イメージ 17


水の手は、径10mほどの楕円形の溜池です。今でも水が溜まっていました。

イメージ 18






水の手から下ります。なだらかな斜面で、ここにも下からの城道があったのかもしれませんが、よくわかりません。イメージ 20

虎口4からの道と、水の手からの道が合流する細長い郭です。ここを下ると食違状虎口が見られたようですが、虎口4に戻ってしまい、それを見過ごしました。イメージ 21







右手が水の手からの道に至る斜面で、虎口5iに向かいます。イメージ 22



長めのスロープが歪曲していて、見通しを悪くしているのですかね。イメージ 23






虎口5は、壁を削って所に設けられていて、進路を直角に進むようになっています。ただ、ここが虎口かどうかは定かではないのですがね?イメージ 24


虎口5を入ると、空堀状通路の先に虎口4が見えてきます。イメージ 25







虎口4を郭内からです。桝形おぼしき窪みが見られます。イメージ 26


二曲輪ブロック最後に見た以降で、東の水場だと思います。

以上が二曲輪ブロックです。伝盛氏屋敷・北曲輪は、−その参ーで続けたいと思います。

参考文献
『伊達政宗と南奥の戦国時代』 垣内和孝著
歴春ブックレット『向羽黒山城跡』 佐藤金一郎著

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鐘ヶ塚砦

 鐘ヶ塚砦は、足柄上郡山北町都夫良野675−5の山北つぶらの公園内にある比高20m(駐車場からで、林道入口の安戸交差点からだと比高300m)の砦です。最近、山北町の国246号を通った際に「山北つぶらの公園」の目新しい標識が目に入り、一度行ってみようかな〜と思て検索しましたら、案内図の中に鐘ヶ塚砦跡を見つけました。以前、河村新城について調べた際に、する駿相国境の古道に「奥山家(おくやまが)古道」があり、河村城と河村新城を繋ぐ砦跡が設けられていたたことを知り、一度歩いてみたいと思っていました。「山北つぶらの公園」は、今年の3月に開園した新しい公園です。砦跡のつつじ山は、木々と藪に覆われていたようですが、現在は整地されきれいになっています。砦の遺構がどのくらいあったのかはわかりませんが、繋ぎの砦てすからさほどの造成もなされていなかったと思われますので、現在の姿とさほど違いはないのかもしれません。ただ、西に河村新城、東に河村城がくっきり見え繋ぎの砦の地としては、最高の立地です。訪城日:2017.9.29 晴れ
イメージ 1山北市街の西端の安戸交差点を右折して公園案内の標識に従い3km程進むと都夫良野地蔵堂があり、そのすく先を右折すると公園駐車場に着きます。砦には、徒歩10分ほどて着きます。





イメージ 2山北つぶらの公園の施設マップに加筆しています。計画面積が106haで現在開設されているのが約18haのようです。砦は南西端のつつじ山にあったとされています。西側にくっきりと富士山が見え、よく整備された公園になっています。


 鐘ヶ塚砦の築城時期は不明ですが、河村城と河村新城の繋ぎの砦として北条氏が設けたものと考えられます。
元亀2年(1571)に駿河国駿東郡北部の境目の拠点城である深沢城が武田方に落ちたため、それ以後河村口の境目の城が河村城になり、北条氏は国境防備の強化を強いられています。元亀2年に河村城の2度改修されているのもそのようなことからでしょう。河村新城の史料初見は天正10年(1582)の「新城普請」です。それ以後河村口では河村城は出てきませんで、新城(河村の名はついていません)だけになります。このことからすると、河村口の拠点城は「新城」となり、「新城」と河村城を繋ぐ砦として鐘ヶ塚砦が設けられたと。ですが、河村城からは西側の駿相国境は監視できませんから、新城築城以前からあったと考えたほうがが自然のように思えます。
だだ、「新城」を河村新城とするのが定説ですが、以前、河村口の河村城・河村新城について考えたことがあり、「新城」は現河村城の西側の本城郭・蔵郭を中心とするところではないか推察しました。「新城」が河村城西側と考えるとすると、河村新城は国境の境目の砦として「新城」以前からあり、鐘ヶ塚砦は、それらをつなぐ砦だったとなります。
※戦国余話に河村城と新城1〜5あります。イメージ 3
鐘ヶ塚砦跡は、つつじ山が推定地です。実際に行ってみますとつつじ山からは、西側に河村城から背後の小田原方面が一望できます。ただ、東側の河村新城や県境の小山町方面はちっと見にくいです。
さくら山からは、河村新城や小山町・御殿場方面は一望できます。
このことからすると鐘ヶ塚砦は、さくら山からつつじ山の尾根が砦だったのではないかと思いました。イメージ 4




さくら山からの西側の眺望で、河村新城や御殿場方面が望めます。



イメージ 5





河村新城がくっきりと望め、木々かなければ人の動きも手に取るように見えるのかもしれません。
イメージ 6


この日は、富士山に雲がかかり頂上部がちらっと見える程度で、残念でした。紅葉の時期なりましたら、もう一度訪れてみたいと思います。

イメージ 7



さくら山展望広場からつつじ山へ向かう尾根を下った所です。さくら山からつつじ山に繋がるこの尾根が両ピークの連絡道だったのかもしれません。

イメージ 8


尾根の北側下の管理等のある所からつつじ山展望広場(鐘ヶ塚砦跡)を見ています。比高で20m程ですか。


イメージ 9



つつじ山展望広場で、南北50m、東西20m程ですか。周辺を見ましたが、遺構らしきものは見当たりませんでした。

イメージ 10


つつじ山展望広場からさくら山展望広場方面を見ていますが、標高がほぼ同じですので西側の河村新城や御殿場方面は見えません。

イメージ 11



つつじ山展望広場から西側の小田原方面です。駿河湾なども見え、とても展望が良いです。


イメージ 12


河村城の位置を間違えまして、端っこになってしまいました。

鐘ヶ塚砦跡は、以上です。よく整備された公園になっていて、長い滑り台などもあり、子どもさんも楽しめる感じもあり、行楽で訪れてもいいところです。


イメージ 13公園を出て西側の道を進むと頼朝桜があります。その近くに「奥山家(おくやまが)古道」の説明板がありましたので載せておきます。
「天保年間に編纂された゜新編相模国風土記稿」によると、近世の山北には川村山北、川村岸、川村向原之3カ村と、西山家9カ村(皆瀬川、都夫良野、湯触、川西、山市場、玄倉、世附、中川)、平山、谷峨の村がありました。この西山家9カ村の内、玄倉、世附、中川は、西山家の奥、西丹沢へ通じる山深いところにあったため、奥山家3カ村とも呼ばれていました。この奥山家へ通じる道であることから、奥山家道と呼ばれました。」

現在は、かなり広い道になっていますが、一部尾根道がいまでもあるようです。地蔵堂なども残ることから近世以前からあった道と思われ、戦国期にも使われていたのではないかと思います。


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賤ヶ岳砦

 賤ヶ岳砦は、長浜市木之本町大字大音にある比高270m程の山城です。けっこうな比高ですが、賤ヶ岳リフト(往復800円)があり、リフトを降りて比高70m登りますと城址に着きます。2回目の訪城になりますが、前回は家族と一緒の観光でしたのでほとんど以降らしきものは見ていません。景色がとてもよかったということぐらいでしたかね。そのため、今回は、縄張図も用意し、隅々まで見てきました。    訪城日:2017.4.16  晴れ
イメージ 1 城址へは、北陸道木之本ICを降り、国8号を敦賀方面に進み、800m先の大音交差点を右折し、すぐに左折して進むと賤ヶ岳リフトの案内がありますので、それに従ってリフト乗り場の駐車場を目指します。
 徒歩でも行けますが、リフト利用がいいと思います。リフトを降りて5分ほどで頂上の城址に着きます。





 『信長公記』によると、賤ヶ岳合戦以前の天正元年8月に、浅井朝倉方の賤ヶイメージ 2岳布陣の記録が見える。また、『領家文書』には、天正元年9月に「しつかたけの城」とあり、賤ヶ岳合戦以前の賤ヶ岳城が確認出来る。天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った賤ヶ岳合戦を記した『余呉庄合戦覚書」によると、天正11年3月19日条には「賤ヶ岳ノ城ハ、桑山修理亮、羽田長門守、浅野弥兵衛三人ヲ籠メ置レ」とあり、標高421mに賤ヶ岳合戦の陣城として改築されたと推定される。戦前の兵員は2千と推定され、賤ヶ岳本戦で秀吉の指揮所となる。近年、中世城郭の特徴、切岸と多数の竪掘りが、周囲に確認され、城域は、長辺約200m、短辺約50m、余呉湖方面に腰郭を設け、城の周囲を囲む、犬走りや、帯郭が取り巻いている。
余呉町観光協会 2011/9 解説長谷川博美氏 
                      現地案内板より
 賤ヶ岳の合戦の際に羽柴軍によって築かれた陣城群の中でも、田上山砦と共に中心的な役割を担っていたようです。高田徹氏は、「指揮系統から考えると田上山砦が羽柴軍のより中心的な砦であり、賤ヶ岳砦は余呉湖畔の山上部を守備し、かつ岩崎山・大岩山砦を管轄する役割を担っていたと考えられる。」と書いておられます。そのためか、遺構を見てもかなり陣城としてはかなり厳重な造りがされていたと思われます。秀吉方の隙をついての柴田勢・佐久間盛政の大岩山砦への奇襲攻撃も、守りの堅い賤ヶ岳砦をさけて防御施設の貧弱な大岩山砦・岩崎山砦を選んだことからもわかるようです。
※右図は、鈴木眞哉著『戦国15大合戦の真相』(平凡社新書)から借用しています。イメージ 6















   









※現地案内板を改変しています。
イメージ 4リフト乗り場手前にある徒歩での登城口です。標柱には、「山頂まで1550m」とあります。比高270mですから小一時間かかるかと思います。道は、リフトから見えましたが、かなりしっかりした道のようです。登る方は見かけませんでしたが、降る方はちらほらいました。イメージ 3






リフトを降りてから山頂へ向かう道です。比較的なだらかな道です。イメージ 5



南郭手前にある堀切Cです。巾5m程で浅いです。高田氏は、「敵を迎え撃つ一種の塹壕と考えられる。」としています。イメージ 7





堀切Cから西郭への道です。一見すると西郭への城道のようにも見えますが、上部の入口は分厚い土塁を削った感じですので、違うか〜名?イメージ 8



西郭・主郭南下の帯郭とのようですが、東郭に繋がる犬走かもしれません。イメージ 9






現在の西郭入口です。右手に行くと主郭になりますが、往時は、主郭手前の分厚い土塁で遮断されていたと思われます。この唐するし、ここが西郭の虎口とは思えません。

↓西郭を北西から見た所です。
イメージ 10


イメージ 11西郭に繋がる北西尾根を遮断する堀切Aです。しっかりと残っています。イメージ 12
堀切Aから西郭へはかなりの急斜面になっています。
イメージ 13



主郭を北西から見ています。左手下が説明板にある横矢枡形のところです。横矢枡形というのがいまいちよくわかりません。虎口というのではなく、射撃空間?イメージ 14







東側からは、こんな感じです。


↓主郭から南方面です。いい景色です。
イメージ 15

イメージ 16北方面で、賤ヶ岳合戦の両軍の布陣した箇所が見渡せます。











イメージ 17
東郭から主郭方面を見た所で、主郭のイメージ 18方が少し高くなっていた、右手を見ると竪堀(↓)あります。ここに堀切があったと思われます。

イメージ 19


主郭方向から東郭を見ています。左手奥に外枡形状の虎口があります。イメージ 20







東郭の虎口を下から見ています。手前と奥に竪堀があり、登城路からの斜面への侵入を防ぐようで、なかなか堅固な虎口です。イメージ 21

東郭の虎口を少し下った所にある堀切Bです。高田徹氏は、「尾根筋を断ち切る堀切というよりも、尾根筋を侵攻する敵を迎え撃つ一イメージ 22種の塹壕と考えられる。」としています。
堀を見ると、うなづける指摘だと思います。




賤ヶ岳山頂は、リフトで容易に行けることもあって、多くの方が訪れていました。ここが、砦跡だったということはあまり知られていないのではと思います。以前に訪れた際は、さらっと見ていましたが、よく見ると以外にも遺構がよく残っていました。他の豊臣の陣城のからするとよくできた陣城の言えます。長浜にいかれた際には、小谷城などともにいかれるといい城址です。

参考文献

『近江の山城ベスト50を歩く』 中井均編 サンライズ出版

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