古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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会津の中世史の本

 会津の中世史を探る中で、葦名氏の存在は大きいものがあります。ですが、東北の中世ということで伊達氏のかかわりの中でしか葦名氏の動きは語られることが多く、しかも戦国末期における伊達政宗との抗争で敗れ去った敗者として登場することが多いようです。そんな葦名氏ですが、室町・戦国期には、南奥羽の戦国大名として伊達氏と肩を並べるほどの勢力を誇っていました。
 伊達氏についての書籍はかなり見かけますが、葦名イメージ 1氏については見ることがありませんでした。で、ようやつと葦名氏の本を見つけました。
 会津若松市史です。全25巻の一冊の中にあります。
 よくある分厚い市史ではなく、80ページの分冊形式で、写真・地図をかなり取り入れて読みやす九、わかりやすく書かれています。お城についても縄張り図も取り入れてわかりやすいです。これで定価1000円です。かなりのお得といえますね












イメージ 2 ついでにもう一冊、ご紹介します。戦国期の伊達氏と葦名氏の抗争を扱ったもので、戦国期の城について詳しく書かれています。この方面のお城址にいかれるときには、とてもちょうな本です。

















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霜台(そうだい)城

 霜台城は、城の峯とも呼ばれ、長野市若穂保科須釜にある比高300mの山城です。石積みのある城と聞いていましたので、訪れてみたいと思っていました。しかし、比高300mあり、一人ではちっときついかな〜と思っていましたが、城友のNさんがご同陣くださるとのことで行ってきました。       訪城日:2017.5.5イメージ 1
 城址へは、上信越道長野ICから国403号(旧谷街道)を東へ約8km行き、領家信号を右折して2.5km先の若穂隣保館を目指します。
 霜台城へは、ハイキングコースがあり(若穂太郎山トレッキングコースの太郎山南展望・史跡コース)、若穂隣保館の駐車場が使えます。平日に駐車する際は、隣保館に声をかけていただければと。




イメージ 2イメージ 3道路沿いには若穂隣保館の案内板がありませんので、向えの「丸文食品」を目印にするといいです。
登城口は、若穂隣保館の裏手の川向うです。

 霜台城は、標高720mの両側が急峻な尾根を利用して築城されている。城内には積石塚らしい遺構があり、それらの石を利用している。イメージ 4
 保科の豪族である保科弾正忠正利が延徳年中(1489-91)に築城し、居城したと伝えれ、居館は麓にある現在の廣徳寺の場所にあったといわれる。
 保科氏は代々弾正忠の職で、城名は弾正台の唐名である霜台からとったものと考えられる。城は善光寺平を一望できる場所にあり、足下には菅平を経て上州、鎌倉へ通ずる街道が走っている。戦いの備えと共に他社の侵入を監視する役目も果たしたものであろう。
 城は連郭式の山城で、切掘や土塁・石垣が設けられ、主郭のほイメージ 5かに5つの郭がある。南側には腰郭があり、西斜面には、前面の備えの小さな曲輪が20余ある。城から北側に少し下がった所に水の手(水場)があった。また、この霜台城址からは、焼けた小麦などが発掘されたと伝えられている。
 霜台城は保科氏の要害城として築かれたが、のちに相当大がかりな改修の手加えられた可能性が高く、戦国末期まで使われたものと思われる。          
 平成28年4月 若穂太郎山トレッキングコース愛護会保科支部
                             現地説明板より                         
※補足
 長享年中(1487-88)に坂城の村上政国が高井郡に兵を出し、西隣の大室氏を降し保科正利を攻めたともいわれます。そして、敗れた正利は子の正則とともに、伊那郡高遠に逃れ、村上氏に降った次男の左近将監に保科氏の旧領が与えられともいわれます。
 村上氏が、武田氏に攻められ没落した後は、武田氏に従い、武田氏滅亡後は上杉氏に従っています。天正壬午の乱後の天正12年5月に保科豊後守が上杉景勝より稲荷山留守居役を命じられています。そして、文禄3年では、保科佐左衛門(豊後守の養子)が稲荷山留守居役で540石であった。この流れからすると、若穂保科氏が、戦国期を通じて当地を領したことがわかります。
 このことからすると、当城の築城時期などは、定かではありませんが、保科氏による築城は確かといえるようです。
 登城口から比高で100m程登ると出城の保科前ノ山砦に着きます。直前の急坂はきついですが、休憩を兼ねての観察となり、いい位置にあります。
イメージ 6イメージ 7イメージ 8
 





単郭で背後に土塁・堀切(上巾5m)といった単純な造りです。大手筋への関門と眼下の街道監視の役割を担っていたものと考えられます。ただ、前面に防御施設が全くないのが気になりますが、東西と南の斜面がかなり急斜面ということで設けなかったのでしょうか。

 イメージ 9前ノ山砦と霜台城の中間地点にある弾正岩です。畳10枚位は敷かれる巨石で、保科弾正忠正利の名を取って名が付いたようです。イメージ 10
 岩の上に立つと保科扇状地全域と保科大笹道を眺望できますので、見張り台として使われたと思われます。イメージ 11
 
 
 向えに加増城や和田東山城が見え、保科大笹道を挟んで築かれているのがわかります。 イメージ 13



 
 前ノ山砦から比高で200mありますが、緩やかな坂道を登るのできつさはあまり感じられませんでした。途中の西斜面に巾2〜3mほどの段郭がいくつも見られます。耕作地の跡なのか城にかかわるものなのかは定かではないようです。



イメージ 12 城域西端の6郭で、上の5郭の石積みが見えます。
イメージ 15










イメージ 14 5郭で、削平された10×17mの広さで、周囲を割石の石積みが見られる。イメージ 16




イメージ 17
4郭の壁で上部に石積み。   
5郭南側の石積み。南側の方がしっかりと残っています。イメージ 18
 4郭で、ここも周囲を石積みで固めています。





イメージ 20

 4郭南側の石積みですが、何段にも積み重ねているようです。

 イメージ 19




 3郭と4郭の間に石を積み重ねた幅広の土塁状の高まりがあります。どうも古墳のようです。イメージ 21


 3郭で、ここも周囲を石積みで固めています。3〜5郭が改修されたところだったのでしょう。改修後の主郭は、ここ3郭ではないか思われます。イメージ 22






 
 3郭東側の上巾6mの堀切ア。イメージ 23




 2郭で、二段で南側が高いです。イメージ 24







 上巾5mの堀切イ。イメージ 25




 1郭で、台形で当城最大の郭です。改修前の主郭だったのではないかと思います。イメージ 26






 上巾7mの堀切ウです。
イメージ 27




 7郭です。奥の土塁は1郭西側のものです。イメージ 28






 城域最東の上巾7mの堀切エです。

参考文献
『信濃の山城と館 2更埴・長野編』 宮坂武男著
『信濃須田一族』 志村平治著

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ケムリの城

 ケムリの城は、煙ノ城とも書くようで上田市下塩尻裏山にある比高50m(駐車地点からで、南麓の下塩尻地区からだと比高350mです。)の山城です。らんまる殿にご案内いただいた虚空蔵山城の帰りに拠りました。ここは、らんまる殿、ていびす殿のお勧めの城址で疲れていましたが、横移動でさほどの労力はいらなてとのお言葉でしたので、訪れてみました。お勧め通りで、ものすごい堀切に驚かされましたね。   訪城日:2017.5.3 晴れ
 イメージ 1虚空蔵山城から西に延びて和合城に至る尾根道への行き方は、虚空蔵山城−その壱―をご覧ください。ケムリの城へは、その尾根にある鉄塔No26から城址に立つ鉄塔No25への保安道で行けます。






イメージ 2
 当城がいつ、だれによって構築されたかは、不明ですが、太郎山西尾根には坂城の村上氏が多くの城砦を築いたと伝えられていますので、村上氏にかかわる城なのかもしれません。(村上連珠砦群)
 ですが、この尾根が、天正壬午の乱に上杉氏と真田・徳川氏の境目になり、上杉氏が城砦を改修整備したと思われます。その後、屋代氏が上杉氏から徳川に寝返り、虚空蔵山城(この虚空蔵山城は、和合城から山地様に至一帯をさすようです)に籠城し、上杉勢と18度にも及ぶ攻城戦が行われようです。これらのことからすると、上杉氏や屋代氏によっても当城が使われた可能性があり、不必要なまでの4条の堀切の緊迫感もわかるようにも思えます。

イメージ 3
 
 尾根から5分ほど行きますと北端の堀切アが見えてきます。上巾5mほどですが、結構迫力があります。

イメージ 4








 堀切イで、上巾15mで当城最大の堀切になります。道は、かなり危ない山腹の急斜面の細道です。イメージ 5


 上巾5mの堀切ウで、岩尾根を砕いています。かなりの工事量ですが、ここまでして掘り切らなければならなかったのか、何やら執念を感じますね。イメージ 6







 上巾8mの堀切エで、ここも岩を砕いてつくられています。今までも信濃の山城で、多くの多重堀切を見てきましたが、ここほどの緊迫感を感じたことはなかったです。イメージ 7


 鉄塔のある3郭辺りから2郭・主郭方面です。石積みが崩落していることもありますが、岩がごろごろしています。イメージ 8







 2郭で、5m上に主郭があります。石積みに囲まれています。イメージ 9



 2郭南面の石積みで、高さは2mほどあります。

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主郭で、9×6mほどの広さがあり、北に高3m程の土塁(目隠しか?)があり、周囲に石積みがされています。イメージ 11



 主郭からの3郭。鉄塔が立っていますが、ここも曲輪だったと思われます。この3郭下に堀切オがありますが、疲れのため確認していません。

 なかなか行けない高地ですが、また機会があれば行ってみたいと思います。多多、確認し忘れたところが多くて、再度確かめたいところです。


参考文献
『信濃の山城と館 3上田・小県編』 宮坂武男著 戎光祥出版

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 虚空蔵山城(村上連珠砦群)の続きです。
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 太郎山(標高1164.5m)から西に派生する尾根上や南斜面にあまたな砦があります。これらを総称して村上連珠砦群と呼ぶようです。。虚空蔵山城は、その中でも中核な城です。史料に出てくる「虚空蔵山」は、この虚空蔵山城から西に延びる和合城まで約3km弱にある砦をさしているものと思われます。

イメージ 2

 鳥小屋城の主郭です。坂城町から林道太郎山線で標高750mまできて尾根に登り、尾根伝いに高津屋城(標高921m)⇒鳥小屋城(標高960m)と進みます。この間比高200mあまり上がりますが、アップダウンの激しい尾根道でした。
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鳥小屋城から比高で40mほど降り鞍部の「ソデ」に至ります。現在、上田から坂城に向かう道は、国18号線で岩鼻を通ります。
 イメージ 4しかし、14世紀前半から16世紀の間、塩尻の岩鼻下は千曲川が岩鼻下まで迫り通行不能だったようです。そのため、上田・小県とと坂城・更埴の通路は、室賀峠越えでした。上田原合戦での村上軍や川中島への武田軍も室賀峠の道を通っています。この「ソデ」は、上田と坂城を繋ぐのぞき越えの道で、和合城近くの鞍部通る道もありますが、馬や牛の行き来はできなかったようで、人のみの峠道と思われます。

イメージ 5

 「ソデ」からロープを頼りに急斜面をよじ登って行きます。(比高130m)








イメージ 6

 ようやっとの思い出城域西端の堀切1に着きました。上巾16mの規模の大きい堀切です。

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堀切1の高10m強の壁を登ると虎口1です。大きな岩が土塁として使われ、2折れの虎口です。イメージ 8


 郭1から見た虎口1です。急峻な坂上に狭い道筋とする堅固な造りです。

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 郭1を西側を見ています。郭西側に祠のある岩があるので内部は狭いです。手前(東側)に二段の小平場がありますが、はっきりとしていません。イメージ 10


 郭1から東方向で、2郭・土塁や北側下の5郭が見えます。2郭は、尾根上にある土塁二層犬走といった感じです。5郭はその西側の4郭など共に南側の尾根に守られ、東方下の上田平方面を監視する駐屯兵の小屋掛けの場所だったと思われます。イメージ 11





 郭3から1郭方向で、堀切2・2郭・土塁・5郭が見えます。
イメージ 12




 堀切2は、かなり埋まっていて、一見すると堀切のようには見えません。イメージ 13





 堀切2から登りますと、3郭東岸にある土塁囲みの狭い平場(5×3m)があります。宮坂氏は「司令塔の役目を果した所であろうか。」としています3郭が当城の最高地点で、上田平の見晴しも抜群ですから、そうかもしれませんが、虎口ともいえる感じです。イメージ 14


 当城最高地点が3郭です。ここからは、上田城がすく下に見え、上杉氏が徳川方の上田築城の様子を見張るには最適な場所だったことが、よくわかります。行ってみて、その実感を感じ取りました。イメージ 15


 



東の尾根続きに「積城」『亀井城」が見えます。さほどの遺構はないようです。ご一緒した、ていびすさんとえいきさんは行きましたが、私はちっと疲れていましたので、パスしました。イメージ 16


 郭4から東方向を撮ったもので、右手の尾根に防御壁になっている感じか読み取れるし思います。イメージ 17








 3郭北下の尾根にある堀切4で、その先に小郭が2つほどあります。


 以上が、虚空蔵山城ですが、険しい高地にあり、おいそれとはいけないところで、訪城の機会を設定していただいた、らいまる殿とていびす殿に感謝です。
 当城を訪れて、一番感じたのが、城からの見える景色です。この高地に城を構えた意味が実感として感じ取れたことです。まさに「百里楼豸にしかず」でした。
 また、観察が不十分な点が多々あり、再度の訪城を思うのですが、なかなか難しいですね。

参考文献
『信濃の山城と館 3 上田・小県編』 宮坂武男著
『天正壬午の乱』 平山 優著
『武田遺領をめぐる動乱 秀吉の野望』 平山 優著
『上越市史 別編2』

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 虚空蔵山城は、上田市と坂城町の境にある太郎山から西に続く尾根上にある比高640m程の山城です。数ある信州の山城の中でも比高600mを越える山城はそうそうはなく、更に急峻な地形もあって、最難関な山城の一つといえます。今回は、信濃在住のらんまるさん(ブロク「らんまる攻城記〜兵どもが夢の跡〜」)ていびすさん(「長野県の歴史を探し求めて」)のご案内をいただき、坂城町側の林道を進み標高750m程から尾根に上がりました。これでも比高は330mほどありますし、更に鳥小屋城と虚空蔵山城の間にある鞍部(「ソテ゜」)からの登り(比高150m)は急峻な坂をローㇷ゚を頼りの登りでした。            訪城日:2017.5.3  晴れ
※林道は、通常の乗用車では無理で、ジムニーのような軽四駆でしか利用できませんので、御注意願います。
 通常の登城路は、「太郎山 虚空蔵山 いにしえの山みちマップ」のCの大沢コースになります。その説明では、座摩神社から尾根の「ソデ」まで登り120分とあります。しかし、120分ではきつそうで、更にソデから虚空蔵山までの急登を考えると3時間以上かかると思います。尾根上の道は、アップダウンはちっときついですが、よく整備された道になっています。
 下図の「太郎山 虚空蔵山 いにしえの山みちマップ」は、上田市図書館でいただいたものです。
イメージ 1

 イメージ 2上田市と坂城町の間に、宇宙(虚空)のような無限の知恵と慈悲を秘めた仏といわれる虚空蔵尊を山名とした虚空蔵山がある。同山は標高1076.9m、上田地方を一望に見下ろすことができる。「塩尻の上に虚空蔵堂あり、別当(寺務の総括僧)東福寺、絶頂を奥の院(開山祖師の霊のあんちじょ)といえども堂はなし」(「信濃奇勝禄」)と当時の「修験の山」を証するものは未見だが、頂部には天文期、坂城葛尾城主 村上氏が構築したとされる村上連珠砦の中心城虚空蔵山城跡があり、堀切など当時の城跡も確認できる。イメージ 3
 当城はいわば埴科(はにしな)と小県の郡境にあることで北信濃の上杉勢力と東信濃の徳川、真田勢力圏双方にとって戦略上重要境の為下記のごとき壮絶な郡境の争奪戦が繰り返された。
 なお、虚空蔵山の西端は「岩鼻」と呼ばれる大岩壁で千曲川に迫っているが、戸の岩鼻上に立地する「和合城」とその坂城町側の山麓が、上杉方の虚空蔵山(城)と考えられている。
 ここ虚空蔵山城は、戦国期の武田、村上に始まり、徳川、真田対上杉の動静、上田城構築期を知れる史的に貴重な山城といえる。
   文責  東信史学会 横沢 瑛        現地説明板より
補足
 天文11年(1542)年頃、村上氏が武田氏の信濃侵攻に備えて構築したといわれます。天文10年に村上氏は、武田信虎・諏訪頼重と連合して小県に侵攻していますが、その際に武田勢への危機感を持っての対応だったのかもしれません。イメージ 4
 天文16年(1547)に志賀城の落城で武田氏が佐久郡を制圧したことで、埴科・更科両郡を中心として北信濃に勢力を張る村上(義清)氏と直接境を接することになります。翌年2月に、上田原で合戦におよび村上氏が勝利しています。(上田合戦時に上田城はまだありませんが、位置理解のためにいれています)
  天文19年(1550)武田勢が村上氏の東信進出の拠点である砥石城を攻め、敗退してます。(砥石崩れ)虚空蔵山城は、砥石城とは尾根伝いに繋がっていますから、この攻城戦で背後の補給路確保に使われたのではないかと思えます。
 天文22年4月に村上義清は、武田勢の侵攻に抗しきれず、葛尾城を自落し越後に落ちていきます。その後、上田・坂城が武田氏の支配下になりますが、武田氏が当城をどのようにしたかは定かではありません。ただ、展望の良い事を考えると狼煙台として使った可能性も考えられる。
 
 天正10年6月、本能寺の変によって空白地帯となった旧武田氏領の争奪戦(天正壬午の乱)で、上杉景勝は川中島4郡を8月までにはほぼ手中に収めます。その際に、戦略拠点として飯山城、長沼城、海津城とし、境目の城として対小笠原氏に牧之島城、対真田氏に荒砥城を拠点城としています。当然、真田との境目に当たる太郎山山系の尾根上の城郭群は真田監視の役目をしていたと思われます。
 徳川方になった真田が小県郡平定で勢力拡大を図ることを上杉方は警戒し、虚空蔵山城を改修したと思われます。実際、翌年3月21日に真田勢が不意打ちを仕掛けられますが、かろうじて撃退しています。
 イメージ 54月に徳川軍の主導で尼ヶ淵に城を築城始めたため、上杉氏はこれの阻止を狙い虚空蔵山城に北信の将卒を集結します。かなりの軍兵が集められたようですが、尾根上の城には大勢は上がれませんので、坂城側の麓に小屋掛けをしたのでしょう。
 天正12年4月、海津城にいた屋代秀正らが徳川方に転じ、荒戸城に籠城します。その後、屋代秀正や室賀満俊らは、虚空蔵山城に籠城し、上杉勢が攻め立てますが、辛くも守り切ったようです。しかし、8月に真田昌幸が上杉方に転じたため、前後を敵に囲まれることになり虚空蔵山城を脱出した。
 上杉方に転じた真田氏は、坂城郷も領有しますので、太郎山山塊の城郭群も支配下になりますが、境目の役割はなくなり、せいぜい狼煙台程度の使われ方になったのではないかと思われます。
 『上越市史』の史料にみられる「虚空蔵山」は、当城あたりから西端の和合城までを含むものと考えられます。

イメージ 6葛山城からの太郎山の尾根

この風景が、『上越市史』の史料にみられる「虚空蔵山」なのでしょうかね。










参考文献
『信濃の山城と館 3 上田・小県編』 宮坂武男著
『天正壬午の乱』 平山 優著
『武田遺領をめぐる動乱 秀吉の野望』 平山 優著
『上越市史 別編2』

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