古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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 福平城は、別名溝口城とも呼ばれ、長野市戸隠栃原福平にある比高26mの平山城です。福平城は、戸隠神社の南側の裾花川右岸の比較的平坦な丘陵地帯で、旧戸隠村の中心部の栃原地区にあります。戸隠神社周辺のにぎわにとはほぼ無縁などこにでもある信州の山村といえます。とはいえ、古き時期より人々が住んでおり、中世の時期にかかわる小規模な城館があまた見られます。          訪城日:2018.4.13 晴れ
イメージ 1城址への道は、非常わかりにくく、更に道が狭い(普通車でようやっとの幅)です。説明しにくいですが、大昌寺前場バス停辺りから西に入り、道なりに進んで福平生活改善せんた―を目指します。その先の案内板を右に入ると、城址の手前に行けます。手前の畑の脇に駐車しました。軽自動車ならば、神社(2郭)まで行けます。

イメージ 2








 享禄年間(1528-32)に構築された平山城。文禄年間までにこの地を治めていた溝口伯耆守の居城といわれ、溝口城ともよばれる。一説には、じ治承年間(1180年頃)、今井四郎兼平が築いたとの伝説も残る。
 城跡は、南北400mにわたる丘陵を防御のために利用しており、戸隠地区最大の城跡である。今木八幡神社周辺を本郭とし、北側には、土塁や空堀の跡がよく残されている。
 この城を中心として、周囲にはいくつかの小城が築かれている。
         長野市教育委員会      現地案内板より
補足イメージ 4
弘治3年(1557)2月に落合備中守が守る葛山城は、武田軍の急襲を受け落城します。直ちに上杉勢は、反撃に出ています。①4月初めに長沼城から大倉城に退いた島津月下斎(げっかさい)の兵を鳥屋(戸谷城)に送り、小川・鬼無里方面の武田方の大日方氏に圧力をかけています。(『戦武』557)そして、j②4月18日に謙信が救援部隊を率いて山田要害・福島城を攻略して善光寺に向い、旭山城を再興している。(『上越市史』145、148)これが第三次川中島合戦です。
 この時期の善光寺平一帯は、上杉氏の支配下にあり、戸隠辺りは甲越両軍の境目だったと思われます。①の島津勢の鳥屋侵攻は、侵攻しやすい飯綱之北山麓を回り、戸隠から七二会に出たものと思われますので、福平城ある栃原地区も、上杉勢に席巻されたと思われます。その際、福平城の溝口氏をはじめとする栃原地区の武士たちは、甲越のどちらに組したかです。
 そのことは、晴信が弘治3年の葛山城攻めと同年7月の安曇郡小谷城攻めの際の感状を多く発給している先が、どうも当地の関わる武士のようで、その中に「溝口」や「春日甚之介」(戸谷城の春日氏の一族か)の名があり、更に小谷攻め感状では「溝口」の横に(包紙)「溝口又左兵衛門」とあります。(『戦武』543、566)このことからすると、溝口氏をはじめとする栃原の武士だちは武田に組したと思われます。
 ただ、永禄元年(1558)に柏鉢城・大岡城・東条(尼厳)城に籠城する甲斐・信濃衆に防備を厳とする城中掟を出していますので、この方面の防衛ラインはかなり後退させられていたようです。(『戦武』592)
  その後、永禄6年(1563)4月信玄が越後侵攻を意図したが、犀川の増水で渡河ではなかったため、飯縄山麓に軍用道路(棒道)を造らせます。(『戦武』820)どうもこの頃までに、戸隠辺りは、武田イメージ 3の支配下iになり、溝口氏も福平城に戻れたのではと、思います。
 その後の当城や溝口氏については、定かではありません。ただ、天正10年(1582)の天正壬午の乱に始まる上杉景勝と小笠原貞慶の攻防戦において、当地が境目に当たることから、上杉氏によって改修されたという可能性も考えられます。

 イメージ 5
 








 
                    駐車地点からの遠景。

イメージ 62郭下の道からの駐車地点。奥に栃原地区の集落が見え、見通しはすこぶるいいです。

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2郭東下から登ってきました。この小道は、神社の参道のようです。今木八幡社です。イメージ 8

神社脇からの2郭です。広い郭で65×35m程です。






イメージ 9神社北側の主郭です。城址の神社の背後に土塁がよく見られます。それは、神社を造る際に土寄せを行ったことに拠るものなのですが、この土塁はそのようなものではないようで、主郭と2郭を区切るものとして作られたものと思われます。主郭と2郭を合わせて主郭としてもいいのかもしれません。
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当城最大の見どころの堀切1です。主郭と2郭を北から東にぐるっと取巻いており、堀切というより内堀(外側にも堀がある)と云った方がいいようです。イメージ 11



上巾30〜40m、長さはゆうに300m以上の感じです。形態は、箱堀のようで宮坂氏は勢溜りの可能性もあるとしています。高さが、10mもあろうかで、小田原城の小峯御鐘ノ台大堀切以上の感じもします。
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堀切1の北側の堀切2です。主郭部を2重の堀で厳重に防御しています。どうも北を意識した城のようで、川中島合戦時に武田が上杉に備え構築したものなのかな〜と。この北側の4郭と堀切3は見損ないました。とても残念!イメージ 13

帰りがけに見ました、3郭です。


わかりずらい場所にはありますが、素晴らし箱堀は一見の価値があると思います。





参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著

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 古城は、長野市戸隠宇和原にある比高30m(駐車地点より)の山城です。戸隠といえば、戸隠神社や蕎麦というのがすぐに思い浮かべます。今回は、戸隠神社のある所から南側の旧戸隠村の中心部周辺に点在する城館巡りで、時間があれば戸隠蕎麦も食したいと思っていました。この地域は、古くから開けていたようで、小規模な城館が点在しています。ただ、山間部で狭い道が多く、目指す城を探すのに結構難儀しました。
                                                  訪城日:2018.4.13 晴れ
イメージ 1
  長野市街から国406号を約12km西進、参宮橋で右折して県道86号に入る。やく2.3km先の織橋を渡り、すぐに右折し約500m先を左折して、奈良尾沢沿いに進むと奈良尾集落のバス停に着きます。そこを右折して450mほど進んだカーブが登城口(👇)になります。
イメージ 2







登城口がとてもわかりにくく、この辺を行ったり来たりしてしまいました。



 イメージ 4 当城についての史料や伝承は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりませ。ただ、この地域の城館の位置からしますと、南の裾花川から戸隠神社を経て越後に抜ける古道(戸隠往来裏街道)が楠川右岸沿いにあったと思われます。福平城のある辺りが戸隠村の中心部に当たり、当城が北の関所的な役割を持って築城、使われたのではないかと思えます。





イメージ 3


駐車地点から少し入るとすぐに城域に入ります。あまりはやく着きすぎて戸惑ってしまいました。(笑)そのためか、4郭と堀切1の確認がおろそかになってしまい、堀切1を横から撮り忘れてしまいました。これは、堀切1の2郭側の切岸です。イメージ 5







堀切1をよじ登りますと2郭です。北側から撮っていて、手前が巾4−5m、奥が巾10mで、長さが40m程の細長い三角形です。堀切2側に土塁がみられます。


イメージ 6
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2郭からの堀切2と堀切3です。二重堀切ですが、堀切2は、溝といった感じで、堀切3は上巾7mのしっかりしたものです。
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↓主郭で西辺の南北40m、南辺の東西30mの不整形台形で南西に向けて高くなっています。北、西、南に土塁がみられます。
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イメージ 11上巾14mの堀切4です。主郭側の堀切の高さは10m程はありますが、南側がちっと低く、堀切といった感じはいまいちです。

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主郭からの3郭です。イメージ 13



主郭と2郭の東下(15m)にある5郭です。意外と広く、小屋掛けの場所かもしれません。イメージ 14







5郭に石積みが見られました。井戸のような感じもしますが、?です。



堀切などはしっかり造られている感じですが、郭内の削平はさほどではないです。どうも、緊急時に築かれた感じもします。ですが、遺構はよい形で残っていますので、一見の価値はあります。

参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著 

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深志城考ーその弐ー

 宮坂氏は、小笠原氏が{田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、手前に居るのは、それなりの理由があったのではないか」と指摘しています。それがになにを意味するのか分かりませんが、私なり考えてみたいと思います。
 小笠原氏が、松本平の支配拠点とした、井川イメージ 1城と林城は、確かに松本平の中南部にあり、薄川・女鳥羽川を超えではいません。薄川を超えた女鳥羽川左岸と薄川右岸に囲まれた地区は、国衙が置かれ浅間宿などもあり、古代から中世にかけて中信濃の政治・経済の中心地で交通の要衝だったと思われます。そのため、従来の在地勢力の強固な権利関係の地だったと考えられ、新たに守護として入部した小笠原氏としても、地域拠点の館を設けることができなかったと思われます。かろうじて、北条氏滅亡と中先代の乱の過程で手に入れた浅間郷に赤沢氏を、深志郷に坂西氏を送り込んだのではないかと思われます。
 信濃には、北信の高梨氏、井上氏、須田氏、島津氏、東信の海野氏、大井氏、伴野氏、南新の諏訪氏、知久氏といった、平安・鎌倉期(12世紀〜14世紀初め)から続く独自の由緒と領主的基盤を持つ国人領主(国衆)が数多く存在し、彼らは室町、戦国期にしばしば小笠原氏と対抗関係に陥ることになり、更に小笠原氏内部の抗争関係も絡んで、小笠原氏が、守護として広域を支配するための統治機構を整備して、自律的な地域権力の構築があまり進まなかったことが、宮坂氏の指摘の「武田氏に追われることになった」理由なのではないかと愚考します。
 井川城や深志城のある所は、田川、薄川、女鳥羽川が合流する低湿地で、その微高地に築かれています。この複合扇状地の地形が、両城の成り立ちに深く関係していたと思われます。
イメージ 2  このことについて、『松本市史』歴史編Ⅰ原始・古代・中世』で小口徹氏が河川の流路の形成について興味深い記述をしています。
 井川城や深志城に関係する時期を抜粋して引用します。
○鎌倉時代からの室町時代中頃
低温期で、盆地全体の川床が低下し、洪水が頻発して、架線に沿った一帯には濁流が遅い、砂泥が積み重なった。田川は、一層川床低下がすすみ、南松本から井川城、村井付近に微高地があらわれた。女鳥羽川は大雨が降るたびに、屈曲部より上流がわで、河道を左右に写しながら周辺に礫や砂泥を堆積させた。
 井川城が築かれた14世紀後半は、田川の微高地が形成されていた時期に当たります。深志城の辺りは不安定な地域で恒常的な施設は難しかったのでしよう。
○戦国時代から江戸時代初期
16Cから17Cころは短期間の高温期だが、各河川の流路がほぼ現在の一に安定し、小凸地Ⅲ(おもな河川からの比高が3m以下)による微高地が安定離水域として広く展開したと思われる。(図11)
薄川や女鳥羽川の流路もほぼ現在の一に落ち着き、周囲の微高地も離水域として安定した。
 女鳥羽川は、城東の北側から南に流れ清水地籍でほぼ直角に西側に流れを変えています。この流れについては、人為的に変えられたのではないかといわれ、武田氏の深志城築城時のものということも言われています。ですが、この小口氏の考察が正しいとすると、女鳥羽川の流路は自然にできたもので、城の築城時の大規模な工事は必要なかったものといえるようです。ただ、この地に城を築く時期が府中小笠原氏時代には条件がそろわず、武田氏の府中侵攻時の頃に適合したものといえるのかもしれません。

 では、武田氏の深志城にお話を進めていきたいと思います。なお、武田氏時代の深志城を【深志城】とします。
 享保9年(1724)藩主水野忠恒の代に編纂され、松本藩域を中心にした歴史・地誌を記イメージ 3した『信府統記』によれば、貞慶は天正13年より宿城の地割をし、三の曲輪を縄張し、堀を掘って土手を築き、四方に5か所の大城戸を構えて南門と追手と定めて小路を割り、士屋敷を建てたとされています。江戸期の松本城が右図ですので、小笠原貞慶の時に城の縄張の全体像は出来上がったといえるようです。
  貞慶が、天正10年に入った【深志城】は、武田氏が天文19年(1550)に北信濃侵攻の拠点として鍬立さ、武田氏が滅亡天正10年までの32年間に城下の整備か行われたと思われます。ですが、武田氏時代の【深志城】については定かではありませんので、次の観点から【深志城】に迫ってみたいと思います。
①『信府統記』にある貞慶の宿割り
②松本城の縄張り
まず、貞慶が天正13年に宿城の地割りの内容から推察してみたいと思います。下図は、現在と享保13年の戸田氏再入封時の城下絵図です。(両図とも『城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』より借用し、加筆しています。)イメージ 4
『信府統記』には、天正15年までに市辻・泥町付近の町屋を本町へ移し、東町・中町を確定し、麻原町を安原町と改め、西口を伊勢町と名付け、各枝町も地割りしたとあります。さらに、三の曲輪を縄張して、堀を掘り土手を築いて、5か所の大木戸を構えて南を大手ににして士屋敷を建てたと
 現在の松本市の町名は、地名変更がされていますので、旧地名を古地図に落とし、若干の説明をします。
市辻(地蔵清水)泥町(柳町)は、三の丸内の二の丸堀の東側にあり、町屋があったようです。
東町・中町は、善光寺道沿いの町で、城下の親三町()あと一つが本町)でj、町屋の中心です。
安原町は、善光寺道沿いの北側にあり、古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていたようで、前後の二文字を取って名付けられたようです。町人町です。
伊勢町は、本町の枝町の一町名で、野麦街道沿いにありる町人町。 
 地割りをまとめると、町人地を女鳥羽川の南側と善光寺街道沿いに配置し、武家地を町人地と境界をつけ、三の曲輪内と北側に配置しています。二ノ丸の南側の大名町辺りについての記述がないため、【深志城】の頃の様子がわかりません。貞慶は、本丸・二ノ丸にはあまり手を入れていないようなので、本丸・二ノ丸は【深志城】の縄張を変えていないと思われます。

 次に、松本城の縄張から見える【深志城】
 松本城の地形は、北から流れる女鳥羽川と東から流れる薄川の低湿地の微高地にあります。薄川の造った微高地に阻まれて、女鳥羽川が清水地籍あたりで西に流路を変えています。このことから、女鳥羽川の右岸の松本城三の丸辺りは、水の溜まりやすい低湿地で人家のない所だったのでしょう。そのような地形の中で、松本城の地は、かろうじて離水域の微高地でしたが、北東から南西に比高差で10m程の傾斜があるようで、本丸を一番高い北側に、それを取り囲むように二の丸を配置する「梯郭式」構造の城となったものと考えられます。
 武田氏の侵攻地域で築城した城郭の特徴的な傾向を荻原三雄氏が『新府の歴史学』の中で、次のように的確に述べています。
「武田氏が信濃、駿河などの侵攻地域で築城した城郭群のうち、拠点的城郭とされているいる城は、多くが「梯郭式」構造を有しており、しかも築城当初は主郭と二の郭という二つの郭で構成され、それに「丸馬出」を附設するという比較的単純な構造であったことが明らかになった。」
 その構造を取る城郭として、信濃では岡城・海津城・殿島城、駿河では江尻城・三枚橋城などを挙げています。松本城も蓬左文庫所蔵の絵図類や現在の縄張りなどから【深志城】は、梯郭式の構造を呈したいたと推察しています。ただ、上記の城郭と【深志城】が明確に違うところがあります。上記の城郭は、背後に河の急崖を配した造りです。しかし、【深志城】は、周囲が低湿地の微高地に立地しています。この違いは、【深志城】が天文19年(1550)という武田氏にとっては侵攻地域での築城の早い時期だったことや自然条件に制約されたものと思われます。ただ、天文19年という時期は、北信濃侵攻を急ぐ武田氏としては松本平の支配を確かなものし、北信濃へ攻め入る拠点造りが急務だったことの関連していると思われます。
 イメージ 9イメージ 10









岡城 (『信濃』49−1より)                                 松代城(『16世紀末全国城郭縄張図集成』より)イメージ 11
イメージ 12









江尻城(『駿国雑志』より)                                    三枚橋城(『静岡県の中世城館跡』より)
  丸馬出が、三の丸に4か所見られます。これは、『信府統記』によれば小笠原氏が三の丸造成時に造ったものなので、【深志城】にあったかどうかはわかりません。もしあったとすると、海津城のように二の丸前面に設けられてると思えます。二の丸全面は、三の丸造成時に埋め立てられていますので、何とも…ですね。ただ、小笠原氏が、独自の技術として馬出を活用していたというのはあまり見ませんので、武田の城の馬出を見て造ったともいえますか。
 まとめとして、かなりいい加減なのですが、推定図です。
イメージ 5

付け足しで、松本城の二ノ丸城門の太鼓門を見ていましたら、松代城の本丸城門の太鼓門が構造がが似ています。両方とも枡形虎口ですが、普通見られる近世城郭の枡形とはすこし構造が違います。
イメージ 6図にすると、こんな感じです。この松代と城松本城の枡形は躑躅ヶ崎館(武田氏館)の西曲輪の枡形虎口の構造と同じです。どうもこの辺からも武田氏時代の城郭構造をベースとしているのがわかります。



イメージ 7イメージ 8










           松本城 太鼓門                          松代城 太鼓門

参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社
『新府城の歴史学』 荻原三雄・本中 眞監修 新人物往来社

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深志城考−その壱ー

松本城は、松本市丸の内にある平城です。松本城については、以前いただいたコメントに「 松本城がないのが残念です 国宝なのにー  」というのがありましたが、 国宝でもありいろいろな方々が紹介されていますので、当ブロクではあえて載せることもないかとお返事したことがありました。今回、松本城を取り上げるのも、松本城の紹介というよりその以前の深志城について考えてみたい思ったからです。   訪城日:2018.7.18  晴れ
イメージ 1城址は、長野自動車道松本ICから国道158号を1.8km程東進し、JRのガードをくぐり、更に500m先の中央2信号を左折しまますと、その先に見えます。
駐車場は、いくつかありますが、いつも行くと利用するのが千歳橋(大手門跡)近くの市営大手門駐車場です。


イメージ 2











イメージ 3右図の見られる近世の松本城は、武田氏滅亡後に入封した小笠原氏とその後に入った石川氏によってその原型が造られたました。
 小笠原氏は、武田氏時代の深志城に三之丸の形を整え、名称を深志から松本に改めました。石川氏は、豊臣期の石垣やその上に瓦屋根建築物を用いる築城技術を導入して改修を進めています。五層六階の天守や太鼓門石垣は、この石川氏時代の文禄年間の貴重な遺構といえます。
 松本城については、あとで少し触れたいとは思いますが、小笠原貞慶が入城する以前の武田氏時代や信濃守護小笠原氏時代の深志城について考えていきたいと思います。
 お城の券売所でいただいた松本城の説明の中にある深志城についての説明では「松本城は戦国時代の永正年間初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られました。」とあります。
 深志城の歴史を紐解くには、信濃府中や小笠原氏の館の井川城に言及するところから始めないといけないようです。
  イメージ 4松本が、信濃府中として呼ばれるようになったのは、8世紀末あたりに小県郡にあった国衙が移ってきたことからです。ただ、国衙がどこにあったかは定かではないようで、松本市東部の浅間郷の大村〜総社あたりが推定地として考えられているようです。鎌倉期でも、浅間郷の周辺には多くの公領があり、それらは平安期以来の在庁官人の所領になっているものが多く、その中の一人に女鳥羽川右岸の犬甘郷を領した犬甘氏が「深志介」を称しています。このことは、犬甘氏が信濃守護の北条氏被官となり深志郷へも勢力を拡大したことに拠るものと思われます。
 建武の新政で、建武2年(1335)小笠原貞宗が信濃守護に任じられます。その際に、松本周辺の住吉荘・近府春近領(jzmsd)を西部から南部あたり)が宛がわれ、小笠原氏がここを足ががりとして松本平に勢力を伸ばすきっかけになったものと思われます。そして、国衙の権益を掌握し、更に松本平中心部(捧荘)への進出を図るために井川の地に館を設け拠点としたと考えられます。
 深志郷では、鎌倉期には犬甘氏が深志介と名乗りその勢力下にあったと思われますが、建武2年に起こった中先代の乱に北条・諏訪氏に味方した深志介知光が挙兵し、小笠原氏らと合戦におよび、敗れ小笠原氏の配下になったようです。そのため、女鳥羽川右岸の地(捧荘)に進出したようで、一族の坂西(ばんざい)氏を深志介として国衙の掌握と、深志郷へ入部を図ったと思われます。「諏方御符礼之古書」にある15世紀後半の松本平の有力武士として、捧荘に小笠原氏、深志に坂西氏、浅間に赤沢氏、村井に村井氏、桐原に山家氏・小笠原氏・桐原氏らか載っています。このことから、小笠原貞宗の意図ははたされたといえるようです。
 15世紀後半(長禄3年1459頃)、入山辺に林城を築いたとされます。深志城は、永正元年(1504)島立荒井にいた島立氏に命じて造ったされれるようです。どのような城であったかは定かではないです。

 この後、武田氏時代の深志城へと話は進みますが、一つ気になることがあります。それは、宮永武男氏が、井川城に項で次のよう書かれています。
「小笠原氏が府中の地へ出て来ながら、田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、その手前に止まったのは、北方や西側に対して安全と考えたように受け取れる。そして、何年かして安全が確立したうえで動いているが、それでも薄川を渡らないで手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。そのことが大塔の合戦や武田氏の侵入の時に明らかになり、貞慶の諸氏の攻略へとつながるように思える。武田氏だから深志を拠点にできたのであり、小笠原氏はそれができない状況があったために、武田氏に追われることになったと考えられないことはない。」
 熟読玩味しないと理解しにくい所が多々ありますが、主に「田川、薄川、女鳥羽川を越えずに」「手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。」点について考えてみようと思います。


 
参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社


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 金沢城石垣めぐりの最終編です。
イメージ 1鶴の丸から東の丸北面石垣を見て、石川門により、河北門をくぐって新丸に出て大手の尾坂門です。埋められた白鳥堀跡の遊歩道を通って利家像のあるスタート地点に戻ります。











⑬東の丸北面石垣
利家が最初に石垣改修を手掛けたのがこの箇所のようで、天正11年(1583)に入城して9年後の文禄元年(1592)のことです。城の改修が遅れたのは、その間に隣国の佐々成政との攻防や秀吉の全国制覇に駆り出され、九州出兵、小田原出兵などがあったためで、小田原北条氏滅亡で一段落したのがこの時期だったのでしょう。
イメージ 2イメージ 3











イメージ 4自然石や粗割りした石を緩い勾配で積み上げた「自然石積み」(野面積み)で、隅はまだ算木積になっていません。

イメージ 5







整然とした切込みハギよりは、野面積の石垣の方が好きですね。東の丸東面やここは、うっとりするほどのよいものでした。
イメージ 6
イメージ 7










石川門に向かう途中に展示されていた城内の井戸と場所図です。近世に使われていた城としては、多いのかどうかわかりませんが、本丸周辺が多く、寛永以後御殿が置かれた二の丸が意外に少ないです。これは、辰巳用水からの引水があるからなのかな。
👇辰巳用水

イメージ 8













⑭石川門石垣
イメージ 9イメージ 10石川門は、搦手口の門で、天明8年(1788)に再建され、枡形の石垣は、明和2年(1765)に改修されています。







イメージ 11イメージ 12左が高麗門の一の門で、右が櫓門の二の門です。





イメージ 13枡形内の石垣がちっと変わっていまして、左手が粗加工石積み。右手が、切石積みとなっいます。これは、火災で右側が被害を受け、明和2年に改修されたものと考えられているようです。左側の残った石垣をそのままにしたのは、どうも財政難だったためのようです。







※新丸
イメージ 14三之丸正門の河北門から尾坂門お手の尾坂門の間に新丸があります。二代藩主利長の時、慶長4年(1599)頃に、新たに拡張された郭のようです。
越後屋敷:
藩主の江戸出府時に重臣たちが政務を行う場
下台所
城内の作事を司る役所
下台所
登城した藩士たちの食事を用意する台所




イメージ 15


















⑮尾坂門石垣
イメージ 16イメージ 17尾坂門は、金沢城の大手口です。佐久間盛政の頃は、西丁口が大手だったようで、利家の入城後にこちらに変わったようです。






イメージ 18イメージ 19











イメージ 20創建は、新丸が作られた慶長期のようですが、現在みられるものは、寛文期(1661-73)の改修時の姿のようです。巨大な割石が「鏡石」として用いられています。







この後、白鳥堀を埋めてつくられた遊歩道を通り利家像まで行き、金沢城石垣めぐりを終わりにしました。今回金沢城を訪れたのは、石垣がメインでした。現存する石川門や復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓も見ごたえはありますが、改めて石垣をだけを見るだけでも十分に楽しめる城址でした。一番良かったのが、東の丸東面‣北面や本丸南面の野面積(金沢城では自然石積みと呼ぶ)の高石垣でした。

参考文献等
金沢城石垣めぐりパンフレット



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