古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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仙石氏館

 仙石氏館は、上田市殿城矢沢にある江戸期の旗本陣屋です。     訪問日:2019.4.19  晴れイメージ 1
館へは、上信越上田ICから国144号を北上し、約2km先の下原信号で右折して県道176号に入ります。約1.5km進んだ先で左折して、矢沢公園を目指します。集落内に案内板があります。仙石氏館横に専用駐車場があります。
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イメージ 3仙石氏館は、寛文9年(1669に仙石政勝が上田藩仙石正俊から2千石(後に700石加増)を分知され、矢沢知行所として陣屋を設けたものです。旗本矢沢氏が知行する村は、矢沢村・下郷村・赤坂村・岩清水村・漆戸村・小井田(こいだ)村・森村と林之(はやしの)郷約半分の八ヵ所 です。地図て示すと左図のあたりになります。神川左岸の比較的豊潤な地をされたようです。旗本仙石氏は、江戸定府であったため、知行所の陣屋には代官が治めていた。宝永3年(1706)に本家が出石に移封されますが、旗本仙石家は明治維新まで当地を治めています。

イメージ 4駐車場から大手の枡形です。右手に土蔵がありますが、かつては高櫓だったのかもしれません。しっかりとした石垣が残っています。

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土蔵ですが、石垣に立つ隅櫓の感じがします。イメージ 7







南側の石垣です。

※代官を勤めたご子孫がお住いになっておられるようです。中に立ち入るには許可を取っていくようにしてください。

参考文献
『信濃の山城と館 3上田・小県編』 宮坂武男著

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天白城

 天白城は、上田市本原赤井にある比高150mの山城です。天白城には、かなり前(2006年5月)に一度訪城しています。行った記憶(車を止めた所のみ―笑)はあるのですが、お城址の遺構などは全く覚えていません。今回、城周りはあまり行く気にもなかったのですが、ほどほどのところへ行ってみるかと思い、矢沢城とこの天白城を訪城してきました。                                   訪城日:2019.4.19  晴れ
イメージ 1 城址へは、上信越道上田ICから国144号を北上し、約4.5km先の荒井信号で右折して、約2km先の真田氏歴史館を目指します。
城に行く前にここによって、真田氏館を見学してもいいですね。
県道4号との交差点(案内板有り)を直進して、すぐに左折して、赤井集会場に行きます。ここが城址用の駐車場になっています。ここから登城口の北赤井神社に向かいます。案内標識がありますから、迷わないと思います。イメージ 2









 当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、里伝によれば、真田信綱がこの地を領して、本原の御屋敷(真田氏館)と共に築城したとされています。イメージ 17
 この里伝どうりに信綱が築城したとすると、いつ頃なのかです。信綱の父の幸綱が、戸石城落城に活躍して、本領回復をしたのが天文20年(1551)〜22年頃と思われます。そして、幸綱は、その後北信濃侵攻戦や上野攻略戦に活躍し、永禄10年(1567)頃信綱に家督を譲ったとみられています。天正3年(1575)の長篠設楽原の戦で信綱は討死しています。本領回復から、信綱戦死までの20年間の間が想定でき、永禄年間後半〜天正年間初め頃といえるのではないでしょうか?
 また、本原の御屋敷は、信綱が真田郷の山家からに居館を移したものといわれていますので、里伝もあながち間違いともいえないようです。その際の詰め城が、御屋敷の北東にある真田本城といわれています。今回訪城して、天白城主郭から真田本城を見た際に真田本城が丸見えで、御屋敷の詰め城としては天白城なのではないかと思えました。そして、帰ってから読んだ、中澤克明氏の「真田氏館」(『甲信越の銘時様を歩く』)に同様な記述があり、我が意を得たりと思った次第です。
イメージ 3イメージ 4
北赤井神社入口

      →
北赤井神社
右手奥から登ります。


イメージ 5北赤井神社から10分ほどで標高900mの北赤井神社奥社に着きます。意外に広い平場(24×5m)で、神社からの道が大手と考えられますから、大手の関門があったのではないかと。イメージ 6







神社からは、城址西端を大きく回り込むように登りますが、以外にきつい登り坂でした。写真下に帯郭の平場があり、この先からが城域となります。

イメージ 7イメージ 83郭から西下に数段の段郭がありますが、写真のように矢竹が密集して踏み込めません。
右写真は3郭です。イメージ 9



主郭西下の2郭です。ようやっと郭の輪郭の見えるところに着きました。13×3m程の広さで、虎口受けの平場なのでしょうか。奥の主郭壁下に石積みが見られます。他の斜面にも石積みが見られ、主郭周りは石積みだったようです。

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主郭の北東端の土塁上から撮ったものです。東と南に土塁()があり、内部はかなり狭いです。



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主郭からの見晴しはよく、眼下に真田本城が手に取るように見え、その北側に上信国境の山々や松尾古城遠見番所のある山が見えます。イメージ 13









イメージ 14主郭西側壁の石積みです。崩落してはいますが、まだよく見れます。


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主郭北下の堀切1です。岩盤を砕いて造ったものです。北側に竪堀として落としています。
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堀切1の東側の立堀です。左手に竪土塁がありますが、写真ではわかりにくいですね。







参考文献
『信濃の山城と館 3上田・小県編』 宮坂武男著
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克明・河西克造編
『戦国大名と国衆』 平山優著

『大いなる謎 真田一族』 平山優著

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矢沢城

 矢沢城は、上田市殿城城山にある比高40mほどの山城です。現在は矢沢公園となっています。以前に一度訪城していますが、15年以上も前で、まだ山城めぐりの初心者のころで縄張図もなく行ったためもあり、ただの公園といった感じで城址の感じを受けずに、漠然として下城したことを記憶しています。今回は、縄張図持参の為か遺構を確認することができました。                        訪城日:2019.4.19  晴れ
イメージ 1城址へは、上信越上田ICから国144号を北上し、約2km先の下原信号で右折して県道176号に入ります。約1.5km進んだ先で左折して、矢沢公園を目指します。集落内に案内板があります。駐車場は、公園入口に2〜3台とまれ、仙石氏館にも数台とまれます。
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  矢沢城は、天文年間(1532-55)に矢沢薩摩守網頼が築いたと伝わるようです。このイメージ 3矢沢綱頼(1518-97)という人は、真田幸綱(真田昌幸の父)の弟で天文の初め頃矢沢氏を相続したとされるようです。矢沢氏は、諏訪明神系の神氏一族で、応永2年(1468)に神使御頭を勤めていることから、南北朝期にはすでに矢沢郷を領していたものと思われます。隣接する海野氏系の真田氏とは、仲はよくなかったようですが、どのような経過で綱頼が矢沢氏を継いだかは定かではありません。
  天文10年(1541)の海野平合戦(武田・諏訪・村上の連合軍対滋野一族)で、滋野一族は敗北し、海野棟綱や真田幸綱等は上野に逃れますが、矢沢綱頼は諏訪氏のとりなしがあり村上義清の配下になったようです。天文19年(1550)の武田信玄の砥石城攻め際には、村上勢として砥石城内に籠城し、武田勢を撃退しています。(戸石崩れ)翌年、真田幸綱が調略を持って砥石城を奪取したとされています。その調略に矢沢綱頼の内応があったのではないかといわれています。その後、真田幸綱は、信玄に重く用いられ小山田虎満や飯富虎昌らとともに北信濃侵攻の先鋒を任されますが、綱頼は真田氏を寄親とする寄子となり真田勢の一翼を担ったと思われます。ただ、矢沢氏が真田氏の家臣となったわけではなく独立した国人領主(国衆)として存在していたようです。矢沢家文書を分析した利根川淳子氏によれば、矢沢氏が真田氏のの家臣とし確定するのは天正14年以降とのことです。イメージ 6
 矢沢氏の居館跡は定かではありませんが、城下の集落内あったと思われ、矢沢城はその詰め城として矢沢氏によって整備され、真田氏の城塞群の一翼とし南の防御拠点として用いられたとも割れます。また、天正13年の第一次上田合戦の際には、上田城の支城として矢沢頼康が兵800と共に籠城し、依田源七郎らの徳川勢を退けたといわれています。その際に、増強改修されたと思われます。慶長5年の第二次上田合戦の際に道であったかは定かではありません。廃城は、慶長6年の上田城破却の頃か、元和8年(1622)真田信之の松代移封の頃と考えられます。

イメージ 4駐車場から見た矢沢公園入口です。ここから登って行きます。



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5分もかからず8郭に着きます。公園入口からの道が大手道思われますので、この8郭が大手郭だったのでしょうか?
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8郭からの6・7郭です。


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南面の段郭の中でも大きい6郭で、65×12m程の広さがあります。
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段郭郭の切岸は、4〜5mほどあり、5郭と6郭の切岸にそれがよく残っています。イメージ 10




5郭に東屋と社が建っています。主郭南面を守る需要な郭のようです。2郭虎口へは社左手を進みます。














イメージ 11イメージ 12











主郭から見える2郭虎口の道                   2郭虎口                      
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2郭は、主郭から約1mほど低い位置にあります。2郭虎口を通り2郭から主郭へ入ったと思われます。
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主郭で、35×14m程の広さです。主郭西面の壁に石積みが見られます。↓
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イメージ 172郭と3郭の間の堀切1で、上巾10m程ですが、埋まっていてあまりはっきりわかりません。

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3郭です。イメージ 19


3郭と4郭の間の堀切2です。イメージ 20








北端の4郭です。イメージ 21



西面の段郭の一つで、西面と南面か緩い傾斜地のため、帯郭を階段状に設けて防御力を高めています。

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神川対岸の虚空蔵山城を見ると、真田地域の南の関門の役割を果たしていたことがわかる感じします。

公園化によって相当の改変があったと思われますが、意外に遺構が残っていますので、訪城にはいい城址と思われます。

参考文献
『信濃の山城と館 3 上田・小県編』 宮坂武男著
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編
『戦国大名と国衆』 平山優著

『真田氏一門と家臣』 丸島和洋編

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吉沢城

 イメージ 2吉沢城は、上田市古安曽吉沢入にある比高180mの山城です。塩田平の南部にある独鈷山系には、西から女神山城、塩田城で、吉沢城が東端になります。                  訪城日:2019.3.13  晴れ
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城址へは、上田市街より生島足島じんしろをかまえたものを目指します。そこから県道65号をやく1.5km南下した所の信号を右折して県道82号に入り、約600m先で左折して進むと二幸園に着きます。二幸園の先の大きく曲がるカーブの辺りに車を止め、100mほど歩くと「安曽岡山登山道」の看板があります。そこが登城口です。

イメージ 3当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、塩田五族の一つ中沢氏の居城で、その伝説として「石神の鶏いわが吉沢城を救った話」があるようです。
※塩田五族とは、鎌倉期の塩田北条氏が福沢氏、工藤氏、吉沢氏、宮沢氏、幸田氏に分かれたものといわれるようです。武田氏侵攻時に滅ぼされたといわれています。
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二幸園で、この辺りから下の辺りが居館部のようだす。車は、写真左手に止めています。
イメージ 5登城口で、「「安曽岡山登山道」登山イメージ 6道」の看板があります。これは、地元の小学生が登山するためにPTAが整備されているものです。ですが、ここから安曽岡山まで、比高で400mで、しかもほぼ直登の急坂です。私は、半分の吉沢城で十分でした。




イメージ 7イメージ 82郭東下にある3段の小郭。ここまでほぼ30分で、ほぼ直登でした。イメージ 9






2郭で、20×6m程の広さです。主郭よりに土塁と堀切1があります。
イメージ 102郭先端からの眺め






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塩田平を望む北側の遠景で、眺めは素晴らしいてす。向えの山々には場所は特定できませんが多くの山城があります。さらに幹手には和合城や葛山城が見えます。
雪雲が迫ってきましたので、少し急ぎました。イメージ 12





2郭西端の土塁ですが、倒木でよくわかりません。

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上巾6mほどの堀切1です。

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主郭で、23×7m程の広さです。北東端に虎口が有ります。イメージ 15





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主郭西下の小郭


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小郭の先、両側を竪堀で落とした土橋。

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西が橋の堀切2ですが、宮坂氏は鞍部としています。

安曽岡山から派生する細尾根の中腹に位置し、二つの郭とも規模か小さく物見程度の役割だったのでしょうか。ただ、背後の備えは十分で、それなりに使われた城だったと思われます。
登城は、かなりの急坂を直登します。帰路の下りがかなり危なかったです。
 

参考文献
『信濃の山城と館3上田・小県編』 宮坂武男著
「吉沢城をめぐる謎」  尾見智志 『千曲』第163号(2017年)
※尾身氏は、上記の中で、「吉沢城は塩田城より規模が大きく、堀切などを配置し防御力を高めていることからわかります。特に、山城部分には堀針や竪堀などの戦国期に多く見られる防御施設を設けています。また、城の立地を見ると、吉沢城は鎌倉道とも呼ばれている別所街道・諏訪道・海野道・上田道などの街道が交差する交通の要衝を押さえています。それに対して塩田城は別所道が通るのみです。こうしたことから、戦国期の塩田平の中心となる城館は吉沢城と見ることができます。」と。傾聴すべき説だと思いますが、いろいろ検討すべき点もあるようです。

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行沢(なめさわ)城

 行川城は、富岡市妙義町行沢字上村にある比高25mの丘城です。    訪城日:2019.3.15  晴れ
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城址へは、上信越道松井田妙義ICを降り、県道51号を下仁田方面に5kmほど進み、北山信号を過ぎた先で斜め右側に入ります。500mほど先の右手の丘が、城址です。登城口の先の路肩に空きスペースがあり、車を駐車できます。イメージ 2







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 当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、高田氏家来の田村山城守が城主であったと伝えられているようです。
 県道51号線沿いに諸戸城、高田氏館、菅原城などがあり、松井田方面から杉ノ木峠を越えて下仁田に出て、佐久へ向かう街道沿いにあることから、他の城と連携して街道監視に当たっていたものと思われます。

 


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登城口です。左手が、屋敷前の地名ですので、一段高い5郭が居館跡にあるのでしょう。

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東側からの5郭。イメージ 6



道が見当たりませんでしたので、5郭から斜面をよじ登り、東に進むと堀切イでした。上巾14m程です。イメージ 7







2郭です。
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主郭虎口から見た、上巾12mの堀切アです。5郭からこの堀切を通って主郭に入ったのではないかと思います。イメージ 9




主郭で、南を除いて低い土塁がまわっています。イメージ 10






3郭です。イメージ 11





県道から見た4郭です。ここに配水所があり、そこに行ける道があるようです。


行沢城は、尾根先に4つの郭を並べた連郭式の砦ですが、主な郭が主郭まみという小規模なものです。街道監視としては、この程度のもので十分だったのでしょう。

参考文献

『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』 宮坂武男著


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