古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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2018(訪城NO.1577〜)
    訪城数 2     新訪城  2    再訪城 0

02.09 東京 由木城(1577)大石信濃守屋敷(1578)
01.08 長野 芦ノ尻道祖神                  麻績村福祉センターみたらし温泉(321)
01.05 長野 北向観音





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購入図書 2019年

趣味の歴史にいくら散財しているかの覚書です! ★5ー最高ランク ★3ー普通
2019年

01.01 『歴史家と噺家の城歩き』 高志書院 \1944                  ★★★★
01.18 『ワイド&パノラマ鳥瞰・復元イラスト日本の城」 香川元太郎著 Gakken \3672
02.01 『知勇性の東海道をゆく』 榎原雅治著 吉川弘文館 \2376  

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前田館

  前田館は、丸森町前田にある比高30m程の丘城です。今回の丸森への訪城は、伊達・相馬両陣営の境目の城館である陣林館・柴小屋館・冥護山館でした。前日に金山城の黒森山砦と三砦を訪れましたので、次の日にその周辺の城館で行きやすく、技巧的な虎口のある当館に訪城しました。  イメージ 1訪城日:2018.10.19  晴れ
城址へは、丸森市街の丸森橋から国349号を西に約6.5km進み、片倉トンネル先で右折して県道24号に入り、途中で県道105号になりますが、約2.5km先の大張郵便局を目指します。郵便局前を左折して最初の左に入る道を進むと城址標柱が立っています。車は、標柱前後に待避スペースがありますので、そこに停められます。イメージ 2






 当館についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。登城口にある標柱の側面に、「馬上十一騎槍鉄砲百五十人組の陣地の跡ではと推定される。」とあります。どうもこれは、仙台藩の地誌『安政風土記御用書出』にある伝承をもとにしているようです。この伝承を含めて当館を分析した、松岡氏によると、「馬上十一騎」は「近世を通じて苗字帯刀を認められた農民を指し、しばしば「槍鉄砲百五十人」と連称され」「御名懸衆、すなわち伊達氏直属の徒士団の構成員」だったと。また、築城時期としては、苅田郡から丸森に入るルートを抑える位置にあることから天正年間の対相馬戦の時期と考えれ、「小規模で臨時性が強いが、水準の高い築城技術(横堀・堀切と連続虎口をかみ合わせて発展させた技巧的にプラン)を用いて築かれ」、築城主体として伊達氏の関与も認められる可能性があるのではないかとしています。
イメージ 3登城口で、道路沿いにあります。


イメージ 4







主郭に至る登城道ですが、すぐ左手に虎口が有りますので、後世のもののようです。

イメージ 6イメージ 5虎口ですが、よくわからない写真になっています。イメージ 7





美がし側の段郭ですが、ここもよくわかりませんです。



イメージ 8







主郭です。



藪に覆われていまして、遺構がよくつかめませんでした。もう少し、時期が違えば雑草も枯れて遺構がみられるのかもしれません。

参考文献

『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房

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丸森城

 丸森城は、丸山城とも呼ばれ伊具郡丸森町淵ノ上にある比高10m程の丘城です。当城は、一般的には丸山城と呼ばれ、城址内の案内掲示にも丸山城とあります。ただ、伊達家の正史で輝宗期を記録した「性山公治家記録」には、「丸森城」とあり、その当時この名でよばれていたものと思われるので、ここでは丸森城としています。                                           訪城日:2018.10.19  晴
 イメージ 1城址へは、国113号の内川に架かる橋を渡り300m先を右折します。少し進むと、右手に城址案内板があり、道なりに進むと駐車場に至ります。

イメージ 2
イメージ 3






 国道からは市道にある       左手に駐車場
 城址案内板


イメージ 4当城は、周辺の大名を巻き込んだ伊達氏の内乱である「天文の乱」で嫡男晴宗に敗れた稙宗が天文17年(1548)に晴宗に伊達家の家督を譲り、当地に隠居城として築いたものとされます。稙宗が永禄8年(1565)に当城で亡くなると、稙宗の娘たちが(長女は、相馬顕胤に、末娘は顕胤の孫義胤に)嫁いでいた相馬氏が稙宗の隠居領(伊具郡南西部)に侵攻し、金山城と丸森城が元亀元年(1570)には攻略されてしまいます。相馬氏の支配は、天正19年(1581)に始まる伊達輝宗・政宗の伊具郡侵攻によって、伊達勢に攻め込まれ天正12年(1584)の講和で終わりになります。その後、相馬氏との境目の城として、伊達しの大身の家臣が城主となり、慶長6年(1601)大條実頼が鳥屋館を築いて居城を移したことで、丸森城は廃城となったようです。
イメージ 53郭からの4郭です。城内標識では、「二ノ丸跡」となっています。郭へのスイメージ 6ロープ状の道は、農作業用のものと思われます。、耕作地だったようです。

イメージ 7



3郭と4郭の間の堀切1です。巾6m,深さ3m程の箱堀状です。イメージ 8







4郭から見た3郭です。耕作地だったため改変されていて、虎口などは不明ですが、2郭の虎口郭のような感じです。
イメージ 9

3郭から2郭への通路です。軽トラが通れる幅ですので、耕作時のものなのか?2郭は、3郭より一段高くなっています。
イメージ 10





2郭で、通路部分を除くと50×15m程の広さで、割りと広く、この郭に隠居した稙宗の居館があったのでしょうか。イメージ 11


そのためか、標柱には「丸山城本丸跡」とあります。


イメージ 12






2郭から1郭へは、堀切2南端の土橋で渡ります。イメージ 13




堀切2は、上巾10m、深さは6〜7m程です。

イメージ 14





1郭にある愛宕神社と伊達稙宗の墓碑。
イメージ 15





1郭は、さほど広い郭ではなく、大きな石があちらこちらにあり、居住区としては適していないようで、主郭は2郭の方がいいようです。
イメージ 16



1郭東下に枡形状の小郭があります。イメージ 17







稙宗墓碑の東下に見られる石積みですが、墓碑造成時に補強のために造られたものではないかと思えます。イメージ 18


1郭西下の郭。









参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館
『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房
『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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冥護山館

 冥護山館は、明護山館、明子山城とも呼ばれ、伊具郡丸森町大内にある比高30m程の丘城です。伊達氏と相馬氏の長きにわたる国郡境目相論の境目の城館として築かれたもので、伊達氏の築城技術の一端が読み取れる遺構がほぼ完存しています。                           訪城日:2018.10.18  晴れ
イメージ 1 城址へは、丸森市街より国113号を南東方向へ約5kmほど進み、左折して県道103号に入り(交差点にコンビニとガソリンスタンド有り)、約1.3kmで右折して県道245号に進みます。カーブの辺りに電波塔があり、その下に城址案内板があります。そのまま直進しますと、墓地に至り、そこが登城口になります。車は、空地におけます。





イメージ 2イメージ 3県道103号と県道245号の交差点辺りからの冥護山館

県道245号から左折して直進すれば墓地に至る。

イメージ 4

  天正9年(1581)4月小斎の領主佐藤宮内が、相馬方から伊達方に転じたことから伊達相馬両氏の境目をめぐる抗争が激化します。相馬方は、小斎と金山の間の冥護山に陣城を築き、伊達方は、後詰に稙宗・政宗(初陣)が出馬し、「小斎城辺ノ山ヲ御陣城」として対陣した。その際の相馬方の陣城が冥護山の西山館、伊達方がこの柴小屋館とされるようです。
 その後戦況は小康状態であったようですが、翌年4月に伊達勢が、金山城(相馬の伊具郡の拠点)と宇多郡との交通路(大沢越ルート)の遮断を意図して「地利」を構えた。この「地利」が冥護山館と考えられるようです。
 天正12年に田村清顕らの厚戦により講和が成立し、停戦時の戦線によって境界が決まり、伊具郡南部は伊達領となります。当地の拠点である金山・丸森城が伊達氏に帰属したことから、当館は、廃城となったと思われます。イメージ 6

イメージ 5登城口の墓地です。この辺りも城域のようで、段郭を墓地にしているようです。説明板も設置されています。図も描かれていますが、いまいち大雑把すぎてよくわかりませんでした。後で知ったのですが、どうもこの図は、貞享元年(1684)の調査図を基にしてリライトされたもののようです。
イメージ 7

説明板のすぐ先に城址標柱がありますが、すでに何本もの横堀が見えています。ただ、横堀の位置関係が読み取りにくいので、西側奥に進みました。イメージ 8








Ⅲ郭西下の横堀です。この西側にも横堀がありますが、埋まっているようで明確ではありませんでした。
イメージ 9

Ⅱ郭西下辺りで、振り返って撮ったもので、左手にⅡ郭の切岸、横堀とその右側に一段高い平場(?)があります。イメージ 10






Ⅱ郭西下の横堀に北側からの土塁が切れるところがあり、下の連絡口になのかもしれません。イメージ 11



さらに北側に進みました。このまま進めば谷間奥から西山館に行けると考えていましたが、行き止りのようで、この右手にⅠ郭に登る道があり、そちらへ向かいました。
イメージ 12





坂道を登った所で、Ⅰ郭とⅡ郭の間に出ました、少し窪んでいて枡形虎口ぼっく見えます。この坂道が往時のものなのか定かではありませんので、何とも判断しずらいです。イメージ 13

Ⅱ郭をⅠ郭の虎口辺りから撮ったものです。Ⅱ郭に行こうとしましたが、かなり藪っているため、あきらめました。イメージ 14








Ⅰ郭虎口で、左右に土塁がありますが、平虎口のようです。イメージ 15


Ⅰ郭虎口を内部から見た所です。土塁の様子が、こちらの方がよくわかるかと思います。イメージ 16








Ⅰ郭です。くの字の形で、南北80m東西25m程の広さで、両側に低い土塁がみられます。イメージ 17

Ⅰ郭北側です。この先に虎口が有り、下の堀切や平場もあるようですが、やはりここも藪ッており、降りては行きませんでした。

最後に複雑な虎口のあるⅢ郭に向かいました。
イメージ 18




Ⅲ郭は、土塁囲みの郭で、貞享図では、「扇桝形」としています。何をもってこの名がついたが?ですし、枡形には見えません。ただ、Ⅲ郭下の腰郭(貞享図では小溜り)
と連携して、攻め手を幾重にも方向転嫁させる造りは、見ものなのですが、藪がひどく藪切をしたのですが、撮った写真は、藪のみでした。


イメージ 19イメージ 20イメージ 21







Ⅱ郭南虎口                 Ⅲ郭の虎口辺りの土塁       Ⅲ郭下の腰郭の西への出口

西山館へは、冥護山館から続けて行けると考えていましたが、藪に阻まれて行けませんでした。

大軍が駐屯する陣城の様子が垣間見れますが、Ⅲ郭の虎口部やⅠ郭北側からの尾根に続く郭もみれるとさらによかった感じです。

参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館
『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房
『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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