古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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小谷城攻めの織田軍道

 虎御前山砦に訪城した際、その途中の道で「信長の軍用道」の説明板を見つけました。元亀3年(1572)7月江北に出陣し、虎御前山砦の築城を開始し、ほどなく普請が成就します。その際に、虎御前山砦と横山城のつなぎとして八相山と宮部に要害を築かせて軍勢を入れ、軍兵の出入りのために軍道をつくったと「信長公記」にある道のようです。
イメージ 1説明板を拡大してみます。
イメージ 2








イメージ 3右の「信長公記」は、巻五の八月八日の項に書かれています。



イメージ 4













        ⇩
イメージ 6
軍用道の所を拡大しますと
イメージ 7
この辺の道は、条理制が色濃く残っているため、田圃道も直線状の道が多いのですが、ここが用水沿いにそって変に斜めになっています。

イメージ 8
 
現地を見に行きました。
イメージ 5
軍用道は、幅三間半(約7m)で、その敵側(写真の右手になりますか)の端に高1丈(約3m)の築地を50町(5km余)気づき、水を関入れたあります。もしかすると写真に見える用水路がその関の名残なのかもしれません。



イメージ 9
    














 まぁ〜、なんにも残ってはいませんが、この辺をあちらこちら通りましたが、いわれるように道が直線時様ではないのがわかりました。(笑)

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中世が息づく菅浦

 菅浦は、中世惣村を語る際に必ず言っていいほどに登場する村です。そのため、以前からその名は知っていて、一度は訪れてみたいとは思っていました。以前から、近くの長浜市のお城には度々訪れていましたが、今回連れ合いの御供で長浜市に出かけることになり、比較的時間の余裕があり、帰りの日の午前中までは天気が持つとのことでしたので、訪れてみました。
イメージ 1 菅浦は、琵琶湖北部に突き出た葛篭尾崎半島の懐に抱かれた湖畔の集落です。現在は道路ができ行きやすくなっていますが、昭和46年に至るまで陸路がなく道路ができるまでは、陸の孤島で舟でしか行けなかったようです。

 大正6年に須賀神社に「あかずの箱」として保管されていた文書群が見つかり、「菅浦文書」として公開されています。イメージ 2






 木之本から国8号→国303号を通り旧西浅井町の大浦に出ます。大浦は、菅浦とは中世の長い期間敵対関係のあった集落でした。大浦から、湖岸伝いに曲がりくねった道を10分ほど進みますと菅浦集落の入口につきます。その所にある集落図です。イメージ 3
  現在の菅浦の人口は、81世帯217人だそうです。中世から近代では以下のようです。
建武2年(1335) 72戸
永正15年(1518)  112戸
永禄8年(1565) 91戸
慶長7年(1602) 107戸
寛政2年(1792) 102戸
                       477人
天保8年(1837) 100戸
明治4年(1871) 111戸
                        430人
中世においてもほぼ同じ程度だったようで、この集落景観が大体同じというのは驚異ですね。
イメージ 4 西の四足門。集落の東西に建てられ、集落の領域と外界を区切るものです。東西の門内に住めるのは、供御人として惣を構成する正員のみだったようです。別の土地から菅浦に流れ住んだ人(間人=もうと)がいても、門の内に住むことは許されなかったようです。イメージ 5






イメージ 6












西の舟入の跡で、石垣の端に水門の跡がみられます。 東の舟入で、道路になっていますが、形が見とれます。イメージ 7
イメージ 8










イメージ 9
 集落内を歩いていますと、とても目につくイメージ 10のが石垣です。比較的大きな石を積み上げています。湖岸沿いに沿っているだけでなく、集落内の奥にもみられます。
 途中で見つけた説明板。


イメージ 11 阿弥陀寺。時宗にかかわる人々が多くいたようで、中世の津・泊・宿には時宗の寺院かよく見られ、ここ菅浦もそのようであっのでしょう。イメージ 12










イメージ 13阿弥陀寺の隣にある安相寺。イメージ 14













イメージ 15イメージ 16











 集落内を歩いていますと何か心休まる感じで、行き会った住民の方々も穏やかな感じでした。ほんに、中世がそのままの姿である感じでした。 
 万葉集にも詠まれています。やはり、古い土地柄だったんでね〜。
万葉集
高嶋の安曇のみなとをこぎすぎて            沖つなみ高しまめぐりこぎすぎて
塩津菅浦今かこぐらむ    小弁            遙かになりぬ塩津菅浦   長方

参考文献
『村の語る日本の歴史ー古代・中世編―』 木村 礎著 そしえて
『網野善彦著作集 第十巻海民の社会』 網野善彦著 岩波書店


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 5日目、出雲国に入りました。前日、境港のホテルに泊まったため、境水道対岸の島根半島にあるお城から始まります。
 訪城した城址の位置を地図に示しておきます。番号は訪城順です。イメージ 1
18.横田山城 松江市美保関町森山イメージ 2
 海岸沿いの独立丘陵に主郭・2郭を構える小規模な城ですが、境水道(中江瀬戸)を押さえる水軍城だったようで、尼子氏の軍事的・経済流通の拠点として機能していたようです。主郭虎口に石垣が認められ、関ケ原の戦い後に入封下堀尾氏によって会使用されたのではないかと推察されるようです。2郭と主郭の半分は草が刈られ見学も容易でしたが、主郭半分からの北側は藪のため入れませんでした。堀切や畝状竪堀があるようですが。

19.土居城 松江市上大野町イメージ 3
 島根半島のほぼ中央にあるので、横田山城からはかなりの距離(40km)になりますが、遺構が素晴らしいとのことで、訪城しました。規模は100×120m程ですが、精巧な縄張りと大規模な普請が見事に残っていて、見ごたえのあるお城でした。写真は、主郭と2郭を隔てる堀切ですが、堀底道として使われ、ここの中央から両郭へ上がるようになっています。ここに之、規模の大きい畝状竪堀がみられました。


20.白鹿城 松江市法吉町イメージ 4
 尼子氏の島根半島の戦略拠点で、雲芸攻防戦(1562-66)では激しい攻城戦が行われました。白鹿城を中核とする城砦群がありますが、当城のみの訪城です。登城口から安乗登らずに本丸跡に着きます。ただ、ここが主郭ではないようで、南東にある通称一の床が主郭になるようです。取り立てての遺構はありませんが、山城の雰囲気は感じ取れました。



21.富田城 安来市広瀬町富田イメージ 5
  松江城を見ずに一路南下しました。 20数年ぶりの再訪になります。当城の整備ぶりには驚かされました。山頂部や山中御殿の虎口がほぼ破城で埋められていたとのことですから、前の訪城ではきっと見ていなかったのでしょう。それを見れただけでも、とてもよかったと思います。

ここまでが、5日目です。

6日目になります。
22.佐世城 雲南市大東町下佐世イメージ 6
 佐世は、「させ」と読みます。独立丘陵に大きく二つの郭群がありますが、北側の公園化した所しか見れませんでした。南側は藪かひどく入れません。公園なので見やすいですが、かなりの改変がされていると思われます。写真の奥が最高所ですが、狭いこともあって一段低い所が主郭だったと思われます。





23.城名樋山城 雲南市木次町里方イメージ 7
 城名樋山は、「きなひやま」と読むそうで、今遠征ではフリガナを付けないと読めない白目が結構ありました。城のすぐ近くまで車で上がれ、駐車場も完備していました。駐車場から主郭に向かう途中の四重の堀切(写真)がみられます。今遠征では初めての多重堀切で、この地域では珍しい?のかもしれません。尾根先に郭を並べる連郭式の山城です。主郭は他の郭より高15m程高い位置にあります。


24.三刀屋城 雲南市三刀屋町古城イメージ 8
 三刀屋は、「みとや」と読みます。山稜の先端の最高所(城山)に主郭を置き、派生する尾根に階段状の郭を設けています。主郭や大手虎口に石垣(写真)がみられます。石垣は、堀尾氏時代のもののようです。公園になっていて、主郭まで来るまで行けます。






25.三沢城 奥出雲町鴨倉イメージ 9
 出雲南東部の山間部の急峻な山上にあります。ここも麓の登城口に駐車場があり、訪れやすいです。(ただ奥地です)登城口からすぐ上がった所が大手口で、人身大の巨石を用いた高石垣の虎口(桝形状)があります。城内は、よく整備され遺構も見やすかったです。



ここまでが、6日目です。

7日目は、夜に雨が降ったようで、朝方も小雨で2城予定していましたが、とりあえず最初のお城に向かいました。
26.佐々布要害山城イメージ 10
   松江市宍道町佐々布
 時折小雨がパラパラする中の訪城でした。丘陵の二つの突起部に郭群を配置する一城別郭の城です。藪でおおわれていましたので、遺構を明確に確認できませんでした。写真は、西郭群へ向かう大手筋通路です。幅広い丘陵部ですので防備が厳しいため、尾根が少し狭まった地点の両側を削り落としています。多勢の敵を渡らせない工夫なのでしょう。


 次に向かったのが金山要害山城でイメージ 11しが、
小雨はやむ感じではなかったので、登城をあきらめ、帰ることにしました。写真は、城の遠景です。



 因幡の若桜鬼ヶ城やこの金山要害山城を見ていませんし、更に石見の諸城も未訪の終わっていますので、時期を見つけて訪れ見たいと思っています。


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 3日目(4/2)午後からは、鳥取県西部の伯耆国に入りました。
 2日目の鳥取城と太閤ヶ平(歩行18000歩余)のきつい登り下りで筋肉痛にになっていてさらに鹿野城山頂部のきついこともあり、どのくらい行けるか不安でした。
イメージ 1
9.羽衣石城イメージ 2 湯梨浜町羽衣石
 「羽衣石」は、「うえし」と読むようです。海岸部からかなり山中に入りましたが、城址駐車場への案内がしっかりしてしていました。地元の整備か良いようで、駐車場完備でトイレもあります。主郭までのコースが15分と20分があり、15分→20分で行きました。ただ、駐車場から主郭までは比高160mで15分でちっと無理でした。
 城域がかなり広いのですが、主郭周辺の整備されたところしか行けませんでした。登城路のとちゅにある石垣などは見ごたえがあり、復興天守のある主郭も草が刈り取られ見やすく、主郭から張り出した主郭虎口などは他では見られないものでした。

イメージ 310. 田内城倉吉市巌城
 伯耆守護山名時氏が20年間在城したと伝えられますが、どうもそんな感じのしない城址でした。ここにも模擬櫓があり、どうもこの地域では、このようものを建てるが一般的な感じと受けました。







11.打吹山城 倉吉市倉吉イメージ 4
 倉吉市役所の南側の打吹公園が城址です。公園に観光用の駐車場が利用できます。公園からハイキングコースが整備されていますが、打吹山頂上まで1.5kmあり、緩い坂道が続き意外ときつい坂道でした。途中にある備前丸を経て主郭に至ります遺構としては残り方がいまいちでした。





4日目
12.槻下豪族居館 琴浦町槻下イメージ 5
 平地に立地する方形居館です。館内は竹藪に覆われていますが、規模の大きい空堀があり、虎口らしき窪地も見られます。









13.石井垣城 大山町石井垣イメージ 6
 非常に分かりにくい場所に城址があり、たどり着くのに一苦労しました。説明板のある所から入れるとありましたが、その説明板もなく、藪に覆われていました。ようやっと春日神社(城域の中にある)の南側に空堀(写真)を見つけたのが唯一の遺構でした。






14.尾高城 米子市尾高イメージ 7
 城址は、米子勤労総合福祉センター(愛称米子ハイツ)として整備されています。そのため駐車場も完備しています。本丸・二ノ丸は整備されていませんで入れませんでした。駐車場周辺の南大首郭・中の丸(写真)居館跡はみれました。郭間に空堀がまわり、土塁も一部復元(?)されています。





15.江美城 江府町江尾イメージ 8
  台地先端部を土橋を残して堀切で遮断しています。その土橋を渡ると主郭で北東隅(写真)に石積みを伴う櫓台が設けられていました。西側に堀切を挟んで西の郭・八幡丸郭があり、八幡丸郭に模擬櫓が立っています。模擬櫓を建てるのが好きなのか、よく見かけました。石積みは緒豊期に吉川氏によって整備されたもののようです。
写真左手に見える山は、大山です。
 



16.小松城 南部町金田イメージ 9
 比高30mほどの丘陵上にある。ほぼ単核の城ですが、広い主郭の三方にしっかりした規模の土塁と深い空堀が巡っています。駐車地点からほんの5分ほどで、この素晴らしい遺構がみられました。







17.米子城米子市久米町イメージ 10
 鳥取城と同じで、地下を通っていましたが訪れるのは初めてです。標高90mの湊山頂上部に築かれた本丸の総石垣は、圧巻でした。かつて、ここに5層の天守と4層の福天守が立っていたようです。帰りに内膳丸と登石垣を見てきました。






ここまでが、伯耆国です。



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  山陰の因幡・伯耆・出雲に行ってきました。6泊7日になってしまいましたが、予定では石見国へも足を運び帰りがけに吉川氏のお城もみようと思っていました。ですが、石見に入るころはお天気が思わしくないので、予定を変更しました。最終日も小雨模様で、2つ予定していた山城も1つになってしまいました。ただ、中五日が好天に恵まれ予定していた城がほぼ回れたのは幸運でした。訪城時期:3月31日〜4月6日、走行距離1831km、燃費25.7kmでした。
 訪城した城址の位置を地図に示しておきます。番号は訪城順です。イメージ 1
初日、曇り→雨
1.波賀城 兵庫県宍粟市芳賀 イメージ 2
 中国道山崎ICから国29号北上して若桜鬼ヶ城に向かう途中、ふと山上に櫓らしき建物が目に入り、近くにあった城址表示版を見つけ訪城しました。標高は458mですが、城跡近くまで車で登れ、駐車場も完備していました。とても小さい山城ですが、石垣や櫓が復元されていて、発掘された石垣は天正年間以前の古い時代のもののようです。

若桜鬼ヶ城 麓までイメージ 3
 今回の遠征の目玉の一つであった、鬼ヶ城でしたが、登城口に雪が残り轍もないことから、車での登城はできないと判断しました。しかも、この地点から城址まで2.8kmあるので徒歩も無理と。さらに、雨が降ってきましたので、登城断念に至りました。この地域は、訪れるには4月中旬以降がよさそうです。



イメージ 42.河原城 鳥取市河原町谷一木
 雨になり、ここもたまたま通りかかった際に看板があり訪れました。
 秀吉の天正8年(1580)第一次鳥取城攻めの陣が置かれたという伝えがある所です。犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建てられています。発掘調査がされ、曲輪跡・堀切跡・掘っ立て柱の跡などが発見され、古城跡だったことがわかったようです。


3.天神山城 鳥取市湖山町南イメージ 5
 ここも、雨のため訪れやすいと思い行ったところです。高校の敷地内(?)にあるようですが、一般の見学者が自由に入れるようになっています。山名氏嫡流の本城で、比高15mで山等より低い丘の上に本郭を構えていたようです。室町守護の居館跡思った方がいいのでしょう
(写真は、丘上の本郭内の様子です。)



4.鳥取城 鳥取市東町イメージ 6
 以前に何度もこの近くを通っていましたが訪れることもありませんでした。今回は、鳥取城と太閤ヶ平を目玉の一つに入れていました。昨日の雨も上がり、曇り空でしたが、城めぐりには最高の日でした。城址の復元工事が行われ石垣などが整備それ近世城郭の偉容が再現されていました。幕末の構築された登石垣などもみられとても満足しました。背後の山上にある「山上ノ丸」へは比高210m登らなくなりません。


山上ノ丸イメージ 7
 地元の人がかなり頻繁に登ってこられるようで、以前に行った越後坂戸城でも見られ、地域に活用される城跡と思いました。当城は、近世では一城別郭の様相と思われますが、秀吉の攻めた鳥取城はこの山上ノ丸だったのでしょう。吉川経家は、どんな思いで切腹ししたのか思い果てません。毛利氏時代は土の城と思われますが、ここも池田氏の改修により石の城に代わっています。



5.太閤ヶ平 鳥取市東町イメージ 8
 「太閤ヶ平」は、「たいこうがなる」というようで、この地では郭のことを「なる」いっているようです。(三沢城でもみられる)太閤ヶ平は、鳥取城山ノ丸から東に1.5kmにあり、秀吉が鳥取城を兵糧攻めに際して築かれた陣城群の本陣です。織豊期の陣城としては規模が大きく、技巧的な陣城と思えます。(写真は、外側からの大手虎口です)
※鳥取城と太閤ヶ平の訪城の際には、、県教委発行のパンフ「鳥取城跡」があると便利です。私は鳥取市歴史博物館を訪れた時にいただきました。

 ここまでが1・2日目です。
 3日目も晴れで、8時すきに出発しました。
イメージ 96.防己尾城 鳥取市福井
 防己尾は、「つづらお」と読むようです。因幡守護山名氏の本拠天神山城の西方を守る出城で、湖山池を挟んだ対岸にあります公園化され駐車場も完備されて、訪城しやすかったです。主郭・3郭は整備されすぎて遺構はあまり残ってはいませんが、2郭は未整備で虎口・土橋・横堀(写真の箇所)きれいに残っていました。



イメージ 10
7.勝山城 鳥取市気高町勝見 
 ここも登城口に駐車場が完備しています。観音霊場になっていますので、そのための駐車場のようです。独立丘陵上に2つの郭を並べる造りで、2か所に畝状竪堀がみら
れます。






8.鹿野城 鳥取市鹿野町鹿野イメージ 11
 山上の土の城と麓の居館部に分かれています。麓の居館部は、天正年間に亀井氏の入封で石垣造りに作り替えられたと思われます。山上の頂上に天守台があります。








3日目の午前中で因幡の城めぐりが終わりました。午後から伯耆の城めぐりになります。
 


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