古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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狩野城

 狩野城は、伊豆市湯ヶ島町本柿木にある比高80mほどの山城です。伊勢宗瑞が伊豆侵攻の際に、激しく抵抗した狩野氏の拠点城郭です。この狩野氏は、絵師狩野派に繋がりがあるようで、「絵師狩野派発祥の地」といううたい文句も城址駐車場になっている「本柿木農村公園」にありました。   
                               訪城日:2013.2.17 晴れ
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 城址へは、修善寺市街より国136号を5kmほど南下して、柿木橋手前で右折して道なりに進むと、左手に「本柿木農村公園」がありますから、そこが登城口になります。公園の駐車場が使えます。遊歩道に沿って15分ほどで中郭につきます。
 また、柿木橋辺りからも登城路はあります。こちらにも駐車場があると思います。
 
 
 
城歴について、現地説明板によりますと、<平安時代からの在庁官人であった狩野氏が、軍事上の要害の地を選んでこの地に日向(伊豆市内)より移ったとされ、時期は平安末期(1100年頃)としています。そして、鎌倉・室町期においても伊豆を代表する武家として存続し、明応2年(1493)からの伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆侵攻の折、城主狩野道一は足利方に付き戦い、明応7年(1498)に敗れて開城した。その後、一族は小田原に移り、後北条氏の重臣として要職を歴任している。>とあります。
 狩野氏が、平安末頃から在地官人で惣領家が「狩野介」を名乗るほどの勢力があり、戦国期初期において伊豆守護職の山内上杉氏の有力被官として狩野川中流域から西海岸に勢力をもっていたことは確かなようです。明応2年の伊勢宗瑞の伊豆侵攻の際に、惣領家狩野道一は足利茶々丸に与して、狩野城に本拠を構え、伊勢勢と激しく攻防戦をしていましたが、明応7年8月に茶々丸の自害とともに降伏したようです。その後の狩野氏は、松山衆筆頭の狩野介や御馬廻衆で評定衆でもある狩野大膳亮がいて北条氏の重臣となり、その領地も狩野氏伝来の「狩野庄六郷」に給されています。
 しかしながら、狩野氏が伊豆の有力在地領主としても、平安末期に城塞をきずいていたとは他地域の例からしても考えにくいことで、斎藤慎一氏が「本拠の展開」で「中世後期の領主は、南北朝期に臨時に「城郭」を構えるという段階を経て、15世紀中頃より自己の本拠に「要害」を持ち始める。」と論ずるように、狩野氏も15世紀後半の関東の戦国時代の幕開けとされる享徳の乱とその後の都鄙和睦に伴う騒乱時に狩野城を構えたのではないかと推察できそうです。なお、伊豆は中世においては関東の一国とみなされていたようです。関東管領家の山内上杉氏が伊豆国守護であったことからも推察できます。
 ただ、15世紀後半に狩野氏が築城した狩野城は、現遺構であったかは疑わしいですね。数年にわたる宗瑞勢との戦いに持ちこたえるほどの要害であったことは確かだとしても、せいぜい数百人程度の攻防戦と思われますから、さほどの規模のものとは覚えません。現遺構は、北条氏が領有後に改修したものと考えるのが妥当なのではないでしようか。
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 城址へ行く際の駐車場となる「本柿木農村公園」です。車が8台ほど駐車でき、トイレも完備しています。
 
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 公園奥からの遊歩道を10分ほど行きますと、出丸につきます。ここから東側は、さほどの遺構もありませんが何となく城ぽっく、最初に訪城した時は ここが狩野城と錯覚して縄張図とどうしても合わなくてうろついた場所でした。
 
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 出丸から西下の堀切アを撮ったものです。かなりの規模の堀切で、どちらかというと自然の谷に手を加えたといった感じもします。ここから西側が狩野城といってよいかと思われます。
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 東郭から東郭と中郭の間の堀切イで、左手が中郭で、奥に進むと本郭へ行きます。かなり深い堀切なので、東郭と中郭の連絡は、もしかすると木橋なのかな〜と思ったりです。
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 東郭を北側の土塁の切れ目辺りから見ています。変わった郭で、北側の一部を除いて土塁で囲んでいます。武者隠のようでもあるし馬出といってもよさそうで、なんとも不可解な郭です。
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 中郭を堀切から上がった所から見ています。奥の土盛りの所が南郭です。西側に「本郭」と名付けられた郭がありますが、ここが主郭になると思います。南郭は、中郭より一段高く、広さもそこそこあります。物見台として機能したと思われます。
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 南郭の南西下の堀切と郭です。中郭から南西に派生する尾根の防備と遮断の備えでしょう。
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 中郭の南東尾根にある二重堀切です。この尾根は細尾根ですので、廓などを設けずに堀切で遮断しています。少々行くのに危険ですので初心者はパスしてくだされ。
 
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 中郭(左)と本郭(右)の間の堀切ウです。
 
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 「本郭」の表示のある郭ですが、間違いでしょうね。南の谷に虎口が開いて、土塁で囲まれた郭内部も狭いですから、馬出と考えた方がいいようです。
 
 
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 二重堀切エです。手前側が規模か大きく、奥は埋まっているのか浅いです。
 
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 城域の西端にある西郭です。三方を低い土塁が囲んでいます。馬出っぽいです。この西側に堀切(:掲載容量オーバーで載せられません)があって、城域はそこまでのようです。
 
伊勢氏に抵抗した時代の狩野城がどこであるか定かではありませんが、もしこの場所に想定されるとすると、やはり中郭辺りなのか?それとも出丸東側の「本城」辺りなのか?いろいろ思いめぐらしますがね。結論は出ませんので、あれこれ考えて楽しむのがよろしいのでしょうね。
 
参考文献
「「ふるさと古城の旅」 水野茂著 海馬出版
「静岡の山城ベスト50を歩く」 加藤理文・中井均編 サンライズ出版
 

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