古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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長浜城

 長浜城は、沼津市内浦重須字城山にある比高30mの丘城です。3回目の訪城となりますが、図面書きを行うということで久しぶりに訪城してきました。前回(2回目)は、2004年5月でしたので、12年ぶりとなります。国指定を受けて、発掘調査・土地の公有化・整備をされていまして、全くの様変わりで驚きました。                             訪城日:2016.2.21  晴れイメージ 1
 城址へは、沼津市街から国414号を南下して、口野放水路信号で県道17号に右折して5km先の長浜釣堀観光センターを目指します。長浜釣堀観光センターの西側の丘上に城址があります。城址見学ならば観光センターの駐車場が無料で利用できます。
天正7〜10年頃の駿豆国境付近の城館図です。



 長浜城は、天正6年(1578)越後の御館の乱以後、翌年北条氏が第二次甲相同盟を破棄し、北条氏と武田氏との緊張関係になり、駿豆国境の境目の水軍根拠地・重須湊を守るため築いたのが現在に残るものと思われます。天正7年11月7日付けの北条家朱印状(戦国遺文後北条編2110号)に「豆州浦為備、長浜ニ船掛庭之普請被仰付候」とあり、船着き場の普請とも取れますが、どうも再度の在地「木負百姓中」への普請役の要請で、前回は「長浜普請」とありますので城全般の工事だったと考えてもいいのでしょう。
 ただ、この普請が新たな築城なのか、修築なのかは定かではありませんが、新築とすると10年ほどの間に城内の建物跡や虎口を数度に改変したとは思えませんので、天正7年の普請は修築とするのが妥当なのでしょう。
 また、天正期以前からもこの地区の重要性が見られます。永禄11年(1568)12月武田信玄が駿河侵攻し、今川氏真が掛川に逃れます。そのため、北条氏は駿東郡・富士郡・庵原郡に侵攻して武田氏と対峙します。その際に、北条氏政が長浜の代官によい乗組員を選抜して「遠州江之船」を仕立てるように命じていたり、侵攻した自軍の兵粮を小田原から陸路を用いて韮山経由で伊豆「西浦」へ搬送したりしています。このようなことから考えられるのは、北条氏にとって「西浦」が駿河・遠江方面への戦略上重要拠点と位置付けられ、韮山城の統括下で水軍勢力が機能していたのでしょう。その中心が重須湊=長浜の防御施設だったのでしょう。そして、武田氏との緊張関係に至り、西浦の良湊である重須湊を守る防御施設の強化がされたのではないでしょうか。(北条早雲研究の最前線」家永遵嗣『奔る雲のごとく』から)
 イメージ 2同年12月、北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、安宅船も10艘重須湊に係留されていたようです。翌年の3〜4月に武田水軍との沼津沖の海戦が行われたようです。
 城主が、在地土豪の大川氏とされるようですが、北条氏直轄の城だったのではないかと思われます。大川氏は、西浦の中世以来の有力土豪で、戦国期には西浦七か村の名主・小代官を務め、北条氏の虎印判状の初見文書(永正15年10月8日伊勢家朱印状『戦国遺文後北条編35号』)を受け取るほどの家だったようです。ただ、「小田原衆所領役帳」には記載がなく、前述の北条家朱印状の宛先の「木負百姓中」の中心人物と思われ、残る文書でも「西浦之百姓」とあり在地の有力地侍として戦国期を全うしたようです。天正18年の小田原の役では、水軍が下田城に退去後の長浜守備を命じられたようですが、豊臣勢の進攻に伴い城を退去したと思われます。韮山開城ともに廃城になったと思われます。イメージ 3
 主郭で、城址最高所に置かれ、やや台形に近い形状で、西から南にかけて高1m程の土塁がまわる。発掘で、門と柵or塀となる遺構が検出されています。ただ、門と思われる遺構が木の右手ですが、その先が崖で城道が見当たりませんので、果たして門でいいのか疑問に思います。
イメージ 4 主郭から眺めは、まことに素晴らしいです。遠くに沼津市が見え、天正期には武田の三枚橋城も視野に入り、武田勢の動きも一目瞭然だったとイメージ 5思われます。この日は、富士山に雲がかかり見えなかったのが残念でした。雲がないとこんな風に見えます。イメージ 6
 主郭から見た2郭です。当城最大の郭です。広さ約16×37mほどの長方形の形で、西側から南側にかけて低い土塁がまわっています。この土塁は、本来はもう少し高かったようで、地山を削りだしたうえで版築されたもののようです。
 建物跡は、郭西側寄りに建てられ、数度にわたる建て替えがなされているようです。イメージ 7


   2郭は、主郭から3mほど低く、その境目に主郭防御施設として、凝灰岩を掘り込んだ空堀と建物跡と思われるピットか複数発掘されています。かってこの地点は、三井家の別荘であったコンクリート土台が無残な形を残していて、このような遺構があろうとは思いもよりませんです。イメージ 8

空堀は、長さ8m、上巾3m、下巾2m、深さ1.6mの箱堀で、凝灰岩を丁寧に削り、南側の竪堀に続く境に削り残しの畝を設けている畝堀です。竪堀を登ってる敵が仕切りとなる畝に阻まれて直の侵入を阻む仕組みだったようです。
↓説明板にある発掘調査時の写真です。
イメージ 11
 このような仕組みは、あまり見られませんが、下田の清水氏が関与した城にはあるようなので、ここの改修は清水氏の関与が指摘できると、さる専門家のご意見です。イメージ 9
   
 2郭東端に2間四方の9本柱(ピットは8穴)掘立柱建物跡が確認されたとして、このようなものを復元しています。3回ほど建て直しがされていることや、主郭への登り口が推定できるのがこの地点のみのため、重要な何かがあったと考え、海側への監視と主郭との連結の役割の両方を兼ね備えた「櫓」を想定したようです。たしかに、3mも上にある主郭への城道が見当たりませんので、この推測もありかな〜と思います。
イメージ 12  通常、六尺四方の間隔をもった複数のピットが見つかりますと、建物跡とするようです。しかし、ここは、ピットが8つしかなく9本柱の建物跡なのか、疑問が残ります。そこで、次のような形態も考えられるのではないかと思い、図にしてみました。イメージ 10





   これは、さる専門家の方のご指摘です。架け橋をかけて登っていたのではないかということです。遺構からどのように推定するかは難しですが、この可能性もあるのかもしれません。イメージ 13イメージ 14
 2郭と郭の間にある虎口です。南麓の田久郭からの登城路で陸側の大手口と考えられます。堀切に橋(はね橋と推測)を懸ていたのを、梅本氏て幅を狭めて虎口を造成したようです。数が説明板にある推定図です。
イメージ 15






イメージ 16
 3郭で、現在は祠が建ち西側は藪です。土塁上からの写真ですが、本来は土塁と同じ程度の高さがあったようで削り取られて現在の形になったようです。イメージ 17





4郭で、3郭から8m低く、背後を堀切で遮断しています。この郭も田久郭側に土塁を設けていますが、土塁幅5.5m、高1.5mと、郭の大きさに比べて規模が大きいです。防御の重点を置いた郭といえるようです。 イメージ 18
 主郭から海に向かって伸びる北東の尾根に4段の腰郭が設けられています。(上の段からABCDとしています)
 最上段腰郭Aから下の段を撮ったものです。イメージ 19











イメージ 20 腰郭Cの上部の様子です。城道は赤瀬かのようにたどることができます。
 海城ですから、最下段腰郭Dの下の岩礁に船着場を設けていたものと思われます。で、この腰郭は、物資の荷上場でもあり、海から攻めこむ敵に対する防御拠点であったのでしょう。イメージ 21





 最下段の岩礁部に丸太を載せたと思われる痕跡がありました。
イメージ 22ここから尾根に並行した17m先にも同じ痕跡が見られますので、丸太を用いて切願の船着き場を設けたのではないかと思われます。




 長浜城は、規模は小さいですが、海城としての機能がよくわかる城跡と思います。国指定史跡としてよく整備され、周りの景色もとてもよいので、観光のついでにも訪れるのもいいのではないかと思います。
参考文献
城址説明板
『静岡の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版
『戦国時代の静岡の山城』 サンライズ出版
『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』 静岡古城研究会

※余談
イメージ 23主郭北下の安宅船展示広場から登城しますと石積みが見られます。
イメージ 24








 人ひとりで担ぐにはちっと難しい石で積んでいます。積み方は、野面っぽっいです。石垣については、まったく詳しくありませんのでなんともいえませんが、北条氏時代のものではなく後世に積まれものではないかと思われます。同行した、石垣に詳しい方々もそのような意見でした。




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