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深志城考ーその弐ー

 宮坂氏は、小笠原氏が{田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、手前に居るのは、それなりの理由があったのではないか」と指摘しています。それがになにを意味するのか分かりませんが、私なり考えてみたいと思います。
 小笠原氏が、松本平の支配拠点とした、井川イメージ 1城と林城は、確かに松本平の中南部にあり、薄川・女鳥羽川を超えではいません。薄川を超えた女鳥羽川左岸と薄川右岸に囲まれた地区は、国衙が置かれ浅間宿などもあり、古代から中世にかけて中信濃の政治・経済の中心地で交通の要衝だったと思われます。そのため、従来の在地勢力の強固な権利関係の地だったと考えられ、新たに守護として入部した小笠原氏としても、地域拠点の館を設けることができなかったと思われます。かろうじて、北条氏滅亡と中先代の乱の過程で手に入れた浅間郷に赤沢氏を、深志郷に坂西氏を送り込んだのではないかと思われます。
 信濃には、北信の高梨氏、井上氏、須田氏、島津氏、東信の海野氏、大井氏、伴野氏、南新の諏訪氏、知久氏といった、平安・鎌倉期(12世紀〜14世紀初め)から続く独自の由緒と領主的基盤を持つ国人領主(国衆)が数多く存在し、彼らは室町、戦国期にしばしば小笠原氏と対抗関係に陥ることになり、更に小笠原氏内部の抗争関係も絡んで、小笠原氏が、守護として広域を支配するための統治機構を整備して、自律的な地域権力の構築があまり進まなかったことが、宮坂氏の指摘の「武田氏に追われることになった」理由なのではないかと愚考します。
 井川城や深志城のある所は、田川、薄川、女鳥羽川が合流する低湿地で、その微高地に築かれています。この複合扇状地の地形が、両城の成り立ちに深く関係していたと思われます。
イメージ 2  このことについて、『松本市史』歴史編Ⅰ原始・古代・中世』で小口徹氏が河川の流路の形成について興味深い記述をしています。
 井川城や深志城に関係する時期を抜粋して引用します。
○鎌倉時代からの室町時代中頃
低温期で、盆地全体の川床が低下し、洪水が頻発して、架線に沿った一帯には濁流が遅い、砂泥が積み重なった。田川は、一層川床低下がすすみ、南松本から井川城、村井付近に微高地があらわれた。女鳥羽川は大雨が降るたびに、屈曲部より上流がわで、河道を左右に写しながら周辺に礫や砂泥を堆積させた。
 井川城が築かれた14世紀後半は、田川の微高地が形成されていた時期に当たります。深志城の辺りは不安定な地域で恒常的な施設は難しかったのでしよう。
○戦国時代から江戸時代初期
16Cから17Cころは短期間の高温期だが、各河川の流路がほぼ現在の一に安定し、小凸地Ⅲ(おもな河川からの比高が3m以下)による微高地が安定離水域として広く展開したと思われる。(図11)
薄川や女鳥羽川の流路もほぼ現在の一に落ち着き、周囲の微高地も離水域として安定した。
 女鳥羽川は、城東の北側から南に流れ清水地籍でほぼ直角に西側に流れを変えています。この流れについては、人為的に変えられたのではないかといわれ、武田氏の深志城築城時のものということも言われています。ですが、この小口氏の考察が正しいとすると、女鳥羽川の流路は自然にできたもので、城の築城時の大規模な工事は必要なかったものといえるようです。ただ、この地に城を築く時期が府中小笠原氏時代には条件がそろわず、武田氏の府中侵攻時の頃に適合したものといえるのかもしれません。

 では、武田氏の深志城にお話を進めていきたいと思います。なお、武田氏時代の深志城を【深志城】とします。
 享保9年(1724)藩主水野忠恒の代に編纂され、松本藩域を中心にした歴史・地誌を記イメージ 3した『信府統記』によれば、貞慶は天正13年より宿城の地割をし、三の曲輪を縄張し、堀を掘って土手を築き、四方に5か所の大城戸を構えて南門と追手と定めて小路を割り、士屋敷を建てたとされています。江戸期の松本城が右図ですので、小笠原貞慶の時に城の縄張の全体像は出来上がったといえるようです。
  貞慶が、天正10年に入った【深志城】は、武田氏が天文19年(1550)に北信濃侵攻の拠点として鍬立さ、武田氏が滅亡天正10年までの32年間に城下の整備か行われたと思われます。ですが、武田氏時代の【深志城】については定かではありませんので、次の観点から【深志城】に迫ってみたいと思います。
①『信府統記』にある貞慶の宿割り
②松本城の縄張り
まず、貞慶が天正13年に宿城の地割りの内容から推察してみたいと思います。下図は、現在と享保13年の戸田氏再入封時の城下絵図です。(両図とも『城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』より借用し、加筆しています。)イメージ 4
『信府統記』には、天正15年までに市辻・泥町付近の町屋を本町へ移し、東町・中町を確定し、麻原町を安原町と改め、西口を伊勢町と名付け、各枝町も地割りしたとあります。さらに、三の曲輪を縄張して、堀を掘り土手を築いて、5か所の大木戸を構えて南を大手ににして士屋敷を建てたと
 現在の松本市の町名は、地名変更がされていますので、旧地名を古地図に落とし、若干の説明をします。
市辻(地蔵清水)泥町(柳町)は、三の丸内の二の丸堀の東側にあり、町屋があったようです。
東町・中町は、善光寺道沿いの町で、城下の親三町()あと一つが本町)でj、町屋の中心です。
安原町は、善光寺道沿いの北側にあり、古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていたようで、前後の二文字を取って名付けられたようです。町人町です。
伊勢町は、本町の枝町の一町名で、野麦街道沿いにありる町人町。 
 地割りをまとめると、町人地を女鳥羽川の南側と善光寺街道沿いに配置し、武家地を町人地と境界をつけ、三の曲輪内と北側に配置しています。二ノ丸の南側の大名町辺りについての記述がないため、【深志城】の頃の様子がわかりません。貞慶は、本丸・二ノ丸にはあまり手を入れていないようなので、本丸・二ノ丸は【深志城】の縄張を変えていないと思われます。

 次に、松本城の縄張から見える【深志城】
 松本城の地形は、北から流れる女鳥羽川と東から流れる薄川の低湿地の微高地にあります。薄川の造った微高地に阻まれて、女鳥羽川が清水地籍あたりで西に流路を変えています。このことから、女鳥羽川の右岸の松本城三の丸辺りは、水の溜まりやすい低湿地で人家のない所だったのでしょう。そのような地形の中で、松本城の地は、かろうじて離水域の微高地でしたが、北東から南西に比高差で10m程の傾斜があるようで、本丸を一番高い北側に、それを取り囲むように二の丸を配置する「梯郭式」構造の城となったものと考えられます。
 武田氏の侵攻地域で築城した城郭の特徴的な傾向を荻原三雄氏が『新府の歴史学』の中で、次のように的確に述べています。
「武田氏が信濃、駿河などの侵攻地域で築城した城郭群のうち、拠点的城郭とされているいる城は、多くが「梯郭式」構造を有しており、しかも築城当初は主郭と二の郭という二つの郭で構成され、それに「丸馬出」を附設するという比較的単純な構造であったことが明らかになった。」
 その構造を取る城郭として、信濃では岡城・海津城・殿島城、駿河では江尻城・三枚橋城などを挙げています。松本城も蓬左文庫所蔵の絵図類や現在の縄張りなどから【深志城】は、梯郭式の構造を呈したいたと推察しています。ただ、上記の城郭と【深志城】が明確に違うところがあります。上記の城郭は、背後に河の急崖を配した造りです。しかし、【深志城】は、周囲が低湿地の微高地に立地しています。この違いは、【深志城】が天文19年(1550)という武田氏にとっては侵攻地域での築城の早い時期だったことや自然条件に制約されたものと思われます。ただ、天文19年という時期は、北信濃侵攻を急ぐ武田氏としては松本平の支配を確かなものし、北信濃へ攻め入る拠点造りが急務だったことの関連していると思われます。
 イメージ 9イメージ 10









岡城 (『信濃』49−1より)                                 松代城(『16世紀末全国城郭縄張図集成』より)イメージ 11
イメージ 12









江尻城(『駿国雑志』より)                                    三枚橋城(『静岡県の中世城館跡』より)
  丸馬出が、三の丸に4か所見られます。これは、『信府統記』によれば小笠原氏が三の丸造成時に造ったものなので、【深志城】にあったかどうかはわかりません。もしあったとすると、海津城のように二の丸前面に設けられてると思えます。二の丸全面は、三の丸造成時に埋め立てられていますので、何とも…ですね。ただ、小笠原氏が、独自の技術として馬出を活用していたというのはあまり見ませんので、武田の城の馬出を見て造ったともいえますか。
 まとめとして、かなりいい加減なのですが、推定図です。
イメージ 5

付け足しで、松本城の二ノ丸城門の太鼓門を見ていましたら、松代城の本丸城門の太鼓門が構造がが似ています。両方とも枡形虎口ですが、普通見られる近世城郭の枡形とはすこし構造が違います。
イメージ 6図にすると、こんな感じです。この松代と城松本城の枡形は躑躅ヶ崎館(武田氏館)の西曲輪の枡形虎口の構造と同じです。どうもこの辺からも武田氏時代の城郭構造をベースとしているのがわかります。



イメージ 7イメージ 8










           松本城 太鼓門                          松代城 太鼓門

参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社
『新府城の歴史学』 荻原三雄・本中 眞監修 新人物往来社

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深志城考−その壱ー

松本城は、松本市丸の内にある平城です。松本城については、以前いただいたコメントに「 松本城がないのが残念です 国宝なのにー  」というのがありましたが、 国宝でもありいろいろな方々が紹介されていますので、当ブロクではあえて載せることもないかとお返事したことがありました。今回、松本城を取り上げるのも、松本城の紹介というよりその以前の深志城について考えてみたい思ったからです。   訪城日:2018.7.18  晴れ
イメージ 1城址は、長野自動車道松本ICから国道158号を1.8km程東進し、JRのガードをくぐり、更に500m先の中央2信号を左折しまますと、その先に見えます。
駐車場は、いくつかありますが、いつも行くと利用するのが千歳橋(大手門跡)近くの市営大手門駐車場です。


イメージ 2











イメージ 3右図の見られる近世の松本城は、武田氏滅亡後に入封した小笠原氏とその後に入った石川氏によってその原型が造られたました。
 小笠原氏は、武田氏時代の深志城に三之丸の形を整え、名称を深志から松本に改めました。石川氏は、豊臣期の石垣やその上に瓦屋根建築物を用いる築城技術を導入して改修を進めています。五層六階の天守や太鼓門石垣は、この石川氏時代の文禄年間の貴重な遺構といえます。
 松本城については、あとで少し触れたいとは思いますが、小笠原貞慶が入城する以前の武田氏時代や信濃守護小笠原氏時代の深志城について考えていきたいと思います。
 お城の券売所でいただいた松本城の説明の中にある深志城についての説明では「松本城は戦国時代の永正年間初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られました。」とあります。
 深志城の歴史を紐解くには、信濃府中や小笠原氏の館の井川城に言及するところから始めないといけないようです。
  イメージ 4松本が、信濃府中として呼ばれるようになったのは、8世紀末あたりに小県郡にあった国衙が移ってきたことからです。ただ、国衙がどこにあったかは定かではないようで、松本市東部の浅間郷の大村〜総社あたりが推定地として考えられているようです。鎌倉期でも、浅間郷の周辺には多くの公領があり、それらは平安期以来の在庁官人の所領になっているものが多く、その中の一人に女鳥羽川右岸の犬甘郷を領した犬甘氏が「深志介」を称しています。このことは、犬甘氏が信濃守護の北条氏被官となり深志郷へも勢力を拡大したことに拠るものと思われます。
 建武の新政で、建武2年(1335)小笠原貞宗が信濃守護に任じられます。その際に、松本周辺の住吉荘・近府春近領(jzmsd)を西部から南部あたり)が宛がわれ、小笠原氏がここを足ががりとして松本平に勢力を伸ばすきっかけになったものと思われます。そして、国衙の権益を掌握し、更に松本平中心部(捧荘)への進出を図るために井川の地に館を設け拠点としたと考えられます。
 深志郷では、鎌倉期には犬甘氏が深志介と名乗りその勢力下にあったと思われますが、建武2年に起こった中先代の乱に北条・諏訪氏に味方した深志介知光が挙兵し、小笠原氏らと合戦におよび、敗れ小笠原氏の配下になったようです。そのため、女鳥羽川右岸の地(捧荘)に進出したようで、一族の坂西(ばんざい)氏を深志介として国衙の掌握と、深志郷へ入部を図ったと思われます。「諏方御符礼之古書」にある15世紀後半の松本平の有力武士として、捧荘に小笠原氏、深志に坂西氏、浅間に赤沢氏、村井に村井氏、桐原に山家氏・小笠原氏・桐原氏らか載っています。このことから、小笠原貞宗の意図ははたされたといえるようです。
 15世紀後半(長禄3年1459頃)、入山辺に林城を築いたとされます。深志城は、永正元年(1504)島立荒井にいた島立氏に命じて造ったされれるようです。どのような城であったかは定かではないです。

 この後、武田氏時代の深志城へと話は進みますが、一つ気になることがあります。それは、宮永武男氏が、井川城に項で次のよう書かれています。
「小笠原氏が府中の地へ出て来ながら、田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、その手前に止まったのは、北方や西側に対して安全と考えたように受け取れる。そして、何年かして安全が確立したうえで動いているが、それでも薄川を渡らないで手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。そのことが大塔の合戦や武田氏の侵入の時に明らかになり、貞慶の諸氏の攻略へとつながるように思える。武田氏だから深志を拠点にできたのであり、小笠原氏はそれができない状況があったために、武田氏に追われることになったと考えられないことはない。」
 熟読玩味しないと理解しにくい所が多々ありますが、主に「田川、薄川、女鳥羽川を越えずに」「手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。」点について考えてみようと思います。


 
参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社


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小谷城攻めの織田軍道

 虎御前山砦に訪城した際、その途中の道で「信長の軍用道」の説明板を見つけました。元亀3年(1572)7月江北に出陣し、虎御前山砦の築城を開始し、ほどなく普請が成就します。その際に、虎御前山砦と横山城のつなぎとして八相山と宮部に要害を築かせて軍勢を入れ、軍兵の出入りのために軍道をつくったと「信長公記」にある道のようです。
イメージ 1説明板を拡大してみます。
イメージ 2








イメージ 3右の「信長公記」は、巻五の八月八日の項に書かれています。



イメージ 4













        ⇩
イメージ 6
軍用道の所を拡大しますと
イメージ 7
この辺の道は、条理制が色濃く残っているため、田圃道も直線状の道が多いのですが、ここが用水沿いにそって変に斜めになっています。

イメージ 8
 
現地を見に行きました。
イメージ 5
軍用道は、幅三間半(約7m)で、その敵側(写真の右手になりますか)の端に高1丈(約3m)の築地を50町(5km余)気づき、水を関入れたあります。もしかすると写真に見える用水路がその関の名残なのかもしれません。



イメージ 9
    














 まぁ〜、なんにも残ってはいませんが、この辺をあちらこちら通りましたが、いわれるように道が直線時様ではないのがわかりました。(笑)

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中世が息づく菅浦

 菅浦は、中世惣村を語る際に必ず言っていいほどに登場する村です。そのため、以前からその名は知っていて、一度は訪れてみたいとは思っていました。以前から、近くの長浜市のお城には度々訪れていましたが、今回連れ合いの御供で長浜市に出かけることになり、比較的時間の余裕があり、帰りの日の午前中までは天気が持つとのことでしたので、訪れてみました。
イメージ 1 菅浦は、琵琶湖北部に突き出た葛篭尾崎半島の懐に抱かれた湖畔の集落です。現在は道路ができ行きやすくなっていますが、昭和46年に至るまで陸路がなく道路ができるまでは、陸の孤島で舟でしか行けなかったようです。

 大正6年に須賀神社に「あかずの箱」として保管されていた文書群が見つかり、「菅浦文書」として公開されています。イメージ 2






 木之本から国8号→国303号を通り旧西浅井町の大浦に出ます。大浦は、菅浦とは中世の長い期間敵対関係のあった集落でした。大浦から、湖岸伝いに曲がりくねった道を10分ほど進みますと菅浦集落の入口につきます。その所にある集落図です。イメージ 3
  現在の菅浦の人口は、81世帯217人だそうです。中世から近代では以下のようです。
建武2年(1335) 72戸
永正15年(1518)  112戸
永禄8年(1565) 91戸
慶長7年(1602) 107戸
寛政2年(1792) 102戸
                       477人
天保8年(1837) 100戸
明治4年(1871) 111戸
                        430人
中世においてもほぼ同じ程度だったようで、この集落景観が大体同じというのは驚異ですね。
イメージ 4 西の四足門。集落の東西に建てられ、集落の領域と外界を区切るものです。東西の門内に住めるのは、供御人として惣を構成する正員のみだったようです。別の土地から菅浦に流れ住んだ人(間人=もうと)がいても、門の内に住むことは許されなかったようです。イメージ 5






イメージ 6












西の舟入の跡で、石垣の端に水門の跡がみられます。 東の舟入で、道路になっていますが、形が見とれます。イメージ 7
イメージ 8










イメージ 9
 集落内を歩いていますと、とても目につくイメージ 10のが石垣です。比較的大きな石を積み上げています。湖岸沿いに沿っているだけでなく、集落内の奥にもみられます。
 途中で見つけた説明板。


イメージ 11 阿弥陀寺。時宗にかかわる人々が多くいたようで、中世の津・泊・宿には時宗の寺院かよく見られ、ここ菅浦もそのようであっのでしょう。イメージ 12










イメージ 13阿弥陀寺の隣にある安相寺。イメージ 14













イメージ 15イメージ 16











 集落内を歩いていますと何か心休まる感じで、行き会った住民の方々も穏やかな感じでした。ほんに、中世がそのままの姿である感じでした。 
 万葉集にも詠まれています。やはり、古い土地柄だったんでね〜。
万葉集
高嶋の安曇のみなとをこぎすぎて            沖つなみ高しまめぐりこぎすぎて
塩津菅浦今かこぐらむ    小弁            遙かになりぬ塩津菅浦   長方

参考文献
『村の語る日本の歴史ー古代・中世編―』 木村 礎著 そしえて
『網野善彦著作集 第十巻海民の社会』 網野善彦著 岩波書店


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上田古城ーその参ー

 大河ドラマ「真田丸」が、昨夜始まりました。NHKの事前番宣もはなばなしくも仰々しいものでしたが、無難なスタートといった感じで、楽しくみていました。さて、それはさておきまして、真田昌幸時代の上田城=上田古城がどのような姿を現存する古図から推定していきたいと思います。
 真田氏時代の上田古城は、三期に分かれていると思われます。
 第1期は、対上杉に備えての徳川の境目の城として築かれ、城郭として一応の体裁を整えた土の城。古図としては、「天正年間上田古図」
 第2期は、第1次上田合戦後に対徳川の城として上杉の境目の城として大改修されたが、やはり土の城であった。天正13年9月22日付「栗田永寿等三名連署状」に「伊勢崎御普請寸隙不存油断致之候、近日可成就仕候」(「上越市史別編2}3059号)とあり、上田古城が当時伊勢崎城と呼ばれ、9月には完成になったことがわかります。
 第3期は、真田氏が豊臣大名として織豊系城郭として再整備した。古図としては、「元和年間上田城図」
 以上の3期の上田古城を考える際の現存古図としては、「天正年間上田古図」「元和年間上田城図」「正保4年上田城絵図」の三古図があげられますが、それも第1期と3期をかろうじて推定できるものでしかないようです。(が上田古城の中心部と推定できます。)
イメージ 1
 ここで古図の説明を簡単にしておきます。
「天正年間上田古図」は、古図の上部に「天正十二年真田昌幸築城 慶長五年関原戦後破却 松平家所蔵ノ図ヲ昭和七年六月二十三日写ス」とあります。上田古城の築城開始が天正11年の3月か4月とされますので、天正12年とすると徳川主導で築城された初期上田古城時期の上田の姿を伝えるものといえるのではないかと思います。ただ、この古図が水路を中心にした描かれ方で、誇張さしている面もあり正確さには問題は残るかとは思いますが、第一次上田イメージ 2合戦で書かれた「本丸・二ノ丸・捨曲輪・総構等」がそれなりに読み取れます。
 「元和年間上田城図」は、真田信之時代の藩主邸・中屋敷を中心にに描かれたもので、昌幸時代の上田古城の地は、「古城本丸」「ウメホリ」としてごく簡略に付記さるのみで、古城の姿を読み取れません。ただ、第一次上田合戦後の上杉主導の改修や真田氏に拠る織豊期の改修を経た後の姿を残すものともいえるのではないかと思います。右図は、「元和年間上田城図」のの部分を拡大したものです。
 「正保4年上田城絵図」は、正保4年(1647)に仙石忠政の子政俊が幕府に提出した絵図で、信頼できる絵図としては現存最古のもののようです。

 まずは、第1期の対上杉に備えての徳川の境目の城として築かれた上田古城を考えます。
 上杉方が、徳川勢が海士淵にイメージ 3城を築き始めたのを察知したのが天正11年4月ですので、実際はそれ以前の3月頃からは始まっていたと思われます。敵の目前での築城ですから、かなりの突貫工事だったと思われます。
写真は、百間堀跡の陸上競技場からの見える太郎山塊の城郭群です。直線距離にして3.6kmほどですから築城している徳川勢もその上杉が陣取る城を見え、生きた心地のしない工事だったのでしょう

イメージ 4 南側は、尼ヶ淵の大断崖があり、北側は矢出沢川などの河沼に囲まれた要害の地でしたが、西側の太郎山塊上に展開するの上杉勢に備えて北と西は、右図のように矢出沢川の流路を変えて外堀の役目を持たせ、旧河川の窪地を利用して後の百間堀となる大堀を造り鉄壁の守りとしたようです。
 第1期の上田古城は上杉勢が陣取る西側の防御を厚くする造りにしたと考えられ、絵図からも西と北を意識した築造の様が読み取れるかと思います。
 ただ、このような水系・地形のため東側の台地の地続きに屋敷地や町屋などがある城下町を造らざるを得ず、弱点となっています。しかし、東側が徳川の勢力圏であることから、この時期の情勢からすると問題とならなかったことやそこまで手が回らなかったのこともあるのではないでしょうか。
 江戸中期に編纂された真田家の歴史書の[信武内伝」に、第一次上田合戦時の城郭の部署として「本城」「二之丸」「捨曲輪」「総構」「大手の門」「二之丸門櫓」などが記載されているようです。イメージ 5
 この城郭の部署を「天正年間上田古図」に当てはめますと左図のような感じになるのではないかと思います。
「本城」は、図の「屋形」
「二之丸」は、屋形の北から東側
「総構」は、北の矢出沢川から東の後の大手堀
「大手の門」は、後の大手堀辺りにあったか?
「二之丸門櫓」は、徳川勢が東から攻めこんでいますから、虎口1なのか?
 この推定地と絵図がほぼ当てはまるようですから、「天正年間上田古図」はそれなりに上田古城築城頃の様子を表す図といえると思います。イメージ 6

 この「天正年間上田古図」からわかる本城・二ノ丸の構造を読み取りますと
①本城
 ・土塁で囲まれている。
 ・虎口が4ヶ所あり、北の虎口3が内枡形虎口。
②二ノ丸
 ・東の虎口1は、食違い虎口。
 ・虎口1や大沼沿いの━は、柵塀なのか?
 ・西側が自然地形のままか?
 これからすると、北側の防御と本城(屋形)を第一として、二ノ丸の西側や東側はとりあえずの造りだったのでしょうか。
 昌幸が、徳川氏を離反を決意するが天正13年4〜6月の頃のようです。離反の原因は、以前からくすぶる真田領の上野国沼田・吾妻領割譲問題でした。家康は、秀吉との対決(小牧・長久手合戦)で手がまわらなくなっていましたが、本腰を入れて昌幸に要求し始めたのが天正13年に入ってからのようです。前年の室賀正武による昌幸暗殺未遂事件や家康の軍事圧力などが重なり、上杉景勝との連携に進んだと平山氏は推察しています。
 そのような情勢とすれば、真田が徳川を警戒し、それに備える手立てを取ったと考えるのが妥当だと思います。上田古城について言えば、対上杉から対徳川へ向けての改造が行われ、弱点の東側の防御の強化を図ったのではないかと思われます。具体的な史料が残っていませんので、確定的なことは言えませんが、その一つが「二之丸門櫓」ではないかと思います。絵図にある柵塀では造られませんので、柵塀を土塁にし虎口に防御の堅い門櫓を置いたのではないかと。イメージ 7
 「天正年間上田古図」が天正11年ごろの築城直後辺りの絵図としますと、それを基本形として推察すると、おおよそ左図のような感じになるのではないかと思います。第1期上田古城の想像図です。館の東周りに濠を設け、東の二之丸虎口にも土塁と濠を設けました。本城にある4か所の虎口で、どの虎口が大手虎口なのかです。第一次上田合戦で徳川勢が攻め寄せた際に、徳川勢は東側を大手としていますので、東の2か所のどちらかとは思うのです。ただ、北の虎口が枡形になつているのが気になります。後は平入の虎口ですから、造りからすると北の虎口が重要であったのかもです。ですが、備えが北から東に移ることから築城初期に大手だったのかもしれませんが、対徳川の造りになり、大手が変わったと考えられるます。
 いろいろ考えて、東の南の虎口が、大手と考えてもいいのかもしれません。
・虎口が2か所あり、虎口5と6で囲まれた空間が枡形と見れるのではないか。
・仙石氏上田城では、この地点が本丸虎口となっている。
・虎口4(北の)は、北虎口にちかすぎること。
このようなことから、本城南東虎口(虎口5)が本城大手虎口と。

 どうも、最後は妄想の上乗せのような感じになってしまっています。城好きのたわいのないお話ですが、織豊期上田古城に続きますので、お付き合いのほどよろしくお願いします。

参考文献
『郷土の歴史 上田城』 上田市立博物館編集
『大いなる謎真田一族』 平山優著 PHP文庫 
『上田城史料地用さ報告書』 上田市教委
『真田三代 明治用と合戦のひみつ』 二宮博志著 宝島社

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