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 戦国期の争乱の多くは、「国郡境目相論」と呼ばれる領土紛争と言われています。先月の中旬に訪れた伊具郡南部(丸森町)・宇陀郡北部も、戦国大名の相馬・伊達両氏が対峙する境目に当たり、支配地域が目まぐるしく変わった、「国郡境目相論」を象徴する地域といえます。そのため、この地域には、両軍が死力を尽くして構築した城館があまた存在しますので、以前から注目していた地域の一つで、金山城や駒ヶ嶺城などには以前訪城していましたが、改めてこの地域の主要城館を訪れ伊達・相馬の抗争を考えてみたいと思った次第です。
 中世では、領国間の境界線を明確に示す線引きはなかったようで、境目の城館の存在にもって領域を示していたと考えられます。そのため、境目の城館の争奪により支配地域の変遷が把握できるということです。
 伊具郡南部(丸森町)・宇陀郡北部の城館理解のため、支配地域の変遷を簡単に整理していきたいと思いまとめてみました。
 この地域での両軍の抗争は、大きく四つの時期に分けられるようです。
①前段階として、天正期の本格抗争以前の時期。
②天正4〜5年の抗争
③天正9〜12年の抗争
④天正17年の抗争

①前段階として、天正期の本格抗争以前の時期。(伊達ー稙宗・晴宗  相馬ー顕胤・盛胤)
 宇多郡は、「伊達氏段銭帳」では天文11年(1542)の伊達氏天文の乱以前までほぼ全域が伊達領と認められていましたが、天文の乱中に宇多郡が相馬氏の支配に入った。
 天文の乱は、天文17年に稙宗の隠居と晴宗家督相続で終息します。稙宗は、永禄8年に亡くなるまで伊具郡丸森の丸山城を隠居所としています。
 稙宗が存命中は、両氏の間は小康状態だったようで、永禄2年(1559)には稙宗の末娘を相馬義胤に嫁しています。
(稙宗の長女は、義胤の祖父相馬顕胤に嫁して義胤の父盛胤の母ですから、義胤の祖母に当たります。義胤は、祖母と姉妹の方と結婚したことなります。)イメージ 1
 稙宗の死去を契機として相馬と伊達の関係が悪化していったようです。永禄9年(1569)に小斎城(柴小屋城)が相馬方に落ち、元亀元年(1570)に金山城、丸山城が相馬方となる。さらに、伊達郡にも侵攻するようになっていった。
                                                           
②天正4〜5年の抗争
  (伊達ー輝宗  相馬ー盛胤)
 天正4年(1576)5月に相馬盛胤が「伊達・信夫表」に侵攻し、それに対して伊達輝宗が17番の本格的陣容で「伊達東根」に出馬した。10月に相馬が伊達領川俣を攻め、伊達は小斎城を攻めています。この年、相馬領黒木城主黒木宗元(天文21年に晴宗に滅ぼされた懸田俊宗の次男藤田晴親の子)が相馬氏に叛き伊達氏に帰参する。天正5年伊達が伊具・宇多で苅田等の軍事行動をかけています。12月に田村清 顕の仲介で両氏の間で講和が成立します。
 この期の抗争を垣内和孝氏は「地域の拠点となるような城館を長期間にわたって攻囲した様子は見受けられず、短期的な攻城や麦作の刈り取りなどといった作戦が主なようであり。全体的に小競り合いといった印象の戦闘の連続であり、領国境が変動することはなかった。」としています。

③天正9〜12年の抗争(伊達ー輝宗・政宗  相馬ー義胤)
 相馬方の小斎城主佐藤宮内が、天正9年(1581)4月に伊達方に転じたことを受け、伊達輝宗・政宗父子が後詰として「伊具表」に出馬し、「小斎城辺ノ山ヲ御陣城」とします。一方、相馬方は、イメージ 2小斎と金山の間の冥護山に陣を置いたようです。この戦いは、双方が陣城を築いて対抗したことで戦線が膠着したようで、境目が小斎と金山の間に線引きされたといえます。この際に、伊達が設けた「小斎城辺ノ山ヲ御陣城」が柴小屋城で、相馬方の冥護山の陣城が西山館と考えられるようです。なお、この戦いが政宗の初陣となります。
 翌10年、伊達方が宇多と金山の通路に「地利」を構え、相馬方の金山城・丸森城の孤立化を図った。相馬方は、金山城南の大内村に陣城を築いて対抗します。この際の伊達の「地利」が冥護山館で、相馬の大内村陣城が陣林館と考えられるようです。この戦線での境目が、冥護山と大内村の間になり、相馬にとってはかなりの後退で、伊達には前進となります。天正12年5月に佐竹・岩城・田村氏の斡旋による講和が成立し、金山、丸森の両城が伊達への帰属が決まり、伊具郡が伊達領に帰した。

④天正17年の抗争(伊達―政宗  相馬ー義胤)
 イメージ 3天正14年10月に伊達・相馬両氏を媒介する田村清顕が亡くなり、佐竹氏の南奥侵攻や田村氏の跡目にかかわるな内紛などで、両家の関係が悪化します。天正16、17年頃は、伊達と佐竹・蘆名・岩城・相馬連合とが、田村領をめぐり争いを行っています。天正17年5月、義胤が田村領戦線にかかわるスキを狙い、宇多郡北部の新地蓑首城と駒ヶ嶺城を攻陥します。なお、政宗は、この戦いの五日後に麿上が原に蘆名義広の郡を破り、6月11日に会津黒川城に入城しています。まさに、政宗の電光石火の早業といえます。これには、義胤もなすすべもなかったのでしょう。境目は、駒ヶ嶺を奪われたことに拠り、宇多郡北部は伊達領となり、江戸期を通じても変わることはなかったです。
 
参考文献
『戦国大名領国の権力構造』 則武雄一著
『戦国大名伊達氏の研究』 小林清治著
『伊達政宗と南奥の戦国時代』 垣内和孝著
『伊達氏と戦国争乱』 遠藤ゆり子編

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深志城考ーその弐ー

 宮坂氏は、小笠原氏が{田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、手前に居るのは、それなりの理由があったのではないか」と指摘しています。それがになにを意味するのか分かりませんが、私なり考えてみたいと思います。
 小笠原氏が、松本平の支配拠点とした、井川イメージ 1城と林城は、確かに松本平の中南部にあり、薄川・女鳥羽川を超えではいません。薄川を超えた女鳥羽川左岸と薄川右岸に囲まれた地区は、国衙が置かれ浅間宿などもあり、古代から中世にかけて中信濃の政治・経済の中心地で交通の要衝だったと思われます。そのため、従来の在地勢力の強固な権利関係の地だったと考えられ、新たに守護として入部した小笠原氏としても、地域拠点の館を設けることができなかったと思われます。かろうじて、北条氏滅亡と中先代の乱の過程で手に入れた浅間郷に赤沢氏を、深志郷に坂西氏を送り込んだのではないかと思われます。
 信濃には、北信の高梨氏、井上氏、須田氏、島津氏、東信の海野氏、大井氏、伴野氏、南新の諏訪氏、知久氏といった、平安・鎌倉期(12世紀〜14世紀初め)から続く独自の由緒と領主的基盤を持つ国人領主(国衆)が数多く存在し、彼らは室町、戦国期にしばしば小笠原氏と対抗関係に陥ることになり、更に小笠原氏内部の抗争関係も絡んで、小笠原氏が、守護として広域を支配するための統治機構を整備して、自律的な地域権力の構築があまり進まなかったことが、宮坂氏の指摘の「武田氏に追われることになった」理由なのではないかと愚考します。
 井川城や深志城のある所は、田川、薄川、女鳥羽川が合流する低湿地で、その微高地に築かれています。この複合扇状地の地形が、両城の成り立ちに深く関係していたと思われます。
イメージ 2  このことについて、『松本市史』歴史編Ⅰ原始・古代・中世』で小口徹氏が河川の流路の形成について興味深い記述をしています。
 井川城や深志城に関係する時期を抜粋して引用します。
○鎌倉時代からの室町時代中頃
低温期で、盆地全体の川床が低下し、洪水が頻発して、架線に沿った一帯には濁流が遅い、砂泥が積み重なった。田川は、一層川床低下がすすみ、南松本から井川城、村井付近に微高地があらわれた。女鳥羽川は大雨が降るたびに、屈曲部より上流がわで、河道を左右に写しながら周辺に礫や砂泥を堆積させた。
 井川城が築かれた14世紀後半は、田川の微高地が形成されていた時期に当たります。深志城の辺りは不安定な地域で恒常的な施設は難しかったのでしよう。
○戦国時代から江戸時代初期
16Cから17Cころは短期間の高温期だが、各河川の流路がほぼ現在の一に安定し、小凸地Ⅲ(おもな河川からの比高が3m以下)による微高地が安定離水域として広く展開したと思われる。(図11)
薄川や女鳥羽川の流路もほぼ現在の一に落ち着き、周囲の微高地も離水域として安定した。
 女鳥羽川は、城東の北側から南に流れ清水地籍でほぼ直角に西側に流れを変えています。この流れについては、人為的に変えられたのではないかといわれ、武田氏の深志城築城時のものということも言われています。ですが、この小口氏の考察が正しいとすると、女鳥羽川の流路は自然にできたもので、城の築城時の大規模な工事は必要なかったものといえるようです。ただ、この地に城を築く時期が府中小笠原氏時代には条件がそろわず、武田氏の府中侵攻時の頃に適合したものといえるのかもしれません。

 では、武田氏の深志城にお話を進めていきたいと思います。なお、武田氏時代の深志城を【深志城】とします。
 享保9年(1724)藩主水野忠恒の代に編纂され、松本藩域を中心にした歴史・地誌を記イメージ 3した『信府統記』によれば、貞慶は天正13年より宿城の地割をし、三の曲輪を縄張し、堀を掘って土手を築き、四方に5か所の大城戸を構えて南門と追手と定めて小路を割り、士屋敷を建てたとされています。江戸期の松本城が右図ですので、小笠原貞慶の時に城の縄張の全体像は出来上がったといえるようです。
  貞慶が、天正10年に入った【深志城】は、武田氏が天文19年(1550)に北信濃侵攻の拠点として鍬立さ、武田氏が滅亡天正10年までの32年間に城下の整備か行われたと思われます。ですが、武田氏時代の【深志城】については定かではありませんので、次の観点から【深志城】に迫ってみたいと思います。
①『信府統記』にある貞慶の宿割り
②松本城の縄張り
まず、貞慶が天正13年に宿城の地割りの内容から推察してみたいと思います。下図は、現在と享保13年の戸田氏再入封時の城下絵図です。(両図とも『城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』より借用し、加筆しています。)イメージ 4
『信府統記』には、天正15年までに市辻・泥町付近の町屋を本町へ移し、東町・中町を確定し、麻原町を安原町と改め、西口を伊勢町と名付け、各枝町も地割りしたとあります。さらに、三の曲輪を縄張して、堀を掘り土手を築いて、5か所の大木戸を構えて南を大手ににして士屋敷を建てたと
 現在の松本市の町名は、地名変更がされていますので、旧地名を古地図に落とし、若干の説明をします。
市辻(地蔵清水)泥町(柳町)は、三の丸内の二の丸堀の東側にあり、町屋があったようです。
東町・中町は、善光寺道沿いの町で、城下の親三町()あと一つが本町)でj、町屋の中心です。
安原町は、善光寺道沿いの北側にあり、古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていたようで、前後の二文字を取って名付けられたようです。町人町です。
伊勢町は、本町の枝町の一町名で、野麦街道沿いにありる町人町。 
 地割りをまとめると、町人地を女鳥羽川の南側と善光寺街道沿いに配置し、武家地を町人地と境界をつけ、三の曲輪内と北側に配置しています。二ノ丸の南側の大名町辺りについての記述がないため、【深志城】の頃の様子がわかりません。貞慶は、本丸・二ノ丸にはあまり手を入れていないようなので、本丸・二ノ丸は【深志城】の縄張を変えていないと思われます。

 次に、松本城の縄張から見える【深志城】
 松本城の地形は、北から流れる女鳥羽川と東から流れる薄川の低湿地の微高地にあります。薄川の造った微高地に阻まれて、女鳥羽川が清水地籍あたりで西に流路を変えています。このことから、女鳥羽川の右岸の松本城三の丸辺りは、水の溜まりやすい低湿地で人家のない所だったのでしょう。そのような地形の中で、松本城の地は、かろうじて離水域の微高地でしたが、北東から南西に比高差で10m程の傾斜があるようで、本丸を一番高い北側に、それを取り囲むように二の丸を配置する「梯郭式」構造の城となったものと考えられます。
 武田氏の侵攻地域で築城した城郭の特徴的な傾向を荻原三雄氏が『新府の歴史学』の中で、次のように的確に述べています。
「武田氏が信濃、駿河などの侵攻地域で築城した城郭群のうち、拠点的城郭とされているいる城は、多くが「梯郭式」構造を有しており、しかも築城当初は主郭と二の郭という二つの郭で構成され、それに「丸馬出」を附設するという比較的単純な構造であったことが明らかになった。」
 その構造を取る城郭として、信濃では岡城・海津城・殿島城、駿河では江尻城・三枚橋城などを挙げています。松本城も蓬左文庫所蔵の絵図類や現在の縄張りなどから【深志城】は、梯郭式の構造を呈したいたと推察しています。ただ、上記の城郭と【深志城】が明確に違うところがあります。上記の城郭は、背後に河の急崖を配した造りです。しかし、【深志城】は、周囲が低湿地の微高地に立地しています。この違いは、【深志城】が天文19年(1550)という武田氏にとっては侵攻地域での築城の早い時期だったことや自然条件に制約されたものと思われます。ただ、天文19年という時期は、北信濃侵攻を急ぐ武田氏としては松本平の支配を確かなものし、北信濃へ攻め入る拠点造りが急務だったことの関連していると思われます。
 イメージ 9イメージ 10









岡城 (『信濃』49−1より)                                 松代城(『16世紀末全国城郭縄張図集成』より)イメージ 11
イメージ 12









江尻城(『駿国雑志』より)                                    三枚橋城(『静岡県の中世城館跡』より)
  丸馬出が、三の丸に4か所見られます。これは、『信府統記』によれば小笠原氏が三の丸造成時に造ったものなので、【深志城】にあったかどうかはわかりません。もしあったとすると、海津城のように二の丸前面に設けられてると思えます。二の丸全面は、三の丸造成時に埋め立てられていますので、何とも…ですね。ただ、小笠原氏が、独自の技術として馬出を活用していたというのはあまり見ませんので、武田の城の馬出を見て造ったともいえますか。
 まとめとして、かなりいい加減なのですが、推定図です。
イメージ 5

付け足しで、松本城の二ノ丸城門の太鼓門を見ていましたら、松代城の本丸城門の太鼓門が構造がが似ています。両方とも枡形虎口ですが、普通見られる近世城郭の枡形とはすこし構造が違います。
イメージ 6図にすると、こんな感じです。この松代と城松本城の枡形は躑躅ヶ崎館(武田氏館)の西曲輪の枡形虎口の構造と同じです。どうもこの辺からも武田氏時代の城郭構造をベースとしているのがわかります。



イメージ 7イメージ 8










           松本城 太鼓門                          松代城 太鼓門

参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社
『新府城の歴史学』 荻原三雄・本中 眞監修 新人物往来社

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深志城考−その壱ー

松本城は、松本市丸の内にある平城です。松本城については、以前いただいたコメントに「 松本城がないのが残念です 国宝なのにー  」というのがありましたが、 国宝でもありいろいろな方々が紹介されていますので、当ブロクではあえて載せることもないかとお返事したことがありました。今回、松本城を取り上げるのも、松本城の紹介というよりその以前の深志城について考えてみたい思ったからです。   訪城日:2018.7.18  晴れ
イメージ 1城址は、長野自動車道松本ICから国道158号を1.8km程東進し、JRのガードをくぐり、更に500m先の中央2信号を左折しまますと、その先に見えます。
駐車場は、いくつかありますが、いつも行くと利用するのが千歳橋(大手門跡)近くの市営大手門駐車場です。


イメージ 2











イメージ 3右図の見られる近世の松本城は、武田氏滅亡後に入封した小笠原氏とその後に入った石川氏によってその原型が造られたました。
 小笠原氏は、武田氏時代の深志城に三之丸の形を整え、名称を深志から松本に改めました。石川氏は、豊臣期の石垣やその上に瓦屋根建築物を用いる築城技術を導入して改修を進めています。五層六階の天守や太鼓門石垣は、この石川氏時代の文禄年間の貴重な遺構といえます。
 松本城については、あとで少し触れたいとは思いますが、小笠原貞慶が入城する以前の武田氏時代や信濃守護小笠原氏時代の深志城について考えていきたいと思います。
 お城の券売所でいただいた松本城の説明の中にある深志城についての説明では「松本城は戦国時代の永正年間初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られました。」とあります。
 深志城の歴史を紐解くには、信濃府中や小笠原氏の館の井川城に言及するところから始めないといけないようです。
  イメージ 4松本が、信濃府中として呼ばれるようになったのは、8世紀末あたりに小県郡にあった国衙が移ってきたことからです。ただ、国衙がどこにあったかは定かではないようで、松本市東部の浅間郷の大村〜総社あたりが推定地として考えられているようです。鎌倉期でも、浅間郷の周辺には多くの公領があり、それらは平安期以来の在庁官人の所領になっているものが多く、その中の一人に女鳥羽川右岸の犬甘郷を領した犬甘氏が「深志介」を称しています。このことは、犬甘氏が信濃守護の北条氏被官となり深志郷へも勢力を拡大したことに拠るものと思われます。
 建武の新政で、建武2年(1335)小笠原貞宗が信濃守護に任じられます。その際に、松本周辺の住吉荘・近府春近領(jzmsd)を西部から南部あたり)が宛がわれ、小笠原氏がここを足ががりとして松本平に勢力を伸ばすきっかけになったものと思われます。そして、国衙の権益を掌握し、更に松本平中心部(捧荘)への進出を図るために井川の地に館を設け拠点としたと考えられます。
 深志郷では、鎌倉期には犬甘氏が深志介と名乗りその勢力下にあったと思われますが、建武2年に起こった中先代の乱に北条・諏訪氏に味方した深志介知光が挙兵し、小笠原氏らと合戦におよび、敗れ小笠原氏の配下になったようです。そのため、女鳥羽川右岸の地(捧荘)に進出したようで、一族の坂西(ばんざい)氏を深志介として国衙の掌握と、深志郷へ入部を図ったと思われます。「諏方御符礼之古書」にある15世紀後半の松本平の有力武士として、捧荘に小笠原氏、深志に坂西氏、浅間に赤沢氏、村井に村井氏、桐原に山家氏・小笠原氏・桐原氏らか載っています。このことから、小笠原貞宗の意図ははたされたといえるようです。
 15世紀後半(長禄3年1459頃)、入山辺に林城を築いたとされます。深志城は、永正元年(1504)島立荒井にいた島立氏に命じて造ったされれるようです。どのような城であったかは定かではないです。

 この後、武田氏時代の深志城へと話は進みますが、一つ気になることがあります。それは、宮永武男氏が、井川城に項で次のよう書かれています。
「小笠原氏が府中の地へ出て来ながら、田川、薄川、女鳥羽川を越えずに、その手前に止まったのは、北方や西側に対して安全と考えたように受け取れる。そして、何年かして安全が確立したうえで動いているが、それでも薄川を渡らないで手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。そのことが大塔の合戦や武田氏の侵入の時に明らかになり、貞慶の諸氏の攻略へとつながるように思える。武田氏だから深志を拠点にできたのであり、小笠原氏はそれができない状況があったために、武田氏に追われることになったと考えられないことはない。」
 熟読玩味しないと理解しにくい所が多々ありますが、主に「田川、薄川、女鳥羽川を越えずに」「手前に居るのは、それなりの理由があったことが察せられる。」点について考えてみようと思います。


 
参考文献
「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男氏 戎光祥出版
『長野の山城とベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『甲信越の名城を歩く 長野編』 中澤克昭・河西克造編 吉川弘文館
『松本市史第2巻歴史編Ⅰ』 松本市
『日本の城 戦国―江戸編』 西ケ谷恭弘監修
『太陽コレクション城下町古地図散歩3 松本・中部の城下町』 平凡社


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小谷城攻めの織田軍道

 虎御前山砦に訪城した際、その途中の道で「信長の軍用道」の説明板を見つけました。元亀3年(1572)7月江北に出陣し、虎御前山砦の築城を開始し、ほどなく普請が成就します。その際に、虎御前山砦と横山城のつなぎとして八相山と宮部に要害を築かせて軍勢を入れ、軍兵の出入りのために軍道をつくったと「信長公記」にある道のようです。
イメージ 1説明板を拡大してみます。
イメージ 2








イメージ 3右の「信長公記」は、巻五の八月八日の項に書かれています。



イメージ 4













        ⇩
イメージ 6
軍用道の所を拡大しますと
イメージ 7
この辺の道は、条理制が色濃く残っているため、田圃道も直線状の道が多いのですが、ここが用水沿いにそって変に斜めになっています。

イメージ 8
 
現地を見に行きました。
イメージ 5
軍用道は、幅三間半(約7m)で、その敵側(写真の右手になりますか)の端に高1丈(約3m)の築地を50町(5km余)気づき、水を関入れたあります。もしかすると写真に見える用水路がその関の名残なのかもしれません。



イメージ 9
    














 まぁ〜、なんにも残ってはいませんが、この辺をあちらこちら通りましたが、いわれるように道が直線時様ではないのがわかりました。(笑)

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中世が息づく菅浦

 菅浦は、中世惣村を語る際に必ず言っていいほどに登場する村です。そのため、以前からその名は知っていて、一度は訪れてみたいとは思っていました。以前から、近くの長浜市のお城には度々訪れていましたが、今回連れ合いの御供で長浜市に出かけることになり、比較的時間の余裕があり、帰りの日の午前中までは天気が持つとのことでしたので、訪れてみました。
イメージ 1 菅浦は、琵琶湖北部に突き出た葛篭尾崎半島の懐に抱かれた湖畔の集落です。現在は道路ができ行きやすくなっていますが、昭和46年に至るまで陸路がなく道路ができるまでは、陸の孤島で舟でしか行けなかったようです。

 大正6年に須賀神社に「あかずの箱」として保管されていた文書群が見つかり、「菅浦文書」として公開されています。イメージ 2






 木之本から国8号→国303号を通り旧西浅井町の大浦に出ます。大浦は、菅浦とは中世の長い期間敵対関係のあった集落でした。大浦から、湖岸伝いに曲がりくねった道を10分ほど進みますと菅浦集落の入口につきます。その所にある集落図です。イメージ 3
  現在の菅浦の人口は、81世帯217人だそうです。中世から近代では以下のようです。
建武2年(1335) 72戸
永正15年(1518)  112戸
永禄8年(1565) 91戸
慶長7年(1602) 107戸
寛政2年(1792) 102戸
                       477人
天保8年(1837) 100戸
明治4年(1871) 111戸
                        430人
中世においてもほぼ同じ程度だったようで、この集落景観が大体同じというのは驚異ですね。
イメージ 4 西の四足門。集落の東西に建てられ、集落の領域と外界を区切るものです。東西の門内に住めるのは、供御人として惣を構成する正員のみだったようです。別の土地から菅浦に流れ住んだ人(間人=もうと)がいても、門の内に住むことは許されなかったようです。イメージ 5






イメージ 6












西の舟入の跡で、石垣の端に水門の跡がみられます。 東の舟入で、道路になっていますが、形が見とれます。イメージ 7
イメージ 8










イメージ 9
 集落内を歩いていますと、とても目につくイメージ 10のが石垣です。比較的大きな石を積み上げています。湖岸沿いに沿っているだけでなく、集落内の奥にもみられます。
 途中で見つけた説明板。


イメージ 11 阿弥陀寺。時宗にかかわる人々が多くいたようで、中世の津・泊・宿には時宗の寺院かよく見られ、ここ菅浦もそのようであっのでしょう。イメージ 12










イメージ 13阿弥陀寺の隣にある安相寺。イメージ 14













イメージ 15イメージ 16











 集落内を歩いていますと何か心休まる感じで、行き会った住民の方々も穏やかな感じでした。ほんに、中世がそのままの姿である感じでした。 
 万葉集にも詠まれています。やはり、古い土地柄だったんでね〜。
万葉集
高嶋の安曇のみなとをこぎすぎて            沖つなみ高しまめぐりこぎすぎて
塩津菅浦今かこぐらむ    小弁            遙かになりぬ塩津菅浦   長方

参考文献
『村の語る日本の歴史ー古代・中世編―』 木村 礎著 そしえて
『網野善彦著作集 第十巻海民の社会』 網野善彦著 岩波書店


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