古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

出羽国(山形県)

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 舘山城は、米沢市大字舘山にある比高20m程の断崖城です。当城には、以前(2011.6.9)に訪城しています。その際は、藪に覆われており、枡形虎口や空堀などの遺構は明確に確認できる状態ではなかったです。以前に掲載したものは、「舘山城城―米沢―」です。発掘調査で、麓に家臣団屋敷地や庭園跡とみられる遺構が見つかり、さらに丘上の虎口付近の残存石垣が、積み方から伊達時代ではなく、上杉氏によるものの可能性が出てきて、当城の見方を大幅に書き換えることとなっています。城内整備もなされているようで、是非その石垣造りの枡形虎口を見たいと思い立ち寄ってみました。この記事を書くにあたって、前回の訪城日を見ましたら、全く同じ日でして、自分ながら驚いている次第です。                      訪城日:2019.6.9 晴れ                                                 
イメージ 3城址には、東北中央道米沢中央ICを降り、県道152号を約6km(途中で国121号になる)西進し、県道233号との交差点で右折して400m程進むと左手に城址案内板がありますので、左折して進むと「私有地に付 立ち入り大歓迎」の標柱のある駐車場に着きます。



イメージ 2イメージ 1駐車場と城址遠景。

駐車場手前に舘山城保存会の小屋があり、縄張り図やその他の資料がありますの立ち寄るといいです。


舘山城が誰にかかわる城なのかを考えるには、伊達氏のかかわりを知ることが大切なようです。で、簡単に伊達氏の米沢時代を見ていきたいと思います。
天文17年(1548) 天文の乱の終結後に、晴宗(伊達氏15代当主)は米沢に居城を移す。
 永禄年間(1558-70)に城下町の本格的な成立し、輝宗・政宗期までに家臣の城下集住がすすんだようです。
永禄7〜8年(1564-5)頃 晴宗が輝宗(伊達氏16代当主)に家督を譲る。
 輝宗の家臣新田四郎義直の居城として舘山城が『伊達治家記録』に初めて見える。
元亀元年(1570)  中野宗時・牧野宗仲父子の謀叛が新田義直の自供により発覚。
 宗時・宗仲は、自身の米沢屋敷等に火を放ったため、米沢城下は一宇残さず焼亡しますが、城は「山上」のた  め無事であったと。
天正12年(1584) 輝宗が政宗に家督を譲り、舘山で隠居所の普請を始め、翌年に完成している。ただ、13年10月に非業の死を遂げています。
天正15年(1587) 舘山城の地割・普請をする。
天正19年(1591) 政宗が岩出山へ移る。

伊達氏の米沢時代は、43年間です。その期間の居城が、米沢城であることは間違いないようですが、それがどこにあったのか定かではないのが悩ましい所です。通説では、伊達氏の「米沢城」が、江戸期の米沢藩上杉氏の居城である現在の米沢城と同じとされています。
ですが、、『伊達治家記録』や、「伊達輝宗日記』などを見ると平城の米沢城周辺の地形に該当しない地形がかかれています。
〇「米沢城」には懸崖造りの物見台がある
〇元亀の変の米沢火災で「御城ハ山上ナレバ恙ナシ」
〇「米沢城」に至る坂として一ノ坂、二ノ坂
これらのことからすると、「米沢城」がある程度の高さのある地にあったことが推察できます。ですが、舘山城が丘上にあるからといって「米沢城」であるとは考えにくいのです。晴宗時代から輝宗時代においては舘山の地は新田氏が治めていたのは事実のようですから、そこに伊達氏の城を推定することは無理があるようです。
伊達氏研究者であった小林清治氏は、「米沢城の地は、現在の城跡とほぼ同じと考えられるが、元亀の変の米沢火災に、「御城ハ山上ナレバ恙ナシ」とある。一ノ坂、二ノ坂の存在といい、戦国期の米沢城は、城下町に対して後年よりも高みを保っていたであろう。と、しています。
すっきりとはいたとませんが、舘山城が伊達氏の本拠地の「米沢城」ではないのは確かなようです。

現在の遺構が、伊達期のものなのか、はたまた上杉氏の時期のものかですが、郭Ⅰの内枡形の石垣の存在からすると、関ケ原の役以後に入った、上杉氏によるものと考えるのが妥当のようです。
イメージ 4左図の縄張り図は、舘山城保存会の小屋に掲示してあったものを借用しています。 













①舘山東館
発掘調査で、井戸跡や庭園跡とみられる遺構や石敷きが見られ、中国産陶磁器などが出土して、高位の人が住む居住跡と考えられるようです。北東端の大樽川に架かる橋(対岸に橋桁跡)や虎口が見つかっているようです。
イメージ 5東館の南西端の大手辺りから東館の景観です。かなりの広さがあります。所々に井戸跡などイメージ 6が見られます。









舘山城保存会のパンフから東館の井戸跡と庭園状遺構の写真を借用しています。
イメージ 7

北東端の大樽川沿いに少し突き出た処に虎口(手前の看板)と橋(奥の看板)があったようです。大樽川の対岸には、桧原峠に至る会津街道が通っていますので、屋形の大手口だったと思われます。このことからすると東館は、伊達氏時代のものだったのではないかと思われます。



②山上への道
イメージ 8縄張図で大手と書かれているところです。山上への登り口になります。

イメージ 9







少し入った所です。イメージ 10


九十九折の登城路を登っていくと曲輪Ⅰの南虎口の手前で道幅が広くなります。案内板に寄りますと、下から三つ目のコーナーより上は往時の道幅だったと推定されるようで、約2.5mあります。まぁ〜、馬も登ったと思われますからこの幅は必要なのでしよう。





イメージ 11イメージ 17











イメージ 12曲輪Ⅰの南虎口です。上右の写真は、2011.6の時のもので、かろうじて遺構が判別できる感じでした。
土塁で囲まれた枡形虎口といえますが、曲輪Ⅰへは左手の坂道を経て入ります。
発掘調査で粘土を貼って整地した痕跡や石組路跡が発見されたようです。
左は、曲輪Ⅰの入口から南虎口を見た所です。





③曲輪Ⅰ
曲輪Ⅰの西端にある石垣造りの枡形虎口の形態からすると主郭としていいようです。ただ、現遺構が、戦国期伊達氏の縄張りを江戸時代初期に上杉氏によって改変されたものとすると、戦国期伊達氏時代はどうであったのかです。結論(私見)から言いますと、伊達氏の舘山城では、主郭は現在の曲輪Ⅱだったのではないかと思われます。それについてはおいおい書いていきたいと思います。
イメージ 13











曲輪Ⅰの中央部東寄りから西側を撮ったものです。曲輪Ⅰは、かなりの広さで、西側土塁辺りで南北約80mあり東に向かって細く狭まり南北約30m程にuり、東西は約120m程です。虎口は北虎口、南虎口、西虎口の三か所あります。西側の土塁と東側に腰郭があり、その腰郭に南北にある帯郭が接続しているようです。

イメージ 14北虎口で、北麓にある北館への出入り口だったのではないかと思われます。

イメージ 15







曲輪Ⅰより一段低くなっている東側端の腰郭で、その下が発電所になっています。イメージ 16

米沢市街が一望でき、直線距離で約4kmにある米沢城も見えます。









④曲輪Ⅰ西虎口
平成25年の発掘調査で虎口に石垣が見つかりました。この石垣は、「伊達氏が米沢を木代店とした戦国期の野面積み石垣ではなく、表面をノミで平らに加工した割石を多く用いる慶長年間後半から元和年間頃の石積み技術で普請されていた。関ケ原の戦い以後に米沢を治めたのは上杉氏で、景勝の時代に普請された可能性が高いと考えている。」と『東北の名城を歩く』で舘山城を担当した佐藤公保氏は述べています。ただ、上杉氏が舘山城の普請を行った記録がないようで、残念なところではあるようです。
イメージ 18また、虎口付近が大量の川原石(石垣の裏込め石)で埋め尽くされていたのは、破城によってなされたものと考えられるようです。
破城の時期は、佐藤氏によると、①元和元年の一国一城令に伴って行われた。②慶長14年(1609)に江戸に居た直江兼続の指示(史料あり)によって行われた。という二つの可能性があるようです。





イメージ 19イメージ 20










西虎口をほぼ同じような場所から撮ったもので、左が2011.6月で右が今回の2019.6月です。2011年では、写真では何が何だか判別できませんが、現地で見ればそれなりに枡形虎口の様子が確認できました。
イメージ 21










イメージ 22曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間にある堀切から撮った西虎口です。石垣の高さは、土塁の高さまで積まれていたと考えられるようです。かなり威厳のある枡形虎口だったのではないかと思われます。イメージ 23
曲輪Ⅰの西土塁上から撮ったもので、枡形虎口の様子がわかるかと思います。


⑤堀切
曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間の堀切は、現況では深さが60cm程です。どうも、石垣を普請する際に埋められたようで、本来は幅約13m、深さや九3.5m以上あったもののようです。(説明板より)石垣普請が上杉時代とすると、この堀切は伊達氏時代には本来の規模で機能していたと推定できます。かなりの規模の堀切の存在からすると、曲輪Ⅱが伊達氏時代には、主郭だった可能性が読み取れるのではないでしょうか。イメージ 24
イメージ 25










堀切南端から撮ったもので、左が2011.6月で、右が今回のものです。2011年は、こんな様でかろうじて堀切があるという感じでした。
イメージ 26曲輪Ⅰの西土塁上から撮ったものです。この土塁が、伊達氏時代に子の高さであったのかはわかりませんが、伊達氏時代の主郭が曲輪Ⅱとすると、なかった可能性が高いのではないかと。上杉氏の石垣普請の際に構築された可能性の方が高いのではないかと、考えられます。イメージ 27





土塁も基底部に石が見られますから、石垣造りだったのでしょう。




⑥曲輪Ⅱ
東西約60m、南北約70mの広さで、北西に規模の大きい食違い虎口が有り、西側に高約5m長さやく70m大土塁がある。説明板には、戦国期には主郭だった可能性があると。曲輪Ⅰとの間の堀切がかなりの規模ですが、堀切沿いに土塁がないのがちっと不思議な感じがします。イメージ 28
曲輪Ⅰ西虎口の西側辺りからの撮ったものです。






イメージ 29ここも、2011.6月にはこんな感じでした。



イメージ 30






曲輪内に裏込め石として使われたと思われる川原石が積みあがっています。もしかしたらこの郭にも石垣の痕跡があるのでないのかな〜と主ました。イメージ 31

曲輪Ⅱの西側の大土塁です。小山のような感じで、これほどの規イメージ 32模の土塁を見るのはとても珍しいです。この土塁の存在も、伊達氏時代の主郭を思わせるものといえるのでは。

←土塁南端にある弁財天の石碑。文生2年(1819)8月の銘がある。イメージ 33


曲輪Ⅱの北西にある虎口で、松岡進氏は、食違い虎口としています。

イメージ 34






曲輪Ⅱ北西虎口から見た帯郭。ここから、曲輪Ⅰ・Ⅱの北側に延びる帯郭で発掘で土塁が設けられ、その時期は石垣と同時期に普請されたものとみられるようです。


⑥曲輪Ⅲ
イメージ 36城域西端の曲輪で、東西に大規模の堀切によって囲まれた曲輪で、東西約17m、南北約56mの広さがあります。南端に城内最高地の物見台があります。イメージ 35











曲輪Ⅱと曲輪Ⅲの間にある堀切です。堀底に東北電力舘山発電所の導水路があるため立ち入り禁止になっています。堀は、薬研堀のようで、深い所では10m以上の深さがあるよで、左手(郭Ⅱの西土塁)の土塁上からだと、15mを超えるようです。
イメージ 37曲輪Ⅲの西側の堀切です。藪に覆われていますが、かなりの規模の堀切のようです。


イメージ 38






堀切に架かる土橋で、手前が曲輪Ⅲの虎口になるのではないかと思われます。土橋の先の西側には、かって寺院(舘山寺)があったという伝承があるようです。イメージ 39

曲輪Ⅲです。内部は藪っていてはっきりとはつかみきれませんが、二段になっているようです。奥に見えるのが物見台です。イメージ 40







物見台です。イメージ 41



頂上部は、平らで周囲が整形されていますので、何らかの施設(物見台)が置かれていたと考えられるようです。イメージ 42






物見台からは、木々で見にくいですが、米沢市街がよく見通せ、南下を通る会津街道(桧原峠越え)も一目瞭然です。
なお、舘山城の変容について考えてみたいと思っています。

当城は、平成28年3月に国指定史跡に指定されました。城内は、藪が刈られ遺構がみやすい状態でなっており、遺構の説明板なども行き届いたものでした。ひとえに、市教委や地元の方々のご努力かと思い、感謝いたします。

参考文献
『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編 吉川弘文館
『戦国大名伊達氏の研究』 小林清治著 高志書院

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  小国城は、鶴岡市(旧温海町)小国字町尻にある比高230m程の山城です。平成14年に国史跡に指定されています。旧温海町は鶴岡の中心地から北西の日本海側にあり、意外と行きにくい所にあります。今回、肘折温泉から最上川沿いに鶴岡に出て、日本海東北道で温海IC経由で行きました。本海東北道は、鶴岡JCT〜あつみ温泉IC間は無料でしたのでラッキーでしたね。それでも2時間以上かかりました。                              訪問日:2016.10.21 晴れイメージ 9
 城址へは、日本海東北道「あつみ温泉IC」を降り、県道348号を6km程東進して右折します。集落内を約200m程進むと右手に案内板があり、奥に登城口の駐車場があります。イメージ 10
イメージ 1
















 
 小国城跡は、庄内大宝寺(武藤)氏の南端の重要な支城で、「楯山」(標高348.5m)の三頂部にある。麓から標高差早く235.5mで県内の中世山城跡では最大の比高差であり、庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道が、城跡の東麓の谷筋を通っている。江戸時代には小国に庄内藩の関所、制札場が置かれ、小国街道の東側には、小国城本丸跡に正面を向けて、城の鎮守と伝えられている熊野神社がある。
 城跡は、東西約1030m、南北約950mあり、東側と西側に谷が入り、北側に突き出した尾根の上に四つの郭を配置している。東側に通称「二の丸跡」「三の丸跡」、小規模群郭が続き、郭の南東側に登城路が取り付けられている。登城道は、小規模郭群を境にして北側に折れ、東端の通称「駒立場跡」で折れ曲がって北麓に下っている。駒立場跡は、城の出入り口を守る枡形虎口で、上杉氏による大改修によって増設された防御施設と考えられている。本丸跡の西側には、通称「西大屋敷」と呼ばれる約2000㎡程の広大な郭があり、居住区域と推定されている。 イメージ 2
 城跡の特徴は、本丸跡を全周する土塁と、鋭い切岸斜面、登城路を守るために連続して設置した四つの虎口である。切岸は、小国街道、小国集落からよく見え南側と東側の傾斜がきつく、この山城の役割が、街道の要衝を押さえることを示している。標高の高い山城跡で、郭を全周する本丸跡の土塁は、富山県以北の日本海側では極めて珍しく、庄内地方における戦国時代の抗争の歴史の証言者である。出羽と越後の国境と街道を守る重要な山城で、そのために何度も改修と拡張が繰り返されたと考えられる中世山城跡である。 鶴岡市教育委員会    現地説明板より
補足
「庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道」というのは、旧羽州浜街道(上の図の橙色)で、日本海沿いの道(羽州浜街道or出羽街道)ができるのは近世に入ってからのようです。その街道沿いにある小国城は、越後との境目の要として軍事・交通の重要拠点だったようです。南北朝期から小国氏がいたとようで、城は、天文16年に小国因幡守によって築城されたと伝えられています。
庄内は、天正10年(1582)以降、大宝寺氏と最上氏・上杉氏(本庄氏)によって争乱状態になり、庄内の覇権は天正15年最上氏から天正16年本庄氏・上杉氏へ、さらに慶長6年に最上氏となり、かなり激しい変遷を経ています。小国城の現遺構は、天正年間以後の上杉・最上両氏の緊張関係の中で、両氏によって整備されたとものと考えられます。最上氏時代の元和元年(1615)に一国一城令により廃城になった。
当城で、丸呼称(本丸・二ノ丸・三ノ丸)になっているのは、江戸期の古記録によるもののようです。元和8年(1622)の「五十嵐野左エ門控」には、二の丸が中屋敷、三の丸が下屋敷とも書かれています。

イメージ 3案内板から少し左手にある登城口です。本丸まで1045mと書かれています。とりあえず途中の駒立場を目指します。イメージ 4








登城道は、急坂もありますがしっかりとしています。イメージ 5


標高230mの駒立場を南側イメージ 7から見ています。6×33mの広さで削り残しの土塁で囲まれています。表示板によると、本丸まであと400mです。➡奥から見た所

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三の丸東下の虎口A手前ですが、坂虎口の感じです

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三の丸東下の虎口Aです。桝形虎口と思われます
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虎口Aから三ノ丸への通路です。二ノ丸・本丸へもこんな感じで、郭の南側の切岸下の急崖上に狭い導線になっています。上からの横矢がかかる仕組みのようです。
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三の丸桝形虎口を外側から() 郭内から()


↓三の丸の東端から見た所で、20×20mほどの広さです。奥に見える切岸の上が二ノ丸で、二の丸まで10mはある鋭い切岸です
イメージ 16
二の丸枡形虎口で、虎口上部に本丸東虎口前の腰郭から横矢がかかる仕組みのようです。イメージ 17












イメージ 18二の丸を東端から見た所で、40×30mほどの広さがあります。本丸との切岸は、10mほどあります。
イメージ 19







二の丸から来た通路が、大きく右に曲がり、本丸東虎口前の腰郭(虎口受け郭か?)に上がり東虎口に入る仕組みです。東虎口は枡形ではありませんが、虎口への導線が素晴らしい造りですイメージ 20







本丸東虎口で、本丸の主虎口です。食違い虎口。イメージ 21



本丸で、ほぼ五角形で40×25m程の広さで、尾根筋の頂上部を削平しているようです。高1.5m程の土塁が全周しています。虎口は、東(主)と南の二か所あります。イメージ 22




南から西に取り巻く腰郭へおりる南虎口と、本丸を取り巻く土塁。イメージ 23





本丸西下の西大屋敷方面で、本丸の西下に堀切があるようですが、埋まってしまったのか確認できませんでした。イメージ 24



西大屋敷の現状です。広さが100×40mという広大な郭ですが、藪に覆われています。井戸も二か所あると説明板にあり探しましたが、わかりませんでした。イメージ 25






西大屋敷南西端にある大堀切で、上巾約25m、深さ約15mあるようです。
本丸北側の尾根には二条の堀切があるようですが、確認していません。イメージ 26


城下集落の小国宿の景観です。昔の面影を残しています。

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新庄城

 新庄城は、新城市堀端町にある平城の近世城郭です。別名、沼田城、鵜沼城とも呼ばれ、戦国期には当地に新城があったようです。新庄にはたびたび訪れる機会があり、新庄城にも何回か訪れています。                                                                                   訪城日:2014.10.30  晴れイメージ 1
 城址には、JR新庄駅から西に1.2km行きますと着きます。駐車場は、本丸内にあります。
 現在に残される新庄城は、寛永2年(1625)に戸沢政盛により築城されたものですが、戦国期にあった新城と呼ばれる中世城館を近世城郭として整備したものです。
 その新城がいつごろあったかは定かではありません。ただ、天正9・10年に大宝寺義氏の最上侵攻の際の戦いの中で新城前で合戦があり「在々所々如存放火、就中鳥越之責登、籠衆一人も不残討戮、其后新城之地中楯迄相破、焼却云」(『2月4日天童殿宛楯岡満茂書状写』−横手市史叢書十)とあり、新城が中楯まで攻められ焼却されたとあります。このことからすると、新城は単郭の城館ではなく中楯の前面に何らかの防御施設があり、その背後に城館の中心の本楯があったものと考えられ、この構造は東国に見られる『外城・中城・実城」に類似したものではないかと思われ、かなりの規模だったと考えられます。さらに、周囲を深田に囲まれていることもあり平地にあっても堅固な城館だったと推察されます。
 その後、元和8年(1622)の最上氏改易の際に伊達氏によって接収されましたので、戦国期の新城が元和8年まであったことがわかります。その際「日野将監預り」とあり、戦国期から楯主が日野氏ということがうかがわれます。
 元和8年に戸沢氏は、6万石で鮭延城に入りましたが領内の北方に位置していることなどから領国の中心部の新庄盆地の新城の地に本拠を定め整備しました。その際の縄張りは、山形城主鳥居忠政が行ったようです。(鳥居忠政は、戸沢政盛の義兄で鳥居氏の付け大名として入封していることからのようです。)戸沢氏はその後転封もなく243年間在城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟を離脱したことから、庄内酒井氏に攻められ城下町ともども焼失し、その年廃城となりました。
イメージ 6
左図は、『図説正保城絵図』(新人物往来社刊、2001年)から借用しています。右図は、現状図で『絵図』の本丸部分を現しています。
 
イメージ 4
 📷番号でご案内イメージ 2していきたいと思います。
  📷1で、大手御門跡です。絵図を見ると内枡形門だったようです。イメージ 3
📷2
御役所跡。二ノ丸南の役所や米倉があった場所です。
イメージ 5📷3
本丸大手の土橋で、22〜3m程ありますか。イメージ 7
 📷4
土橋中央から北側の濠を撮ったものです。かなり立派です。イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
📷5
土橋を渡り左手にある表御門跡の石垣。表御門は、絵図では平入の門のようですが、正保以後に作り直されたのでしょうか?イメージ 9
📷6
南側から見た本丸内。右手に土塁と左手に護国神社・戸沢神社があります。
 
 
 
イメージ 10📷7
裏御門跡で、ここも石垣の上に櫓門だあったようです。ただ、堀も雨られていてその面影はないです。
イメージ 11
 
 
 
 
 
 
 
📷8
西側の濠跡で、土塁もなく埋められていますが壕跡が窪んでいますので形状がわかります。右手一帯が重臣の屋敷地だったようです。イメージ 12
📷9
天満神社で、戸沢氏の氏神として旧領秋田仙北の角館時代から崇拝していたもので、常陸国松岡から当地に入封したおりに共に移し、寛永5年(1628)に本丸西南のこの地に遷座したものです。(説明板による)イメージ 13
 
 
 
 
📷10
本丸南の二之丸との間の門跡。大手門左手にも二ノ丸(御役所跡)がありちっと戸惑いますが、こちらの二之丸は馬出的な感じで本丸に付随しています。この配置を千田氏は、「全体のかたちからは二ノ丸は馬出しに見立ててよいはずだが、本丸との間の堀を入れず、また、二之丸側面ではなく正面に出入り口を設けて、意図的に馬出し化していない。これは大型化した曲輪を虎口空間として見立てることが破綻し、出入り口部の枡形が要塞化することで防御は充分とした元和期以降の最も新しい織豊系城郭の姿であった。」と解説されています。
 
 現在の新庄城は、本丸の一部を残すだけになっていますが、街中にもまだ遺構が残るようなので、行ったときにそれらを見てきたいと思います。また、周辺には、技巧的な山城がまだ多くみられ当地を訪れましたらそちらにもいかれることをお勧めします。
 
参考文献
『図説 正保城絵図』 千田嘉博氏解説
『南出羽の城』 保角里志著
『南出羽の戦国を読む』 保角里志著

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大沢楯

 大沢楯は、別名源内楯・大類館とも呼ばれ、尾花沢市牛房野にある比高40mの丘城です。ここへは、近くの森岡山楯、牛房野楯に行く予定で、森岡山楯には訪城できたのでしたが、牛房野楯へは行けませんでしたので、行き掛けの駄賃と思って訪れてみました。あまり期待はしていませんでしたが、横堀や枡形虎口などがよく残り、めっけものの楯跡でした。イメージ 1
 楯址へは、荻袋地区の国13号から東に入り、牛房野方面に約3.6km行き、右折して牛房野川を渡るとすく左手の小高い丘陵にあります。道路沿いに正体不明の建物があり、その背後の山林には分け入りますと、楯に着きます。道路わきに空きスペースがありますので、路駐できます。イメージ 2
 イメージ 14
  当楯の築城時期は定かではありませんが、牛房野楯の前衛を守る砦といわれ、楯主は、大類源内の名が残りますが、詳細不明です。ただ、横堀・鋭い切岸・枡形虎口などから見ますと、戦国後期に使われていたのではないかと考えられます。規模はさほどではありませんが、かなり念入りに造られています。
 
 縄張り図は、『南出羽の城』から借用し、説明のため加筆しています。
 
イメージ 3
 西側からの遠景で、左手奥に牛房野楯が見えました。直線距離で1.7kmほどですから、目と鼻の間といえますかな。
 
 
 
 
 
 
 イメージ 4
 虎口1です。左右(右側の土塁が高い)に土塁があり、食違いの坂虎口と思います。イメージ 5
虎口に入ると右手から上段の切岸が迫り、横堀で通路を狭めています。
 
 
 
イメージ 6
  虎口1からの6郭で、あまり削平はされていない感じです。イメージ 7
  虎口2を5郭内から撮ったものです。6郭から見ますといまいちわかりませんでした。イメージ 8
虎口2からの5郭で、左手に主郭・4郭が見え、下段の6・7郭と比べると削平がされています。
イメージ 9
 
 
 
 
 
 5郭から主郭への城道は、こんな感じです。主郭や2郭からの横矢がかかり、堅固な造りです。
 
イメージ 10
イメージ 11イメージ 12
 イメージ 13
  2郭で、主郭虎口防御の張り出しとなっています。
 
イメージ 15
 主郭で、35×25mほどの広さです。
イメージ 16
 
 
 帰りは、7郭を回りました。隣の6郭とは違って、小規模の段郭をいく段も並べています。
イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
虎口5で、食違いか桝形状虎口です。
 
 牛房野楯を見ていませんので、確かなことは言えませんが、縄張り図からすると牛房野楯より進んだ築城技術が用いられている感じです。
 
参考文献
保角里志著 『南出羽の城』

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次年子楯

 次年子楯は、別名台屋城とも呼ばれ北村山郡大石田町次年子にある比高40mの砦です。ここ次年子は、「最上川三難所そば街道」の最北の大石田町西部の人里離れた地にあり、「次年子そばの里」としてそば通にはつとに有名どころでもあります。数年前から大蔵村肘折温泉に年に1〜2回ほど湯治に行った際にそばを食べに行ったのがここの「手打次年子そば」でしたが、近くに楯跡があるとは知りませんでした。『南出羽の城』(保角里志著)でたまたま知り、今年の4月行った際に訪れてみましたが、次年子の名の由来(※冬は雪深く、子どもがうまれても出生届出は春の雪解けを待ち出す事から)通りの豪雪地帯ですから山々にはまだ雪が1〜2mも解け残っている状態で訪城するには無理でした。と、いうことで、再訪城を期して行ってきました。                                        訪城日:2014.10.31  晴れ
イメージ 2
アクセス
 村山市街国13号の金谷信号から県道36号にイメージ 1入り、15kmほど北上しますと次年子地区の中心部に着きます。「そば切り源四郎」手前で左折して少し進み、さらに左折して300mほどに駐車します。路駐となります。P地点の後ろに山中に入る道があり、入ってすぐに道を外れて森の中を登りますと、木々の並ぶ細道になり、その途中から右手に進みますと主郭背後の四重堀切の所に着きます。
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 次年子楯の築城時期、楯主等は全くの不明です。地元の伝承では、在地豪族の森氏が築いたという伝えがあるようですが、定かではありません。ただ、現在に残る遺構から保角氏は、最上宗家が関与して、「慶長5年(1600)、最上領国が上杉軍の進攻という最大の危機に直面した出羽合戦の時以外には思い浮かばず、村山地方への庄内から最短コース沿いの交通の要衝に築いた最上軍の防御拠点だったのであろう。」と推察しています。畝状竪堀群や塹壕的な横堀・主郭背後の4条の堀切などを見ますと、保角氏の推察は的を得たものといえると思います。
                              上記の縄張り図は、『南出羽の城』から借用し、加筆してます。
イメージ 4 城址南東方面からの遠景です。道路は、県道36号です 。この道は、村山から舟形町・大蔵村を経て庄内に向かう国47号に出る最短コースで、戦国期にも庄内と村山を結ぶ最短コースです。当楯の役割が、これからも理解できます。なお、この道沿いには最上一族清水氏の居城清水城(大蔵村清水)があります。
 
 
 
 
 
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イメージ 7  まず、目に入ったのが、主郭背後の4条の堀切です。4条もの堀切は「村山地方ではきわめて特異」(保角氏)のようです。
  上2枚の写真が堀切南側から撮ったものです。掘り残し土塁の高さは2m近くあり、しっかりと残っています。左の写真は、主郭西端の土塁上から撮ったもので、4条の堀切がよくわかります。
 
主郭南西から撮ったものです。主郭南の堀切に面した土塁は、「旧地形をほりこみ削り残した」もののようで、高1〜2mほどあります。広さは、約35×約60mほどで中央部を一段高くしています。
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 主郭北西端に折れ坂虎口(3)があります。竹藪が密集してわかりずらいですが、虎口両端に土塁を設け、横矢がかかるようになっています。道は、ジグザグに下り、3条の大きめの竪堀と土塁囲みの武者隠しの小郭の間を通って行くようです。イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 虎口下の土塁で囲まれた小郭で、大手口を守る武者隠しの郭だったのではないかと思われます。
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主郭下の北側から東側にかけて32条もの竪堀があります。なかなか竪堀は落ち葉が積もり写真に撮りにくいので、竪堀のある所に目印を付けて撮って見ました。ここだけでも7条あります。
大手先の少し大きめの3条の竪堀です。
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東側の二重横堀で、保角氏は「人の目の高さほどの深さで、斜面を登る敵を攻撃する塹壕的に使用されたもの」と推察しています。
 
 
 
 次年子楯は、単郭の小規模な砦であるが、単郭を取り巻く畝状竪堀群、二重横堀、多条堀切などで厳重に防御され、まれにみる山城と思います。きっと、びりぴりした緊張感の中で築城されたのでしょう。さらに、この姿が、400年以上をへてもはっきりとして残っていることに感謝します。名物のおそばを食べに行った際には、是非ここへも立ち寄っていただきたいと思います。きっと、ご満足いただけると確信します。
 
参考文献
『南出羽の城』 保角里志著  高志書院
 
 
 

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