古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

出羽国(山形県)

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  小国城は、鶴岡市(旧温海町)小国字町尻にある比高230m程の山城です。平成14年に国史跡に指定されています。旧温海町は鶴岡の中心地から北西の日本海側にあり、意外と行きにくい所にあります。今回、肘折温泉から最上川沿いに鶴岡に出て、日本海東北道で温海IC経由で行きました。本海東北道は、鶴岡JCT〜あつみ温泉IC間は無料でしたのでラッキーでしたね。それでも2時間以上かかりました。                              訪問日:2016.10.21 晴れイメージ 9
 城址へは、日本海東北道「あつみ温泉IC」を降り、県道348号を6km程東進して右折します。集落内を約200m程進むと右手に案内板があり、奥に登城口の駐車場があります。イメージ 10
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 小国城跡は、庄内大宝寺(武藤)氏の南端の重要な支城で、「楯山」(標高348.5m)の三頂部にある。麓から標高差早く235.5mで県内の中世山城跡では最大の比高差であり、庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道が、城跡の東麓の谷筋を通っている。江戸時代には小国に庄内藩の関所、制札場が置かれ、小国街道の東側には、小国城本丸跡に正面を向けて、城の鎮守と伝えられている熊野神社がある。
 城跡は、東西約1030m、南北約950mあり、東側と西側に谷が入り、北側に突き出した尾根の上に四つの郭を配置している。東側に通称「二の丸跡」「三の丸跡」、小規模群郭が続き、郭の南東側に登城路が取り付けられている。登城道は、小規模郭群を境にして北側に折れ、東端の通称「駒立場跡」で折れ曲がって北麓に下っている。駒立場跡は、城の出入り口を守る枡形虎口で、上杉氏による大改修によって増設された防御施設と考えられている。本丸跡の西側には、通称「西大屋敷」と呼ばれる約2000㎡程の広大な郭があり、居住区域と推定されている。 イメージ 2
 城跡の特徴は、本丸跡を全周する土塁と、鋭い切岸斜面、登城路を守るために連続して設置した四つの虎口である。切岸は、小国街道、小国集落からよく見え南側と東側の傾斜がきつく、この山城の役割が、街道の要衝を押さえることを示している。標高の高い山城跡で、郭を全周する本丸跡の土塁は、富山県以北の日本海側では極めて珍しく、庄内地方における戦国時代の抗争の歴史の証言者である。出羽と越後の国境と街道を守る重要な山城で、そのために何度も改修と拡張が繰り返されたと考えられる中世山城跡である。 鶴岡市教育委員会    現地説明板より
補足
「庄内と越後を結ぶ古くからの主要街道」というのは、旧羽州浜街道(上の図の橙色)で、日本海沿いの道(羽州浜街道or出羽街道)ができるのは近世に入ってからのようです。その街道沿いにある小国城は、越後との境目の要として軍事・交通の重要拠点だったようです。南北朝期から小国氏がいたとようで、城は、天文16年に小国因幡守によって築城されたと伝えられています。
庄内は、天正10年(1582)以降、大宝寺氏と最上氏・上杉氏(本庄氏)によって争乱状態になり、庄内の覇権は天正15年最上氏から天正16年本庄氏・上杉氏へ、さらに慶長6年に最上氏となり、かなり激しい変遷を経ています。小国城の現遺構は、天正年間以後の上杉・最上両氏の緊張関係の中で、両氏によって整備されたとものと考えられます。最上氏時代の元和元年(1615)に一国一城令により廃城になった。
当城で、丸呼称(本丸・二ノ丸・三ノ丸)になっているのは、江戸期の古記録によるもののようです。元和8年(1622)の「五十嵐野左エ門控」には、二の丸が中屋敷、三の丸が下屋敷とも書かれています。

イメージ 3案内板から少し左手にある登城口です。本丸まで1045mと書かれています。とりあえず途中の駒立場を目指します。イメージ 4








登城道は、急坂もありますがしっかりとしています。イメージ 5


標高230mの駒立場を南側イメージ 7から見ています。6×33mの広さで削り残しの土塁で囲まれています。表示板によると、本丸まであと400mです。➡奥から見た所

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三の丸東下の虎口A手前ですが、坂虎口の感じです

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三の丸東下の虎口Aです。桝形虎口と思われます
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虎口Aから三ノ丸への通路です。二ノ丸・本丸へもこんな感じで、郭の南側の切岸下の急崖上に狭い導線になっています。上からの横矢がかかる仕組みのようです。
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三の丸桝形虎口を外側から() 郭内から()


↓三の丸の東端から見た所で、20×20mほどの広さです。奥に見える切岸の上が二ノ丸で、二の丸まで10mはある鋭い切岸です
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二の丸枡形虎口で、虎口上部に本丸東虎口前の腰郭から横矢がかかる仕組みのようです。イメージ 17












イメージ 18二の丸を東端から見た所で、40×30mほどの広さがあります。本丸との切岸は、10mほどあります。
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二の丸から来た通路が、大きく右に曲がり、本丸東虎口前の腰郭(虎口受け郭か?)に上がり東虎口に入る仕組みです。東虎口は枡形ではありませんが、虎口への導線が素晴らしい造りですイメージ 20







本丸東虎口で、本丸の主虎口です。食違い虎口。イメージ 21



本丸で、ほぼ五角形で40×25m程の広さで、尾根筋の頂上部を削平しているようです。高1.5m程の土塁が全周しています。虎口は、東(主)と南の二か所あります。イメージ 22




南から西に取り巻く腰郭へおりる南虎口と、本丸を取り巻く土塁。イメージ 23





本丸西下の西大屋敷方面で、本丸の西下に堀切があるようですが、埋まってしまったのか確認できませんでした。イメージ 24



西大屋敷の現状です。広さが100×40mという広大な郭ですが、藪に覆われています。井戸も二か所あると説明板にあり探しましたが、わかりませんでした。イメージ 25






西大屋敷南西端にある大堀切で、上巾約25m、深さ約15mあるようです。
本丸北側の尾根には二条の堀切があるようですが、確認していません。イメージ 26


城下集落の小国宿の景観です。昔の面影を残しています。

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新庄城

 新庄城は、新城市堀端町にある平城の近世城郭です。別名、沼田城、鵜沼城とも呼ばれ、戦国期には当地に新城があったようです。新庄にはたびたび訪れる機会があり、新庄城にも何回か訪れています。                                                                                   訪城日:2014.10.30  晴れイメージ 1
 城址には、JR新庄駅から西に1.2km行きますと着きます。駐車場は、本丸内にあります。
 現在に残される新庄城は、寛永2年(1625)に戸沢政盛により築城されたものですが、戦国期にあった新城と呼ばれる中世城館を近世城郭として整備したものです。
 その新城がいつごろあったかは定かではありません。ただ、天正9・10年に大宝寺義氏の最上侵攻の際の戦いの中で新城前で合戦があり「在々所々如存放火、就中鳥越之責登、籠衆一人も不残討戮、其后新城之地中楯迄相破、焼却云」(『2月4日天童殿宛楯岡満茂書状写』−横手市史叢書十)とあり、新城が中楯まで攻められ焼却されたとあります。このことからすると、新城は単郭の城館ではなく中楯の前面に何らかの防御施設があり、その背後に城館の中心の本楯があったものと考えられ、この構造は東国に見られる『外城・中城・実城」に類似したものではないかと思われ、かなりの規模だったと考えられます。さらに、周囲を深田に囲まれていることもあり平地にあっても堅固な城館だったと推察されます。
 その後、元和8年(1622)の最上氏改易の際に伊達氏によって接収されましたので、戦国期の新城が元和8年まであったことがわかります。その際「日野将監預り」とあり、戦国期から楯主が日野氏ということがうかがわれます。
 元和8年に戸沢氏は、6万石で鮭延城に入りましたが領内の北方に位置していることなどから領国の中心部の新庄盆地の新城の地に本拠を定め整備しました。その際の縄張りは、山形城主鳥居忠政が行ったようです。(鳥居忠政は、戸沢政盛の義兄で鳥居氏の付け大名として入封していることからのようです。)戸沢氏はその後転封もなく243年間在城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟を離脱したことから、庄内酒井氏に攻められ城下町ともども焼失し、その年廃城となりました。
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左図は、『図説正保城絵図』(新人物往来社刊、2001年)から借用しています。右図は、現状図で『絵図』の本丸部分を現しています。
 
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 📷番号でご案内イメージ 2していきたいと思います。
  📷1で、大手御門跡です。絵図を見ると内枡形門だったようです。イメージ 3
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御役所跡。二ノ丸南の役所や米倉があった場所です。
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本丸大手の土橋で、22〜3m程ありますか。イメージ 7
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土橋中央から北側の濠を撮ったものです。かなり立派です。イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
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土橋を渡り左手にある表御門跡の石垣。表御門は、絵図では平入の門のようですが、正保以後に作り直されたのでしょうか?イメージ 9
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南側から見た本丸内。右手に土塁と左手に護国神社・戸沢神社があります。
 
 
 
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裏御門跡で、ここも石垣の上に櫓門だあったようです。ただ、堀も雨られていてその面影はないです。
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西側の濠跡で、土塁もなく埋められていますが壕跡が窪んでいますので形状がわかります。右手一帯が重臣の屋敷地だったようです。イメージ 12
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天満神社で、戸沢氏の氏神として旧領秋田仙北の角館時代から崇拝していたもので、常陸国松岡から当地に入封したおりに共に移し、寛永5年(1628)に本丸西南のこの地に遷座したものです。(説明板による)イメージ 13
 
 
 
 
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本丸南の二之丸との間の門跡。大手門左手にも二ノ丸(御役所跡)がありちっと戸惑いますが、こちらの二之丸は馬出的な感じで本丸に付随しています。この配置を千田氏は、「全体のかたちからは二ノ丸は馬出しに見立ててよいはずだが、本丸との間の堀を入れず、また、二之丸側面ではなく正面に出入り口を設けて、意図的に馬出し化していない。これは大型化した曲輪を虎口空間として見立てることが破綻し、出入り口部の枡形が要塞化することで防御は充分とした元和期以降の最も新しい織豊系城郭の姿であった。」と解説されています。
 
 現在の新庄城は、本丸の一部を残すだけになっていますが、街中にもまだ遺構が残るようなので、行ったときにそれらを見てきたいと思います。また、周辺には、技巧的な山城がまだ多くみられ当地を訪れましたらそちらにもいかれることをお勧めします。
 
参考文献
『図説 正保城絵図』 千田嘉博氏解説
『南出羽の城』 保角里志著
『南出羽の戦国を読む』 保角里志著

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大沢楯

 大沢楯は、別名源内楯・大類館とも呼ばれ、尾花沢市牛房野にある比高40mの丘城です。ここへは、近くの森岡山楯、牛房野楯に行く予定で、森岡山楯には訪城できたのでしたが、牛房野楯へは行けませんでしたので、行き掛けの駄賃と思って訪れてみました。あまり期待はしていませんでしたが、横堀や枡形虎口などがよく残り、めっけものの楯跡でした。イメージ 1
 楯址へは、荻袋地区の国13号から東に入り、牛房野方面に約3.6km行き、右折して牛房野川を渡るとすく左手の小高い丘陵にあります。道路沿いに正体不明の建物があり、その背後の山林には分け入りますと、楯に着きます。道路わきに空きスペースがありますので、路駐できます。イメージ 2
 イメージ 14
  当楯の築城時期は定かではありませんが、牛房野楯の前衛を守る砦といわれ、楯主は、大類源内の名が残りますが、詳細不明です。ただ、横堀・鋭い切岸・枡形虎口などから見ますと、戦国後期に使われていたのではないかと考えられます。規模はさほどではありませんが、かなり念入りに造られています。
 
 縄張り図は、『南出羽の城』から借用し、説明のため加筆しています。
 
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 西側からの遠景で、左手奥に牛房野楯が見えました。直線距離で1.7kmほどですから、目と鼻の間といえますかな。
 
 
 
 
 
 
 イメージ 4
 虎口1です。左右(右側の土塁が高い)に土塁があり、食違いの坂虎口と思います。イメージ 5
虎口に入ると右手から上段の切岸が迫り、横堀で通路を狭めています。
 
 
 
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  虎口1からの6郭で、あまり削平はされていない感じです。イメージ 7
  虎口2を5郭内から撮ったものです。6郭から見ますといまいちわかりませんでした。イメージ 8
虎口2からの5郭で、左手に主郭・4郭が見え、下段の6・7郭と比べると削平がされています。
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 5郭から主郭への城道は、こんな感じです。主郭や2郭からの横矢がかかり、堅固な造りです。
 
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イメージ 11イメージ 12
 イメージ 13
  2郭で、主郭虎口防御の張り出しとなっています。
 
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 主郭で、35×25mほどの広さです。
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 帰りは、7郭を回りました。隣の6郭とは違って、小規模の段郭をいく段も並べています。
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虎口5で、食違いか桝形状虎口です。
 
 牛房野楯を見ていませんので、確かなことは言えませんが、縄張り図からすると牛房野楯より進んだ築城技術が用いられている感じです。
 
参考文献
保角里志著 『南出羽の城』

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次年子楯

 次年子楯は、別名台屋城とも呼ばれ北村山郡大石田町次年子にある比高40mの砦です。ここ次年子は、「最上川三難所そば街道」の最北の大石田町西部の人里離れた地にあり、「次年子そばの里」としてそば通にはつとに有名どころでもあります。数年前から大蔵村肘折温泉に年に1〜2回ほど湯治に行った際にそばを食べに行ったのがここの「手打次年子そば」でしたが、近くに楯跡があるとは知りませんでした。『南出羽の城』(保角里志著)でたまたま知り、今年の4月行った際に訪れてみましたが、次年子の名の由来(※冬は雪深く、子どもがうまれても出生届出は春の雪解けを待ち出す事から)通りの豪雪地帯ですから山々にはまだ雪が1〜2mも解け残っている状態で訪城するには無理でした。と、いうことで、再訪城を期して行ってきました。                                        訪城日:2014.10.31  晴れ
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アクセス
 村山市街国13号の金谷信号から県道36号にイメージ 1入り、15kmほど北上しますと次年子地区の中心部に着きます。「そば切り源四郎」手前で左折して少し進み、さらに左折して300mほどに駐車します。路駐となります。P地点の後ろに山中に入る道があり、入ってすぐに道を外れて森の中を登りますと、木々の並ぶ細道になり、その途中から右手に進みますと主郭背後の四重堀切の所に着きます。
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 次年子楯の築城時期、楯主等は全くの不明です。地元の伝承では、在地豪族の森氏が築いたという伝えがあるようですが、定かではありません。ただ、現在に残る遺構から保角氏は、最上宗家が関与して、「慶長5年(1600)、最上領国が上杉軍の進攻という最大の危機に直面した出羽合戦の時以外には思い浮かばず、村山地方への庄内から最短コース沿いの交通の要衝に築いた最上軍の防御拠点だったのであろう。」と推察しています。畝状竪堀群や塹壕的な横堀・主郭背後の4条の堀切などを見ますと、保角氏の推察は的を得たものといえると思います。
                              上記の縄張り図は、『南出羽の城』から借用し、加筆してます。
イメージ 4 城址南東方面からの遠景です。道路は、県道36号です 。この道は、村山から舟形町・大蔵村を経て庄内に向かう国47号に出る最短コースで、戦国期にも庄内と村山を結ぶ最短コースです。当楯の役割が、これからも理解できます。なお、この道沿いには最上一族清水氏の居城清水城(大蔵村清水)があります。
 
 
 
 
 
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イメージ 7  まず、目に入ったのが、主郭背後の4条の堀切です。4条もの堀切は「村山地方ではきわめて特異」(保角氏)のようです。
  上2枚の写真が堀切南側から撮ったものです。掘り残し土塁の高さは2m近くあり、しっかりと残っています。左の写真は、主郭西端の土塁上から撮ったもので、4条の堀切がよくわかります。
 
主郭南西から撮ったものです。主郭南の堀切に面した土塁は、「旧地形をほりこみ削り残した」もののようで、高1〜2mほどあります。広さは、約35×約60mほどで中央部を一段高くしています。
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 主郭北西端に折れ坂虎口(3)があります。竹藪が密集してわかりずらいですが、虎口両端に土塁を設け、横矢がかかるようになっています。道は、ジグザグに下り、3条の大きめの竪堀と土塁囲みの武者隠しの小郭の間を通って行くようです。イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 虎口下の土塁で囲まれた小郭で、大手口を守る武者隠しの郭だったのではないかと思われます。
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主郭下の北側から東側にかけて32条もの竪堀があります。なかなか竪堀は落ち葉が積もり写真に撮りにくいので、竪堀のある所に目印を付けて撮って見ました。ここだけでも7条あります。
大手先の少し大きめの3条の竪堀です。
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東側の二重横堀で、保角氏は「人の目の高さほどの深さで、斜面を登る敵を攻撃する塹壕的に使用されたもの」と推察しています。
 
 
 
 次年子楯は、単郭の小規模な砦であるが、単郭を取り巻く畝状竪堀群、二重横堀、多条堀切などで厳重に防御され、まれにみる山城と思います。きっと、びりぴりした緊張感の中で築城されたのでしょう。さらに、この姿が、400年以上をへてもはっきりとして残っていることに感謝します。名物のおそばを食べに行った際には、是非ここへも立ち寄っていただきたいと思います。きっと、ご満足いただけると確信します。
 
参考文献
『南出羽の城』 保角里志著  高志書院
 
 
 

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沼沢楯

 沼沢楯は、舟形町大字舟形字裏の山にある比高60mの山城です。羽州街道の村山地方との境目にある猿羽根峠の登り口に位置した、交通の要衝の地であった。今回、近くの肘折温泉に湯治に行った際訪れた城跡です。ここと猿羽根楯を訪れましたが、残念なことに撮った写真を誤って消去してしまいました。ですので、駐車地点・登城口・城址概要のみを掲載して、再度訪城して写真を載せたいと思います。                                     訪城日:2014.4.20  晴れ
 
イメージ 1
 城址へは、舟形市街より国13号を南に向かい、猿羽根山トンネル手前左手に猿羽根峠へ分かれ道まで行きます。その分岐点が駐車地点になります。
 登城路は無いようで、国道沿いの民家手前から城址西側の急斜面を直登しました。
 
築城時期は不明ですが、楯主は最上一族清水城主清水氏の家臣沼沢氏といわれています。清水氏が慶長19年(1614)に最上宗家によって滅ぼさ後、沼沢氏は最上氏に属したと思われます。保角氏は、慶長5年の出羽合戦時に畝状空堀・多条堀切・桝形虎口で再整備されたものしています。元和元年(1615)の一国一城令が出されましたので、そのころ廃城になったのではないかと思われます。
 イメージ 2
 西斜面の直登はきつかったですね。二度と登りたくないと思いましたが、写真撮りですかね。()
 比高で50〜60mをよじ登り、二重堀切の堀切アに着きました。二重堀切は、2郭側の方が上巾10mと規模が大きいです。
 2郭は、南北40m、東西10〜20mの台形状の形をしていて、充分に削平されています。堀切アに沿って高2mほどの土塁があります。主郭は、2郭から7〜8mほど高くその切岸はそびえたつ感じで、西側の城道がわかりませんでしたので、この切岸をよじ登りましたが、きつかったですね。
 主郭は、南北約59m、東西約24mの不整形の形で、西側をのぞいて三方に低い土塁が設けられています。 
                                                      イメージ 3           虎口は、西中央部にあり、彫り込んだ形になっています。枡形状虎口といわれるようですが、ちっと違うのではないかと思います。
虎口を出ると、西斜面の楯道を下っています。この楯道が大手道の一部と思われますが、麓から直にこの道につながるか定かではありません。楯下の元屋敷に村があったと伝えられますので、大手口は尾根先端当たりに想定でき、一度3・4郭あたりに入り、二重堀の横を通ってつながったのではないかと邪推しますが、どうでしようか?
 主郭背後は、3条の堀切(二重堀切と堀切)で尾根を遮断しています。東切岸下に畝状竪堀があり、主格下に長めの竪堀が5条、2郭下に短めのものがやはり5条あります。これは、西斜面が急峻でさほどの防御をしなくても良いのに比べ(主郭西側に土塁がないのもその表れか)、東側の沢筋は、緩い斜面で厳重な防御線を構築必要があったための思われます。竪堀は、写真に撮るのが難しいのですが、ちょうど雪がうまい具合に残り、畝状竪割りの姿が明確に見え、写真としても良い具合に撮れたので、喜んでいましたが、返す返すも惜しいことをしてしまいました。
 
 帰りは、3郭に回り、堀切に下りて下城してきました。
 
参考文献
保角里志著 『南出羽の城』 高志書院

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