古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

越後国

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樺沢(かばのさわ)城

 樺沢城は、南魚沼市樺野沢にある比高90mの山城です。樺沢城は、平成22年(2011)7月の豪雨で大規模な土砂崩れ被害を被り、復旧工事がなされているとのことで、その実情がどうなってるのか見てみたいと思い、訪城しました。訪れた時にたまたま地元の方々が午前の作業を終えて帰る時で、その中の御一人に呼び止められて、いろいろとお城の現状についてお話を聞けました。
                                            訪城日:2016.5.8 晴れ
 イメージ 1城址へは、関越道塩沢石打ICを降り、国17号を六日町方向に5km程進んだ上越国際スキー場入口信号で左折します。道なりに進み上越線のガードをくぐり、すぐに左折して進むと龍沢寺につきます。
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←龍澤寺
上杉景勝の実母(上杉謙信の姉)、仙桃院ゆかりのお寺です。
専用駐車場は寺の反対側。
→お寺の向えにある登城口
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  お寺の西上にある「城之腰跡」

 樺沢城の築城年代は定かではありませんが、上田庄を治めていた上田長尾氏が関東口の支城として築き、被官の栗林氏を城代として守らしていたようです。樺野沢の地は、坂戸城下・下倉城下・北条城下を通り柏崎を通る越後国府(府中)と関東を繋ぐ本街道と、魚沼丘陵の栃窪峠を越えて妻有を通って柏崎へ至る脇街道の分岐点にあたる軍事交通の要衝でした。イメージ 6
 永禄3年(1560)に始まる上杉景虎(謙信)の関東侵攻は、天正5年(1577)までの18年間に15回を数えています。関東への出兵(越山)は、大軍の迅速な移動となり、軍道や要所での宿営地が整備されました。それが松之山街道で、その道筋に直峰城・犬伏城・琵琶懸城・寄居城ともに樺沢城も整備されていったとものと思われます。
 謙信没後の天正6年3月に起こった「御館の乱」に、景虎支援に駆けつける思われる北条勢に備えて景勝方が改修したようですが、9月頃北条氏照に率いられた北条勢に上信国境の荒戸城・樺沢城が攻略されました。北条勢は樺沢城を拠点に坂戸城やそイメージ 7の周辺の城塞を攻めますが、坂戸城は容易に攻略できず、10月初め頃厳冬期を前に一部の将兵を残し、関東へ引き上げます。しかし、翌年、2月3日に景勝方に攻略されます。この5カ月の間に北条方も防備の補強をしたと思われますので、現在残る遺構はこの「御館の乱」の際になされた景勝・北条両軍による普請の跡と思われます。廃城は、慶長3年(1598)の景勝の会津移封後と思われます。
イメージ 8

 登城口からは、横堀内を進みます。100mほど続く横堀で、低い土塁を外側に設けています。鳴海氏によれば、越後の城は「土塁と横堀が未発達で」このように「二重、三重にめぐらした横堀は、越後山城ではほかに類例があまりないことから」「北条軍の手に拠るものと考えられる。」としています。(『甲信越の名城を歩く新潟編』)
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また、鳴海氏は、土塁の高さが0.5〜1mなので、堀内から攻め上がる敵兵を射撃する陣地だったのではないかと推察しています。イメージ 10




「望楼」の案内表示がある巾広の土塁です。櫓台跡と思われます。この先に、大手道の案内表示がありますが、東麓の居館部は上越線で分断され遺構は残っていないようです。イメージ 11


西側の郭群と主要部を隔てる浸食谷の手前を登りますと大手口になります。イメージ 12






大手口が3郭虎口で、桝形虎口の感じですが、いまいち形がはっきりしません。イメージ 13


3郭で、内部は2〜3mの段差をイメージ 14付けた3段になっています。最上部に社がありますが、イメージ 15櫓台だったようです。




2郭と3郭を遮断する堀切1です。上巾8m深さ4〜5mほどです。木橋を架けていたのでしょうか。
イメージ 16堀底から撮ったものですが、木々が生い茂ってよくわかりません。イメージ 17



北西からの2郭で、2m程の段差で3段になっています。イメージ 18
→2郭虎口。遊歩道とは違う場所にあります。イメージ 19




主郭と2郭を遮断する堀切2です。案内表示には「大堀切 最深20m長さ70m」とあります。上巾は、10mを越えるかと。イメージ 20





堀切2を渡った東側の帯郭にある胞衣塚。「えなづか」と読むようで、景勝の胞衣(へその緒)を納めたところと伝わるようです。イメージ 21


主郭周辺に設けられている腰郭で、東側は2段に設けて、ここが下の段です。巾は10〜15mです。イメージ 22





東の腰郭上の段で、すく先が主郭虎口です。イメージ 23



主郭でL字状の山頂を加工し、全長75mの主要部と西側の堀切で仕切られた郭を設けています。イメージ 24





展望はとてもよく、北側に魚沼平野が一望で、坂戸城も左手に見えるようです。が、どこであるかは???でしたね。
イメージ 25→主郭西側の堀切イメージ 26


←主郭北側の腰郭









イメージ 27

主郭西下の堀切です。「間口21m 深さ20m」とありますが、「この先 立入禁止」の表示があり、引き返しました。

災害復旧が、かなり進んでいるいるようで、主要部は見学できました。ただ、西側はまだのようです。



参考文献
『甲信越の名城を歩く 新潟編』 福原圭一・水澤幸一編
『図説中世の越後』 大家 健著
『中世城郭事典 2』 村田修二編

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赤田城

 赤田城は、刈羽村赤田町方にある比高140m程の山城です。今年の4月に中越遠征の際に訪れた山城の一つです。以前からある方がしきりに赤田城の斎藤氏に言及することがあり、どんな城址なのか興味があり、訪れた次第です。                   訪問日:2016.4.27  晴れ
 イメージ 1城址へは、北陸道柏崎ICを降りて国252号を柏崎市街に向かい、国8号と交差する日吉町信号で右折し、国8号を約7.5km進んだ先の曽地中信号で左折して県73号を北進します。1.5km先の東福院バス停辺りで右折して東福院を目指します。お寺手前に城址専用駐車場があります。ここの案内板も設置されていますので参考にしてください。
 駐車場からは、遊歩道が設けられていますので、城址を経て東福院経由で一周できます。
※東福院からのコースもあり、入口に案内板が設けられています。

イメージ 2















  赤田城の築城時期は定かではありませんが、15世紀から戦国末の上杉氏会津移封まで中越の有力国衆である斎藤氏の本拠の城でありました。それ以前の南北朝期には、在地土豪赤田氏が居て、当城南側の谷を隔てた丘陵上にある赤田古城に拠っていたとされるようです。
 鳴海忠夫氏は、齋藤氏の赤田入りを「主要交通路の支配と国衙領の管理、佐橋荘を本拠に着々と周辺地域に勢力を伸ばしていた越後毛利氏、とくに北条毛利氏の動向をにらんだ上杉氏による布石と考えられる。」としています。(『甲信越の名城を歩く 新潟編』)
 斎藤氏は、室町期に上杉守護識家の奉行人で、戦国期に入っても長尾守護代家の奉行人となり、謙信に従い各地で活躍しています。御館の乱では、景勝に味方して、当城が景勝派の中越における軍事拠点として使われています。イメージ 4
 斉藤氏は、慶長2年(1597)伏見舟入普請役事件に関わり改易され、翌年の景勝会津移封の際は越後に残ったようです。廃城は、齋藤氏改易の頃と考えられます。
 縄張図は、大家健氏『図説中世の越後』から借用し、説明のため加筆しています。
イメージ 3 駐車場から5分ほど歩きますと、北西尾根先の登城口につきます。
「城址まで500m」とあります。

イメージ 5
 緩やかな整備された遊歩道を10分ほど行きますと、平場に着きます。いくつかの郭があったと思われますが、公園整備でならされています。イメージ 6






                                      
         
 一段と高い切岸を登ります。イメージ 7

         
 切岸を登り切りますと、3郭のきりだった城壁が前面に見え、圧巻でした。当城の中で一番の見どころではないかと思われます。イメージ 8





      
 3郭の城壁で、高15mはあるかと思います。中ほどに小郭が設けられています。登城路は左手斜面を回り込む感じで登ります。


イメージ 9

イメージ 10 3郭南側から撮ったもので、15×60m程の広さで、北端に櫓台跡の高1m強の土盛が見られま
す。イメージ 11
櫓台跡下の城壁にある小郭ですが、攻め寄せる敵兵には脅威ですが、ここから退却するには?イメージ 13

 3郭から左手奥の道を登り主郭に向かいます。


イメージ 14主郭にある「斎藤下野守朝信城趾」の碑


イメージ 12









イメージ 15   
 主郭で、40×30mの広さで南東の東出丸方向に向けて細長い郭(右写真)を突き出しています。虎口は三か所あるようですが、西虎口しかわかりませんでした。
 東出丸と大堀切(上巾30mある箱堀のようです)を見に行こうとしましたが、藪が酷く断念しました。イメージ 16


 
 主郭西側にある2郭。主郭より3mありここを経由して主郭に入る構造です。ここもほどほどの薮のため中には入りませんでした。イメージ 17




 
 2郭から西の尾根の北側の遊歩道を進みます。4郭へもトライしようとしましたが、藪で断念しました。イメージ 18


 
 かろうじて取れた、4郭西の堀切?だと。イメージ 19






 
 あとは遊歩道を下りますと、大手口と東福院への別れの三叉路に出ます。イメージ 20

       
 東福院です。寛正2年(1461)に斎藤下野守が創建したと伝わる古刹です。
 
 駐車場や遊歩道が整い訪れやすいです。ただ、東出丸や西出丸の郭群や堀切などが藪のためみられないのが残念でした。



参考文献
『図説中世の越後』 大家 健著 野島出版
『甲信越の名城を歩く 新潟編』 福原圭一・水澤幸一編 吉川弘文館

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細越城

 細越城は、柏崎市細越にある比高110m程の山城です。鵜川上流右岸の丘陵上に築かれています。柏崎の地は、御館・春日山城のある上郡との境になる米山・黒姫山の山塊の東麓にあり、現在みられる水田が広がる柏崎平野の姿は、江戸時代後期の干拓等の水田開発が端緒だったようです。中世の姿は、鯖石川と鵜川が流入して、海岸部に日本海特有の砂丘ができ、内陸部に人の踏み込めない沼沢地が広がっていようです。そのため、水田等の耕作地が河川の中・上流に開けていました。鵜川中流に上条氏の上条城があり、上流に当城があります。 訪問日:2016.4.27 晴れイメージ 1
 城址へは、柏崎市街の国8号枇杷島信号で国353号に入り南下します。約10km先の野田信号を左折し、400m先で右折、城山トンネルを過ぎると左手に松尾神社があります。神社のトイレ付近に駐車でき、城址図のある案内板もそこにあります。登城口は、神社本殿の左手にあり登山道が設けられています。

イメージ 2
 築城時期や築城主体は不明ですが、永正年間(1504-20)北条氏の被官細越氏により築城され、御館の乱時には北条氏重臣石口氏が城主であったようです。イメージ 4



イメージ 3


 








イメージ 5 松尾神社境内。細越集落より一段高い位置にあることや大手口のあることからすると、居館跡だったのでしょうか?イメージ 6







神社裏手の先にある「細越城址大手登口」標柱イメージ 7


 畝形阻塞手前。右手に土盛が見られましたのでてっきり木戸口かと思いましたが、畝形阻塞の土塁でした。(苦笑イメージ 8





登城路沿いにある4条の畝形阻塞。イメージ 9



     
 畝形阻塞の少し先。登城路が狭く一段高くなっています。積んだと思われる石列も見られますので、ここに木戸かあったのではないかと・・・。イメージ 10



木戸跡?の先で道が二手になり、主郭方向が左手上と思いそちらへ進みました。直進すると畝状空堀群に行けたようで、見れなくて残念でした。縄張り図がないと見るものも見れません。()イメージ 11



  登城路は、主郭南下の小郭群を進みます。イメージ 12







 主郭の虎口ではないかと思われます。南側中央部にあり、平虎口で、手前に平場が設けられています。イメージ 13
 虎口からの主郭内部。35×80mの広さのようで、けっこう広いです。土塁はないようです。

イメージ 14


主郭と2郭を隔てる堀切1です。waferは13〜14m、深さ7m(主郭側)で切りだった壁で降りるのも登るのも苦労しました。イメージ 15






 2郭で、15×15−20mほどの広さで、北側斜面に2段ほどの段郭が見られます。
イメージ 16

 段差の斜面に不思議な穴が見られます。当城紹介のブロクなのでは、「乱穴」といっていますが、ちっと何の穴かわかりませんね。イメージ 17





 
2郭と3郭の間の堀切イです。上巾9m、深さ6m(2郭側)で、堀切アと比べると切れ味にかけています。イメージ 18

3郭で、80×15mほどの広さがあり内部は段差を設けています。
 
イメージ 19縄張り図がなかったので、簡単なメモを取ってきましたので載せておきます。なお、ほかにもみるべき遺構があるようなので、できたら再訪城したいと思っています。
 

 









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高柳城

 高柳城は、加茂市七谷上高柳にある比高100mの山城です。以前から城友のえいきさんから勧められていましたので、今回の中越遠征に訪城しようと思い、えいきさんのご案内で行ってきました。えいきさんの太鼓版通りの山城で、前日の荒砥城を彷彿する素晴らしい城址でした。
                                           訪城日:2016.5.9  晴れ
イメージ 1 城址へは、北陸道三条燕ICを降り、国289号に入り石上信号で左折して県道1号を信濃川沿いに北上します。川西信号で右折して加茂市中心街を通り加茂川沿いの県道9号・国290号を約13km(川西信号から)進み、下高柳バス停の先で左折します。そこから約2kmの上高柳バス停が登城口付近になります。
 バス停付近は路駐スペースがありますから、近隣の方の邪魔にならないように駐車できます。

イメージ 2イメージ 3イメージ 4






イメージ 5イメージ 6       
 城址付近には案内表示がありませんので、ちっと詳しく城址標柱のある登城口までの道筋を載せておきます。



イメージ 7
 当城の城歴については不明です。当城の地を地元では、御殿山と呼ぶそうで、それは、南北朝時代の興国2年・暦応4年(1341年)に宗良親王が一時高柳に滞在してたという伝承からのようです。また、天文14〜5年の黒田秀忠の乱の際に栃尾城の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められ、景虎の家臣森氏が城将になったと云話もありますが、定かではないようです。

※「かも市史だより」12号に掲載されていた鳴海忠夫氏作図の縄張図を借用して加筆しています。イメージ 8


 






イメージ 9
 登城口ですが、ここまで来ないと城があるのか全く分かりません。もう少し手前に案内板があればいいのですが…イメージ 10







 少し行きますと、二股に分かれになります。城址へは右に進みます。左へは、「御殿清水」へ行きます。イメージ 11

  「御殿清水」で井戸ではなく湧水のようです。城の水の手だったのでしょう。イメージ 12







  
 まず最初の遺構で、大手の竪堀です。上部で大手道を狭めています。イメージ 13

 A地点で、大手虎口と思われます。かなり凝った造りで、2本の横堀と竪堀で土橋を狭め、更に北西の5郭と上部の4郭からの横矢がかかるようになっています。



A地点に集まる横堀と竪堀
イメージ 14

イメージ 15 南側下の畝形竪堀で、5本ほどあり、急斜面に上巾3m前後です。


A地点から4郭へ向かいます。
イメージ 16





  
 4郭の虎口です。左右に土塁を設けていますが平虎口です。イメージ 17



 主要部を西から南に取り囲む腰郭の4郭です。

イメージ 18






4郭南中央部にある3郭への虎口。


イメージ 19

 3郭で、長方形の35×8mほどの広さ。





イメージ 20 2郭と主郭虎口で、虎口は外桝形状になっています。



イメージ 21 主郭で、25×30mほどの広さです。北東縁部に低い土塁があります。

イメージ 22






    
 北端にある堀切です。上巾8m、深さ6m程ですが、切岸がかなりきつく堅固な造りといえます。イメージ 23

 最後に西側下にある4条の畝形竪堀で、長大な竪堀に集約されています。

 
 あまりはっきりした写真が取れませんで、高柳城のよさが出ていませんが、A地点に着いたところからの姿は、前日に訪れた荒砥城を彷彿する感じて、その素晴らしい姿に驚きました。ぜひ、訪れてその良さを味わっていただきたいと思います。

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荒戸城

 荒戸城は、南魚沼郡湯沢町大字神立字袖山・大字三俣字下峠にある比高70m(八木沢集落から比高190m)の山城です。史料上では「荒砥」「あらと」「荒戸」と出てきます。規模は小さいですが、遺構の保存状態がよく、夏場でも横堀、馬出、虎口など楽しめる城址です。
                                            訪城日:2016.5.8  晴れ
イメージ 1 城址へは、関越道湯沢ICを降り、国17号を三国峠方面に向かいます。約6km先の芝原トンネル手前を左折して三国街道旧道に、入り1km弱で登城口の駐車場に着きます。


 山城には珍しく築城の経過がわかる城址です。
 天正6年(1578)6月御館の乱の際に、上杉景勝が関東よりの上杉景虎派の侵入を防ぐために登坂与右衛門尉を派遣し、上田衆(深沢刑部少輔等)とともに芝原峠の荒戸に築城を命じたものです。
 景勝は、上野の景虎派(河田重親・北条高広)と北条勢の越後進攻が差し迫っている状況で、7/5、7/10、7/12と矢継ぎ早に書状を出して督促したためか、ほどなく完成したと思われます。きわめて急ピッチの築城だったようですので、現遺構とはかなり違う状態だったのではないかと思われます。
 同年9月に北条勢が上田荘内に侵攻し樺沢城が攻略されます。この時、途中にある荒砥城の動きは明らかではないですが、9月12日付け景勝書状に荒戸城将と思われる登坂与右衛門尉が深手を負ったことからすると、攻略されたものと思われます。
 北条勢は、樺沢城を拠点にして景勝方の坂戸城等を攻めますが、容易に坂戸城を攻めきれず10月初旬頃降雪にために樺沢城に上野景虎派を残して退陣します。(旧暦10/10→新暦11/19になりますので、三国峠には降雪があったのでしょう)
 翌7年3月2日に景勝方が樺沢城を攻め落としています。同月8日に景勝が坂戸城将深沢刑部少輔におひろいの地(小平尾城)と下倉(下倉城)の救援に荒戸・直路城申し合わせて駆けつけるように命じていますので、この前に関越境目の荒戸・直路両城を景勝方が奪回したと思われます。早速、2月23日付けの景勝書状で、厳しい自然環境の中での普請を深沢等に命じています。
 天正7年2月24日に景虎が鮫ヶ尾城で自刃して御館の乱が終焉しますが、天正8年3月北条勢が荒戸城に攻め寄せ落城したようですが、そのあとすぐに奪還しています。
 天正9年6月に栗林政頼が荒砥城在城を命じられ、同12年2月に政頼に郡司として引き続き荒戸城在城し、「荒砥関所」を預けるとしています。この関所については、齋藤慎一氏が「軍事的な要素を持つ荒砥城を考えると、荒砥関所が単に関銭の徴収を目的にした中世的な関所であっただけでなく、境界の交通に深くかかわった関所であった可能性が生まれる。」として、「荒砥城を中心とした芝原峠付近には、領国の境界の管理のための空間が設定されていたことは間違いない。」としています。
 年次未詳史料に「城数之覚え」というのがあります。遠藤公洋氏は、「この史料のイメージ 20成立事情はあきらかでないが、記載事項から天正期後半の越後の拠点城郭一覧であろうと推定される。」としていています。この中に上田荘内での城郭は、「坂戸」「かはの沢」のみです。荒戸城の記載がないことから、使われなくなり廃城になったと思われます。
※上杉景勝書状や「城数之覚え」は、『上越市史 別編2』にあります。
※右図は、登城口にある案内板の城址概念図に加筆しています。
イメージ 2
イメージ 3急斜面を10分ほど登って、まず目に入るのが大手の2郭前の馬出と横堀です。ぞくぞくっとする光景です。イメージ 4
 
 馬出虎口手前から見たものです。竪堀で右折させられて馬出に入ります。馬出は、2郭より一段低く、2郭へは登り坂です。
イメージ 5






馬出内からは、こんイメージ 6な感じですね。


馬出東側にある竪堀イメージ 71で、城道を強要する竪堀で
効果的な竪堀といえるようです。 




イメージ 8 2郭を虎口から見ています。主郭の北側から東側を取り巻いています。土塁はなかったようです。イメージ 9



 主郭虎口へ行く道から見た2郭です。虎口の手前が窪んでいますので、内枡形という評価がなされています。西股総成氏は、「この城の枡形虎口は縦長の形をしているので、弓矢鉄砲ではなく、鑓によって侵入者を仕留めるつもりなのであろう。」とし、「兵種別編成を前提にするなら合理的な縄張りだといえる。」とも書いておられます。越後の山城を分析した遠藤氏は、越後の山城の中に直方体形虎口(郭の出入り口にある「直方体形に郭面を掘り込んだ遺構)が見られるとしています。
どちらかというと、遠藤氏の考えがいいように思われます。
イメージ 10
 2郭から主郭北東虎口への道。登坂で二か所で屈折させています。攻め手の勢いを削ぐためでしょうかね。
イメージ 11主郭内部からの主郭北東虎口。左右に土塁を設けています。↓南東端にある櫓台。イメージ 12








イメージ 13
 西側からの主郭。35×40mほどの広さで、北東と南に虎口があり、高2m程の土塁が東から南にかけてある。イメージ 15イメージ 14







主郭南虎口の内側(左)、外側(上)

イメージ 16
 竪堀3で、南虎口への登城路を狭めています。
イメージ 17



竪堀3辺りからの3郭。イメージ 18



 3郭の内枡形虎口です。2郭と道警と思われますが、窪みがよくわかります。上杉氏の山城によく見られる「直方体形虎口」(遠藤氏の命名)と思われます。イメージ 19






 外枡形より3郭を見ています。奥の一段高い所が主郭でここからの横矢や厳しそうです。

イメージ 21

 3郭虎口外の堀で囲まれている外枡形虎口です。こちらが外枡形で、2郭のが馬出と区別されているようですが、その違いは何なんでしょうか、ちっとわかりません?イメージ 22
 外枡形の南側の堀ですが、竪土塁状になっていまして、珍しい?と思いましたね。イメージ 23








3郭下の西側から北側かけて低い土塁をともなった横堀が約90mあります。見事横堀です。遠藤氏は、この堀の土塁が身長大以下で「守備側の兵員の身体を守る攻撃陣地」であろうとして、「塹壕状遺構」としています。これも戦国後期のよ上杉氏の山城によく見られるとしています。この評価はどうなんでしょうか、ちっとではなく全くわかりません。イメージ 24
 この横堀の堀底に畝状の高まりがみられるようで、5条あるようです。黄色い楕円部分なのかな〜と。

イメージ 25





2郭南にある竪堀2です。ここを渡り4郭へ行こうとしましたが、とても無理で主郭櫓台から降りました。切岸が厳しく降りるのに難儀でした。イメージ 26
 
 4郭で、主郭櫓台から6mほど下にあります。城の背後の南東尾根方面の防御の郭で、すぐ下に堀切が設けられています。イメージ 27






堀切1で箱堀のようです。これも上杉の山城ではよく見られるもののようです。


 今回久しぶりの訪城でしたが、改めてこの城の素晴らしに触れた思いがしました。また、この時期にあっても下草などがなく、ほぼ完全な感じで遺構がみられることにも感激しました。
          まったくもって実に素晴らしくいい城址です
参考文献
『甲信越の名城を歩く 新潟編』 福原圭一・水澤幸一編  吉川弘文館
『図説 中世城郭事典 Ⅱ』 新人物往来社
『中世東国の領域と城館』 齋藤慎一著 吉川弘文館
『「城取り」の軍事学』 西股総成著 Gakken
「戦国後期越後上杉氏の城館と権力ー上・中越地域から長野県北部地域を中心としてー」
              遠藤公洋 上越教育大学大学院修士論文・2004年
『上杉氏年表』 高志書院
『北条氏年表』 高志書院

 


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