古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

相模国

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

鐘ヶ塚砦

 鐘ヶ塚砦は、足柄上郡山北町都夫良野675−5の山北つぶらの公園内にある比高20m(駐車場からで、林道入口の安戸交差点からだと比高300m)の砦です。最近、山北町の国246号を通った際に「山北つぶらの公園」の目新しい標識が目に入り、一度行ってみようかな〜と思て検索しましたら、案内図の中に鐘ヶ塚砦跡を見つけました。以前、河村新城について調べた際に、する駿相国境の古道に「奥山家(おくやまが)古道」があり、河村城と河村新城を繋ぐ砦跡が設けられていたたことを知り、一度歩いてみたいと思っていました。「山北つぶらの公園」は、今年の3月に開園した新しい公園です。砦跡のつつじ山は、木々と藪に覆われていたようですが、現在は整地されきれいになっています。砦の遺構がどのくらいあったのかはわかりませんが、繋ぎの砦てすからさほどの造成もなされていなかったと思われますので、現在の姿とさほど違いはないのかもしれません。ただ、西に河村新城、東に河村城がくっきり見え繋ぎの砦の地としては、最高の立地です。訪城日:2017.9.29 晴れ
イメージ 1山北市街の西端の安戸交差点を右折して公園案内の標識に従い3km程進むと都夫良野地蔵堂があり、そのすく先を右折すると公園駐車場に着きます。砦には、徒歩10分ほどて着きます。





イメージ 2山北つぶらの公園の施設マップに加筆しています。計画面積が106haで現在開設されているのが約18haのようです。砦は南西端のつつじ山にあったとされています。西側にくっきりと富士山が見え、よく整備された公園になっています。


 鐘ヶ塚砦の築城時期は不明ですが、河村城と河村新城の繋ぎの砦として北条氏が設けたものと考えられます。
元亀2年(1571)に駿河国駿東郡北部の境目の拠点城である深沢城が武田方に落ちたため、それ以後河村口の境目の城が河村城になり、北条氏は国境防備の強化を強いられています。元亀2年に河村城の2度改修されているのもそのようなことからでしょう。河村新城の史料初見は天正10年(1582)の「新城普請」です。それ以後河村口では河村城は出てきませんで、新城(河村の名はついていません)だけになります。このことからすると、河村口の拠点城は「新城」となり、「新城」と河村城を繋ぐ砦として鐘ヶ塚砦が設けられたと。ですが、河村城からは西側の駿相国境は監視できませんから、新城築城以前からあったと考えたほうがが自然のように思えます。
だだ、「新城」を河村新城とするのが定説ですが、以前、河村口の河村城・河村新城について考えたことがあり、「新城」は現河村城の西側の本城郭・蔵郭を中心とするところではないか推察しました。「新城」が河村城西側と考えるとすると、河村新城は国境の境目の砦として「新城」以前からあり、鐘ヶ塚砦は、それらをつなぐ砦だったとなります。
※戦国余話に河村城と新城1〜5あります。イメージ 3
鐘ヶ塚砦跡は、つつじ山が推定地です。実際に行ってみますとつつじ山からは、西側に河村城から背後の小田原方面が一望できます。ただ、東側の河村新城や県境の小山町方面はちっと見にくいです。
さくら山からは、河村新城や小山町・御殿場方面は一望できます。
このことからすると鐘ヶ塚砦は、さくら山からつつじ山の尾根が砦だったのではないかと思いました。イメージ 4




さくら山からの西側の眺望で、河村新城や御殿場方面が望めます。



イメージ 5





河村新城がくっきりと望め、木々かなければ人の動きも手に取るように見えるのかもしれません。
イメージ 6


この日は、富士山に雲がかかり頂上部がちらっと見える程度で、残念でした。紅葉の時期なりましたら、もう一度訪れてみたいと思います。

イメージ 7



さくら山展望広場からつつじ山へ向かう尾根を下った所です。さくら山からつつじ山に繋がるこの尾根が両ピークの連絡道だったのかもしれません。

イメージ 8


尾根の北側下の管理等のある所からつつじ山展望広場(鐘ヶ塚砦跡)を見ています。比高で20m程ですか。


イメージ 9



つつじ山展望広場で、南北50m、東西20m程ですか。周辺を見ましたが、遺構らしきものは見当たりませんでした。

イメージ 10


つつじ山展望広場からさくら山展望広場方面を見ていますが、標高がほぼ同じですので西側の河村新城や御殿場方面は見えません。

イメージ 11



つつじ山展望広場から西側の小田原方面です。駿河湾なども見え、とても展望が良いです。


イメージ 12


河村城の位置を間違えまして、端っこになってしまいました。

鐘ヶ塚砦跡は、以上です。よく整備された公園になっていて、長い滑り台などもあり、子どもさんも楽しめる感じもあり、行楽で訪れてもいいところです。


イメージ 13公園を出て西側の道を進むと頼朝桜があります。その近くに「奥山家(おくやまが)古道」の説明板がありましたので載せておきます。
「天保年間に編纂された゜新編相模国風土記稿」によると、近世の山北には川村山北、川村岸、川村向原之3カ村と、西山家9カ村(皆瀬川、都夫良野、湯触、川西、山市場、玄倉、世附、中川)、平山、谷峨の村がありました。この西山家9カ村の内、玄倉、世附、中川は、西山家の奥、西丹沢へ通じる山深いところにあったため、奥山家3カ村とも呼ばれていました。この奥山家へ通じる道であることから、奥山家道と呼ばれました。」

現在は、かなり広い道になっていますが、一部尾根道がいまでもあるようです。地蔵堂なども残ることから近世以前からあった道と思われ、戦国期にも使われていたのではないかと思います。


この記事に

開く コメント(0)

花岳城

 花岳城は、小田原市城山2丁目にあります。大森氏の小田原での最初期の城館され、現在は城源寺があり、城跡としての遺構は皆無です。小田原城街歩きガイドには、「応永24(1417)年に上杉禅秀の乱後、駿河の駿東郡の大森氏が勢力を小田原まで伸ばし、現在の八幡山の位置に城を築いたと言われます。『相中雑志』によれば、現在の城源寺は、大森氏の花岳城の跡を号したと書かれています。位置は少し違い谷津地区のようですが、初期の小田原城はこの位置だった可能性もあります。」と書かれていて、後北条氏以前の大森時代の小田原に興味があり、その流れの中で行ってみました。      訪イメージ 4問日:2013.7.31 晴れ
  城源寺へは、小田原駅新幹線口を出て10分ほどです。
イメージ 1
  左図は、森幸夫著『小田原北条氏権力の諸相ーその政治的断面ー』に掲載された「小田原城城域図」です。街道と花岳城の位置を加筆しています。
 
イメージ 2
 大通りから入って、城源寺(写真正面)に向かう道です。右手に公園のような広場があります。その入口に石碑があり、側面に山号の由来と城の簡単な説明がありました。
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 石碑には、以下のように書かれています。
「花岳山城源寺は鎌倉時代末期の創建 正中2(1325)年6月12日 開山道蓮社大誉上人直原大和尚卒と新編相模風土記は記す
花岳の山号は大森信濃守頼顕がこの地に築いた花岳城に由来す 花咲き誇る城址の名残を今に止める」
 
街歩きガイドの「初期の小田原城はこの位置だった可能性」や石碑の「大森信濃守頼顕がこの地に築いた花岳城」とあり、この地が大森氏に由来する地としていますが、どうなのかちっと考えてみようと思います。
 さて、その大森氏は、駿河国駿東郡大森を本貫地とする土豪で、南北朝のころには駿東郡から箱根道に連なる交通網の拠点を押える実力者として歴史に現れ、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱の戦功により、小田原を領するようになったとされています。さらに、永享4年(1432)関東公方足利持氏が大森信濃守に「小田原宿関所」で三年間鎌倉松岡八幡宮修理のための関賃を徴収させていることから、大森氏の小田原支配の実効性が読み取れます。そして、『鎌倉大草紙』によれば康正2年(1456)ころ大森安楽斎父子が竹の下(駿東郡)より起て小田原の城をとり立近郷を横領したと記されています。どうも大筋としては、大森氏が、小田原とかかわりを持つのが15世紀初頭からで、その拠点としては交通量の多い小田原宿(宮前町の松原神社を中心とする地域と推定されています)近くと推定されます。(※1)
 そうしますと、この花岳城をどう考えるかです。石碑にある大森信濃守頼顕は、大森系図からしますと大森安楽斎(頼春)の曽祖父になります。(※2)大森安楽斎が活躍した時期が15世紀前半と考えられますから、大森信濃守頼顕は14世紀中ごろの人物だったのではないでしょうか。その時期に大森氏が小田原の地に館を持っていたとはちっと考えにくいですが、花岳の地が小田原の中心部(小田原宿)からかなり離れてことからすると、何かの布石として入ったのではないかと思われます。それは、この時期の政治情勢がらみだったのではないかと思われます。15世紀の大森氏嫡流が、鎌倉公方とのつながりが強くことからしますと、14世紀後半の南北朝期においても鎌倉公方の与党だった思われ、当時の小田原を領していたのが反公方方の土肥・土屋氏で、交通の要所である箱根・小田原を公方方が抑えるという先兵として入ったのではないかと邪推するのですがね。イメージ 5
 左図のように花岳城は、東に口を開ける三方を囲まれた谷津地形で中世の館としてはもってこいの地形にあります。
(別冊歴史読本『早雲と北条一族』掲載の「小田原城復元図」より)
 
イメージ 6   大道通りからの谷津地形        
                                   
 ※1 佐々木健策「相模府中小田原の構造ー小田原城に見る本拠地と大名権力ー」(『中世東国の世界3』P81)
大森氏の拠点として考えると、「大森氏は小峰から東海道を俯瞰する丘陵上に要害としての城を置き、15世紀代の遺跡が確認される三の丸北堀や犯藩校集成館跡などの丘陵先端部とそこに付随する低地部を用いることで、城域を構成していたと考えるのが妥当と思われる。」
※2 大森氏系図
惟頼ー頼顕ー藤頼ー頼明ー頼春ー-憲頼     
                     |-氏頼
  大森氏関連のサイトによりますと、頼春(生年不詳−応仁3年(1469))、氏頼(生年不詳 -明応3年(1494))とのことです。さらに、応永29年(1422)に家督を頼春から譲られていると。何かつじつまが合わない感じです。
 
参考文献
森幸夫著『小田原北条氏権力の諸相ーその政治的断面ー』(日本史史料研究会研究選書5)
佐々木健策「相模府中小田原の構造ー小田原城に見る本拠地と大名権力ー」(『中世東国の世界3』) 
 

この記事に

開く コメント(0)

石垣山城

 石垣山城は、別名太閤一夜城とも呼ばれ、小田原市早川の標高261mの石垣山にある山城です。豊臣秀吉が、小田原城攻めに築いた関東では、初めての総石垣の城です。一夜城として有名ですが、着工から完成まで82日間かかったようです。石垣山城は、小田原城より西南約3kmにあります。小田原城と石垣山城の位置関係をしめしておきます。
イメージ 1
 城内にある『石垣山一夜城の構造』と書かれた説明板があります。城址にある説明板としては、出来がよくちょっとお目にかかれないものですから、そのまま書き写しておきます。
『 石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。小田原城の本丸より227m高く、また小田原城までの距離はわずか3kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮を取るには最もてきした場所といえます。
 この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。しかし、実際には約四万人が動員され、天正18年(1590)の4月初めから6月下旬までの80日間が費やされました。
 城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸屋北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については享保5年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。
 城道は、井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東ルートの二筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には枡形と呼ばれる屈曲した構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは秀吉の威信を示していました。
 現在、石垣や郭などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mあります。
                         平成2年3月   小田原市
 分かりやすく城址を説明していますが、『関東の名城を歩く南関東編』で佐々木建策氏(小田原市文化財課)が最新の研究成果をもとにして詳しく書かれていますので参照してください。それによりますと、当時の城名は不明だったとか、石垣の説明もありま。下図は、説明板にある城図に加筆しています。
イメージ 2
城址へは、国135号を早川を渡ったらすぐに左折して、漁港まで行かない所で右折して、早川信号を直進するようにします。(国道から早川信号で右折できませんので)少し進むと左手に城址への道標があり、そこを左折しますとつきます。
 
 
 
イメージ 3 早川漁港辺りから登る道は、みかん畑の一本道で、眼下に小田原市街や小田原城が見える景観の良い道です。この道がかっての太閤道沿いのようで石垣山に参陣した武将の紹介の看板もあります。
 昨年の11月に地域活性化を銘打って「一夜城 Yoyoizuka Farm」ができまして、このお店と城址の駐車場となっています。なかなか人気のお店で、土日はかなり混みますから、ご注意ください。どうもここが太閤さんの一夜城とは知らない方もいられるようで、「庇を貸して母屋を撮られる」と云った感じのようです。(笑)
イメージ 4
 南曲輪の隅石垣です。石垣山城で残る石垣の中で最大級のもので、残り具合も良好です。石垣の崩壊は、関東大震災の影響によるものと云われています。
イメージ 6
 南曲輪と東曲輪の間を通る城道の東ルートで、左手に曲がりますと、南曲輪の虎口に到ります。
 
イメージ 7 本城西下の西郭です。本丸の切岸は、高5mほどで、ところどころに石垣が残ります。
 
 西郭の虎口?になりますか。
イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9
 本城東門の枡形虎口ですが、かろうじて分かる程度の残り具合です。
 
イメージ 10
 本城より見た、天守台です。ここも関東大震災で崩壊して小山になっています。周辺からは瓦が出土していますので、瓦葺の天守が建っていたと考えられています。
イメージ 11
 本城からの小田原市街地で、右手に相模灘、遠くに見えるのが三浦半島になりますか。ここからは、小田原城は、見えません。
 
イメージ 5
 本城北門の枡形虎口で、石垣は崩れていますが、桝形の形が読み取れます。
 
 
イメージ 12
 本城北側の切岸で、高さイメージ 1310mほどで一部崩落していますが、石垣が見られます。
 
 
イメージ 15
イメージ 14
イメージ 16 石垣山城最大の見どころといえる井戸曲輪です。「淀君化粧井戸」とか「さざゑの井戸」と呼ばれ、馬屋曲輪から25m下がったところにあり、自然地形の沢を石塁でせき止めて造られており、今でも湧き出る水が見られます。
 
 参考文献
「関東の名城を歩く 南関東編」 吉川弘文館

この記事に

開く コメント(4)

岡崎城

 岡崎城は、伊勢原市大句・平塚市岡崎にある丘城で、伊勢原市指定史跡になっています。城址へは、伊勢原市街より、県道61号を南下して、馬渡信号で右折して約500m先の岡崎福祉館のある所で左折します。道なりに行きますと、無量寺です。駐車場はありませんので、お寺前あたりに路駐します。 訪城 2011.7.10
 城址については、無量寺にある説明板には次のように書かれています。
イメージ 4 「相模岡崎城は平安時代の末、三浦大介義明の末弟岡崎四郎義実(1200没)によって築かれた。岡崎義実は源頼朝に仕えた鎌倉幕府創立の功臣で、その嫡子余一義忠を岡崎城の西方真田城においた。真田義忠は治承4年(1180)、石橋山合戦で討死、その名を残し、義実もまた悪四郎と呼ばれる豪勇の将であった。
 明応3年(1494)三浦義同(導寸)は養父三浦時高を滅ぼして子義意を三浦の新井城におき、自らは相模岡崎の城を取立てて工を加え居城とした。周囲には西海地土腐をはじめとする湿地がめぐり、南は断崖で「岡崎の城ともうすは、昔し頼朝の御時、三浦大介の弟、岡崎悪四郎義実が住みし城とぞ聞こえし三浦の一門数年住せし処、要害きびしく支度せり」(小田原記)とあるように天下の要害であった。
 永正9年(1512)8月伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、伊豆相模両国の兵を集めて岡崎に猛攻を加え、遂にこれを攻め落とした。三浦義同は弟道香の拠る逗子小坪の住吉城にのがれ、更に三浦の新井城に籠り一族と共に滅んだ。その後は北条氏の持ち城となったと思われるが、廃された年代は詳らかでない。                                        
伊勢原市教育委員会
 
 鎌倉武士の岡崎氏が当地を領していたのは間違いないとしても、城を築いたとは考えられませんで、館を岡崎のどこかに設けたのでしよう。岡崎氏は、建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛に与して没落し、その後当地は近藤氏が領したようです。その後の領有関係は定かではありませんが、応永23年(1416)の上杉禅全の乱で大森氏が台頭し、相模西郡に勢力を伸ばしており、岡崎城南方の紫雲寺が大森氏頼の館跡とも言われていますので、岡崎の地も大森氏の勢力下にあった可能性があります。   戦国前期の相模は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争が続き、その間隙を縫って伊勢氏と三浦氏が勢力を拡大していったことが指摘されています。三浦義同(道寸)は、明応3年(1494)に三浦新井城の三浦時高を大森氏と与して討ち、当主になったとされています。また、伊勢宗瑞が大森氏より小田原城を攻略し相模西郡を領有したのが明応5年(1496)から文亀元年(1501)の間と考えられています。
  伊勢宗瑞が、相模守護扇谷上杉朝良と関東管領山内上杉顕定に敵対し明確に相模経略を始めたのが永正6年(1509)8月です。それは、越後の内乱に介入した山内上杉顕定が越後に出陣した隙を狙ったもののようで、両上杉や三浦道寸らへの攻撃をはじめ、江戸城辺りまで攻めこみます。翌年になりますと、6月に顕定が越後で戦死するのを受けて、扇谷上杉朝良の宿老上田蔵人入道政盛が宗瑞方になり、神奈川の権現山城で反旗を翻し、宗瑞も相模中郡で高麗寺要害と住吉要害を取立てました。しかし、伊勢宗瑞の動きもそこまでのようで、山内上杉憲房の援軍を得た扇谷上杉朝良・三浦道寸らによって反攻を受け相模経略は一時とん挫します。
 この時に、中郡住吉要害を攻略したのが三浦道寸・義意父子です。当時、岡崎は、三浦氏の所領だったようで、岡崎城が、伊勢氏を押さえ、監視するために、扇谷上杉方の軍事拠点とし取り立てられ、三浦義意が在城していたと黒田基樹氏は推測しています。
 永正9年になると、山内上杉氏の内訌と古河公方足利氏の内訌が起こり、両上杉氏の抗争がまたまた起こってきた隙をついて、宗瑞の相模経略が開始され、目の上のこぶである岡崎城を最初に攻撃したようで、8月の初めに攻め初め、12日に岡崎城から出撃した在城勢と岡崎台で合戦があり、翌日岡崎城を攻略したようで、この時の戦功を賞する感状があり、北条氏綱加判文書の初見のようです。
 その後、岡崎城についての史料は見られなくなり、伊勢氏=後北条氏がどのようにしたかは定かではありません。『中世城館事典Ⅰ』では「相模平野の西の政庁として戦国時代末期まで機能していたと見てよい。」とされますが、中郡の郡役所が秦野市の田原城におかれ、大藤氏が郡代とされていることからすると、比較的早い時期に廃城とされたのではないかと思うのです。なお、後北条時代の岡崎の地は、後北条氏の直轄地で、『所領役帳』によれば足軽衆の給田335貫文が記載されています。
イメージ 1
 城址の目標地の無量寺です。ここを中心に遺構が残っています。『中世城郭事典Ⅰ』では、ここを「無量寺の一画が開発領主時代からの居館であり、戦国期に入ってその西側の三郭が併設されたものと思われる」としています。この一画が当城の主郭というのは、縄張り的にうなずけますが、開発領主時代からの居館かどうかは?ですね。大森氏頼の館跡といわれる紫雲寺近くの高台に岡崎南方方形囲郭群と称される城館遺構が見とめられ、そちらが開発領主時代からの居館と考えた方がいいのではないかと思います。
 
イメージ 2イメージ 3西側の尾根に残る郭と堀切です。土塁は見とめられませんが、堀切の規模はかなりのものです。『事典』は、大空堀(5郭の北側)や堀切の規模の大きさを指摘して、「個々の曲輪の形態は、いかにも初期のものという印象を受ける」と。このことは、同感ですね。ですから、あえて北条が手を入れたと考えることもないのではないかと思うのですがね。
イメージ 5
 2郭北側にある5郭です。周囲を空堀に囲まれた郭で、さほどの広さはありませんで、馬出なのではないかと考えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
5郭北側の蛇行している大空堀です。現在は畑に領されていますが、上巾20mほどはあろうというものです。かなりの大規模で、主郭背後の丘陵から遮断するものだったのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7
 無量寺の南側は、丘陵の張り出した尾根に挟まれた谷間になっていまして、その東の尾根にも遺構らしきものが見られます。写真は、6で櫓台跡のように思えます。
 
参考文献
「中世城郭事典Ⅰ」
「奔る雲のごとく」
「戦国北条一族」
「東国の戦国合戦」
 
 
 
  岡崎城は、無量寺周辺に残る遺構は以上のようなものですが、これだけでなく城域はもっと広いという方もおられ、以前に見に行った際に造った図を載せておきます。図の表示が、岡崎城のものかどうかは?です。
イメージ 8

この記事に

開く コメント(2)

相模 丸山城

伊勢原の丸山城は、扇谷上杉氏の相模守護所の有力候補地で、公園整備されているとのことで、昨年の4月に様子を見にいきましイメージ 1たが整備途中でしたので、改めて訪れてきました。
 左図は、「丸山城址公園」の案内板に加筆したものです。駐車場・トイレ・案内板などが設置されて、まさに公園です。案内板の説明を読まなければ、ここがお城址とは思わない感じの整備の仕方といった感じです。場所は、国246号線沿いにありますから分かりやすいのですが、駐車場への案内がなく初めて行く方には分かりにくいでしょう。伊勢原市役所方面から行きますと、糟谷信号の一つ先の信号を左折して、すぐにまた左折しますと駐車場に着きます。
 
 
 
 
 
 
 
 相模守護所=上杉定正館とされている「糟谷館」は、太田道灌暗殺の場所として有名で、二か所の推定地があります。上粕屋の産業能率大学付近の御伊勢の森辺りが、一般的の説でのようです。発掘調査もおこなわれ、大溝・掘立柱建物跡などが検出し、青磁・白磁などの威信物も出ています。ですが、この地が「糟谷館」という決定的な決め手にはなっていないのが現状でした。
 一方、「糟谷」の領域が「下糟谷」だけを指しているという研究成果もあることから「下糟谷」にある丸山城がクローズアップされてきたという経過があります。1987年より発掘調査が行われ、2008年には堀幅約16m、深さ7.5mで堀底に大規模な堀障子のある堀が確認され、虎口状の遺構も見つかっています。さらに、出土したかわらけが15C後半の扇谷上杉氏のイメージ 2ウズマキかわらけということもあって、こちら側を「糟谷館」と市教委は考えている感じもします。城址説明板には「室町後期には太田道灌が活躍し、道灌の主君である上杉定正に関連する城(館)の可能性が考えられます。」とあります。
 また、城址については、発掘調査から「丸山城址の中心部分は、高部屋神社を中核に、西は東海大学病院のある上ノ台地区、東は普済寺あたりの、東西約1km、南北400mの丘陵上と考えられ」としていますので、かなりの規模の城だったと思います。
 
 
 
 
 
イメージ 3
多目的広場にある説明板で、図と埋蔵遺構の写真を載せていまして、分かりやすい掲示だと思います。
イメージ 4
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
写真 左は、多目的広場になっている曲輪跡です。かっては畑で、墓地としてかろうじて残っていた土塁(写真右奥)へは行けましたが、写真辺りの土塁の様子は藪状態で、見に行った城仲間の方が藪中に落ち込んでしまったこともありました。それが、こんなにすらっと見らられるというのも、公園化のいい所ですかな。
イメージ 8イメージ 6
イメージ 7
 
 
イメージ 9
 多目的広場になっている曲輪を取り巻く腰曲輪を東側(駐車場)から順に北、西へと撮ったものです。発掘された堀・虎口・建物址などは埋め戻されています。北側(写真中)の堀は、幅6〜9m深さ2〜3mで、虎口・道路状遺構もみつかっています。写真下を見ますと北側はかなりの段差が認められまして、こんなに高さがあったかのかと、驚かされました。
 写真右は、西側の土塁下の横矢の所です。ここの堀は、規模が大きく幅約16m、深さ5m以上で、底面に段差があり仕切り(障子)状の施設も出ています。
 
イメージ 10
 丸山城の中心部分である高部屋神社へは、国道にかかる橋を渡ると行けます。高部屋神社の周りにも堀や土塁が見られましたが、宅地造成でそれは見られなくなりまして残念なことです。近くには、同感の墓地もありますのでよって見るのもいいかと思います。

この記事に

開く コメント(4)

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事