古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

甲斐国

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勝沼氏館ーその弐ー

 勝沼氏館の外郭部の東郭が一部復元していますので紹介します。
イメージ 5現地案内板より
 勝沼氏館跡は、日川扇状地の扇頂部、日川の断崖を背にした場所に位置しています。調査以前はこの辺一帯ぶどう畑として利用されていましたが、調査の結果、15世紀の館は内部とそれらを取り巻く近接する二重堀により護られた外郭帯から構成され、その後、16世紀には改修し、「内郭」『北西郭」「東郭」「北郭」の4つの郭で構成されていたことがわかりました。
 東郭からは職人工房の建物跡、東郭東門の外側からは家臣屋敷と考えられる建物跡が発見されました。内郭部の建物が礎石の上に柱を立てる構造で建築されているのに対し、外郭部の建物は、掘った穴に柱を建てる掘立柱建築となっています。工房は出土した遺物から、木製品や金属製品の生産に関わる工房であったと考えられています。他にも、堀や土塁、内郭部へ飲料水を供給する役割を担った水溜りや水路の存在も確認されています。
 堀や土塁は時代が新しくなるに従って順次東方へ移設され、東部の規模が拡大したことが分ります。これらの復元された遺構から、東郭の当時の様子を窺い知ることができ、内郭部と外郭部の性格の違いを見ることができます。
 勝沼氏館跡は、今後、さらなる調査・整備を進めていく予定です。      山梨県・甲州市
イメージ 1東郭東門の北側の復元土塁。

イメージ 2





東郭内の浄水設備で、左手の溝が「排泥処理溝」で、右手の溝が「飲料水城下水路」のようです。
ただ、ここのイメージ 3説明板がこんな感じですのどんな構造であったかわかりません。




イメージ 4


東郭内の職人工房の建物跡なのでしょうか。


イメージ 6





東郭東門外側から二棟の武家屋敷跡が見つかり、北側の屋敷を復元したものです。広さは100坪ほどで中級クラスの屋敷だったと推定できるようです。16世紀代の屋敷で、4回の建て替えがあったようです。イメージ 7
ここの説明板もこんな感じで読み取りにくいのですが、それでも読めますので、載せておきます。
 北側の屋敷の方が格式が高く、内郭に水を供給する水路から取水していることから、水質を管理す重要な役割を担う人物の屋敷だったと考えられるようです。
(南屋敷は井戸から取水している)





  発掘調査をもとにして、良い状態で保存整備されています。ただ、以前の訪れた時より荒れているのが残念です。ですが、中世の城館を知るには貴重な遺構ですので、機会があれば一度訪れてみていただきたいと思います。

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勝沼氏館ーその壱ー

 
勝沼氏館は、甲州市勝沼町勝沼字御池にある国指定の館跡です。勝沼氏館には、かなり前に一度訪れていますが、復元された内郭部しか見ていませで、周辺にも遺構があるとのことでしたので、塩山の知人を訪れるついでに寄ってみました。       訪城日:2016.8.27  くもり一時雨イメージ 1
 館跡へは、中央道勝沼ICを降り、国20号を東に向かい柏尾信号で左折します。600m先左手に専用駐車場があります。
 駐車場から南側(草地)を進むと右手に内堀が見えます。イメージ 2









 勝沼氏館は、武田信縄(武田氏第17代)の子で武田信虎の同母弟である左衛門大輔信友とその子信元の館といわれています。『甲陽軍鑑』には永禄3年(1560)に勝沼五郎成敗が書かれていて、この勝沼五郎を信元としていますが、最近の研究によると「勝沼信元なる人物は存在しない。」とされるようです。(『全国国衆ガイド』勝沼今井氏の項)発掘調査の成果からも、15世紀から16世紀後半にかけて存続したと推定されています。
 勝沼の地は、国中と呼ばれる甲府盆地の東端にあり、すぐ東側の御坂山地の笹子峠を越えると、郡内小山田氏の支配地域の郡内地方になります。近世に甲州街道の勝沼宿として栄えた場所で、郡内地方から相模に抜ける笹子口の要の位置にあります。中世においても国中の武田守護家と郡内小山田氏の抗争時に国中の防衛拠点として重要な役割を果たしたと思われます。
 発掘調査と秋山敬氏の研究(「勝沼氏館」の館主について)から館の歴史をかいつまんで書いておきます。
 館跡の発掘調査では、時期変遷が大きく3時期に分けられています。第1期は15世紀代、第2期は16世紀前葉、第3期は16世紀中葉以降のようです。
 第1期(15世紀代)は、武田氏庶流の国中東部の有力国衆の栗原氏によって造成されたと推定されます。栗原氏2代目信通が15世紀半ば前後に造成した可能性が高いと思われます。発掘調査から、内郭部だけの単郭構造で、内郭の出入口が東門だったようです。
 第2期(16世紀前葉)は、武田氏一族で栗原氏に入婿した栗原式部大輔、イメージ 3その子信友の時期と推定されるようです。この時期になると、外郭帯が北郭・北西郭・東郭に拡大し、内郭は二重の堀と土塁によって囲郭され、出入り口が北西部分に移動するといった防御性を高めた構造に成るようです。右図は、第2期の発掘調査から推定図です。
 明応元年(1492)に『勝山記』で「甲州乱国ニ成り始テ候成」とかかれた、武田守護家の家督争い(16代武田信昌・油川信恵対⇔武田信縄)が国衆や隣国の大名を巻き込んで争われ「国中大乱」という状況に陥って行きます。その際に、栗原信遠(栗原信通の孫)は信恵方の大将として活躍したようですが、信縄方が勝利し両派が明応7年(1498)に和睦がなされます。しかし、明応10年(1501)栗原信遠が生涯し、同日に栗原式部大輔に騎馬二百騎が預けられています。このことは、守護信縄が信昌・信恵方の信遠を粛清し、自派の息のかかる式部大輔を栗原氏に入れ、信昌・信恵方の郡内小山田氏に備えて笹子口を確保したものと考えられるようです。式部大輔の子が、左衛門大輔信友と思われます。信友は、天文4年(1535)信虎と今川氏輝との抗争で援軍として籠坂口から郡内に侵攻した北条氏綱との合戦で多くの勝沼衆と共に戦死します。信友戦死後の勝沼氏館主は空白で、信元の名を記録する史料ないことから実在していないのではないかと思われます。
 第3期(16世紀中葉以降)は、府中今井氏の今井信甫とその子信良の時期と推定されるようです。この時期は、内郭二重堀・土塁のうち、外側の堀・土塁が破壊され、その部分に新たに大型の掘立柱建物が建てられたようです。
 今井氏の勝沼居住が信友の戦死した天文4年直後から始まっているようで、天文9年(1540)に大善寺(勝沼氏館より東に900m)の本堂修理に檀那として奉加してイメージ 4いることからこの頃にはすでに勝沼氏館の館主になっていたものと思われます。永禄3年(1560)勝沼五郎が長尾景虎方の武蔵国衆の藤田・大石氏の地用楽に応じ、謀略を企てたとして信玄に成敗されたと『甲陽軍鑑』に書かれています。この時期の勝沼氏館主は,今井信良と推定されますから、勝沼五郎は今井信良といえます。さらに、これ以後今井氏が史料上に登場しないことからも受け入れられる説のようです。イメージ 6
 内堀の屈曲部から東辺内堀を見たものです。上巾15mほどと推定されるようで、深さは現地表から5.6mのようです。南端の日川の断崖の手前に東門が設けられ、橋台石積があることから木橋が架かっていたと推測されるようです。第1期の東門は、東辺土塁中央部だったようです。イメージ 7




内堀の屈曲部から北辺内堀を見たものです。上巾10mほどで、第2期に北側に拡張したことにためなのか、堀・土塁とも東辺に比べて北辺の規模が小さくなっています。イメージ 5


 北門です。内郭部西端にありますが、右側が祝橋の取り付け道路建設で削り取られていますが、本来は右側(西側)に30m程続いていたようです。イメージ 8





内側から見た北門。門遺構は、門柱礎石とその両側に設けられた石積、通路面および通路縁石から構成されていたようです。ここの門柱礎石は当館最大で、かなりの大きい門が建っていたと推定されるようです。、廃絶段階では石積が崩され通路を閉鎖する処理が取られています。イメージ 9
 北門を入ると武者溜(広場)です。板塀に囲まれていたようです。イメージ 10






 番屋ー警備のための詰所




イメージ 11





工房ー土間の建物で、金属加工工房。金が付着した土器を多量に出土していますので、金に関わる工房だったのではないかと推定されるようです。イメージ 12


 会所―接客用の建物


イメージ 13




主屋ー主殿で間の中心的な建物
常の御座所ー館主の日常生活の場イメージ 14




 東門手前イメージ 15の櫓台


 




 東門ー橋台石積が出土しています。
以前、訪城した時には、木橋が架かっていたと記憶していましたが、無くなっていますね。

東郭はーその弐ーで。






参考文献
『甲斐の山城と館 下 東部・南部編』 宮坂武男著
『史跡勝沼氏館跡―内郭部発掘調査報告書(中世編)―』 甲州市教育委員会
「「勝沼氏館」の館主について」 秋山 敬(『史跡勝沼氏館跡―内郭部発掘調査報告書(中世編)―』)
『戦国大名武田氏の戦争と内政』 鈴木将典著
『全国国衆ガイド』 大石泰史編
『武田氏年表』 武田氏研究会編

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白山城の現状

 山梨県韮崎市神山町鍋山にある白山城に、昨日訪れてきましたので、その様子をアップします。地元の方々が草刈りなどを行っていただいているのか、とてもよい状態で遺構を見ることができました。この様子であれば、夏場でも十分に訪城できます。
イメージ 1
 白山城につきましては、以前にブログに載せていますのでご覧ください。
👇

今回は、城址南西の白山神社から訪城しました。


イメージ 2
 城址の南側を流れる白沢川辺りからの遠景です。撮影地点からの比高は、約80m程になります。今回遠景を取り忘れましたので、前回の訪城時(2014.7.19)に撮ったものを載せています。イメージ 3







登城口の白山神社で、城道は社イメージ 4左手にあります。



神社から数分登りますと、こんな感じになります。すぐ上が城域になります。下草が全くない状態。イメージ 5






当城の見どころの一つである、虎口Aです。三つの虎口が集まっています。ただ、2郭虎口と主郭虎口が近いのが、とうも気になってはいます。この点が、この城道が大手筋ではないのかな〜とも思ったりです。イメージ 6
3郭から2郭を撮ったものです。
↓主郭枡形虎口
イメージ 8








イメージ 7視角内部。イメージ 9








馬出へ渡る土橋。


イメージ 10








馬出。

イメージ 11
馬出の枡形虎口ですが、馬出の1/4ほどの大きさなんです。これほどの規模か必要だとすると、ここに至る道がかなり重要だったのではないかと思うのですがね。ここに至る道が大手だったのではないかと妄想を致しますが・・・???イメージ 12






南西尾根を遮断する堀切ウです。上巾15mで、かなりの規模で、箱堀なのでしょうか?

東下にある畝状竪堀群も下草が刈られていまして、見ることができます。ただ、埋まっているため薄く明確でないのが惜しいです。



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 白山城の登城路は、白山神社(Aルート)からと武田八幡宮(Bルート)からの2ルートがイメージ 1あり、白山神社の場所がわかりにくいことから、見つけやすい武田八幡宮からのBルートがよく利用されているようです。私も4回訪城していますが、すべてBルートです。そのため、是非Aルートからの訪城と新たに提案されている第三のルート観音堂からの城道も確認したいと思い、行ってきました。   訪城日:2014.7.19  くもり一時雨
 Bルートからの行き方は、-その壱ーをご覧ください。
 Cルートは、退却路と考えられていますので、写真等で紹介したいと思います。
Dルートについては、ーその参ーで説明していますのでご覧ください。イメージ 2
白山神社への道です。イメージ 4
 韮崎大村美術館から白沢川沿いに西に600mほど行き、右折します。
 
イメージ 3
右折してすぐ左手に白山神社への道があります。
 
 
 
イメージ 5
鳥獣除けフェンスの先が白山神社です。
登城口は、神社本殿左手です。
 
 
イメージ 6
イメージ 7
イメージ 8
 駐車場はありませんが、川沿いに空きスペースがあり、神社境内にも止められますが、川沿いの所がおすすめです。
 
イメージ 9 神社登城口からハの字状竪堀の間を登って10分もかからずに大手虎口に至ります。この造りが、武田系城郭の特色と挙げられています。この登城路にいては、「白山城と城下をつなぐ道」(閏間俊明『白山城の総合研究』)で疑念を以下のように提示しています。
「登って行った虎口は、現地表面観察では腰曲輪状のものが見られるが、登城路にあくまでも沿ってることと、この登城路により破壊されている土塁の存在から登城路を作る際に白山城跡の南側の一部を掘削したとの解釈も可能である。このことから白山神社からの登城路を往時にまでさかのぼらせることについイメージ 10ては消極的にあつかうべきであろう。」イメージ 11
 今回、丹念に観察してきましたが、なんも悩ましいものでした。虎口を挟む土塁を城内側から見ますと、平場の一角を掘削した感じを受けます。ただ、ハの字状竪堀の間に平場を設けているはここだけで南下の侍屋敷跡があることからすると、何らかの城道があったのではないかと思われます。
 
イメージ 12
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 虎口から2郭を巻いて2郭・主郭虎口部へ至ります。
 
イメージ 14
 2郭東下の腰郭から2郭虎口前を通り主郭南東虎口に至ります。3回折れて主郭に入ることになります。
 
 
 
 
 
イメージ 15
イメージ 16
  2郭虎口と2郭内部です。虎口横には土塁は見られませんが、破城として土塁が削平されたようです。(『戦国期の城と地域』P11)
 
 
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 3郭北側の堀と主郭南西土塁につなぐ土塁で、この土塁を通路と使ったと思われ、土塁上を通路とするのは、この城の特徴のようです。
 
 
 
 
ここから西下がCルートになります。
イメージ 18
 上巾15mの堀切ウで、上の土塁からの深さは10mほどはあります。堀底が広く、宮坂氏は「勢溜り」と推定しています。
 
 
 
 
イメージ 20
 堀切ウから西に30〜40mほど行った先にある堀切エです。堀切間の平場は、削平が多少甘い感じですが、水場にも近く小屋掛けの地だったのかもしれません。
 痩せ尾根の先に見張台とされる平場があります。北西尾根の
城域はここまでです。
イメージ 19
 
 
 このCルートを服部秀夫氏は、退却路としています。(「中世城郭論」『景観にさぐる中世』新人物往来社)
 
 
 
主郭南東虎口で、この虎口からの主郭全景です。イメージ 21
イメージ 22
 
 
 
 
 
 
 
Dルートです。
 堀切イ寄りから 虎口下段の平場に入り、枡形虎口に入ります。ここに至る道は、武田八幡宮からの道が、堀切アを越えてくるものと推定さイメージ 23れていました。イメージ 24
 
イメージ 25
 しかしながら、明治23年の地籍図に残る道から推定すると、麓の鍋山集落から最短で行ける道のようで、4郭枡形虎口に入る可能性が高い感じです。この道は、地元の方も知る人がいないようで、今回も地元の方にお聞きしてもないとのことでした。
 虎口から斜面を下り道を確かめようとしましたが、あいにの雨が知友視しました。後日根再調査に行きたいと思っています。イメージ 26
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 27
  鍋山集落内の観音堂からの白山城で、まさに手が届く感じで、このDルートはあったと確信しました。イメージ 28
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考文献
「白山城と城下をつなぐ道」(閏間俊明『白山城の総合研究』)
『甲斐の山城と館 上』 宮坂武男著

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 白山城の主郭に至る城道について少し考えてみたいと思います。
イメージ 1
 現在、白山城主郭に至る道(城道と想定されている)は、2ルートあります。白山神社からの道(Aルート)と武田八幡宮からの道(Bルート)です。 Aルートは、大手道と考えられ、ハの字竪堀の間を規則的に折れ曲がる九十九折で、途中三か所ほどに門跡も認められるようです。Bルートは、北西方向の武田八幡宮から登り北側に堀切を越えて4郭(馬出郭)に至ります。今は、4郭東の枡形虎口に回り込むことはしませんが、往時はそうだったのではないかと推定される方もいられます。Cルートは、退却路ととらえられるようです。城道とは言えないでしょうが。
 私も4回訪城ともすべてBルートで行っています。登城口がわかりやすく、駐車場もあることからこのルートを選んでいます。次回は、Aルートから登城したいとは思っています。
 
 2ルートの登城路ですが、「城道としてはたして適切なのか」という疑問を以前から抱いていました。
○Aルートの疑問イメージ 3
 ハの字の竪堀の間を登る城道は、要害山城や宮田城などでも見られますので城道としては何ら問題はないと思われます。南東腰郭から2郭を巻いて主郭南東虎口に至る道筋は(右写真)、進路を右左にに曲げ、上部郭からの横矢がかかる仕組みで、当城のうちでも最も巧みなな縄張りとなっています。ですが、2郭虎口と主郭虎口の余りの近さに何となく違和感を覚えていました。このルートからすれば、2郭虎口から主郭虎口を離した位置に設けるのではないかと思うのでが。
○Bルートの疑問
 4郭北側は緩やかな斜面で堀切アと2条竪堀で遮断していますが、こちらからの登城路はあるかもしれませんが、あまたの山城を見てきたものとしては城道としてはちっと違うのではないかと思いました。また、4郭東枡形虎口に入る城道とすれば、堀切アとイの間を登る道で、Bルートのように堀切アや竪堀を越えての城道はちっと違うのではと思っていました。
 大手が4郭枡形虎口で、4郭⇒堀切イ土橋⇒主郭東腰郭(横堀の堀底道か?)⇒主郭南東虎口となり、主郭南東虎口がこの位置にある意味が納得できるのではないかと思っていました。
 
 白山城のブログを書くのに文献を見ていましたら、、「白山城と城下をつなぐ道」(閏間俊明『白山城の総合研究』)が目に入りました。以前に読んではいましたが忘れていたんですね。ここに、第3の城道が推定されていました。イメージ 2
 「白山城と城下をつなぐ道」で提案される城道は、麓の鍋山集落より迂回することなく枡形虎口への道です。この道は、明治23年の地籍図に残る道ですが、現状では確認できず、地元でもその道を知る人もいないようです。
 この登城路は、集落の中心部から最短ルートで城に至る道で、しかも往時の往還(北西から南東に走る道)にもつながり、この道の成立時期については確定できないながらも、城機能時までさかのぼる可能性があるとしています。
 地籍図の道筋からすると、4郭虎口に至るルートの感じが濃厚で、小生の考えるルートが証明できるのではないかと思うのですがね。
 
 
 
 
 
 
 なお、聞き取り調査によれば、Bルートは、昭和初期には存在しておらず、あとからつけられた可能性が高いことや、Aルートも本来の遺構を掘削して登城路を作った可能性も考えられるようです。
 と、いうことでかなり確証の高い城道と思われ、一度調べに行ってみようと思います。もし、この城道が想定されれば、大手虎口は、4郭の枡形虎口となり、従来の縄張りについても再考しなければならなくなるのでしょう。

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