古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

上野国

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行沢(なめさわ)城

 行川城は、富岡市妙義町行沢字上村にある比高25mの丘城です。    訪城日:2019.3.15  晴れ
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城址へは、上信越道松井田妙義ICを降り、県道51号を下仁田方面に5kmほど進み、北山信号を過ぎた先で斜め右側に入ります。500mほど先の右手の丘が、城址です。登城口の先の路肩に空きスペースがあり、車を駐車できます。イメージ 2







イメージ 3 
 当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、高田氏家来の田村山城守が城主であったと伝えられているようです。
 県道51号線沿いに諸戸城、高田氏館、菅原城などがあり、松井田方面から杉ノ木峠を越えて下仁田に出て、佐久へ向かう街道沿いにあることから、他の城と連携して街道監視に当たっていたものと思われます。

 


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登城口です。左手が、屋敷前の地名ですので、一段高い5郭が居館跡にあるのでしょう。

イメージ 5







東側からの5郭。イメージ 6



道が見当たりませんでしたので、5郭から斜面をよじ登り、東に進むと堀切イでした。上巾14m程です。イメージ 7







2郭です。
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主郭虎口から見た、上巾12mの堀切アです。5郭からこの堀切を通って主郭に入ったのではないかと思います。イメージ 9




主郭で、南を除いて低い土塁がまわっています。イメージ 10






3郭です。イメージ 11





県道から見た4郭です。ここに配水所があり、そこに行ける道があるようです。


行沢城は、尾根先に4つの郭を並べた連郭式の砦ですが、主な郭が主郭まみという小規模なものです。街道監視としては、この程度のもので十分だったのでしょう。

参考文献

『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』 宮坂武男著


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諸戸城

  諸戸城は、富岡市妙義町諸戸字坊山にある比高60m程の山城です。冬場に信州に行く際に関越道から上信越道経由で行きます。行くついでに冨岡や下仁田のお城めぐりをしています。今回も、諸戸城や行沢城などを訪城してきました。                                     訪城日:2019.3.15  晴れ
イメージ 1 城址へは、上信越道松井田妙義ICを降り、県道51号を下仁田方面に5kmほど進み、北山信号を過ぎた先で斜め右側に入り、妙義小を目指します。妙義小の北側の道を学校から約300m進むと右手に吾妻神社があります。ここが登城口になり、車は道路脇に停めました。
神社じゃ背後の斜面を直登しましたが、どうも若宮八幡宮上に林道が通っているようで、こちらから行くとすんなり行けるようです。


イメージ 2当城についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。ただ、戦国期妙義一帯を領した高田氏の中心部に位置することから高田氏のかかわる城砦と考えられます。







イメージ 3道路からの吾妻神社で、中央に社が見えます。その左手の丘陵が城址です。

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神社背後の斜面です。ここに取り付き直登しました。比高で40m程ですが、かなりきつかったです。イメージ 5

登り切って着いた東尾根です。宮坂本では、なん条かの堀切があったようですが、林道造成でなくなっているようで、窪んだのがかろうじて堀切跡のようで、堀切アと思われます。
当城は、主郭のみの単郭で主郭から派生する4本の尾根を堀切を持って遮断しています。イメージ 6




堀切の中でも最大の堀切エで、上巾12m程です。イメージ 7






主郭で、45×15m程の広さです。比較的削平されていいます。イメージ 8



主郭虎口は、堀切エの上側西南端にり、枡形になっています。写真が撮りにくく、わかりにくいですが。イメージ 9






南尾根で、先端は物見台と思われます。少しは比高が低くなるかと思い、こちらから神社に下りましたが、結構な斜面でした。どうも、神社背後の斜面は、どこからもきついです。東側の林道からが登城路としてはいいようです。

参考文献

『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』 宮坂武男著


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碓氷峠の城

 碓氷峠の城は、安中市松井田町峠の旧中山道の碓氷峠の群馬県よりの山中にあります。平成29年5月に碓氷峠に陣城の遺構が発見されたという記事が掲載され、山城マニアでは結構な話題になっていました。かく言う山城オタクのワタシとしてもぜひ行ってみたいと思っていました。旧碓氷峠には一度訪れたことがあったのですが、観光シーズンの時期で展望台の無料駐車場もいっぱいで、茶屋のひも付き駐車場には止めたくなく、引き返してきました。今回早朝に訪れましたが、シーズンオフで全くの人けがなく、茶屋も冬季休業でした。
                                                  訪問日:2019.3.11 晴れ
イメージ 1 城址へは、軽井沢市街の旧軽井沢銀座通り(メインストリート)を通り、旧碓氷峠の熊野皇大神社を目指します。車は、展望台の無料駐車場(5台ほどのスペース)に停めました。ここから、城址まではほぼ平坦な道で、10分もかかりません。イメージ 2
峠の集落の真ん中にある熊野皇大神社で、神社の中央に上信国境線が通っています。


イメージ 3イメージ 4イメージ 5






神社から林道を約250m程進むと、 進んだ先が二股に分かれます。    入ってすぐに土塁らしき土盛が見          
左手に石碑や仁王門跡の表示の   左手先から林の中に入ります。    えます。3郭の土塁です。
ある所で、右手に進みます。
イメージ 6
 当城は、新聞記事によると、豊臣勢の小田原攻めの際に、前田利家の率いる北国勢が松井田城(城主大道寺政繁)攻めの拠点として碓氷峠に陣城を構えた遺構であるうとしています。
 現地調査をした群馬県教育委員会文化財保護課の飯森康広係長や江戸東京博物館の斎藤慎一学芸員もそのような見解のようです。
 そのことは、「真田家文書」や「戦国遺文北条氏編」にそれを裏付ける資料があることからかなり信ぴょう性の高い見解だと思われます。
 北国勢の築城とすると、北国勢と松井田勢の交戦が3月15日にあることからその半月前あたりと推定でき、2月下旬から3月上旬あたりになるかと思われます。4月7日に北国勢の松井田城攻めが始まりますので、4月にはその役目を終え廃城になったものと思われます。
※右図は、おおよその形を現した概念図で、かなり怪しいものですが、参考程度にご覧ください。(方位や郭内の計測はほぼ間違いありません)

イメージ 7主郭に行く手前左手に空堀が見えます。3郭北側の空堀で、上巾6〜7mありかなり埋まっているようです。

イメージ 8







主郭虎口Bに向かうと、左手に3郭と主郭のへだてる空堀が目に入ってきます。イメージ 9

主格西北端の虎口Bです。主郭北側の土塁をL形に伸ばして導入路を伸ばしているようでイメージ 10す。

⇒主郭内部から見た虎口B




イメージ 11
主郭を東南から見ています。北側に土塁があり、それに沿って一段高く(墓地になっています)なっている。広さは22×29m程で、2郭方面になだらかに傾斜しています。削平は、ほどほどに平といえます。イメージ 12






2郭で、主郭より0.5mほど低イメージ 13い。36×25m程の広さで、東側が主郭に沿って北側へ延びる帯郭となっています。西北端に西側に下りる平虎口の窪みが見られます。イメージ 14



西側の空堀で、かなりの幅がありますが、自然地形を利用したものなのかもしれません。




↓城址東北端の虎口Aです。旧中山道に開いて、大手の枡形虎口のようです。
イメージ 15













イメージ 163郭で、東下の4郭と並列して主郭北側にあり、北側の防御郭でしょう。広さは、8×18m程できたがわにどるいがあります。




 撮ってきた写真を見まして、どうもメリハリがいまいちで、どこの場所を撮ったものか判別に苦労しました。遺構は、目視しますとわかりますが、写真では明確になりませんね。

 豊臣の陣城は、臨時の陣城といってもかなり丁寧な造りをしています。それらと比べますと、かなりにている感じはしますね。
素人判断としては、戦国末期の豊臣系の陣城でいいような感じです。

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宇田城

 宇田城は、富岡市宇田字城山にある比高70mの山城です。この地域は、上野国西毛地区で信濃と上野中央部の中毛地区を結ぶ交通の要衝で、信濃と上野の境目に当たり、各勢力の抗争の地となり城館が密集しています。この地域の中核的な城としては、高田城、神成城、丹生城があり、当城も規模からするとその中に入ると思われます。訪城日:2016.2.10  晴れイメージ 1
 城址へは、富岡市街より国254号を西進し、上信鉄道「上州一ノ宮駅」手前の交差点で右折して県道47号線に入り、800m先の宇田入口バス停を左折し、300m先のT字路を左折してすぐに右折して進み、神守寺手前の池を目指します。
 池の脇の路肩に車を止めるスペースがあります。




 イメージ 2当城の城歴は、確かな史料もなく不明です。ただ、『上州故城塁記』『箕輪記』等には、宇田城主が国峰小幡氏の一族の小幡図書助景純(一説には景定)としてあるようです。この小幡図書助景純は、天文17〜22年(1548-53)の間に起こったと考えられる国峰小幡氏の内訌で、小幡宗家国峰城主小幡憲重・信実父子を追放した人物とされています。
 伝承にしても国峰小幡氏一族がかかわることからしますと、当城が国峰小幡氏にかかわる城と思われますし、すぐ東側に西毛の有力国衆である高田氏の本拠とされる高田城があることから国峰小幡氏の東方の防衛拠点だったといえるのかもしれません。イメージ 3

 池横の駐車地点からの城址遠景です。見える石柱は、「宇田」「音入口」「青面碑」とあり。「青面碑」は庚申の「青面金剛」なのかな?イメージ 4







3郭までに登城路左右に段差2m程の段郭が6〜7段見られます。 けっこう広い郭もあり、畑地だった可能性もありますね。イメージ 5
     
 3郭で、40×20mの広さがあり、北端に櫓台状の土盛が認められます。イメージ 6







 
 上巾12mの堀切アです。東西に長く竪堀を掘り下げています。尾根を完全に遮断しています。イメージ 7
    
 堀切アから2郭虎口へは、西側斜面に城道がありますが、かなり崩れて難義な道でした。
イメージ 8






2郭で、50×20mほどのかなり広めの郭です。ここが、実質的な主郭になるのかな〜。イメージ 9

上巾15mの堀切イです。堀底が巾広の箱堀で、宮坂氏は武者溜りとしています。ここから主郭への道がちっとわかりませんので、途中にある腰郭を経て直登しました。イメージ 10






  主郭下の腰郭。堀切イからの主郭の城塁は15mほどありますので見上げるとかなりの迫力です。この腰郭は、堀切イへの防御地点と登城路の番所を兼ねて設けられていたのでしょうかね。

イメージ 11 25mほどの円形の主郭です。土塁は見当たりませんで、削平はされています。イメージ 12




 北東尾根の4郭です。主郭東側の腰郭を回り込んで、ここから主郭へ登った可能性もありか。イメージ 13









 堀切ウです。この先にも堀切がありますが、左がのゴルフ場のフェンスなどがあり、ここまでにしました。
 登城イメージ 14口西側にある神守寺です。居館跡ともいわれ、宇田西城に比定されています。


 この城へ行く前に訪れた高田城・高田上の城は、結構難儀をしましたので、少し楽をと思って気楽に訪れました。遺構はさほど期待していませんでしたが、立派な堀切や城壁があり、予想外に楽しめました。

参考文献
『信濃をめぐる境目の山城と館 上野偏』 宮坂武男著 戎光祥出版
『戦国史―上州の150年戦争ー』 上毛新聞社

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麻場城

 麻場城は、甘楽町指定史跡で別名白倉城とも呼ばれ、甘楽郡甘楽町白倉にある比高20mの丘城です。前日、山城を含めて6城訪城してちっと疲れていたことや、午後には信濃に向かわなくてはいけませんでしたので、午前に丹生城と比較的訪れやすい所と思い、当城に向かいました。 
                                          訪城日:2016.2.11 晴れイメージ 1
 城址へは、甘楽町の国254号福島東信号を南に下り、約450mで左折し、道なりに700m程で駐車場につきます。







イメージ 2
 麻場城は戦国時代のこの地の豪族白倉氏の居城であり、東方約500mに存在する仁井屋城と併せて『白倉城』と呼ばれ、典型的な別城一郭(双子城)であるといわれている。
 当城は、戦国時代初期の築城とされ、豊臣秀吉の小田原征伐時(1590)に前田利家を総大将とする東山道軍に攻め落とされるまで約370年間の活躍であった。甘楽町教育委員会  現地案内板よりイメージ 4
 築城時期を文明年間(1469〜87)と伝わるとする記述も見受けられますが、定かではないようです。また、仁井屋城との別城一郭ですが、台地を挟んで500mも離れての存在が別城一郭といえるか疑問です。間の台地に何らかの施設(居館とか)があり、その両翼の守りに築かれたとすれば納得できる構造ですがね。
※城址公園整備に伴って、平成元年〜3年に発掘調査がされています。

北側からの遠景で、比高15m程イメージ 3の台地上にある。







イメージ 8
 


 駐車場から城址北端の笹郭へ向かう途中の坂道から見た台地斜面です。かなりの急斜面でこれを登ることはちっと難しいですなイメージ 5〜。



坂道を登り切ると笹郭に入るイメージ 6手前に空堀があり現在は橋が架かっていますが、往時はなかったのでしょう。



イメージ 7
 主郭からの笹郭。模擬物見イメージ 9台が建っています。かなりの台地上ですから、物見台を設けなくてもいいような感じですがね。往時もあったんですかね。

 主郭北東端からの主郭。東西の南側約60m、同北側約42m、南北約54mの台形状で、土塁が周囲を取り巻いていたようです。
イメージ 10
主郭を取り巻く空堀は、上巾約15m、下巾約3.5m、深さ約6mの箱堀だったようです。
主郭北堀                          主郭東堀
イメージ 11イメージ 12









主郭西堀                          主郭南堀
イメージ 13イメージ 14










イメージ 15 主郭南虎口は、幅2mの土橋で、二の郭につながっていたようです。それ以外に、東の堀と北の堀のほぼ中央に橋を架けたと思われイメージ 17る穴が見つかっているようです。北の端は、笹郭への連絡路で、東の端は、麓に下る道だったのでしょうか。(想像図にその道が描かれています)イメージ 16

   
 主郭南西角に小さい橋が架けられて下に下る道がありますが、これも往時にはあったのでしようかね。イメージ 18




     2郭の土塁ですが、主郭南虎口の堀を渡った2郭に主郭南空堀に沿って造られています。主郭からみると堀の外側にあるわけで、奇妙な感じです。防御というより蔀の土塁なのかもか?イメージ 19

     
 2郭の南側の景色で、畑地や厩舎とおぼしき建物がありますが、想像図からするとこちらも城域で外郭だったのでしょう。

 当城は、規模としてはそれ簿のものではありませんが、よくまとまった城と思われます。ただ、急斜面上の台地先端に築城されていますので、主郭周りにこれほどの空堀もいらないのではと思うのですが、築城主にすれば輪をかけての防御が必要だったのでしょうね。

 主郭周りの整備ですが、よく遺構を残しての史跡整備で中世のお城の雰囲気が感じ取れるいい城址です。時期を選ばずに行けるのもいいです。お勧めの城址といえます。

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