古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

上野国

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宇田城

 宇田城は、富岡市宇田字城山にある比高70mの山城です。この地域は、上野国西毛地区で信濃と上野中央部の中毛地区を結ぶ交通の要衝で、信濃と上野の境目に当たり、各勢力の抗争の地となり城館が密集しています。この地域の中核的な城としては、高田城、神成城、丹生城があり、当城も規模からするとその中に入ると思われます。訪城日:2016.2.10  晴れイメージ 1
 城址へは、富岡市街より国254号を西進し、上信鉄道「上州一ノ宮駅」手前の交差点で右折して県道47号線に入り、800m先の宇田入口バス停を左折し、300m先のT字路を左折してすぐに右折して進み、神守寺手前の池を目指します。
 池の脇の路肩に車を止めるスペースがあります。




 イメージ 2当城の城歴は、確かな史料もなく不明です。ただ、『上州故城塁記』『箕輪記』等には、宇田城主が国峰小幡氏の一族の小幡図書助景純(一説には景定)としてあるようです。この小幡図書助景純は、天文17〜22年(1548-53)の間に起こったと考えられる国峰小幡氏の内訌で、小幡宗家国峰城主小幡憲重・信実父子を追放した人物とされています。
 伝承にしても国峰小幡氏一族がかかわることからしますと、当城が国峰小幡氏にかかわる城と思われますし、すぐ東側に西毛の有力国衆である高田氏の本拠とされる高田城があることから国峰小幡氏の東方の防衛拠点だったといえるのかもしれません。イメージ 3

 池横の駐車地点からの城址遠景です。見える石柱は、「宇田」「音入口」「青面碑」とあり。「青面碑」は庚申の「青面金剛」なのかな?イメージ 4







3郭までに登城路左右に段差2m程の段郭が6〜7段見られます。 けっこう広い郭もあり、畑地だった可能性もありますね。イメージ 5
     
 3郭で、40×20mの広さがあり、北端に櫓台状の土盛が認められます。イメージ 6







 
 上巾12mの堀切アです。東西に長く竪堀を掘り下げています。尾根を完全に遮断しています。イメージ 7
    
 堀切アから2郭虎口へは、西側斜面に城道がありますが、かなり崩れて難義な道でした。
イメージ 8






2郭で、50×20mほどのかなり広めの郭です。ここが、実質的な主郭になるのかな〜。イメージ 9

上巾15mの堀切イです。堀底が巾広の箱堀で、宮坂氏は武者溜りとしています。ここから主郭への道がちっとわかりませんので、途中にある腰郭を経て直登しました。イメージ 10






  主郭下の腰郭。堀切イからの主郭の城塁は15mほどありますので見上げるとかなりの迫力です。この腰郭は、堀切イへの防御地点と登城路の番所を兼ねて設けられていたのでしょうかね。

イメージ 11 25mほどの円形の主郭です。土塁は見当たりませんで、削平はされています。イメージ 12




 北東尾根の4郭です。主郭東側の腰郭を回り込んで、ここから主郭へ登った可能性もありか。イメージ 13









 堀切ウです。この先にも堀切がありますが、左がのゴルフ場のフェンスなどがあり、ここまでにしました。
 登城イメージ 14口西側にある神守寺です。居館跡ともいわれ、宇田西城に比定されています。


 この城へ行く前に訪れた高田城・高田上の城は、結構難儀をしましたので、少し楽をと思って気楽に訪れました。遺構はさほど期待していませんでしたが、立派な堀切や城壁があり、予想外に楽しめました。

参考文献
『信濃をめぐる境目の山城と館 上野偏』 宮坂武男著 戎光祥出版
『戦国史―上州の150年戦争ー』 上毛新聞社

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麻場城

 麻場城は、甘楽町指定史跡で別名白倉城とも呼ばれ、甘楽郡甘楽町白倉にある比高20mの丘城です。前日、山城を含めて6城訪城してちっと疲れていたことや、午後には信濃に向かわなくてはいけませんでしたので、午前に丹生城と比較的訪れやすい所と思い、当城に向かいました。 
                                          訪城日:2016.2.11 晴れイメージ 1
 城址へは、甘楽町の国254号福島東信号を南に下り、約450mで左折し、道なりに700m程で駐車場につきます。







イメージ 2
 麻場城は戦国時代のこの地の豪族白倉氏の居城であり、東方約500mに存在する仁井屋城と併せて『白倉城』と呼ばれ、典型的な別城一郭(双子城)であるといわれている。
 当城は、戦国時代初期の築城とされ、豊臣秀吉の小田原征伐時(1590)に前田利家を総大将とする東山道軍に攻め落とされるまで約370年間の活躍であった。甘楽町教育委員会  現地案内板よりイメージ 4
 築城時期を文明年間(1469〜87)と伝わるとする記述も見受けられますが、定かではないようです。また、仁井屋城との別城一郭ですが、台地を挟んで500mも離れての存在が別城一郭といえるか疑問です。間の台地に何らかの施設(居館とか)があり、その両翼の守りに築かれたとすれば納得できる構造ですがね。
※城址公園整備に伴って、平成元年〜3年に発掘調査がされています。

北側からの遠景で、比高15m程イメージ 3の台地上にある。







イメージ 8
 


 駐車場から城址北端の笹郭へ向かう途中の坂道から見た台地斜面です。かなりの急斜面でこれを登ることはちっと難しいですなイメージ 5〜。



坂道を登り切ると笹郭に入るイメージ 6手前に空堀があり現在は橋が架かっていますが、往時はなかったのでしょう。



イメージ 7
 主郭からの笹郭。模擬物見イメージ 9台が建っています。かなりの台地上ですから、物見台を設けなくてもいいような感じですがね。往時もあったんですかね。

 主郭北東端からの主郭。東西の南側約60m、同北側約42m、南北約54mの台形状で、土塁が周囲を取り巻いていたようです。
イメージ 10
主郭を取り巻く空堀は、上巾約15m、下巾約3.5m、深さ約6mの箱堀だったようです。
主郭北堀                          主郭東堀
イメージ 11イメージ 12









主郭西堀                          主郭南堀
イメージ 13イメージ 14










イメージ 15 主郭南虎口は、幅2mの土橋で、二の郭につながっていたようです。それ以外に、東の堀と北の堀のほぼ中央に橋を架けたと思われイメージ 17る穴が見つかっているようです。北の端は、笹郭への連絡路で、東の端は、麓に下る道だったのでしょうか。(想像図にその道が描かれています)イメージ 16

   
 主郭南西角に小さい橋が架けられて下に下る道がありますが、これも往時にはあったのでしようかね。イメージ 18




     2郭の土塁ですが、主郭南虎口の堀を渡った2郭に主郭南空堀に沿って造られています。主郭からみると堀の外側にあるわけで、奇妙な感じです。防御というより蔀の土塁なのかもか?イメージ 19

     
 2郭の南側の景色で、畑地や厩舎とおぼしき建物がありますが、想像図からするとこちらも城域で外郭だったのでしょう。

 当城は、規模としてはそれ簿のものではありませんが、よくまとまった城と思われます。ただ、急斜面上の台地先端に築城されていますので、主郭周りにこれほどの空堀もいらないのではと思うのですが、築城主にすれば輪をかけての防御が必要だったのでしょうね。

 主郭周りの整備ですが、よく遺構を残しての史跡整備で中世のお城の雰囲気が感じ取れるいい城址です。時期を選ばずに行けるのもいいです。お勧めの城址といえます。

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碓氷城

 碓氷城は、別名愛宕山城とも呼ばれ安中市松井田町坂本にある比高60mの山城です。以前から興味を持っていまして、訪城してみたいとは思っていましたが、なかなか機会がなく訪れることができませんでした。ようやっと行けましてホッとしましたね。(笑)   訪城日:2015.4.19 晴れ
イメージ 1城址へは、軽井沢市街を国18号を東に進み、碓氷峠(旧街道の碓氷峠は、旧碓氷峠となって北側にあります)で、群馬県に入り坂本宿手前11km先の登城口を目指します。ただ、この国18号は坂本宿までに184のカーブも右に左に曲がりほとほといやになりましたね。帰りもこの道でしたからも〜、うんざりでした。登城口は、旧中山道碓氷峠越えの入口でもありますイメージ 2ので、東屋や説明板(城のものではないです)があり、2台ほど駐車できるスペースがあります。

 碓氷城に関する史料はなく、築城主体や時期は不明ですが、東山道の難所として知られる碓氷峠越えの上野側の登り口にあることから、国境の交通の監視にかかわる城と思われます。さらに、城の縄張りから見とれることは、南東方向(上野国)を警戒して備えを厳重にしているといえるようです。
 古来より、あまたの軍勢が碓氷峠を越えていますが、碓氷峠周辺に城館を構えたとい記述は見受けられないようですので、戦国期に築城されたとするのが妥当のようです。そのことについていくつかの説があります。
天文16年の築城説です。
 天文16年(1547)7月武田氏に攻められた佐久志賀城の笠原清繁の後詰に出陣した上野の上杉憲政が小田井原合戦で大敗し、碓氷峠を越えて敗走した際に、武田勢が上野に侵攻して碓氷城を築城したとするものです。この天文16年の築城説は、『甲陽軍艦』の記述から来ているようです。『甲陽軍艦』の天文161121日に、笛吹(碓氷)峠の守備をしていた浅利・小宮山丹後が、松枝(松井田)衆と一戦して、33人を討取ったとあります。このことから浅利・小宮山が守備した地を碓氷城とするのかもしれませんが、峠の守備地=碓氷城ではないと思われますし、峠を下った敵地にこの時期に城を築くことは考えにくいですね。
天正後期の築地説です。
 これは、齋藤慎一氏が「境界認識の変化-戦国期国境の維持と管理-(『中世東国の領域と城館』所収)で述べているものです。武田氏が、本格的に上野侵攻するのは永禄4年11月で、その時に佐久郡松原神社に願文を捧げ、20日で西牧城(下仁田町)高田城(妙義町)諏訪城(松井田町)の三城の攻略を祈願したものです。武田の上野侵攻口には、佐久方面、碓氷峠越え、吾妻方面の三口あり、願文の三城は、西牧城・高田城が佐久方面、諏訪城が碓氷峠越えに関わり、永禄4年の際は、上野に足がかり(天文16年の内山城落城後に、上野国甘楽郡南牧谷の市川氏を調略)のある佐久方面から侵攻して西牧城・高田城を攻略しました。碓氷口には松井田・安中に寄る安中氏がいることから侵攻は難しいと判断したのでしょう。碓氷峠口で諏訪城が攻撃目標になったのは、上信国境の境目の城だったことからと思われます。このことを分析した斎藤氏は、「この時期(永禄初め頃)の松井田一帯、さらには西上野の上信国境の各所に「境目の城」として機能する城館が存在していなかったことを示している。」としています。碓氷城は、まだ存在していないということになります。では、いつの築城になるかというと、斎藤氏は「上信国境が境界の性格を帯びてくる時期となり、更に大名権力との関連を加味するならば、後北条氏治下の天正10年から同18年であることになる。」としています。この説は、傾聴に値するものかと思います。
 また、当城の役割についても興味深い見解が見られます。当城の構造(縄張り)は、「山麓の南東方面に対して警戒意識をもっていた」と考えるのが普通ですので、西側=信濃の勢力が上野に入り、東側=上野の勢力に備えた城という解釈になります。ですので、数ある当城についてのサイトは、おおよそこのような理解の仕方が見られます。ですが、齋藤氏は、「愛宕山城(碓氷城)は上野国側の領主が国内向けに築いた城館で、規模の大きさから大名間戦争を想定したものではなく、東山道と関連した国境の交通に関わる城館であったと評価できる。」としています。「境界を管理する城館」で「その任務は、合戦時には他国からの侵入に備える一拠点となることと、そして平時には境界の外へ出ることを統制することであった。」と。関所的城館といえるのでしょうが、これを読んだときはどのように理解したらよいか迷いました。しかし、戦国期では天候異変や戦争による飢餓状態が日常的に起こり、戦国大名にとって領国内の物資や人をいかに維持・確保するかが最重要課題だったことがわかるようになりましたので、納得することができました。まさに「境目の城」の持つ特殊性がここにあるようです。
 なお、当城が、中世東山道にかかわる城であることは言うまでもないことですが、その中世東山道の道筋はさほどと明らかになっていません。
下図は、登城口=旧街道入口にある「旧街道案内図」です。

イメージ 3
 











 古代では、南の入山峠越えが定説になっているようですが、碓氷峠道を詳細に検討した江川良武氏は、「東山道は最初から碓氷峠越えの尾根道を採り、中山道は一部をトラバース道に切り替え」と結論付けています。碓氷城辺りの東山道については、「関東方面から碓氷峠方面に向かう場合、経路としては、坂本の段丘より愛宕山正面の尾根に取り付き、刎石山に至るのが自然と思われる。しかし、中山道は愛宕山の裾を西北に回り込イメージ 4み、沢沿いに登る経路を取っている。これは愛宕山城の中の通行を回避するためであり、武田勢により天文16年に城が構築されたる以前には尾根道沿いに愛宕山を登ったと考えられる。」としています。天文16年の武田築城を除けば、ほぼ納得のいく説明と思われます。城の南東斜面を斜めに登り、北西に張り出す尾根に取り付く経路と考えられますが、この経路を見事に遮断するのが長大な竪堀で、旧中山道沿いに登っていくことを強いて防御したものなのでしょうかね。
イメージ 5 旧中山道の道で、右手が城址です。なかなかの城壁が続きます。イメージ 6








 
 江戸期の堂峰番所跡です。石垣が組まれ、右手上に番所があったようです。この先を右手上に行きますと、城の2郭に入ります。
イメージ 7 2郭としましたが、さしたる防御施設もないので郭かどうか迷いますね。





 2郭を抜けると、主郭北西にある張り出しとそれを取り巻く空堀に出ます。この張り出しは、北西部の空堀や2郭に対してかなり効果的な防御拠点になっています。イメージ 8

イメージ 9
 城道は、張り出し下を右手の空堀内を通り、馬出方面に進むようです。馬出までの堀底からの主郭の切岸はさほどの高さはありません。




イメージ 10 馬出方面です、この辺まではまあまあ藪もすぐなく遺構もそこそこ見れました。しかし、この先の馬出や主郭内は藪に覆われて何が何やらさっぱりわかりませんでした。イメージ 11







 馬出内から主郭への土橋辺りを取ったと思うのですが、さっぱりわかりませんよね。イメージ 12
  
  
 竪堀もこのありさまで、よくわかりませんでした。イメージ 13




                                               
 
 

 南東の横堀で、北西・南西の堀とは規模も大きく切岸の高さもかなりあります。(写真がいまいちでイメージ 14)

 南東張り出下の空堀です。ここもかなりの規模の堀ですが、この先北東には堀が普請されていません。この方面は、気にしないということなのでしょうか?イメージ 15






 南東張り出しには入れました。土塁囲みで下の横堀と相まって効果的な防御拠点になっています。

   
                               
 主郭のみの小規模な城ですが、馬出を境にして南西面は導入、南東面は遮断という機能を明確に使い分け、馬出や張り出しで主郭全周をカバーしている巧みさには感心するのみです。まさに碓氷城は、山椒は小粒でもピリリと辛い山城のようです。

参考文献
『図説中世城郭事典 Ⅰ』
『関東の名城を歩く 北関東編』
『中世東国と領域と城館』 齋藤慎一著
『真田三代』 平山優著
『武田氏年表』
「碓氷峠道の変遷(上)(下)」(『信濃』第65巻第1・3号)
『甲陽軍鑑(中)』 腰原哲郎訳

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松井田城―その弐ー

 松井田城の続きです。安中郭のある東側。
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主郭南東から尾根伝いに行けます。
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 堀切が一条設けられています。
 
 
 
イメージ 4 松井田城が、武田氏に攻められた時期の安中氏時代の主郭といわれます安中郭です。広さは、60×40mほどです。
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 安中郭の東側の堀切です。上巾10mで深さも10mはある結構な規模の堀切ですね。
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 安中郭東側の尾根伝いにある細長い郭で、安中部の2郭に相当する郭と思われます。
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安中郭北西下の「桝形』と呼ばれる虎口で、藪状態で形状がはっきりしませんでしたが、L字状の土塁が見られました。枡形虎口なのでしょうね。水の手方面へ繋がるようです。
イメージ 8 水の手で、帰りがけに堀切4から行ってみました。左上が安中郭方面です。井戸というより湧水をためておくダム状の貯水池ですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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松井田城

 松井田城は、安中市松井田字高梨子にある比高70mほどの山城です。別名は、「小屋城」「霞ヶ城」「堅田城』とも呼ばれるようです。10年近く前に一度訪城していますが、その時は山城初心者で縄張図はあってもまだその見方もよく分かっていなかったのか、ただ見てきたという感じで何が何だか分からなかったというのが実感でした。あらためて今回訪城してこの城の良さを感じました。
訪城日:2013.2.11 晴れ
イメージ 3城址へは、上信越道松井田妙義ICを降り、国18号五料信号から安中方面に2.4km進みますと、左斜め下に降りる道がありますから、そこを降りて左折し、800m先の案内板を左折して道なりに行きますと登城口の駐車場に着きます。城址へは、左手に進みます。
イメージ 1
 
イメージ 4
安中氏は、享徳の乱時には碓氷郡にその存在が確認されているようで、安中城・諏訪城(松井田城の前身か)を中核にして碓氷郡一円に盤踞していたようです。永禄4年に武田信玄の本格的な西上野侵攻が始まり、翌年に安中・諏訪両城が攻略され、武田氏は松井田城を普請しています。山崎一氏は『群馬の古城』で安中郭を安中氏時代の本丸として、諏訪城だったのではないかと推察しています。
 武田氏時代に碓氷峠越えの道が整備されのちの中山道となったようです。
 武田氏滅亡後は、織田の滝川氏から北条氏(城代大道寺政繁)が入り、天正15年には豊臣勢の来襲に備えての大普請がおこなわれたようで、現在の遺構はこの時期のものと思われます。天正18年前田・上す気勢に攻められ、4月20日に開城し、その後廃城になったと思われます。    右図の概念図は、城域が広大なため主要部辺りしか書いてありません。                          
イメージ 2
 駐車場から少し行った所にある堀切1です。上巾10mはある屈折した堀で、大手筋の尾根の先端部に設けられているようです。
 
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
  堀切2で、上巾5mほどで城内側に土塁が設けられていますので、木戸か設けられていたのかもしれません。イメージ 6
 
 堀切3です。この先で道のイメージ 7分岐になります。↓
左手は、水の手から安中郭。右手は、主郭方面。
 
 
 
 
 
イメージ 12横堀で自然堆積物が多くて上巾、深さなどは不明のようです。
 
イメージ 11
 
 
 
 
 
 
 
 
分岐で、左手へ行くと、大手門から主郭へ。右手は畝状竪堀のある尾根に行けます。右手にまず行ってみました。
イメージ 13
畝状竪堀は、写真としては取りにくいもので、ちっとは分かりやすいものを載せておきます。最近見た説明板がありますので載せておきますね。
イメージ 14
 
 
 
 
 
 
 
 
 これは、播磨恒屋城にあった説明板で、この城にも畝状竪堀があります。イメージ 8
 
 
 大手筋に戻り、大手門跡で説明板左手下に石組が見られます。石垣が構築されていたのでしょうか?
イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 主郭(左)と2郭(右)への導入路。左右からの横矢がかかる具合ですかね。
イメージ 10
 
 
 導入路を登り切った土橋で、手前が主郭、奥が2郭の馬出です。イメージ 15
 
 
 
 
 
 
 
 主郭で、方60mほどの広さがあり、北西に櫓台跡があり虚空蔵菩薩の社があります。
イメージ 16
 
 
 馬出で、土塁がL字状に設けられています。
 
イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
郭で、三方に尾根が派生するので郭が変形の三角形の形になっています。土塁がこの城としては珍しく西側に見られます。
 
安中郭のある東側は、−その弐ーとして続けます。
 
参考文献
『関東の名城を歩く 北関東編』
『中世城郭事典Ⅰ』
 

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