古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

武蔵国(東京都)

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世田谷城

 世田谷城は、世田谷区豪徳寺二丁目にある丘城です。現在は、東急世田谷線沿いの閑静な住宅地にあり、往時の姿をかすかに残す世田谷城址公園としてあります。世田谷城址公園には、空堀と土塁の痕跡がわずかに残っているにすぎませんし、公園化にともなう崩落防止用の石垣で囲まれていまして、これがお城跡という感じですので、となりの豪徳寺へは行かれてもこちらへわざわざ訪れるという方はあまりいられないでしょうね。ですが、隠れイメージ 14遺構があるんです! 訪城日:2013.1.26 晴れ
 城址へは、東急世田谷線宮の坂駅から豪徳寺に向かい、寺の参道の四つ角をさらに50mほど進みますと、世田谷城址公園に着きます。城址公園は、左図の赤線の枠内にすぎませんが、少し入り込みますと空堀や土塁が見られます。
 左図は、現地案内板を分かりやすくするために図にしました。記号等は案内板のままです。
 
 世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
 吉良氏は清和現時・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
 世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされた事が窺える。
                                             現地案内場より
イメージ 1 案内板のある公園入り口です。右手に見える石垣は、本来は掻き揚げ土塁などですが、公園化に伴う崩落防止用のためにこのような形になっています。この地は、鳥山川が作る湿地帯の突き出した舌状台地の先端にありましたから、説明板にある深大寺城との類似もうなづけます。
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 公園内をぱっくり口を開けたような空間ですが、空堀跡になります。左手の土塁が上の写真の土塁になります。郭C・Dへは、フェンスが設置されて入れません。
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 郭としては、唯一公開されている郭Fで、他の郭より少し高い感じです。主郭がどの郭であるか定かではありませんが、『中世城郭事典1』で八巻孝夫氏は、郭Cを主郭としています。その推定に従いますと、舌状先端で南方面の防御拠点の郭だったのかもしれませんね。
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 都営団地西側(郭AとCの間)にある空堀です。左手が郭Aで、右手が郭Cになります。上巾12mほどで深さは10mを越えるかと思います。向えの郭Cの土塁も見事に残っていますが、残念なことに立ち入り禁止です。
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 豪徳寺参道です。右手が、郭Aになりまして、参道沿いに分厚い土塁が残っています。また、参道左手も土塁の感じですので、この参道は空堀だったのではないかと思います。
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 郭A西側の参道沿いの土塁です。基底巾10mほどで、高(参道から)2mほどです。
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現地案内板の推定城域図です。豪徳寺は、吉良氏の居館跡と推定されるようです。なかなかな規模のお寺さんで、一画に井伊家墓場があり「桜田門の変」で有名な井伊直弼のお墓もありました。(右手のお墓)
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今回は、渡邊大門氏の史跡見学会「世田谷周辺を歩く」に参加しての訪城でした。ついでに廻ったところのご紹介を。
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 集合が午後1時ということでしたので、昼飯を食べてから行こうと思い、小田急線豪徳寺駅周辺の飲食店を検索した所、昔ながらのラーメンを見つけました。最近のラーメンは、ごてごてしすぎて年寄にはいまいちな所があり、昔らがらの東京ラーメンを食べてみたいと思っていました。まさにそのラーメンでして、激安250円なんですよ!味は特別うまいとは言いませんが、なるとの入った昔ながらのなつかしい味でした。お薦めです。
イメージ 7 世田谷代官屋敷で、彦根井伊氏の世田谷領2306石の代官職を代々世襲した大場氏の役所兼邸宅の代官所です。敷地内には、大場氏住宅主屋などがあり、世田谷区立郷土資料館もありました。
 
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 少し歩いて松陰神社に行きました。吉田松陰が神様になっていたとは知りませんでしたね。なかなか立派な神社でした。境内に「松下村塾」が復元されていましたよ。
 
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辛垣城

 辛垣城は、青梅市二俣尾にある比高220m(二俣尾駅から)の山城です。城址は、雷電山から南東に延びる雷電尾根の稜線上のピーク辛垣山山頂にありますが、江戸期から大正末までの石灰石の採掘により主郭などの遺構がくりぬかれているため、旧状は偲べません。
イメージ 1城址へは、枡形山城の北からハイキングコースにでて、名郷峠の先にある城址入口の道標から行きました。二俣尾駅から辛垣城を目指す場合は、駅の北側からの西城林道を登り、名郷峠を目指すようです。詳しくるな殿のブロイメージ 5グ「旦さまと私」をご覧ください。
名郷峠
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6ハイキングコース沿いの城址入口標示で、右手下に堀切があります。
 
ここ辛垣山の山頂には青梅地方の中世の豪族三田氏が立て籠もった天然の要害である辛垣城があり、市内東青梅6丁目の勝沼城に対して「西城」と呼ばれた。永禄6年(1563)八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻城に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田一族は滅亡した。城跡にあたる山頂の平坦部は大正末期まで行なわれた石灰石の採掘により崩れ、当時の遺構は、はっきりしないが、堀切や竪堀をとどめている現状である。(現地案内板より)
 上記の案内板は、主郭部のえぐりとらえた地にあるもので、下図の「遺構配置図」と併設されている説明板には、辛垣城の落城時期を永禄6年(1563)3月と永禄4年の説があると記されています。
 三田氏の滅亡については、最新の研究成果の載る『関東の名城を歩く南関東編』で勝沼城を書かれた竹井英文氏が、「永禄4年9月、北条氏によって辛垣山城は落城し、三田氏もついに滅亡した。」とあり、永禄4年が確定されるのではないかと思います。廃城は、北条氏も使っていないようですので、三田氏滅亡後の近い時期と思われます。
イメージ 7
 左図は、現地案内板にあったもので、分かりやすくするために表示内容を拡大し、加筆もしています。数字は、曲輪表示番号です。
 オレンジ線は、登城路になります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 郭8で、郭9の西側にあり、両郭とも三角形の小規模な平場です。
 
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 郭8を過ぎると急斜面の登りになり主郭部の入口に到ります。
 
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 主郭部入口です。竪堀状の道を登り、虎口のような所から入りますが、これらは採掘で削られたもののようです。
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 主郭跡を郭1から撮ったものです。ここが採掘された跡ということを知っていませんと、周囲を土塁で囲まれた平場と勘違いするほどです。
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 西北尾根の堀切で、郭1の先からおりますが、堀切底まで約20mはある切岸を下ります。当城最大の遺構ではないかと思います。降りるて登ってくるのは一苦労でした。
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 郭5の南端の堀切です。下山は、南尾根を下りましたが、あまり人が通らないようで、道もあれていました。降り着いた所は、駅の北側の住宅地でしたが、城址への道標もなく、この地点からの登城ちっと分からない感じです。
 
 
 
 
 
 
参考文献
「関東の名城を歩く南関東編」
「図説中世城郭事典1」
 

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枡形山城

枡形山城は、青梅市二俣尾にある比高140m程の山城です。当城が、辛垣城から東に延びる雷電尾根から南に派生した尾根先の徒歩800〜900m程の位置していることから、辛垣城との関連が言われてきています。   訪城日:2012.11.3 晴れ              
イメージ 1 城址へは、JR青梅線二俣尾駅から線路沿いに東へ進むと、三田氏の菩提寺である海蔵寺に出ます。さらに東進し、国411号のコンビニが見える交差点から100mほど先を左折して泉蔵院墓苑に向かいます。そこが登城口になりますが、一切案内標識はありませんので、ご注意ください。イメージ 2
泉蔵院墓苑で、狭い道の一番奥にあります。
 
 
 
 
イメージ 3
登城口で、右手の道を登っていきます。
 
 
 
イメージ 4
登城路は、材木運搬で使うためか幅1.5mほどあり、とても歩きやすく、15分ほどで城址に着きます。
 
 枡形山城の城歴については不明です。ただ、近くの辛垣城が三田氏のかかわる城だったことから、、『図説中世城郭事典1』では、①三田氏が対後北条戦に備えて作った出城、②後北条氏が辛垣城を攻めるために作った陣城が考えられるとしています。
 三田氏が、従来の本拠地である勝沼城から奥地の辛垣城に籠城したのは永禄3年の上杉景虎(謙信)の越山による関東の争乱に関わっています。永禄3年(1560)に越山した上杉景虎(謙信)のもとには、関東一円の国衆が集まり、三田氏も翌年3月頃北条氏のもとを離れて上杉方になります。景虎のもとに集まった武士たちを書きあげた「関東幕注文」には、勝沼衆として三田弾正(綱秀)毛呂・岡部・平山・諸岡・賀沼修理亮が見られます。景虎は、永禄4年3月に小田原城に迫りましたが、陥とすことはできなく、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領の襲名式を挙行して、6月には越後に帰っています。
 各地の城に籠城していた北条勢は、すぐさま反撃に転じ、7月には北条勢が勝沼城周辺に進出し、三田勢と対峙していたようです。那須氏あて上杉政虎書状に「彼口(勝沼口)搆地平備等堅固ニ申付候」(「上越市史別編1」279号)とあり、上杉勢の三田氏領域内での新規築城をしていたことが分かります。ただ、その城は不明ですが、勝沼城は以前からあったようですから辛垣城か桝形山城ということも考えられるようです。
 また、当城が、三田・北条のどちらかという推論は、三田氏の対後北条戦に備えて作った出城と云うのが妥当と考えます。それは、当城の縄張りが主郭の北側では、土橋で動線を確保し辛垣城へのルートを確保していと考えられ、、南側では、尾根上に比較的広めの郭空間を確保し、郭間を大きな堀切で尾根を遮断し、防御を厚くしていることなどから言えると考えます。
 北条勢は、8月に攻めはじめ9月には辛垣城は落城し、三田氏嫡流は滅亡しました。
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 左図の縄張図は、『図説中世城郭事典1』から借用し、説明のため加筆しています。
 
 
 
 
 
イメージ 6 登城路を登っていきますと、堀切1の取り手のある所に着きます。上巾10mほどでしっかりとした堀切です。鳥居から西側を通って主郭イメージ 7に行きますが、この道は神社の参道ですから城道は別にあったと考えます。
 
 
 
 
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 主郭南下の堀切2で、右手が2郭になり堀切沿いに土塁が見られます。左手上(写っていませんが)に主郭より5mほど下にある小郭があります。
 
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 主郭を虎口3より撮ったものです。主郭は、直径十数mの楕円形状の小さなもので、土塁は見られません。虎口は、二か所あるようですが、虎口3が往時のものであるかは疑問のように思えます。
 
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 主郭から北に延びる尾根にある土橋と枡形虎口です。奥が主郭方向で、現在は土橋の先が右手に行く破壊道になっていますが、本来の城道は左手に回り込んでいます。今でも明確に見れますので、いかれた際はご覧ください。

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弁天池→本丸→本丸北下郭群→中ノ丸→二の丸→大馬出→千畳敷の紹介になります。
 
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イメージ 1山の神郭から主郭方面に行こうと思いましたが、途中に沢があり急斜面とのことで14と15郭の間まで戻って、谷筋を下ることにしました。⑦池跡と呼ばれる所は、西に土塁が設けられ(現在は中央部が消滅)湧水や雨水を貯める堤防の役目だったようです。奥上に千畳敷の郭が見えます。
弁天池の名称は説明板にあるもので、鉢形城にもあるようです。小田原城にも弁財天郭がありますが、北条氏は弁財天に何か思い入れがあったのでしょうかね。
 
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⑧主郭です。主郭は、二段になっていて写真は桝形虎口が二か所ある下段になります。上の段西に小さな桝形虎口があり、通常の山城の規模の虎口といった感じで、北の郭群へ繋がります。大石氏が滝山城を構築していたとしたらどイメージ 8うもこの辺から北側だったのではないかと思うのですが・・・。
 
 
 
イメージ 9⑨主郭(左手上)北下の土塁で囲われた郭で、写真は下の集落に降りていく虎口から撮ったものです。説明板では、「武者溜り」としていますが、搦手口の虎口郭もしくは馬出といえる感じです。
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 郭が窪地状態で、左手の主郭と奥のA郭の監視下に置かれ、侵入した敵兵は殲滅させられるでしょうね。また、虎口も土塁と張出によって厳重に守られています。主郭背後の強固な防御地点と思えます。
 
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の郭で、説明板では「馬出」としています。背後に堀もあるので馬出でいいようです。Aからの縄張りもかなり厳重な守りになっています。
この北曲輪群に来てみますと、山城の雰囲気がぷんぷんしまして、主郭南側とは全く違う印象を受けます。滝山古城といった感じですね。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3⑪主郭東の枡形虎口です。発掘調査で石敷きだったようで、奥に向かって狭くなっていて、奥行きがありますが、これは曳き橋を収めるためと云われています。
 
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 説明板では、2郭(中ノ丸)から曳き橋へのルートを中ノ丸北下の腰郭を通るとしています。現ルートはなかの丸から直で橋に行っていますが、どうなんでしょうか。ぐるっと回らせる意図は分かるのですが、城主の権威をしめす枡形虎口につなぐとしたら直のコースもありかとは思うのですがね。
 
イメージ 5⑫3郭から南の大馬出(7郭)へ向かう道筋にある馬出です。小生が滝山城で一番のお気に入りの所です。小馬出から三方へ土橋がかかる複雑な構造になっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6⑬千畳敷西端の虎口(写真下)から見た池跡へ到る段郭で、奥の小山が山の神郭ですね。
 
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滝山城は、関東の中世(戦国城郭としては規模としても、縄張りとしても申し分のない城址です。また、残存遺構もかなり明確に残り戦国城郭を理解するには最適な城址といえます。まだ、北条されていない方は、ぜひ訪れていただきたいと思います。また、お城に関心のない方でもハイキングコースとしても最適ですので、ご家族で行かれても楽しめるかと思います。

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 昨日(2012.4.28)、滝山城に行ってきました。これで何度めの訪城(10回ほど行っているか?)なのかちっと分かりませんが、今までで一番の訪城になりました。城址を歩いた経路は、以下のようで歩数にして1万2千歩ほどになります。
縄張図は、東京都教委「東京都の中世城館」を転写した「関東の名城を歩く南関東編」の掲載図に加筆したものです。訪問日:2012.4.28 晴れ
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当日は、八王子駅北口バス乗り場11番でバスに乗り、滝山城址下バス停で降り城址に向かいました。以前は、2郭まで車で入れましたが、現在は進入禁止になっています。また、周辺には駐車場がありませのので、パスで行くのがいいようです。○の番号で、写真の位置をしめします。
イメージ 1①は、12郭の枡形虎口と推定されています。12・13郭辺りは小宮郭と呼ばれている家臣屋敷です。
八王子城の山上にも小宮郭がありますので、何らかの関連があったのでしょうか。イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
②は、小宮郭東側の遊歩道です。以前は藪でちっと入るのを躊躇する状態でしたが、きれいになっていて驚きまし。左手に一段高い所に小宮郭があります。
 
イメージ 4③は、14郭です。郭内部は木々が茂っていますが見るのにはさほどの障害にはなっていません。
④は、小宮郭西側にある横堀を13イメージ 5郭へ架かる土橋上から撮ったものです。以前は、堀底を歩いてこの辺まできていました。
イメージ 6⑤は、山の神郭から小宮郭方向に入る枡形虎口です。右上に張り出しの郭があり、手前(山の神郭)から2折れで入るようになっています。イメージ 7
近くにこのような案内板がありますから、初心者でもわかるようになっています。ただ、説明などに納得できない点も見受けられますので、その点は留意した方がいいようです。
イメージ 8⑥は、山の神郭です。15郭辺りは土塁などが見られそれなりの構造が見られますが、16〜17郭の東側は段郭が幾重にも見られ、さほどイメージ 9の加工が見られません。案内板の言う、城下や周辺村々の民衆たちを避難させた場所なのでしょうかね。景色は最高です。
 
この後、弁天池→本丸→本丸北下郭群→中ノ丸→二の丸→大馬出→千畳敷となります。

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