古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

武蔵国(埼玉県)

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杉山城の近況

 今月の6日に杉山城を訪れました。ここ数年埼玉方面は御無沙汰をしていました。杉山城にはかれこれ10回はきているかと思いますが、一段と整備され見やすくなっているのも地元の方々のご努力のたまものと感謝しています。
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イメージ 4 上の写真は、2002年、2004年、2008年の井戸郭から主郭方面を撮ったものです。10年近く前に行った時は図太い竹や木々が城址全体を覆っている状態で、遺構の確認にも苦労していました。国指定を目指す地元の方々の意気込みもあってか竹や木が伐採され遺構もとても見やすくなってきました。右側の2008年ではほぼ堀や土塁が明確に見取れました。
 写真左は、今回の訪城で撮った井戸郭から主郭を撮ったものです。ほぼ完璧な状態で遺構が観察できます。
 
 杉山城は、以前から後北条氏のお城としてとかく有名な城でした。最近では、「杉山城問題」でさらに有名になっています。ここで「杉山城問題」を紹介するのも煩雑になりますので、竹井英文氏の「城郭史研究29号」をご覧ください。「城郭史研究29号」が入手困難であれば、竹井氏のブログ「〜未知なる城を求めて〜」をご覧ください。また、「本郷」の3月号(NO.92)に斎藤慎一氏が「杉山城」を書いていられますので、あわせてご高覧いただければと思います。
 杉山城がいつの頃の城館であるかですが、研究者が唱える説としては大別して以下の4つと思われます。
①大永期(1521-26)の山内上杉氏説 
②永禄期(1558-69)の北条氏説 
③天正期(1573-91)の北条氏説 
④天正18年(1590)の織豊系説
今月発売の「歴史読本」5月号に③を唱える中西氏の論文が掲載されています。その内容をご紹介しつつ杉山城の近況を載せていきたいと思います。
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左図の杉山城の郭配置図は、『戦国の城』掲載図を借用させていただきました。
 
 中西氏は、後北条氏城郭の基本原則を次のように述べています。
Ⓐ丘陵上を土塁と横堀で区画することで曲輪を創出し
Ⓑ対岸の堀残しを角馬出・馬出曲輪に成形し橋頭堡として土橋や木橋で繋ぐ
Ⓒそれらをさらに前面に押し出し連ねることで縄張りが構築される。
この基本原則に杉山城が合致しているとして、「天正後期の成熟した段階の後北条氏系城郭ととらえるのが妥当である。」としています。しかし、この見解は「杉山城問題」以前から云われていたことで、このことが問題で論争が起こっているのではないでしようか。また、縄張の捉えとして主郭から派生する北・東・南の各郭を馬出ととらえるには無理があるのではないでしょうか。関東ではこれらの郭を馬出とみている方はあまりいられないと思います。
イメージ 6大手口で、左手に曲がって外郭に入ります。堀の上幅は、7〜8mほどですか。
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→外郭と南二の郭の間の堀で、南二の郭の高さが分かります。
イメージ 13←主郭東側の切岸でかなりの高さがあります。
 
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→上写真を撮った一の左下の様子です。丘陵下からの高さが分かるかと思います。
イメージ 15←東三の郭の東端から主郭方面です。手前が東三の郭、中段が東二の郭で一番奥が主郭になります。段郭の構成で堀で区画され土橋で繋いでいます。
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→東ニの郭から見た東三の郭です。馬出曲輪とは見れません。
 
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←主郭東虎口で、この箇所に石積み遺構が出ています。
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→2005年の現説時の東虎口です。
 
イメージ 7←主郭北虎口を北にの郭から見たものです。左手の主郭からの横矢がかかり、右手は堀を設けて通路を狭めています。イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
→北二の郭の桝形虎口で、2折れの見事なスロープが見れます。
 
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←南二の郭から主郭です。ここは、井戸郭から土橋で繋がっています。
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→南三の郭で、奥に見える土塁のへこみは、馬出への虎口です。やはり馬出曲輪には見えません。
イメージ 11南三の郭からの馬出です。ここは、馬出でいいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この杉山城が、山内上杉氏なのか後北条氏なのか、はたまた織豊期のものなのかは、明確な答えは出ていませんが、中世城郭の素晴らしさを堪能できる城址です。訪れていただき城址の素晴らしさを感じていただければ幸いと思います。

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天神山城

 天神山城は、北武蔵の有力国人領主である藤田氏の本拠の一つと言われ、北条氏邦が鉢形城に移る前に入った城とも云われていました。しかし、黒田基樹氏の最新の研究によりますと、藤田氏の本拠は花園城で天神山城は、秩父郡支配のためにおかれた城と考えられるとしています。天文2年(1533)に藤田業繁が「秩父郡主」として天神山城に在城していたと思われるようです。このことから推察すると、天文2年前後に藤田氏が以前からあった城を改修するか、あるいは新たに築城したものと考えられます。天神山城の山上部の防備の中心が西側になっているのも、そのことからもうなずけると思います。
 永禄3〜4年(1560-61)の長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻時に、藤田氏とその家中諸氏が北条氏から離反して天神山城と日尾城で敵対して、両城に立て籠もったようです。しかし、長尾氏が越後に撤退した後この両城は、北条氏によって攻略されました。この後、天神山城は、廃城になったと考えられるようです。
参考文献:黒田基樹 「戦国期藤田氏の系譜と動向」(『北条氏邦と武蔵藤田氏』)
イメージ 1 今回の天神山城訪城目的は、出郭です。以前に行っていましたが、藪と経験不足のためよく理解できなかったので。
 出郭は、中世城郭事典Ⅰで「山上部分は主に西側斜面に注意を払い、竪堀・腰曲輪横堀で防御しているのに対して、山腹部分は横堀を縦横に巡らして馬出を主体とした防御態勢を取っている。」と書かれているように、山上部とはかなり違った構造をしていまして、興味深い遺構と思っています。
 山上部の東下20mほどにあり、山上部からの道は不明で適当な所から斜面を下るしかありません。
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 出郭主郭(左手)と2郭(右手)の間の堀切です。写真右は、主郭から2郭を見た所です。高さは2郭の方が高いです。 2郭は、上部の天神山城に繋ぐ郭だったと考えられます。
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写真左:主郭の桝形虎口で、この規模としては大きい虎口といえるようです。
写真左下:主郭から見た馬出に手で行く土橋です。右手は堀で通路を狭め、左にカーブさせています。
写真右下:馬出から見た主郭虎口で、左右に堀があって主郭の右手土塁が突き出ているいて、左手の土塁とは食い違っています。とても技巧的な構造と思えます。
 
 
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 馬出で、左手の一段低い所が虎口になり、その先の馬出状の小郭に繋がります。
 
 この出郭がどの時期に作られたかは、まったく分かっていません。ただ、天神山城をめぐる歴史からしますと、永禄3〜4年(1560-61)の長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻時に北条氏に敵対した反北条の藤田氏家臣によってなされたものではないかと思うのです。堀の造りなどは、花園城に類似する感じです。上部の天神城は、荒れ果てていまして遺構も見分けにくいのですが、この出郭は小規模ですが見ごたえのあるものでした。

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花園城―その弐ー

 花園城の続きですが、このたびの東日本大震災のあまりの悲惨な状況に手がつかずにそのままにしておりましたが、とりあえず写真のみでも載せておきたいと思います。
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左図の縄張図は、「中世城郭事典1」から引用し、説明のため加筆しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2 東から見た主郭内部です。二段に分かれているようです。虎口は、目て書くな増形が一か所あります。他に二か所見受けられますが、虎口かどうか分かりません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3 主郭西下の空堀(横堀)で、左手人のいる所に土塁が設けられています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4 堀切5です。堀幅はさほどではないのですが、岩盤をくりぬいてのもので、凄味を感じる堀切でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5 曲輪6にある石積みですか。後世の畑利用の際に設けられたものかもしれませんが、このような石積みがかなり見受けられました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6 登城路として登った竪堀2で、ここは二重竪堀で右側の短い方で登りました。かなりの急斜面で50〜60mほどあり、きつかったですね。下山に使った竪堀4は、さらに長く・きつかったです。ここを登る気にはなりませんね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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花園城―その壱ー

 この花園城は、笹藪のひどさで有名な城址です。遺構は申し分のないものですがその藪のおかげで評価をひどく落としていましたが、今回の訪城しましたら、城址西側(堀切5から堀切2を繋ぐ左側)の笹薮がきれいに刈られ、曲輪・空堀・竪堀が明確に見られ、郭間の繋がりが把握でき城道もある程度推測できました。
下図の縄張図は、「中世城郭事典1」から引用し、説明のため加筆しています。
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 花園城は、この寄居付近を平安末頃から領有してきた武蔵藤田氏歴代の本拠地です。武蔵藤田氏は、武蔵七党小野姓猪俣党の支流で、たびだび「吾妻鏡」にも出てくる氏族です。室町期は、山内上杉氏の重臣として活躍し武蔵北方に確たる勢力を有していた。しかし、山内・扇谷両上杉氏や古河公方の抗争の間に勢力を伸ばしてきた伊勢新九郎宗瑞、その子北条氏綱が、武蔵攻略を進め天文6年(1537)に川越城を落とし、翌年には国府台合戦で小弓公方足利義明を滅ぼし、さらには、氏康は、川越城奪還を目指した山内上杉憲政・扇谷上杉朝定を破り、扇谷上杉朝定を打ち取り(扇谷上杉氏滅亡)山内上杉氏を上野に追いやった。この間、藤田氏は、終始一貫山内上杉方であったが、天文15年(1546)の川越合戦後北条氏に従属したと考えられます。
 戦国前期から北条氏に従属するころまで、藤田氏が本拠にしたのが、藤田城といわれています。この藤田氏が花園城と考えられるようです。弘治元年(1555)に当主泰邦が死去し、子に娘大福御前と嫡子梅王丸がいたが幼少の梅王丸を避け、大福御前の婿養子として北条氏康の四男乙千代丸(氏邦)を迎えた。従って、乙千代丸(氏邦)はこの花園城に入ったと考えられます。時期は、弘治元年以後永禄元年(1558)の間と考えられるようです。
 永禄3年(1560)9月の長尾景虎の関東侵攻で、翌年2月に武蔵に侵攻して小田原城攻めをおこなった際に、武蔵の他国衆のほとんどが北条氏から離反して長尾方につき、藤田氏の家中からも長尾方に与する者があり、天神山城と日尾城に立て籠もり北条氏に敵対したようです。その際の氏邦の動向については不明ですが、他の北条氏の重要拠点(河越城・江戸城など)においては籠城戦を展開していますから、ここ花園城でも籠城していたのではないかと思われます。このことからしますと、従来言われている藤田氏本拠=天神山城とは言えないようです。
 氏邦は、永禄11年10月〜12年2月の間に鉢形城を再興して本拠を移していますので、その後花園城がどのようになったのかは定かではないようです。
 
参考文献
「中世城郭事典1」  新人物往来社
「戦国北条一族」  新人物往来社
「北条氏邦と武蔵藤田氏」  岩田書院

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岡の城山

埼玉県朝霞市岡にある岡の城山です。岡城とも呼ばれていますが、地元でたんに城山と呼ばれているようです。ここには、城仲間とで図面書きに行きました。
イメージ 1書きあげたものの改訂版ですが、図面を載せておきます。朝霞市の中央部の武蔵野台地の端にせり出した舌状台地の先端に位置して、東側に目黒川を見下ろしている堅固な地形にあります。現在は、城山公園として整備され駐車場も完備しています。
 城歴については定かではないようですが、この地(新座郡広沢郷)が江戸太田康資(太田道灌の曾孫)の本拠とされていて、その地にあるため太田康資の築城説もあります。ただ、この地は太田道灌によって滅ぼされた豊島氏の旧領になり、豊島氏滅亡後その旧領はほぼ道灌に接収されていますので、太田道灌築城説もありです。表面観察からいたしますと、古い構造と思えますので、江戸太田氏の関与が濃厚で15C後半〜16C初頭の大永年間辺りまでが妥当の感じです。
 城の構造は、東の主郭から西側に向けて郭をつなげている連格式です。この周辺の城で15C後半にあった城は、舌状台地に主要郭が三つで根城(子城=ねじろ)・中城(なかじろ)・外城(とじろ)の構造のものが多いようです。また、赤線で示した主郭にいたるまでの進入路ですが、主郭にいたるまでに、他の郭内部を通るという戦国期に多くみられる城郭構造とは違っています。
イメージ 2郭内の写真で、左から主郭・2郭・3郭です。郭を区切る空堀は、堀底道として使われたと考えられ、折れがつき横矢がかかるようになっています。また、進入路に効果的に横矢がかかるように主郭南に櫓台が設けられています。
 この進入路は、かなり考えられたもののようです。。桶塰未涼堀でその先に進めないようにして、堀イに誘い込み南側に廻らせています。そして、2郭南下を歩かせA地点に出させますが、⊆膤圓力β罎このラインより北側にあるので侵入者は櫓台に気付かずにA地点に入り込むといた感じです。ここがちょっとした空間になっているのも味噌のようです。
イメージ 3K戰△蓮■礎賄世諒疹譴茲蝪隠蹐曚氷發なっています。この堀底を北に向かいクランクした先に主郭西の坂虎口があります。しかし、A地点からはこの虎口は見えませんし、上の櫓台からの横矢をされているとなると、わざわざ1m登ることはないので、東に向かわざるを得なくなるといった感じです。
イメージ 4主郭北虎口で、主郭の東側の帯郭を通ってここから主郭に入ります。この下の竪堀は、この虎口を守るために設けられていたものでしよう。

 こんな感じの城址ですが、最初は土塁も低く、郭も広くて、のっぺらぼうといった感じでしたが、図面を書いていきますと、この城址が意外にも工夫された造りになっていることがわかってきました。「工夫された造り」は、至極当然なのですよね。命を守る城なのですから。
 ただ、たんにお城址を訪れて写真を撮ったりして見ているだけですと、その城のすごさやよさを十分につかみとれないものであることが分かりました。図面書きをしない時も、心してみることを痛感しました。

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