古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

伊豆国

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長浜城

 長浜城は、沼津市内浦重須字城山にある比高30mの丘城です。3回目の訪城となりますが、図面書きを行うということで久しぶりに訪城してきました。前回(2回目)は、2004年5月でしたので、12年ぶりとなります。国指定を受けて、発掘調査・土地の公有化・整備をされていまして、全くの様変わりで驚きました。                             訪城日:2016.2.21  晴れイメージ 1
 城址へは、沼津市街から国414号を南下して、口野放水路信号で県道17号に右折して5km先の長浜釣堀観光センターを目指します。長浜釣堀観光センターの西側の丘上に城址があります。城址見学ならば観光センターの駐車場が無料で利用できます。
天正7〜10年頃の駿豆国境付近の城館図です。



 長浜城は、天正6年(1578)越後の御館の乱以後、翌年北条氏が第二次甲相同盟を破棄し、北条氏と武田氏との緊張関係になり、駿豆国境の境目の水軍根拠地・重須湊を守るため築いたのが現在に残るものと思われます。天正7年11月7日付けの北条家朱印状(戦国遺文後北条編2110号)に「豆州浦為備、長浜ニ船掛庭之普請被仰付候」とあり、船着き場の普請とも取れますが、どうも再度の在地「木負百姓中」への普請役の要請で、前回は「長浜普請」とありますので城全般の工事だったと考えてもいいのでしょう。
 ただ、この普請が新たな築城なのか、修築なのかは定かではありませんが、新築とすると10年ほどの間に城内の建物跡や虎口を数度に改変したとは思えませんので、天正7年の普請は修築とするのが妥当なのでしょう。
 また、天正期以前からもこの地区の重要性が見られます。永禄11年(1568)12月武田信玄が駿河侵攻し、今川氏真が掛川に逃れます。そのため、北条氏は駿東郡・富士郡・庵原郡に侵攻して武田氏と対峙します。その際に、北条氏政が長浜の代官によい乗組員を選抜して「遠州江之船」を仕立てるように命じていたり、侵攻した自軍の兵粮を小田原から陸路を用いて韮山経由で伊豆「西浦」へ搬送したりしています。このようなことから考えられるのは、北条氏にとって「西浦」が駿河・遠江方面への戦略上重要拠点と位置付けられ、韮山城の統括下で水軍勢力が機能していたのでしょう。その中心が重須湊=長浜の防御施設だったのでしょう。そして、武田氏との緊張関係に至り、西浦の良湊である重須湊を守る防御施設の強化がされたのではないでしょうか。(北条早雲研究の最前線」家永遵嗣『奔る雲のごとく』から)
 イメージ 2同年12月、北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、安宅船も10艘重須湊に係留されていたようです。翌年の3〜4月に武田水軍との沼津沖の海戦が行われたようです。
 城主が、在地土豪の大川氏とされるようですが、北条氏直轄の城だったのではないかと思われます。大川氏は、西浦の中世以来の有力土豪で、戦国期には西浦七か村の名主・小代官を務め、北条氏の虎印判状の初見文書(永正15年10月8日伊勢家朱印状『戦国遺文後北条編35号』)を受け取るほどの家だったようです。ただ、「小田原衆所領役帳」には記載がなく、前述の北条家朱印状の宛先の「木負百姓中」の中心人物と思われ、残る文書でも「西浦之百姓」とあり在地の有力地侍として戦国期を全うしたようです。天正18年の小田原の役では、水軍が下田城に退去後の長浜守備を命じられたようですが、豊臣勢の進攻に伴い城を退去したと思われます。韮山開城ともに廃城になったと思われます。イメージ 3
 主郭で、城址最高所に置かれ、やや台形に近い形状で、西から南にかけて高1m程の土塁がまわる。発掘で、門と柵or塀となる遺構が検出されています。ただ、門と思われる遺構が木の右手ですが、その先が崖で城道が見当たりませんので、果たして門でいいのか疑問に思います。
イメージ 4 主郭から眺めは、まことに素晴らしいです。遠くに沼津市が見え、天正期には武田の三枚橋城も視野に入り、武田勢の動きも一目瞭然だったとイメージ 5思われます。この日は、富士山に雲がかかり見えなかったのが残念でした。雲がないとこんな風に見えます。イメージ 6
 主郭から見た2郭です。当城最大の郭です。広さ約16×37mほどの長方形の形で、西側から南側にかけて低い土塁がまわっています。この土塁は、本来はもう少し高かったようで、地山を削りだしたうえで版築されたもののようです。
 建物跡は、郭西側寄りに建てられ、数度にわたる建て替えがなされているようです。イメージ 7


   2郭は、主郭から3mほど低く、その境目に主郭防御施設として、凝灰岩を掘り込んだ空堀と建物跡と思われるピットか複数発掘されています。かってこの地点は、三井家の別荘であったコンクリート土台が無残な形を残していて、このような遺構があろうとは思いもよりませんです。イメージ 8

空堀は、長さ8m、上巾3m、下巾2m、深さ1.6mの箱堀で、凝灰岩を丁寧に削り、南側の竪堀に続く境に削り残しの畝を設けている畝堀です。竪堀を登ってる敵が仕切りとなる畝に阻まれて直の侵入を阻む仕組みだったようです。
↓説明板にある発掘調査時の写真です。
イメージ 11
 このような仕組みは、あまり見られませんが、下田の清水氏が関与した城にはあるようなので、ここの改修は清水氏の関与が指摘できると、さる専門家のご意見です。イメージ 9
   
 2郭東端に2間四方の9本柱(ピットは8穴)掘立柱建物跡が確認されたとして、このようなものを復元しています。3回ほど建て直しがされていることや、主郭への登り口が推定できるのがこの地点のみのため、重要な何かがあったと考え、海側への監視と主郭との連結の役割の両方を兼ね備えた「櫓」を想定したようです。たしかに、3mも上にある主郭への城道が見当たりませんので、この推測もありかな〜と思います。
イメージ 12  通常、六尺四方の間隔をもった複数のピットが見つかりますと、建物跡とするようです。しかし、ここは、ピットが8つしかなく9本柱の建物跡なのか、疑問が残ります。そこで、次のような形態も考えられるのではないかと思い、図にしてみました。イメージ 10





   これは、さる専門家の方のご指摘です。架け橋をかけて登っていたのではないかということです。遺構からどのように推定するかは難しですが、この可能性もあるのかもしれません。イメージ 13イメージ 14
 2郭と郭の間にある虎口です。南麓の田久郭からの登城路で陸側の大手口と考えられます。堀切に橋(はね橋と推測)を懸ていたのを、梅本氏て幅を狭めて虎口を造成したようです。数が説明板にある推定図です。
イメージ 15






イメージ 16
 3郭で、現在は祠が建ち西側は藪です。土塁上からの写真ですが、本来は土塁と同じ程度の高さがあったようで削り取られて現在の形になったようです。イメージ 17





4郭で、3郭から8m低く、背後を堀切で遮断しています。この郭も田久郭側に土塁を設けていますが、土塁幅5.5m、高1.5mと、郭の大きさに比べて規模が大きいです。防御の重点を置いた郭といえるようです。 イメージ 18
 主郭から海に向かって伸びる北東の尾根に4段の腰郭が設けられています。(上の段からABCDとしています)
 最上段腰郭Aから下の段を撮ったものです。イメージ 19











イメージ 20 腰郭Cの上部の様子です。城道は赤瀬かのようにたどることができます。
 海城ですから、最下段腰郭Dの下の岩礁に船着場を設けていたものと思われます。で、この腰郭は、物資の荷上場でもあり、海から攻めこむ敵に対する防御拠点であったのでしょう。イメージ 21





 最下段の岩礁部に丸太を載せたと思われる痕跡がありました。
イメージ 22ここから尾根に並行した17m先にも同じ痕跡が見られますので、丸太を用いて切願の船着き場を設けたのではないかと思われます。




 長浜城は、規模は小さいですが、海城としての機能がよくわかる城跡と思います。国指定史跡としてよく整備され、周りの景色もとてもよいので、観光のついでにも訪れるのもいいのではないかと思います。
参考文献
城址説明板
『静岡の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版
『戦国時代の静岡の山城』 サンライズ出版
『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』 静岡古城研究会

※余談
イメージ 23主郭北下の安宅船展示広場から登城しますと石積みが見られます。
イメージ 24








 人ひとりで担ぐにはちっと難しい石で積んでいます。積み方は、野面っぽっいです。石垣については、まったく詳しくありませんのでなんともいえませんが、北条氏時代のものではなく後世に積まれものではないかと思われます。同行した、石垣に詳しい方々もそのような意見でした。




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白水城

白水城は、南伊豆町長津呂字鍋浦山にある比高60mほどの山城です。伊豆半島の先端石廊崎の東側にある長津呂湾を見下ろす小高い山(鍋浦山)の頂上にあります。
訪問日:2015.5.25  晴れイメージ 2
城址へは、下田市街より国136号を南伊豆町に進み、日野信号を左折して県道16号に入り、約10km先の石室トンネル手前の信号で左折して石廊崎漁港を目指します。遊覧船の有料駐車場の手前左手に赤い欄干の小さな橋が登城口です。車は、有料駐車場に停めました。(500円)

イメージ 1










 白水城は、初代鎌倉公方足利基氏の頃長津呂・御簾三河守の城と伝えられています。基氏が鎌倉公方であったのが14世紀半ばですが、その基氏の書状が土肥神社にあります。「延元丁丑8月」に西伊豆・南伊豆之船手衆11人に宛てた回し文です。この延元丁丑が延元2年(1337)ですが、まだ基氏が生まれていませんのでこの回し文は偽文書のようです。永岡氏は、偽文書でもすべてがでたらめとは言えず、船手衆=海賊の大半は実在したものと思われるとしています。その中に「長津呂白水城主 御簾三河守」がいます。時期は、15世紀後半から16世紀初頭と推定しています。イメージ 3
 15世紀後半から16世紀初頭といいますと、伊豆で一大事件が起こっています。明応2年(1493)伊勢宗瑞が堀越公方足利茶々丸を攻め、伊豆守護である関東管領山内顕定とも戦闘状態になります。右図は、宗瑞が伊豆侵攻時の伊豆の諸氏と城です。
 宗瑞は、侵攻早々に北・西伊豆を制圧したようですが、山間部の狩野荘や東・南伊豆は敵対する勢力が残り、茶々丸も追撃の手を逃れて伊豆諸島・甲斐へ落ち延びます。御簾氏は、足利茶々丸・山内上杉氏方として頑強に伊勢氏に抵抗したと思われます。
  明応7年(1498)8月25日に宗瑞は、茶々丸のいる深根城を攻め、茶々丸が敗死します。この深根城落城で関氏とは滅び、御簾氏も滅亡あるいは逃亡したと思われます。
なお後に、宗瑞によって三浦道寸が滅亡した際に道寸方に「三須三河守」がいますので、長津呂の御簾氏がその一族ではないかと思われます。茶々丸滅亡後は、北条氏の持ち城となり、伊豆半島先端の海上交通の要所として使われたと思われますが、定かではありません。また、小田原合戦では、水軍のすべてを下田城に集めましたので、そのころ廃城となったと思われます。イメージ 7
 登城口から井戸を経て4郭南端に至る道は、大手ではないと思いますね。イメージ 4









 石積みの立派な井戸てす。戦国期ならば後期のものでしょうかね。イメージ 5

 4郭を南端から見た所で、巾5mほどの北側に高い土塁を設けて湾曲した郭です。子の西下にもう一段の帯郭があります。イメージ 6








 土塁の高さは、4郭から3〜4mほどあり、長さは25mほどです。イメージ 8

 土塁上で、右手に3郭の竪土塁があり、土塁がここで途切れていますので、虎口ではないかと思います。大手道が見つかりませんが、どうも東側の谷から斜面を登った可能性が高いと思います。イメージ 9






 5郭からの2・3郭虎口です。3郭に入ってすぐに2郭へも入れますが、この辺の構造はもう少し違っていたのかもしれません。
↓2・3郭の虎口と3郭北側土塁に石積み(3段ほど)がみられ、それも内側に積まれています。内側というのも奇妙で、なんなんでしょうかね。
イメージ 10
イメージ 11
 3郭で、北側から東・南にかけ土塁・竪土塁がまわっています。イメージ 12


      



 2郭です。3郭から少し高く、本来は3郭と一体の郭なのかもしれません。イメージ 13
 主郭への切岸を登る道です。主郭の切岸が15mほどあり、登城路を探しましたがどうもこの道辺りが最適のようで、整備の際本来の道の上に造ったのかも?
イメージ 14
 主郭で、明確な虎口は確認できません。自然地形を造成したようで、形がいびつです。イメージ 15






 東から南にかけて巾広の土塁?があります。郭内を狭くすると思うのですが、海側に面していますから見張り台なのかもしれませんね。
イメージ 16機器が茂り展望はよくないですが、地元では「高見」と呼ばれ遠くの島々まで一望できるようです。

イメージ 17  主郭の東側下に堀切に土橋でつながる土塁囲みの6郭があります。そのまま進めば鷲ヶ岬に至り、古い時代の遺構があるとのことで行ってみましたが遺構はありませんでしたので、ここが城域の端に当たるようです。

 以前に一度訪城していますが、藪に覆われいたことや見る目がないこともあって要領をつかめませんでした。今回の訪城でほぼ城の全容をつかめました。意外によく遺構が残り、海賊城の様を見ることができました。
 感想としては、主郭と2・3郭の造りが違う事から、古い時代(主郭)のものに新たに増築・改修したものではないかと考えます。御簾氏時代は、主郭あたりに見張り程度の砦があり、北条氏時代に改修されたものではと。
 石廊崎に行くついでに訪れてみるのもいいかな〜と思います。
参考文献
『伊豆水軍』 永岡 治著 静新新書
「北条早雲研究の最前線」 家永遵嗣 (『奔る雲のごとく』)



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大仙山城

 大仙山城は、函南町畑毛字岩山にある比高100m(駐車地点から)の山城です。当城については、『静岡県の中世城館跡』(1981年刊)や『ふるさと古城の旅』(水野茂る著1998年刊)に掲載されていますが、両書とも「遺構は明確ではない」あるいは「明確な遺構はない」という記述になっていました。
 ところが、平塚在住の八丁堀さんが昨年の12月に大仙山周辺に城郭遺構があることを認め、今年の6月に再度訪れて大仙山を中心に広い範囲に城郭遺構がある事を確認されました。このたび、八丁堀さんの御案内で訪城してきました。        訪城日:2013.7.10  晴れ
イメージ 1城址へは、三島市街より国136号を南下して、熱函道路入口信号を左折して熱函道路を東に2km程進み町役場のある交差点を右折します。県道136号を1.9km進んだ地点で左折して、直進しますと正法院前につきます。北砦は正法院駐車場右手から山中に入ります。(正法院駐車場は避けていただき、地図のP辺りに駐車してください。)
大仙山へは、正法院へ向かう道の最初の交差点を右折して、進みますと案内表示の標柱が左手にあります。とても狭い道ですが、2000CCのワゴン車がぎりぎりに通ります。進みますとY字路になり右手に進みますと駐車場に到ります。車止めの先の遊歩道(ゆうに車が通れる幅)を15分ほど行くますと大仙山(西砦)につきます。
 
 
 当城の城主や築城時期等についは、明確な史料がなく不明といえます。なお、『増訂豆州志稿』に畠山重忠の子畠山六郎重保の城跡という伝承が残されているようです。(、『静岡県の中世城館跡』)
 ただ、当城に関わる思われる古文書があります。
永禄13年5月22日付西原源太宛の北条氏忠判物です。(「戦国遺文後北条編2巻1419号)
 「 此度西原小屋へ敵取詰候處、彼地ニ籠走廻候、無比類候、
  彌於相稼者、御本城様申上、可引立者也、仍状如件、」
この文書は、永禄13年に信玄が4度目の駿河侵攻を行い、5月14日に吉原・沼津で北条勢と合戦となった際に、西原小屋辺りも攻められ、西原源太の過分の働きを示して云いて、翌年4月に恩賞をうけています。(戦北1472号)
 ここに出ている「西原小屋」が大仙山城の一角だったのではないかと思われます。当地は、西原氏の本貫地だったようで『北条氏所領役帳』には小田原衆「百貫文 豆州畠郷 西原善右衛門」とあり、西原善右衛門は氏康の近侍小番衆だったようです。西原源太は、西原善右衛門の一族で同心として前年に掛川城に逃れた早川殿(北条氏康の娘で今川氏真の室)のお供をした善右衛門に従い、掛川城や本宮山城での戦いで氏真より感状を得るほどの武士だったようです。源太が、戦闘面では善右衛門に代わって西原一門を率いて戦ったていた感じです。
 西原勢は、「敵取詰候處」とありますから、武田勢に攻め込まれ小屋に籠ったと思われます。西原小屋に籠った軍勢は、『北条氏所領役帳』から推定しますと一門の推定総所領か150〜200貫文ほども思われ、天正9年の池田孫左衛門尉の軍役では191.6貫文で26人(馬上6、鑓12、鉄砲1、弓1、歩者3、旗2、指物1)となっています。(戦北2258号)これは出陣の際の人数ですから、本拠地での籠城戦となれば倍の50人ほどは籠ったのではないかと思われます。50〜60人がこもるスペースからしますと、北郭と山頂部辺りだったのではないかと思われます。
 永禄12〜13年段階では、伊豆口の韮山城の北の防衛線の一角として機能していと思われ、天正期に入り豊臣勢の来襲に備えての韮山城の改修や山中城の構築にともなう防衛線の再構築の中で、韮山城と山中城のつなぎの城として使われたのではないかと思われます。
イメージ 7
 大仙山城の概念図です。おおよその位置を示しているだけで正確なものではありません。
イメージ 3
  駐車場から10分?ほど登った 南砦への入り口です。
イメージ 4 途中に遊歩道方面を見渡す監視所のような小郭があります。南砦は、尾根先の削平の甘い単郭です。
 
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 南郭北端から頂上の主廓部に向かいます。
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 いまいちよく撮れていませんで、主郭部です。右手が削り残しの幅広の土塁です。東西に細長い50×10mほどの広さです。南東下に腰郭があり、その先に堀切となります。
イメージ 8
 
 
 
 
 見晴らしはとてもよく、韮山城との狼煙等でのつなぎは十分できそうです。
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 主郭西側の堀切です。
 
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 西側の細尾根上にある土塁ラインの西端の起点地点です。甘く削平された尾根の中央に土盛られ、長さは150m程です。使用目的が考えつきませんで、不思議な土塁です。
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 土塁の写真です。土塁右手にも2〜3mの平地が続いています。
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 主郭部西端の堀切(現在遊歩道の終点)で、奥が西砦です。
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 金比羅宮のある西砦で、15×9mの卵形の単郭です。西側の物見に使われたのでしようか?
 
 明確な遺構がないこともありましたが、へたな写真撮りで分かりにくい画面になっています。再度訪城して遺構の確認と分かりやすい写真をとってこようと思います。
 
参考サイト

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狩野城

 狩野城は、伊豆市湯ヶ島町本柿木にある比高80mほどの山城です。伊勢宗瑞が伊豆侵攻の際に、激しく抵抗した狩野氏の拠点城郭です。この狩野氏は、絵師狩野派に繋がりがあるようで、「絵師狩野派発祥の地」といううたい文句も城址駐車場になっている「本柿木農村公園」にありました。   
                               訪城日:2013.2.17 晴れ
イメージ 1
 城址へは、修善寺市街より国136号を5kmほど南下して、柿木橋手前で右折して道なりに進むと、左手に「本柿木農村公園」がありますから、そこが登城口になります。公園の駐車場が使えます。遊歩道に沿って15分ほどで中郭につきます。
 また、柿木橋辺りからも登城路はあります。こちらにも駐車場があると思います。
 
 
 
城歴について、現地説明板によりますと、<平安時代からの在庁官人であった狩野氏が、軍事上の要害の地を選んでこの地に日向(伊豆市内)より移ったとされ、時期は平安末期(1100年頃)としています。そして、鎌倉・室町期においても伊豆を代表する武家として存続し、明応2年(1493)からの伊勢新九郎(北条早雲)の伊豆侵攻の折、城主狩野道一は足利方に付き戦い、明応7年(1498)に敗れて開城した。その後、一族は小田原に移り、後北条氏の重臣として要職を歴任している。>とあります。
 狩野氏が、平安末頃から在地官人で惣領家が「狩野介」を名乗るほどの勢力があり、戦国期初期において伊豆守護職の山内上杉氏の有力被官として狩野川中流域から西海岸に勢力をもっていたことは確かなようです。明応2年の伊勢宗瑞の伊豆侵攻の際に、惣領家狩野道一は足利茶々丸に与して、狩野城に本拠を構え、伊勢勢と激しく攻防戦をしていましたが、明応7年8月に茶々丸の自害とともに降伏したようです。その後の狩野氏は、松山衆筆頭の狩野介や御馬廻衆で評定衆でもある狩野大膳亮がいて北条氏の重臣となり、その領地も狩野氏伝来の「狩野庄六郷」に給されています。
 しかしながら、狩野氏が伊豆の有力在地領主としても、平安末期に城塞をきずいていたとは他地域の例からしても考えにくいことで、斎藤慎一氏が「本拠の展開」で「中世後期の領主は、南北朝期に臨時に「城郭」を構えるという段階を経て、15世紀中頃より自己の本拠に「要害」を持ち始める。」と論ずるように、狩野氏も15世紀後半の関東の戦国時代の幕開けとされる享徳の乱とその後の都鄙和睦に伴う騒乱時に狩野城を構えたのではないかと推察できそうです。なお、伊豆は中世においては関東の一国とみなされていたようです。関東管領家の山内上杉氏が伊豆国守護であったことからも推察できます。
 ただ、15世紀後半に狩野氏が築城した狩野城は、現遺構であったかは疑わしいですね。数年にわたる宗瑞勢との戦いに持ちこたえるほどの要害であったことは確かだとしても、せいぜい数百人程度の攻防戦と思われますから、さほどの規模のものとは覚えません。現遺構は、北条氏が領有後に改修したものと考えるのが妥当なのではないでしようか。
イメージ 4
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 城址へ行く際の駐車場となる「本柿木農村公園」です。車が8台ほど駐車でき、トイレも完備しています。
 
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 公園奥からの遊歩道を10分ほど行きますと、出丸につきます。ここから東側は、さほどの遺構もありませんが何となく城ぽっく、最初に訪城した時は ここが狩野城と錯覚して縄張図とどうしても合わなくてうろついた場所でした。
 
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 出丸から西下の堀切アを撮ったものです。かなりの規模の堀切で、どちらかというと自然の谷に手を加えたといった感じもします。ここから西側が狩野城といってよいかと思われます。
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 東郭から東郭と中郭の間の堀切イで、左手が中郭で、奥に進むと本郭へ行きます。かなり深い堀切なので、東郭と中郭の連絡は、もしかすると木橋なのかな〜と思ったりです。
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 東郭を北側の土塁の切れ目辺りから見ています。変わった郭で、北側の一部を除いて土塁で囲んでいます。武者隠のようでもあるし馬出といってもよさそうで、なんとも不可解な郭です。
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 中郭を堀切から上がった所から見ています。奥の土盛りの所が南郭です。西側に「本郭」と名付けられた郭がありますが、ここが主郭になると思います。南郭は、中郭より一段高く、広さもそこそこあります。物見台として機能したと思われます。
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 南郭の南西下の堀切と郭です。中郭から南西に派生する尾根の防備と遮断の備えでしょう。
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 中郭の南東尾根にある二重堀切です。この尾根は細尾根ですので、廓などを設けずに堀切で遮断しています。少々行くのに危険ですので初心者はパスしてくだされ。
 
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 中郭(左)と本郭(右)の間の堀切ウです。
 
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 「本郭」の表示のある郭ですが、間違いでしょうね。南の谷に虎口が開いて、土塁で囲まれた郭内部も狭いですから、馬出と考えた方がいいようです。
 
 
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 二重堀切エです。手前側が規模か大きく、奥は埋まっているのか浅いです。
 
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 城域の西端にある西郭です。三方を低い土塁が囲んでいます。馬出っぽいです。この西側に堀切(:掲載容量オーバーで載せられません)があって、城域はそこまでのようです。
 
伊勢氏に抵抗した時代の狩野城がどこであるか定かではありませんが、もしこの場所に想定されるとすると、やはり中郭辺りなのか?それとも出丸東側の「本城」辺りなのか?いろいろ思いめぐらしますがね。結論は出ませんので、あれこれ考えて楽しむのがよろしいのでしょうね。
 
参考文献
「「ふるさと古城の旅」 水野茂著 海馬出版
「静岡の山城ベスト50を歩く」 加藤理文・中井均編 サンライズ出版
 

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大見城―その弐ー

大見城の続きです。景観図(城址本曲輪の説明板)と縄張図(『ふるさと古城の旅』から借用しています。)を載せておきます。
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 主郭を南から撮ったものです。枯れ草におおわれて様子が分かりませんので、整備前の写真を載せておきます。
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 主郭を南から撮ったもので、上の写真と同じ向きになります。左手の窪みが虎口?
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 北から撮ったもので、右手に土塁が見れます。
イメージ 6
 
 主郭北端で、一段低くなっています。虎口のように感じますし、下にある竪堀を登ったのではないかと思えるのですが・・・です。
 
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 主郭北端にある「虎口」の標柱ですが、どこが虎口かいまいち分かりませんで、他の箇所でも標柱の位置が的確ではない感じです。奥の下が堀切になります。
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 主郭南下の上巾10mの堀切です。この規模の城としては結構な堀切といえるでしょう。
 
「城址農村公園」として整備されたようで、藪状態で登るのにも苦労したことからすれば気軽に訪れることができますが、整備後の手入れがなされているとは言えないようで、枯れ草狩りなどをしていただければよい公園になると思うのですが・・・。
 

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