古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

伊豆国

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大見城―その壱ー

 大見城は、伊豆市柳瀬字城山にある比高70mほどの山城です。修善寺と伊東を繋ぐイメージ 1街道沿いにあり、街道押さえの城として機能していたものと考えられます。何度か訪れていましたが、諏訪神社の上一帯は藪におおわれ遺構確認もままならず、かろうじて主郭・堀切・竪堀を確認できる程度でしたが、2009年4月に訪れた際に山の木々が伐採されて驚いたことを覚えています。(右写真)今回、公園になった姿を見に行きました。
訪城日:2013.2.17 晴れ
 
イメージ 2 城址へは、修善寺駅から県道12号を東に6.5kmほどにある八幡東信号を右折しますと、すく左手に鳥居が見えます。城址二の郭にある諏訪神社の鳥居です。ここが登城口になります。駐車場は、鳥居前の道を隔てた所に実成寺の駐車場がありますので、そこを借用しました。
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イメージ 4説明板が登城口と本曲輪にありましたので、それらから当城の城歴を記しておきます。
「この地は古くから「城ヶ平」といわれ、大見小藤太の居城があった所から名づけられたものです。城の造られた時代については、はっきりとしていませんが、平安時代の末の12世紀ころと言われています。城を築いたのは、大見平三家政か、その子の大見小藤太成家と推定されます。また、古くから山下一帯を「根小屋」と総称しています。」
                                (登城口の伊豆市教委の説明板)
「大見城からは、旧中伊豆市街(対狩野氏)、冷川方面(対伊東氏)、天城方面(大見郷)を見渡す事ができ、ここかが交通の要衝であり、典型的な城砦であったことがよく分かります。」「大見城周辺には「城ヶ平」「馬場沢」「敵ヶ平」「鍛冶谷戸」「矢取洞」など城郭に関する地名が残っており、現在の實成寺付近の「城ヶ平」に館跡があったと推定されます。大見城には井戸が無い為、平素は「城ヶ平」で生活し、戦闘時になると大見城に籠城したと考えられます。」
                                                                                                               (本曲輪跡の説明板より)
 大見氏が、鎌倉幕府創世記にこの地にいたことは確かなようですが、のちに越後国白川郷に本拠を移したようです。戦国期、当城が歴史の表舞台に現れるのは、明応2年(1493)の伊勢新九郎の伊豆侵攻時に大見郷の土豪「大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)」がいち早く馳せ参じたようで、明応6年4月に狩野勢が柏久保城(伊勢方)を攻めた際に、大見城から出撃した大見三人衆が背後から攻めかかり、撃退したとして宗瑞から感状が出されています。しかも、その年の12月に大見城に籠城したようです。このことからしますと、明応6年以前にはすでに大見城は築城されいたことは確かです。ただ、その時期がいつかは定かではありませんが、小和田哲男氏が宗瑞の大見三人衆への感状にある(「今度柏窪一戦刻、忠節無比類、仍当郷陣夫、同細細工事、差置之了、当要害普請年中三箇度、是者可勤同定夫候事」)「当郷」が大見郷で、「当要害」が大見城と言う見方ができるとしすると、「大見城は、単に、「大見三人衆」の私的な城ではなく、早雲によって築城され、「大見三人衆」がそれ以後、守りについていた」と考えられるとしています。宗瑞よる築城とまでは言えないにしても当城の規模からしますと、大見三人衆程度(大見郷百貫文)が構築した城とは思えませんで、「当要害普請年中三箇度」ということからも対狩野を意識した伊勢氏による直接的な関与がうかがえます。
イメージ 5
 城址は、「大見城址農村公園」として整備?されて、本曲輪に左図のような概念図か設置されています。整備後数年たっているようで、整備後イメージ 6放置されている感じです。本曲輪までは未整備の頃よりはかなり楽に登れましたが、表示標柱の的確さや遺構の確認が以前に比べて分かりにくいですね。
イメージ 7 右の写真は、ほぼ同位置(主郭下北東の腰郭)から撮ったものです。枯れ葦に覆われた様子が分かるかと思います。
 
イメージ 8 諏訪神社のある二の曲輪西端から本曲輪方面を見たものです。遊歩道がこのように設置されイメージ 1ていますが、景観は?です。かっては、右写真のように見えましたからね。
 
 
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概念図にある西側の虎口です。西側斜面に向かって道が続いていましたが、この西斜面からの虎口というと、果たしてどうかな〜?と思うイメージ 10のです。下の写真は整備前の同じ箇所だと思います。
 
 
 
 
 
 
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主郭西下の竪堀で、人が立っている辺りが虎口になるのではないかと思います。木橋をかイメージ 12けていますが、本来は主郭西下の腰郭の壁面を登ったのではないかと思います。
 
 
 
 
 
イメージ 13主郭北下の腰曲輪ですが、草ぼうぼうになっていました何が何やら分かりませんが、標柱の辺りに土塁があります。
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掲載写真の容量が一杯になりましたので、主郭などは―その弐―にします。
 
参考文献
『ふるさと古城の旅』 水野茂著 海馬出版
『静岡の山城ベスト50を歩く』 加藤理文・中井均編 サンライズ出版
『中世城郭史の研究』(小和田哲男著作集第6巻) 小和田哲男著 清文堂
 

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柏久保城

 柏久保城は、伊豆市柏久保字城山にある比高80mほどの山城です。城址は、伊豆箱根鉄道修善寺駅の東に大見川と古川に挟まれた標高180mの山頂に築かれています。この地は、韮山から南下した道が東へ行けば戸田(西海岸)南へ行けば湯ヶ島・下田方面(中伊豆)東へ行けば伊東(東海岸)に行ける交通の要所です。また、伊勢宗瑞の伊豆平定戦においては、宗瑞に頑強に抵抗した狩野氏の本拠である狩野城が南5kmにあり、狩野城攻めの付城として史料にも登場します。
訪城日:2013.2.17 晴れ 2回目
イメージ 1
 城址へは、三島方面から国136号を南下して、狩野川に架かる修善寺橋を渡って、1.3kmほど行きますと、左手に「修善寺体育館」の案内板がありますから、そこを左折して見来て斜め上の体育館を目指します。体育館へのカーブの右手奥に水道タンクがありますから、その入口あたりに駐車し、徒歩15分ほどで主郭に到ります。
 一之宮神社や天桂寺からも行けます。車でしたら天桂寺の駐車場が借りられるようです。
 
 
 城の築城時期は定かではないが、明応2年に伊勢宗瑞が伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を攻め、茶々丸与党の狩野氏を攻めた折に、当城の北側の崖をから攻め入って落としたと伝えられていますから、この周辺一帯を領していた狩野氏が狩野城の支城として15世紀後半には構築されたものと考えられます。その後、宗瑞は狩野城攻めの付城としていましたので、明応6年4月に狩野勢に攻めたられた際も、大見城から出撃した大見三人衆との連携のもと狩野勢をを撃退しています。現在残る南側と西側の土塁は、戦闘面=対狩野氏を意識したも野と考えられ、宗瑞時代に改修されたものと思われまイメージ 15す。明応7年に狩野道一が降った後は、付城の役目を終えるこことなります。しかし、史料等がないので確定的なことはいえませんが、交通の要所の番城として活用されていたのではないかと思われます。また、廃城の時期も定かではありません。
イメージ 10
修善寺グランド手前の道路脇(駐車地点)から登り始めました。登城路の目安は、奥に見える水道タンクで、城址はその左手に見えます。
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 タンクを過ぎて3分ほどで城址への案内標識がある分かれに出ます。どうもこれが、往時の古道である冷川峠に到る道ではないかと思うのです。
 
イメージ 13
イメージ 14
イメージ 16
イメージ 17 なだらかな尾根道を少し進みますと、右手に土塁?らしき土盛りと切り通した虎口状があり、その先はなだらかな平場といった感じで、前面を若干の切岸があるような郭5(上左写真)・郭4(上中写真)があります。郭4の先(上右写真)は急斜面になり、ジグザグに登っていきます。西虎口下の袖郭につきます。この道が大手と思われます。
 
イメージ 2
 
 
 
 郭3の先端から撮ったもので、10×30mほどの広さで、左手に低い土塁と奥に一段高い郭2が見えます。虎口は、郭2の切岸付け根に設けられています。
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 郭2の西端から主郭方面を撮ったものです。主郭と郭2は繋がっており、あえて分けることもないのかもしれません。西端の高い所を主郭としています。右手の谷間が「新九郎谷」です。
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  主郭で、郭2より高いのが分かります。右手奥が西虎口になります。
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 主郭を西側から見たもので、比較的高めの土塁で北・西を囲んでいます。
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 郭2の南側の土塁で、土留めで石を埋め込んで作
イメージ 7
られていたようです。
 
 
 
 
 
 
イメージ 8 主郭東の西虎口です。堀切からきますと、ここで右に折れて入り、主郭からの横矢がきくようになっています。西虎口に比べると厳重な造りです。
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 西虎口を出て先に堀切が見える通路状の一角です。堀切手前に小郭をもうけています。
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 主郭西下の堀切です。搦手口の最大防御施設と思われ、堀切の東下に平場(緩い斜面)が認められイメージ 18ま すが、武者隠の郭なのかな〜と思ったりです。
 
 
 
 
 
 山頂部に3つの郭をコンパクトに配置している小規模な山城ですが、北側と南側の急斜面を生かしたかなりの防御の固い城だったのではないかと思われます。ですから、守備兵が50〜60人も入れば満杯と云った感じですが、その程度の人数でも効果的な防備ができそうです。

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鎌田城―その弐ー

イメージ 10 登城口で、ダム駐車場(トイレ完備)から2〜3分の所にあります。
 登城口から比高120mほどの尾根上に出ます。ここまでは、緩い坂道といった感じで、登りに弱い身にとってはありがたいです。あと比高80mで主郭です。
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 尾根途中の堀切で、ここからが城域になりますかな。埋まっていましてどの程度の規模かちっと分かりません。
 
 
 上の写真の堀切から100mほど行きますと、当城最大の見どころである北西尾根の虎口部です。
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縄張図は、登城口にある説明板にあったものです。写真等で説明する際の郭の番号は、この縄張り図にあるものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 北西尾根の虎口で、非常に巧妙で防御力に優れた虎口です。3本の堀切の間に枡形状の小郭を設けています。城道が、郭20では土橋を東側に設け、郭19へは西側からクランクして入るようしています。さらに郭20の土橋の正面に郭19が位置しており、上からの攻撃を意図しています。郭4下の堀切は、横堀と言ってもいい感じで、郭19を出る土橋の右手に土塁をもうけていますので、この堀切が武者隠なのかもしれません。
 この二つの小郭を馬出とする見方もあるようです。(『中世城郭事典2』)ですが、郭20に横矢をかける意図からすると、郭19は櫓台とし、郭20を馬出と見た方がいいのではないかと思います。
イメージ 2
 郭20に入る土橋から撮ったものです。土橋正面に郭19が見えます。土橋を渡る敵兵は、郭20と郭19からの攻撃を受けることになります。
 
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 郭20から郭19への土橋と郭19です。奥に郭4が見えます。郭20と郭19との高低差が分かるります。郭19へは、クランクの坂虎口といった感じです。この虎口部の全体を写真に撮れないのがとても残念です。
イメージ 4 郭19上の堀切(横堀)で、左手が郭4で、右手に土塁か設けられています。奥で右に折れて竪堀として下ります。かなり浅めの堀といった感じなので、武者隠でも使える感じです。イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 郭19上の堀切を郭4の角から撮ったもので、少し土橋が分かりにくいですが、堀の様子が分かるかとは思います。
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 郭4の北側の虎口です。北西尾根から複雑な虎口を過ぎて主要部に入る虎口で、郭4を取り巻く土塁の一角を窪ませての平虎口のようです。
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 郭4で、南北に長い郭で北と東に土塁があります。北側の土塁は発掘調査で幅7mだったようです。
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主郭西側の堀切です。北西尾根からの城道が、郭4を通り、主郭西側の堀切(郭4より高い)に登り、この堀切を堀底道として、主郭南の虎口に繋がっていったと考えられます。
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主郭南の虎口です。郭4からの城道ですが、主郭背後の堀切が郭4よりかなり高い位置にあるのが気になります。この城道が、大手筋でいいのかな?
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 主郭で、主郭と郭3の間にある神社建設で破壊されているためか、いまいちよくわかりませんね。南中央に平虎口(上の写真)があり、周囲は土塁で囲まれていたと推定できようです。
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 郭3からの神社で、手前にあるのが土塁と堀(窪み)です。
 
イメージ 16
 
 
 
 
 郭7辺りから見た松川湖です。伊東から冷川峠への道がこの下を通っていたら、格好の監視地点だったのではないかと思えます。
 
 
 
 
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 南東尾根の虎口部です。郭の残存状況がいまいち分かりにくいのですが、赤線のようにして主要部に入ったのではないかと推定されます。二重横堀は、大規模で郭10下(二重横堀の上の段)の堀の上巾は12mもあります。
 
イメージ 18
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 南東尾根にある二重横堀に架かる土橋と虎口です。ここは、地形に合わせた大規模な横堀を二重に設け、北側の斜面に横移動を遮断する竪堀を幾重にも設けている規模の大きい防御施設が設けられています。
 二重横堀の下段に架かる土橋は、かなりの斜面になっているのが分かるかと思います。虎口を入りますと、右にに折れて一段高い小郭に繋がるようで、虎口を守る櫓台的な感じで、ここに登って城内に入ったのではないかと邪推しました。
 
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 北東尾根を遮断する堀切です。以前に訪城した時には見ていない遺構です。上巾12mで堀切上の郭5からの高低差は10mほどはありました。
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堀切先の東斜面(郭16)ですが、なだらかな自然地形でしたが、駐屯地としては利用可能の地と思われのす。
 
 主郭に隣接する郭2や3は、神社建設などで遺構の確認が定かではありませんが、北西尾根や南東尾輪の虎口部の遺構は目を見張るものがあります。両尾根の地形に合わせた防御手段を巧みに構築している姿は、驚嘆します。で、どちらの尾根が大手かということです。冷川峠に向かう道が北西尾根先なのか、それとも南東尾根下にあるかによると思われますが、遺構の構えの姿からしますと南東尾根にある二重横堀の虎口が大手だったのではないかと感じます。

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鎌田城―その壱ー

 鎌田城は、伊東市鎌田にある比高約190mの山城です。イメージ 1伊東の海から約6kmほどの伊東大川の中流域にある円錐形の「城山」の頂上部にあります。伊東と修善寺を結ぶ冷川峠越えの道が近くを通り交通の要所だったようです。
訪城日:2013.2.17 晴れ
 
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 城址へは、修善寺市街より県道12号線を東に進み、冷川川を過ぎて松川湖(奥野ダム)を目指します。ダム湖の駐車場が利用できます。そこから県道沿いの案内板奥から登城路が完備され、20分ほどて主郭につきます。
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 鎌田城の築城時期や城主等については定かではありませんが、市教委による案内板には次のように書かれています。
「平成14・15年度の伊東市教育委員会による発掘調査で、城内の各所から掘建柱建物跡が検出され、中国製青磁碗・常滑焼の甕(かめ)・瀬戸焼の擂鉢や皿・カワラケ・鉄製小刀などが散乱した状態で出土しました。これらの陶磁器類は、いずれも15世紀後半の室町時代のもので、城内に茶の湯をたしなむ位の高い武士がいたことを示しています。
 この城は、複雑な郭を配置していますが、外側を高さ2mほどの土塁と深い空堀で防御して、内側には雨水排水用の小溝で区切る平坦面を造成している構造が判明しました。排水溝を埋めていた土には火災に遭った痕跡があり、土塁の上には投石用に準備された石も残っていました。
 遺物の出土状態や火災の痕跡から戦乱によって落城した城とみられ、15世紀後半という年代観からは、在地の有力武士である伊東氏が北条早雲の伊豆侵攻に際して抵抗した場所と推定されています。」
 市教委の出土遺物の年代や時代背景からの推定からの説明は、おおよその所で納得できる内容かと思います。ただ、「複雑な郭配置」を天正18年の小田原攻めに備えた北条氏の改修とする意見もあり、松井一明氏は『静岡の山城−ベスト50を歩く』の中で、「現在見ることのできる城の構造は、大規模な堀切、枡形虎口を伴い、複雑な城内道の設置が確認できるので」「下田城と小田原城の中間地点における海上ルートと、陸路の修善寺方面からの街道ルートの監視所として後北条氏により大改修されたもので、明応2年段階の姿は残していなように見える。」としています。確かに、「大規模な堀切、枡形虎口を伴い、複雑な城内道」を見ますと、15世紀後半の城なのかとふと疑問に思えますね。(ここでも杉山城問題があるのかな〜と思ったりで・・・) 主郭・2郭辺りと虎口部(大手・搦め手)を見ますと、構造の違いを感じますので、もし北条の改修があったとしたなら虎口部なのかな〜と思っています。
 なお、伊勢氏の伊豆侵攻の際の伊東氏の動向は、次のような感じです。
 伊勢盛時(のちの伊勢宗瑞)は、明応2年(1493)に堀越公方足利茶々丸を攻撃して、伊豆侵攻を果たしますが、明応7年に茶々丸が甲斐で滅亡するまで、伊豆の内乱は続きました。伊東氏は、伊豆守護山内上杉氏の被官ということもあってか、当初茶々丸派として伊勢氏と敵対関係だったようですが、明応4年2月に宗瑞から伊東伊賀入道祐遠が狩野道一の進退に関し忠節をつくしたとして伊東7郷のうち本郷村を与えられましたから、この以前に宗瑞の傘下に加わったと思われます。(『戦国遺文後北条氏編』1号)また、明応6年に大見三人衆が敵方の伊東への動きを報じていたり、大見城に籠城していますので、修善寺から伊東方面にかけて激しい衝突があったものと推察されます。(『奔る雲のごとく』P91)その際に、火災を伴う戦闘があったのではないかと思われます。
 宗瑞の伊豆平定後、伊東氏は『北条氏所領役帳』では御馬廻衆として約227貫とあり、16世紀中期の総領伊東政世の「政」は氏政から与えられてことから、北条氏家中の中でも上位に位置付けされていたと思われます。
 また、鎌田で44貫815文領していた朝倉右京進が城主とされることが多いのですが、伊東氏も伊東氏所領中70貫が鎌田城東2kmほどの「伊東之内岡」にあります。城の規模や街道の要衝ということからしますと、当城は、朝倉氏の単独の城というより伊東周辺の知行衆が維持管理をまかされていた北条氏の持ち城だったのではないかと思います。
 
参考文献
「静岡の山城ベスト50を歩く」 加藤理文・中井均編 サンライズ出版 2009年
「奔る雲のごとく」 小和田哲男監修 北条早雲フォーラム実行委員会 2000年
「古河公方と伊勢宗瑞」 則竹雄一著 吉川弘文館  2013年
 
 

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韮山城―その弐ー

 韮山城は、城自体も遺構がよく残り見学しやすい環境にありますが、韮山城の実力は南一帯の砦群の存在です。韮山城が、天正18年に豊臣勢4万余の軍勢に包囲されて3カ月も持ちこたえたのは、この砦群の存在が大きかったのではないかと思われます。
イメージ 1
 韮山城本城部の西側は、居館部あったようですが、周囲は湿地が広がっていたようです。
砦群の中心は、標高128mの天ヶ岳砦です。ここを司令塔として派生する尾根先端に江川砦・土手和田砦・和田島砦などか置かれ、天ヶ岳砦に繋がる細尾根には堀切が幾重にも設けられています。以前土手和田砦から登り、天ヶ岳砦を経由して江川砦まで行ったことがありましたが、急坂の尾根でしかも両岸が絶壁という箇所多々あって、とても怖い思いの尾根歩きでした。今回は、通常コースの北西尾根登りで行きました。
 
 
 
 
イメージ 2 天ヶ岳への登り口は、案内標識がありません。城池の駐車場から西へ向かい堀切の左手に尾根に登る階段を見つけてください。以前より分かりやすくなっていますが、ちっと分かりにくいですがね。
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 天ヶ岳に向かう道で、見た目はさほどの急坂ではないようですが、意外にきつい坂でほぼ直登といった感じです。以前は木々の間をよじ登りましたが、木々を伐採して整備されていました。しかし、整備され過ぎというのか、木を切り過ぎて急斜面を登るのにつかまる所がなく、ロープも設置されていましたが、登りにくかったし、降りはさらに怖かったです。
イメージ 4  天ヶ岳砦を南から撮ったもので、郭は幅2〜3mほどしかありませんで、撮影場所背後に土塁があります。
 
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 天ヶ岳砦北端からイメージ 6、本城部が一望でき、本丸の木々が伐採されていますので、それもはっきり見えました。
 
 
 
 
イメージ 7
 天ヶ岳砦を少し南に下がったところの堀切で、片面を掘り込み土橋で渡るようになっています。
 
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 さらに、その先に行きますと、尾根を断ち切る小規模な堀切(仕寄遺構)が見られます。この仕寄遺構は、江川砦・土手和田砦に繋がる尾根に多く見られます。
イメージ 9 天ヶ岳砦から西尾根に降る所で、ここを降りますと土手和田砦に行けますが、ものすごい急斜面でロープが設置されています。この砦群で最悪な道ですね。今回はバスしています。
 
 
 
 
 
 
 
土手和田砦は、以前に撮った写真がありますので載せておきます。
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イメージ 11イメージ 12
写真左:土手和田砦南端の岩盤を削って障子堀にしています。
写真中:岩盤を掘り残した感じの土橋。
写真右:天ヶ岳に向かう尾根にある堀切で、ここも岩盤を削っています。
 
イメージ 13 江川砦に向う尾根にある堀切です。城池の駐車場付近から見えます。この尾根上の堀切は何本かありますが、規模が大きいです。江川砦へは、江川邸の許可が必要ですが、天ヶ岳から尾根伝いに行く方法もあります。一見の地がありますのでお勧めです。
 豊臣方の陣城は、江川邸東側の山中に良好な状態で残っています。ただ、見学しやすいのは本立寺から行ける本立寺陣城のみです。上山田陣城・追越山陣城・上山田陣城・昌渓院陣城は、登城ルートが整備されていませんので、藪漕ぎの直登になります。行かれる際には、単独は避け、くれぐれも万全な装備で行かれるようしてください。
 
 

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