古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

伊豆国

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韮山城―その壱ー

 韮山城は、伊豆の国市韮山にある比高35mの平山城です。城東下にある城池公園から三の丸・権現郭〜本丸〜塩蔵まで遊歩道が整備されて見学しやすいです。しかも最近、再整備されたのか二の丸などの木々が伐採されていましてより一層見やすくなっています。    訪城日:2012.10 晴れ
イメージ 1 城址へは、三島市街より国136号を南下し、伊豆箱根鉄道韮山駅に入る北条信号を左折して、1.3km先にある江川邸西側の城池公園を目指します。城池西側の山が城址で、駐車場は城池の周りにあり、江イメージ 9川邸駐車場も使えます。
 
 韮山城は、関東戦国期の雄北条氏の初代伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞、通称北条早雲)が明応2年(1493)に伊豆に侵攻し、堀越公方足利茶々丸を追いやった後、明応9年(1500)の頃までの間に築城されたものと考えられているようです。再整備に伴ったものなのか分かりませんが、説明板も新しくなり、内容も要を得たものに書き改められています。
 韮山城は、明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九イメージ 2郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城である。
北条氏の本拠地が小田原城に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正一八年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。その後、徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿河転封とともに廃城となった。                                  現地案内板より
 韮山城には、平時には伊豆郡代の笠原氏を筆頭とする伊豆衆が詰め、戦時には北条一族が城将として派遣されたようで、天正18年の小田原合戦時に在城していた北条氏規も豊臣勢との軍事的緊張に対応するもので、氏規は、永禄12年(1569)の武田氏との抗争時から、度々在城しています。
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 本丸にあった、「城跡周辺案内場」の地図で、とてもよくできていますので、載せておきます。
 韮山城は、本城部と周辺の砦群によって構成され、さらに天正18年の韮山城攻めの際の豊臣が他の陣城群が良好な状態で残っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4 城池の北側から韮山城本城部を撮ったものです。右手が三の丸(現韮山高校テニス城)に登る桝形虎口があり、左手の天ヶ岳から続く北西尾根の龍城山に気付かれた連郭式の城です。
 
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三の丸南東端の虎口で、大規模な枡形と思われます。左手が権現曲輪で、右手が三の丸です。イメージ 6
 
 
 
三の丸(寛永期の古絵図による名称)で、城内最大の郭で、南側を除いて三方を高土塁(高4〜5m)で囲んでいます。かっては、曲輪下部に堀(幅10m以上)が廻っていたようです。現在は、高校のテニス場と化しています。
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権現曲輪を二の丸に登る道から撮ったものです。右手奥に熊野神社があり、神仏混合の時代には熊野権現と呼ばれていたようでそこから曲輪名がつけられたのでしよう。一段高くなっていますので、櫓台跡だったのではないかと思われます。
 
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 二の丸を本丸のある南側から撮ったものです。二の丸が、北側土塁まですっきり見えるのは初めてです。郭内の木々も伐採されていまして、郭内の構造がよく分かります。権現曲輪からは約12m高く、西縁部の切岸沿いに登り小規模な枡形虎口から入ります。周囲は高1mほどの土塁に囲まれ、南北の端が幅広の土塁になっています。
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 二の丸から本丸(左手)へは、浅く埋まっている堀切に架かる土橋を渡ります。
 
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 本丸で、台形状の小規模な郭で、本城部の主郭としては二の丸が適当な感じです、ここは、櫓台もしくは物見台といった方がよさそうです。奥の山は、天ヶ岳です。
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 見晴らしは素晴らしく、富士山の雄姿が見えますが、今回は雲に隠れていまして見れませんでした。
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以前に撮った富士山です。
 
 
 
 
 
 
イメージ 8 本丸から南の塩蔵に繋がる尾根上の土塁(左手)と城内道です。左手下に腰郭が一か所あります。
 
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 最南端にある塩蔵と呼ばれる曲輪です。ここには、3つの小郭があり、その一角に方形の土塁で囲われた郭で、塩蔵というより煙硝蔵といった方があっている感じです。
本城部は、これまでです。天ヶ岳砦を中心にした砦群と豊臣方の陣城群については、その弐にします。
 
参考文献
『中世城郭事典2』
『静岡の山城 ベスト50を歩く』
『戦国北条氏五代』

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韮山城支砦群

 韮山城は、伊勢宗瑞が堀越公方を滅ぼしたのちに築城したものといわれています。時期としては、明応9年(1500)ころと推定されているようです。支砦群が構築がいつかは定かではないのですが、天ヶ岳砦からは、韮山城が丸見えですので、韮山城が築城された時期と同じころには、それなりの施設がもうけられたと考えるのが妥当な感じがします。そして、豊臣勢の侵攻に備えて韮山城と一体の支砦群が天正18年(1590)の前あたりには出来上がったのではないかと考えられます。
 豊臣勢4万4千余に「「韮山義も付城掘、塀、柵出来候、是又可被干殺候」(秀吉が加藤清正に宛てた書状)と書かれたほどの厳重な包囲網にも容易に落ちず、約3カ月の籠城しています。山中城が半日で落城に比べますと、意外な感じがします。韮山城が持ちこたえたのは、北条氏規と家康の関係があり手心を加えたのでは、といったことも言われていますが、豊臣勢の無理攻めを避けたこともあったのではないかと思います。それは、この支砦群に囲まれた強固な防御構造を路理攻めすれば多大な損害が生じるのを恐れたと思えるのです。
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天ヶ岳砦から見た、韮山城です。城址を上から俯瞰できるのは珍しいと思います。このように、丸見えですからこの天ヶ岳砦の地を敵方に占拠されますと韮山城は丸裸といえるでしょう。
天ヶ岳砦が、攻城戦時には司令塔の役目を果たしたと思います。
 
 
 
 
 
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標高128mの天ヶ岳の頂上部で、砦は幅の狭い郭です。指して、大勢の兵が立て籠もれませんが、東西(画面の左右)は急峻な斜面で、とてもよじ登れるものではありません。
この頂上部から派生する尾根の先端部に江川砦(北東)土手和田砦(西)和田島砦(南西)が築かれています。
 
 
 
 
 
 
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土手和田砦のL字形の畝堀です。何年か前に発掘調査がありその際の写真になります。砦群の中では、最もよく遺構が残っていますが、現在は、藪に覆われて、右側の写真の所がかろうじて見られる程度です。韮山城の南方面の監視・防御拠点ですが、低い尾根先にあるため、独立して戦えるように強固な防御陣地を築いたものと考えられます。
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天ヶ岳から土手和田砦に行く尾根にある仕切り遺構です。岩盤を削り堀切にしています。このような仕切り遺構は、天ヶ岳砦から派生する尾根に見られます。
 
 
 
 
 
江川砦は、江川邸の裏手にあります。入るには、江川邸の許可が必要になります。
和田島砦は、遺構はほとんとほ見られません。
 
韮山城を訪城されましたら、個の支砦群も訪れるのをお勧めします。。ただし、かなりの急斜面、綱渡り的な道などがあり、竹藪もひどいところがありますので、足下をしっかり固めてお出かけください。

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昨日、午後から韮山でオフ会がありま氏ので、午前に近くの上山田陣城に行ってきました。下山ついでに昌渓院陣城を回ってきました。
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この両陣城は、天正10年(1590)の豊臣方の小田原城攻めの際、後北条氏の東の重要拠点である韮山城を攻めるときに構築されたものです。「家忠日記」の天正10年3月8日条に「八日庚戌雨降、明後日十日ニ(に)にら山ニ御取手可有之由御ふれ候」とありますので、そのころ築かれたものと推定されます。付城は9ヶ所あります。韮山城の北条方の付城に対峙する形で設けられています。
イメージ 2この上山田陣城は、前野長康の陣で韮山城東側にある豊臣勢の陣城の中でも秀でたものです。しかしながら、城址へ登るには途方もない労力が必要です。比高は、わずか130mほどなのですが、登城ルートは全くなく、急斜面の藪のないところを探しながらの直登になります。
イメージ 3規模は、南北150mほどのもので、小規模なものといえます。ですが、そこに虎口が4か所も設けられています。写真は主郭と想定される郭に設けられている虎口Bのものです。たまたま、どなたかが矢竹を刈っていただいていたようで、すっきりとして見れました。土塁も分厚いものです。
イメージ 4織田・豊臣が築いてきた近江の井元城・土山城、賎ヶ岳の田上山城・玄蕃尾城などと同じ手法によって築かれているのがよくわかります。

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昌渓院陣城は、生駒親政が詰めていた陣です。細尾根のかろおじて広い所に郭を構築し、郭背後の尾根に堀切を入れて遮断しています。どうも、元の領主の大草氏の詰めの城を改修したもののようで、あまり手を入れたという感じではありません。

人家の裏山にありますが、山中はほとんど手入れされていませんので、かなりの藪こぎを覚悟しての訪城になります。「静岡の山城 ベスト50を歩く」に掲載されていますが、一般のお城ガイドの本に載せるにはあまり適当ではないかと思えます。一般の方や山城初心者が行かれるには、とても危険な場所にあります。もし、行かれる際には、単独での訪城は避けていただければと思います。

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伊豆加納城

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南伊豆町の加納城です。町役場の西側の丘陵の先端に位置しています。築城時期は定かではなく、表面観察からしますと馬出・横堀などから戦国中期以降の城と見ます。城主は、下田城主の清水氏一族の城と考えられるようです。清水氏の本家筋の清水康英の所領のほぼ半分ほどが当加納になっていますから、ここが本貫地と考えられます。
現在の地主さんは、清水氏の子孫でありません。今回、少しお話をさせていただきましたが、小生のカメラを見まして「写真を撮ってどうしますか?」と聞かれました。HPなどで紹介されるため訪問者が絶えないようなのです。小生も以前に訪れまして、旧HPに載せていますので、「これぁ、まずいかな?」と思ってそのことは黙っていました。(汗)

地主さんの要望は、
,城址を見に来てくれることはかまわない。
■硲个覆匹砲麓命燭覆匹郎椶擦討い燭世たくない。
とのことでした。
城址見学は、必ず地主さんの許可をいただいて訪城してください。

今回は、山中の木々や藪か整理されていまして、郭内がすっきりしており、主郭背後の二条の堀切もよく見えました。
写真や城址の詳しい説明はできませんが、簡単な縄張り図だけを載せておきます。

伊豆の山城の中でもよく遺構の残る城址です。ですので、訪城される際はマナーを守っての訪城を心がけていただきたと思います。

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下田城

下田城は、伊豆南端の下田湾の奥にあります。現在は、下田公園として遊歩道などが設けられて散策によい場所です。湾に臨む船着き場は、公園になってかっての様子はありませんが、稜線上の塁壁はよく残り、堀障子の畝堀も見られます。
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この下田城は、北条氏の伊豆南端の下田湾を海賊衆の拠点とするために築城・改修されていったものです。そのため、軍船を収容する船溜まりを防御するために稜線上の塁壁を設けています。この稜線上の塁壁が、巨大な土塁として機能しているようで、その直下の堀は、堀障子の畝堀が設けられています。
イメージ 2主郭下の畝堀に堀障子が見られます。
イメージ 3登城口の海中水族館から登って行きます、主郭東下の堀切と土橋の場所にいたりますが、どうも当時はこのような状態でなく、堀切はあったとしても虎口化のような使われ方はしていなかったと思います。土橋もなかったことになります。
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下田城の模型復元(下田市外ヶ岡交流館)によりますと上の写真のように稜線上の塁壁の郭から畝堀の上の橋をかけて稜線上の塁壁背後の斜面ににらみを利かす陣小屋があったようです。(右図は、藤井尚夫氏の『ドキュメント戦国の城』の「下田城建物の配置スケッチ」を借用させていただきました。)
イメージ 5
左の写真は、主郭北下の船溜まり・屋敷地のあったところです。真ん中の写真は、東端お茶ヶ崎展望台からの眺めで、当時も監視所として機能していたと思われます。イルカは、展望台から見えたもので、イルカショーをやっていたのでしょうかね。タダ見させていただきました。

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