古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

駿河国

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石上城

 石上城は、島田市指定史跡で島田市川根町笹間上字石上にある比高50mの山城です。笹間の地は、大井川の山間部のさらに奥まった所にあり、西の清笹峠を越えれば安部川支流の藁科流域に出ます。大井川流域と安部川流域を繋ぐ古道の要衝地に築かれた城と思われます。  
                                          訪城日:2015.2.28 晴れ
イメージ 1 城址へは、新東名島田金谷ICを降り、国473号を14kmほど北上しイメージ 2、川根交番西信号で右折、県道63号に入ります。道の駅を過ぎて初瀬トンネルを抜けた先で右折して笹間川沿いの狭い道を8km程進む郵便局があります。少し先を左折しますと登福寺の標柱があり、右折して少し行きますと登福寺・石上公民館のイメージ 3駐車場に着きます。背後の山が城址です。


 石上城は登福寺の東の尾根上に位置する中世の山城です。築城時期については不明ですが、南北朝時代(1336-92)には徳山城の支城として南朝方に属していたことが知られており、代々この地を治める石上氏が城主となりました。正平8・文和2(1353)年に遠江国の守護今川範氏に攻められて落城し、今川氏の支配となりました。さらに桶狭間の戦の後、今川氏から武田氏に支配が移った後も石上氏が城主となりました。イメージ 4
 天正3年(1575)に二俣城の守衛として赴いた石上城主の石上兎角之助は二俣城の戦で討死したと伝えられ、この後石上城は廃城になったと考えられます。
島田市教育委員会    現地案内板より
 当地は、右図のように駿府から藁科川沿いに通じる川根街道の支線である笹間峠越えの道が通っています。川根街道は、北遠の犬居・二俣方面とを繋ぐこの地域の主要道です。天正3年の長篠の戦以降、武田は徳川の攻勢を受け遠江の拠点である犬居城・二俣城・諏訪原城を失い、当地が徳川との境目の地となり、さらに天正9年3月に高天神城が激戦の末落城するに至って武田氏の退勢が決定的になります。その時期に当地域の状況がわかる書状があります。
 天正9年(1581)6月6日付の土屋昌恒宛ての穴山梅雪の書状写です。(「静岡県史」中世4-403)
一篠間御仕置之事、如工夫可申付之趣、被仰出候、天王山御普請衆帰陣次第、藁科谷へ出合、寄居御普請可致助言候
一石上兎角・大橋可致早々祗候旨申付候イメージ 6
 これは、大井川治中西流域からの徳川勢の攻勢を看取して、この地域の防備強化を図ったものでと思われます。天王山は拠点の小長井城で、藁科谷の寄居は尾沢渡城と推定されます。尾沢渡城は、笹間峠越えの道筋にありここが普請されているとすれば、石上城も何らかの手入れがされたのではないかと思われます。また、在地の石上兎角・大橋某をわざわざ甲府に伺候させるのも徳川方に内通するのを防ぐこともあったのでしょう。なお、この石上兎角ですが、説明板の石上兎角之助との同一人物なのか定かではありませんが、「兎角」からすると同一人物くさい感じですね。

イメージ 5 
 
 駐車場の右手奥から馬洗沢を渡り、進むとこの3郭に着きます。社があり館跡と考えられているようです。
イメージ 7






    
 社右手から緩やかに上る大手道が100mほど続きます。
イメージ 8
 3郭から5分ほどで2郭下に着きます。右手に竪堀が落ち、左手に2郭西側を取り巻く横堀があります。イメージ 9






この地点はかなり工夫されていると思われます。
大手道から2郭へは、A地点の張出からすると現在道がついていると同じ直進して壁を登ったものと思われます。(もしかすると破壊道なのかもしれませんが、ほかにそれらしき箇所がないので)竪堀1(右図では堀切)は、西側を落とさないであえて横堀にしています。どうも、大手道を進んだ敵を横堀に誘導して主郭・2郭から殲滅する意図があったのではないかと思います。それは、竪堀3の南側に土塁で横堀を行き止まりにさせていることからも推察できるようです。
イメージ 10


 2郭から主郭方面です。イメージ 11






                        主郭で、13×26mほ渡の広さで、右手に低い土塁がみられますが、社の建設時の土寄せかもしれません。 イメージ 12
      
 
 主郭西下の4郭ですが、もしかすると横堀が埋まったものかもしれません。
イメージ 13







 主郭北の上巾8m(切岸は10m)ほどの堀切で、ここだけが両端が竪堀で落ちています。イメージ 14

 堀切から北60mほどにある竪堀2です。城域の北端のようです。ここも片側だけの竪イメージ 15堀で、この形態がこの城の特徴なのでしょうかね。ただ、城域側に窪みが見られ虎口なのではないかと思われます。
 『静岡県の城跡ー中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』で当城を担当した平井登氏が
『当城は小規模な山城とはいえ、遺構の多様性と発達した構造が随所に見られ、史料・地誌類が伝える武田氏支配下での運用が確実と捉えている。』と書かれているように、何気ない構造の中に光るものが見受けられます。小長井城を訪れる際には、当城へも訪城することをお勧めします。
参考文献
『静岡県の城跡ー中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版)』 静岡古城研究会(2012)


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小島陣屋

小島陣屋は、静岡市清水区小島本町構内にある江戸期滝脇松平氏の大名陣屋です。 
                                          訪城日:2014.1.21  晴れイメージ 2
イメージ 1
 
 
新東名新清水ICから国52号清水方面に約9km程南下し、小島南信号で右折します。(案内板あり)道は狭くなっていきますが、突き当たりのT字を左折してほんの少し進みますと、左手が城跡です。こちら側は、搦め手口です。
搦め手口の案内板辺りの空きスペースに路駐できます。
 
 
 
 
 
イメージ 3駿河中東唯一の大名として庵原・有度・安倍・三郡にわたる三十カ村を統治した小島藩壱万石の藩主瀧脇松平氏が、宝永元年(1704)ここに陣屋を構築、以来百六十余年間、藩政の中心地であった。
 陣屋は、小藩の城郭として古典的なものであったが、明治維新後、小島藩学問所の後身、包蒙舎小学校々舎として用いられ、昭和三年移転によりとりこわされた。
 多くの歴史と誇りある伝統を秘めたこの陣屋跡がわたくしたちの精神的風土の一つとして末長く保存されることを願うものである。
 小島町自治会 小島地区まちづくり推進委員会
             現地案内板より
 松平信治以後、9代続き信敏に至り明治維新しなり、静岡藩の成立により、千葉県に移封し、桜井藩を起こし廃藩となった。
 
イメージ 4
 大手門が写ってはいませんが、陣屋全景となります。石垣で三段の曲輪を形成しています。イメージ 5
  最大の見どころ、大手門跡です。
 
以前(2004.11)に訪城した際に地元の方に案内され、お話を伺いました。
 中央部は、ほぼ50m四方ほどの広さがあり、西側が一段低い区画になっており士分の屋敷地であろう。
 大手の枡形虎口は西南にあり、幅1.3m、高さ1.4m、長さ22mの規模を持ち東に突き出している。虎口の東側の石垣は、切り込みハギの石垣で、四段に組み高さ4mもある。
 虎口より南から西にかけて、数段の石垣か組まれているが、現在は畑地になりその下の士分の屋敷地も茶畑になっている。
 渡辺氏にぐるっとあんないされて、北側の井戸も見させていただきました。
 渡辺氏のお話では、地権者の方がお年寄りで、耕作もままならず、保存会が役場に掛け合い税金が掛からないようにし、見学できるように整備しているとのことでした。保存会の方々は、60名ほどで秋には地域の史跡めぐりなどのお祭りもしているそうです。
 
一万石の陣屋というより、まさに城郭のようです。近くには、御殿の書院が国道沿いに公会堂として残り、松平家菩提寺の龍津寺もよさそうです。
 
 

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江尻城

 江尻城は、静岡市清水区江尻町・二の丸町にある平城です。清水は私の育った街で、子供の頃はここにお城があったとは知りませんで、高校生になりこの近くの友達の家に行った際に海から離れ、しかも高台にある所が、どうして入江町なのか不思議に思ったことはありましたが、つい最近まで忘れていました。たまたま、静岡古城研の『静岡県の城跡』の江尻城の復元図を見て、その疑問が溶けた次第です。城跡の遺構は、市街地化が進み、まったく残っておりませんので、本丸のあった江尻小周辺と巴川の現状を紹介しておきます。            訪問日:2014.1.21 晴れ 
イメージ 1城址へは、JR清水駅前の国1号を西に400mほど進み、大手町交差点を左折しますと、小芝神社です。その南西に本丸の比定地に建つ江尻小があります。
 左図は、清水郷土史研究会の復元図に基づいて水野茂氏が作図したものを、わかりやすくするために加筆しています。
イメージ 2 江尻小です。一方通行ですので注意してください。駐車場はありません。
 
 当城の築城は、永禄13年(1570-:元亀元年)2月22日付けの武田信玄書状(戦国遺文武田氏編1515号)に「去十五日清水之津江移陣、築地利、岡部豊前守以下海賊衆差置」とあり<、今福和泉守を奉行に馬場美濃守信房(後に信春)が縄張をしたとされています。翌年、山県昌景が城番とし、昌景が長篠・設楽原の戦いで戦死したため、天正3年(1575)穴山信君が城代となった。 その後、北条氏や徳川氏との抗争に危機感を募らせ天正7年、9年に二度の大改修を行ったようです。
 武田家滅亡後は、徳川の支配下になり本多重次らが入り、徳川氏の関東移封後は、駿河城主中村一氏の支配するところとなつりましたが、関ケ原の戦い後の早い時期に廃城となっものと思われます。
イメージ 3
 左図は、「駿国雑志」の江尻城の古絵図で、川を背にした「後ろ堅固」の梯郭式の構えをしています。この形は、武田氏が占領地の拠点城郭によく見られるもので、信濃の海津城、長沼城、岡城、駿河の三枚橋城などあげられます。これは、武田氏があえて平地に築城したのは、軍事面と占領地支配の行政的な面を重視したものと思われます。当城も、「古東海道(北街道)と後部につながる河内路との利便性と、海路基地の清水湊・江尻津とのかかわりに伴う陸海の市場・流通機能と水軍を管轄するための立地が優先された」と水野氏が述べていますが、うなづける見解かと思われます。    
 
イメージ 4 小芝神社で、鳥居左手に城址説明板があります。城址碑と説明板が、江尻小敷地の南側にあるようですが、平時の日中にはちっと入りずらいので確認していません。
イメージ 5
 江尻小の対岸(巴川の右岸)から本丸方向を見たもので、このあたりに江尻津があり、船着き場があったのでしょう。 
 
 
 まだ探せば、それなりに見つかるかとは思いますので、帰ったついでにあちらこちら歩いてみたいと思います。
 
参考文献
『都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成9」 東洋書林
『新府城の歴史学』 新人物往来社
『静岡県の城跡』 静岡古城研究会                                    
 

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(伝)吉原城

 以前に「吉原城はどこ」という記事を書きまして、推定地を訪問してみたいと書いてそのままになっていましたが、ようやっと行ってきました。                    訪問日:2014.1.21 晴れ
 吉原城は、天文年間(1532〜55)に駿河東部の富士・駿東両郡をめぐり今川・北条両氏が争った「河東一乱」で北条勢が拠点とした城です。下図は、その時期の吉原城周辺の城郭です。
イメージ 1
第1次河東一乱(天文6年2〜5月)においては、今川義元が長年今川・北条両氏と敵対していた武田信虎の女と婚姻を結んだことが直接の原因だったようで、北条氏綱が一か月ほどで富士川の河口近くの吉原まで進出し、確保したようです。『快元僧都記』に「駿河国吉原の陣所に飛脚を立て巻数を進上す。」とあるので、氏綱が吉原に居た陣所は、臨時に構築されたもので、第2次河東一乱に記録に出てくる吉原城はまだこの時期にはなかったと思われます。
 第2次河東一乱(天文14年7〜10月)では、吉原城が確実にあったようです。連歌師宗牧が天文14年(1545)1月頃蒲原から吉原を通過しており、『東国紀行』に「敵地への送なれハ、警固船兵具いれて、人数あまた乗たり、一里はかり過たれハ、吉原の城もまちかくみえたり、この舟を見つけて、足軽うち出、事あやまちもしつへきけしきなれハ、十四五町此方の磯にをしよせ、荷物おろさせ、松田弥四郎申陣所へ人つかはしたれは・・・」と書かれれています。遠目からも「吉原の城」と認識され、配属の部将の陣所もあったことがわかります。また、7月に今川勢が善徳寺に侵攻し、吉原の北条勢と対陣しますが、その距離は3kmほどしかなく、9月に武田の援軍で不利と察した氏康は「吉原自落」(『高白斎記』)し、三島に退去したとあり、「自落」と書かれてることからしてある程度の防御を施した所=城・砦と思われます。
 このことから、吉原城は第1次河東一乱〜第2次河東一乱の間に北条氏によって築城されたものと考えられ、義元が天文18年(1549)に興国寺城を取り立て田頃に廃城となったのではないかと推察します。ただ、当地が、富士川の渡河地点で富士川の物流の集積地ということもあり、それなりの施設を今川氏が設けていたと思われます。
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 富士塚かあたりが、吉原城と比定されます。富士塚へは、狭い道が込み入っていますので説明ずらいですが、吉原駅南400m、元吉原中西150mあたりにあります。車では、富士と港の見える公園から行きますとわかりやすいです。富士塚・富士と港の見える公園とも駐車場は完備しています。
 
 
 
 この地区の説明が、富士と港の見える公園にありますので、こちらをみますとより分かりやすいと思います。
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説明
鎌倉時代のはじめころ、このあたりに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていました。
 その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、この見付には、道者小人問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになりました。
 しかし、この地は湊からの高浪や、砂丘からの漂砂がひどく、天文年間に、今の鈴川、今井地区へ所替えし、まもなく吉原と改名され、東西への旅人で繁栄しました。
 慶長6年に至り、徳川家康によって、東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されました。しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋村西方に所替えしました。
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富士と港の見える公園の展望塔から見た、田子の浦港と富士山です。説明板からしますと、この地が吉原湊だったようです。
 
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 イメージ 5
 説明板によりますと、この富士塚は、築造時期は定かではないようで、室町時代後期から江戸時代初期まで遡るという説もあるようです。関東の富士塚とは性質‣形状など異なるようで、関東で隆盛した時期より以前の富士山信仰に基づいて築かれたもののようです。現在の富士塚は、S51年に鈴川区が古老の記憶に従って復元したものです。
 
 富士塚周辺が吉原城と推定されていますが、すぐ南側に駿河湾があり、砂丘上に堀や土塁を築いていたとは思われませんで、かなり限定的な防御施設にとどまったものと思われます。第2次河東一乱で、今川・武田勢の侵攻に早々に氏康が三島に退いたのも頷けます。
 
 参考HP
「河東一乱」の経過   『静岡県ののお城
参考文献
『武田氏年表』 武田氏研究会編 高志書院
『北条氏年表』 黒田基樹編 高志書院
『軍需物資から見た戦国合戦』 盛本昌広著 洋泉社新書
 

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戸倉城ーその弐ー

 戸倉城の続きで、遺構の紹介になります。が、あまりいい写真が撮れていませんで、わかりにくいものとなりますが、ご容赦のほどお願いいたします。
イメージ 2
堀切ウで縄張りの造りが違う感じを受けます。『静岡県の城跡」で水野氏は、この違いを「中央に巨大堀切を入れ、主要部と駐屯部を明確に区分けした陣城特有の「二郭構造」である。」としていますが、管理人は、造成時期の違いではないかと思います。
西郭群
イメージ 1 主郭は、東西35m、南北22mほどで南東に小郭を張り出しています。ただ、太平洋戦争で高射砲陣地となったことやその後の公園造成で、土塁や虎口は消滅されています。
主郭からの見晴しはすこぶる良く、周辺の城が一望できます。この展望を見ると、当城が、伊豆の街道と水運の出入口に位置し、街道と狩野川の監視所として重視されていたことがわかります。
 
 
 
まずは北側方面↓で、泉頭城、山中城。       次に南方面で、韮山城、大平新城、出城山砦。
三枚橋城は写ってはいませんが、視野に入ります。
イメージ 3
イメージ 7イメージ 14  主郭東下の堀切オです。主郭から郭伝いに行こうと思いましたが、藪がひどく遊歩道からよじ登り見てきました。イメージ 4この堀切、上巾10mを越える結構な規模でした。おもしろかったのは、下の郭から堀切に入る通路で虎口という感じでした。写真は藪深くとれませんてした。
 
 
イメージ 5
 主郭から南西に下る道を行きますと、金毘羅神社のある平場に出ます。途中イメージ 6に堀切エがあますが、写真を撮り忘れました。この平場は、駿府城の石垣の石切り場だったようで岩盤にや穴が残っていました。
 
イメージ 8 堀切ウを北側の道路から撮ったものです。堀切ウには、金毘羅神社のある平場からいけますが、フェンスがあって立ち入りできませんでした。上巾は20mほどはある感じで、主郭側は切だった絶壁で西郭側は急斜面でした。自然地形の鞍部に手を入れた感じに見えました。
 
 
 
 
 
次に、西郭群。
イメージ 9
西郭群は、痩せ尾根に構築されています。そのピークにある郭で、八坂神社が鎮座しています。
ここが、西側の主郭に相当するのでしょう。イメージ 10
 八坂神社のある郭の西がにある二重堀切の外側の堀切です。上の段のもう一本の堀切までの高さは10mはあり、登るのに一苦労します。
 
イメージ 11
 二重堀切西側に三段の平場があります。土止めと思われる石積みがみられます。畑地に伴うものとしては、平場が狭いので、城の遺構と思われます。
さらに西側に、「く」の字の掘り込みのある比較的広めの平場がありがあり、そこから三方の尾根が派生し平場や堀切がみられます。
イメージ 12
 
 この堀切イは、南の細尾根の先端にあり、深さ15mはある感じで、上巾は13mを越えます。降りようとと思いましたが、ここまで来るのも大変でさらに捕まるものもない急斜面を降りる気がしませんで行くのをあきらめました。
イメージ 13
  堀切アで、西郭群の最西端にあり、八幡神社の裏側のすぐ上にあります。規模としては小さいようですが、大手口に近いこともあっての尾根遮断の堀切だったのでしょうか。
 
 遺構がみられないといわれる戸倉城ですが、結構ありました。薮中のもので行きにくいかと思われますが、境目の城として緊張感の感じられる遺構でした。
 
参考文献
『静岡県の城跡ー中世城郭縄張図集成(中部・駿河国版) 静岡古城研究会
『静岡の山城ベスト50を歩く』 加藤理文・中井均編 サンライズ出版 
 

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