古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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浜松城

浜松城は、浜松市中区元城町にある平山城です。遺構としては、天守台の残る天守曲輪の石垣が主なものです。
訪問日:2012.5.28 晴れ
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城址は、市役所(大手門跡)の北西にありますので分かりやすいと思います。駐車場は、連雀交差点を北に少し進みホテルコンコルド浜松の所で左折しますと、せせらぎの池東駐車場(無料)に行けます。また、北側の「浜松文芸館」に公園利用者用の無料駐車場の鹿谷駐車場があります。
 
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  浜松城は、元亀元年に徳川家康によって築城され天正14年に駿府城に移るまで在城しました。家康は、永禄11年12月の武田信玄の駿河侵攻に呼応して同年12月に本坂峠を越えて遠江侵攻し、翌年5月に懸川城の今川氏真を開城させ、遠江をほぼ手中にします。当時の家康の居城は岡崎城でしたが、三河・遠江二か国を支配するには、岡崎では西に偏り過ぎていることやさらなる版図拡大を目指す根拠地として、 永禄12年(1569)に見附(磐田市城之崎)に新城を築きますが、信長から天竜川を越えた東では、武田に攻められたときの支援などで不都合をきたすという指摘があり、翌年( 元亀元年)に今の地にあった今川氏時代の引間城(古城イメージ 3)を大規模に改修し、名も浜松城と改名しました。
 家康は、当城に17年間在城していますが、その間に元亀3年12月に三方原合戦で大敗し命からから逃げこんだのが古城近くの元目口だったようです。武田への備えもあってか天正年間に数回にわたり修築がおこなわれています。家康在城時の浜松城の規模は、東西に並ぶ梯郭式で西側から西端城曲輪・天守曲輪・本丸・二の丸と古城で、大手は二の丸の東側だったのではないかと思われます。
 天正18年の家康の関東移封後、堀尾吉晴が入封し、天守閣が作られ石垣が増築されます。今に残る天守台の石垣はこの時期のもと考えられます。イメージ 6
 慶長6年以降、徳川譜代の城として豊臣色の一掃を図ったようで、浜松市博物館の太田好治氏は「馬入川岸から城下に向かう直線的な江戸時代のイメージ 4東海道が天守台でなく新たな三の丸大手門を視点に設計されたことは、豊臣系天守閣がうとなわれたことを示唆する。」と『静岡の山城ベスト50を歩くで述べています。
 堀尾氏の移封の後、譜代大名松平忠頼入封後9家25代の殿さまが在城しますが、平均在城10年という短さで、目まぐるしく変わっています。また、城主になった大名の中から幕府の重要な役職につくものが多かったことから出世城とも呼ばれたようです。ただ、ころころ大名家がが変わるとか、幕府の要職に就く殿さまですと、落ち着いて藩政をおこなうといこともなかったと思われますから、領民はかなり苦労したのではないかと思います。
※縄張図は、『日本名城図鑑』から。復元模型は、天守閣内の「浜松城下町復元模型」に加筆しています。
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せせらぎの池東駐車場から行きますと、天守曲輪北側から西端城曲輪に入るようで、写真左が天守曲輪の道で、右手が清水曲輪になるようです。
 
 
 
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 天守曲輪西の虎口の石垣で、で結構な高さかあり、野面積みの古風ゆかしき雰囲気がいいですね。 隅部は説明では算木積としていますが、どう見ても算木積にはなっていませんね。算木積が完成するのは慶長10年頃からと云われていますから、堀尾氏の改修時期が文禄ごろと思われますから時期的に合う姿だと思います。
イメージ 9イメージ 10イメージ 5天守台廻りの石垣。
右上:天守入口
右下:天守曲輪を囲む石垣                                         
参考文献
『日本名城図鑑』 西ヶ谷恭弘/監修 理工学社 
『静岡の山城 ベスト50を歩く』 加藤理文・中井均/編 サンライズ出版
『定本得が家康』 本多隆成著 吉川弘文館
 

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久野城

久野城は、別名座王城とも呼ばれ、静岡県袋井市鷲巣字上末本にある平山城です。かなり前に訪城した時は、藪に覆われて遺構がよくわかりませんでしたが、公園整備がされ表示や駐車場なども設けられ訪れるにはいい環境になっています。
訪城日:2011.11.21 晴れ
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 城址への道は、ちっと分かりずらいですが、袋井市民病院が目標です。病院前のバス停の北側に小さい案内板があり、その交差点を右折します。ところどころに案内板がありますので、それに従って行きますと駐車場左図の(現在地)につきます。
 城歴は、現地案内板によりますと、「久野城の築城時期は、駿河に本拠を持っていた今川氏が遠江へ侵攻するための拠点として、明応年間(1492〜1501年)頃に造ったと考えられている。歴代城主は、久野宗隆−元宗−宗能、松下之綱−重綱、久野宗能−宗成、北条氏重で、正保元年(1644)に廃城となった。」とあります。築城時期と城主について補足します。
 今川氏の遠江侵攻は、今川氏の長年の懸案である遠江国守護職の奪還であったが、今川氏親の父義忠の代に敗退したため再度の遠江国守護斯波氏への挑戦であった。今川氏親・伊勢新九郎入道(早雲庵宗瑞)は、明応3年(1494)8月から懸革荘を拠点に出兵し明応8年(1499)頃までには天竜川以東を支配下に置いたようです。翌年の明応9年頃から斯波氏方の反撃があり、その際に今川方の拠点であった、座王城(久野城)や馬伏塚城が攻められたようです。その後今川方が斯波方を攻め破り、永正元年(1504)秋までには浜名湖以東の実効支配を掌握し、今川氏親は永正5年(1508)7月に遠江国守護職に補任されています。このような流れからしますと、久野城は、明応3年〜9年の間に築城されたと推定できます。この地に築城したのは、城の南方を通る東海道を押さえ、西方の斯波方に備えることもあったとが、当地の在地領主の久野氏が南北朝期以後一貫して今川氏に従っていたということが大きな要因だったのではないかと思われます。
 久野氏は、今川氏滅亡後は惣領家が徳川に従い、家康の関東移封で佐倉に移ります。慶長8年に再度入城し、元和5年(1619)紀州徳川家の付家老として伊勢田丸に移る。
 松下氏は、木下藤吉郎が名乗る以前に一時期仕えたことで有名ですね。秀吉が使えたのは之綱の父長則のようで、天正18年に之綱が入城し、織豊系城郭として大改修しましたが、本丸や大手門の瓦葺建物は瓦の格式が高く立派な作りだったようです。ただ、石垣はないのですが、慶長8年(1603)に無断で城の石垣を築いた罪科により常陸小張に移封させられていますので、石垣を積もうと意図していたことが分かります。
 この北条氏は、氏綱の娘をめあわされて北条氏を称した、もと福島(くしま)氏の綱成の系で玉縄北条氏です。小田原北条氏の系統で江戸時代初期に大名として残ったのは、この玉縄北条氏と氏規系の二氏のみです。なお、玉縄北条系は、万治元年(1658)無嗣断絶で旗本として存続します。
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 城址西側の大手からの遠景になります。北条氏重時期に改修した姿とといえるようです。裏側の二の丸・北の丸高見などが戦国期の姿を伝えているようです。
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北堀跡の駐車場からの北の丸です。高10mほどですかね。
 
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    北の丸から見た本丸・二の丸になります。
 
 
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本丸(左手)北下の横堀(遊歩道)と大土塁で、正面に北の丸です。大土塁はかなり低くなっていますが、幅広であったようで、横堀と共に北側の防備の要で、天正9年の高天神城攻防戦の際に久野氏によイメージ 7って改修されたものと推定されるようです。
北の丸から見ると
 
 
イメージ 9三の丸で、一段下が西の丸になりますか。
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二の丸と本丸になり、井戸が登り口(人がいる所)
にあります。
イメージ 10 本丸は、意外に広く、発掘調査から天守状建物や櫓台があったことが分かったようで、さらに織豊期に整地された土の下から掘立柱建物二棟が確認されています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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東の丸で、高台から大手に横矢がかかる感じになります。下の写真が東の丸が見える大手です。
 
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 以上がざっとした久野城です。東の丸以外は藪もなく見学しやすい状態になっています。
 
参考文献
「静岡の山城ベスト50を歩く」 サンライズ出版
「戦国時代の静岡の山城」 サンライズ出版
「奔る雲のごとく」
 

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小山城―こやま城ー

 小山城は、榛原郡吉田町片岡字東原にあります。東名吉田ICから南東1.5kmにあり、観光用の三層模擬天守が目安になって分かりやすいです。登城口は、日本三大蘇鉄のひとつ『能満寺の大蘇鉄』のある能満寺前に広い城跡専用駐車場があります。
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小山城は、古代・中世の東海道が北西を通り大井川の渡河点があり、海岸沿いの街道との交錯する交通の要所だったことから、砦が設けられていたようです。今川氏時代には、山崎砦と呼ばれていたようです。井伊直親(彦根井伊直政の父)もこの地を治めていたという伝承があるようです。
 永禄11年(1568)に始まる武田信玄の駿河侵攻後、武田・徳川の数度の攻防戦がこの地でおこなわれ、元亀元年(1570)に徳川氏の領有になりましたが、翌年2月に武田氏に攻略されました。本格的な築城は、これ以後といわれ、馬場美濃守信春による築城で大熊長秀が守将となった云われています。
 大井川西岸の諏訪原城と共に、東遠江侵攻の拠点であったが、天正3年(1575)の長篠・設楽原合戦の敗北から、徳川勢の攻勢を受け同年8月に諏訪原城が開城した後は、徳川勢との攻防が繰り返され、高天神城への補給拠点としても重要な役割を果たしていたと思われます。天正9年(1581)高天神城落城後は、武田勢には小山城を後詰する力はなく、天正10年(1582)1月の織田信長の武田攻めが始まり、城兵は2月に自ら火をかけ自落した。その後徳川氏が接収し、廃城となった。
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 三層模擬天守内にある城址ジオラマで、城址の様子がよくわかるものでした。牧ノ原から続く舌状丘陵の先端にあるのがよくわかります。
 右側の主郭先端から三重三日月堀まで、150mほどあります。小規模ですが、曲輪を大きく取り、兵站基地の機能を持たせたことが分かります。
 
 
 
 
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 三層模擬天守は、展望台として建設したこともあって、上から見れるのがいいですね。北側は焼津、南側は相良・御前崎、西側は牧ノ原と、展望はよく、この城の軍事的位置が分かります。
 
三層模擬天守は、入場料200円で16::00までの入館になっています。
 
 
 
 
 
イメージ 4二曲輪内にある丸馬出と、三日月堀で、復元です。
この馬出ですが、主郭前面に付属して造られているということで、もしかしたら徳川が造ったかもしれませんね。武田としては物資や兵員を駐屯させることが第一義ですから、わざをさ曲輪内を狭める馬出を作る必要もないと考えられます。また、徳川の馬出が、主郭部分に直結して設けられることが多いとの指摘がありますし。
 
 
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 当城最大の見どころの三重の三日月堀です。他では、なかなか見られないものす。写真左側の堀の奥に「勘助井戸」があります。「甲陽軍鑑」によれば、勘助は永禄4年の第4次川中島合戦で戦死していますから?ですかね。
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 三重堀北にある模擬大手門。
 
 
 
 
参考文献
武田氏年表  武田氏研究会編  高志書院
静岡の山城ベスト50を歩く  加藤理文・中井均編  サンライズ出版

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馬伏塚(まむしづか)城

  馬伏塚城は、袋井市浅名字岡山(旧浅羽町)にあります。馬伏塚城のある浅羽は、今とはまったく違っ知風景だったようで、榎原雅治氏が横須賀城・馬伏塚城を描いた絵図をもとに浅羽庄周辺の江戸初期の様子を推定した地図あります。(「中世の東海道をゆく」−中公新書)これを見ますと、池や湿地がかなり内陸まで入り込み、現在海岸から約5kmある馬伏塚城にも宮田池やフカ田が広がっていました。
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従って、この方面の交通は、陸上の道以上に内陸水面を使った水上ルートが重要であったと推定できます。イメージ 2
 馬伏塚城も現在では水田に囲まれたものですが、当時は、左図のように深田や沼がいたるところにあって、水藻に浮かぶ島のようで、平城いえどもなかなに堅固な城だったと思われます。なお、この地図も、「中世の東海道をゆく」からの引用で、岡崎の城山の位置を加筆しています。
 馬伏塚城から岡崎の城山まで、直線距離は、約1.5km、横須賀城まで約5km、高天神城が約10kmです。
 
 この馬伏塚城には、今川氏親時代(1487-1526)に小笠原長高が浅羽荘周辺を領して当城に入ったとされます。その後、小笠原氏は、天文5年(1536)の花倉の乱後、高天神城主福島(くしま)氏の没落した後高天神城主になりますが、引き続き当城も持城としていたと考えられます。今川氏没落後は、徳川氏に属しますが、天正2年(1574)6月の武田勝頼の猛攻を受けて開城し、小笠原長忠は東退組として武田方になります。その後、小笠原氏が高天神城主だったのは、翌年までのようで、当城も小笠原氏の支配を離れ高天神城領横となったと思われますが、徳川方が早速、高天神城への対の城として当城を修築して大須賀康高(西退組)を入れました。
 高天神城より西約10kmにあるため、第三次高天神城の戦い際には、侵攻軍の駐屯・物資集積の要の城としてその役割を果たしたものと考えられます。廃城は、徳川氏の遠江支配が安定する天正10年(1582)頃と思われます。
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 現地案内板にある図で、左が推定城域で南から北にかけて、本曲輪(上の拡大図) ・北曲輪群・伝居屋敷(了教寺がある)と連郭式に並び、堀や深田に囲まれて北側のみが尾根続きの陸地に繋がっていたようです。
 現在、当城址の遺構がよく見られるのは、南の本曲輪辺りです。北曲輪・伝居屋敷は宅地化が進んでおり土塁や堀切の一部が見られますが、道も狭く見学には地元の方々の迷惑にならない配慮が必要と思います。
イメージ 5 本曲輪南の土橋と推定される付近から本曲輪を見たところです。二階家の横辺りが虎口になりますか。右手の水田は、当時は堀であったと思われます。本曲輪は、その水面から4〜5mほど高い位置にあったのでしようか。
 
 
 
 
 
        イメージ 6                             本曲輪東側の土塁城にある諏訪神社です。この土塁はかなりの幅があり、神社背後の馬出に横矢がかかるようで、櫓台があったのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 参考文献
静岡の山城ベスト50を歩く
ふるさと古城の旅
中世城郭史の研究
中世の東海道をゆく
 
 

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 武田・徳川の攻防で有名な高天神城です。2年ぶりに昨日行ってきました。今回の訪城で何回になりますかちっと分かりませんが、5回以上行っている城址です。なのに新しい発見もあり、どうも小生のいい加減さなのか、高天神城の奥深さなのか・・・奥深さとしておいていただきましよう。
 高天神城の詳細については、「馬念の山城探訪」をご覧いただくとして、小生が見落とし箇所を御紹介しておきます。
※、「馬念の山城探訪」
 
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縄張図は、『静岡の山城ベスト50』より引用で、説明のため加筆しています。

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 井楼郭・堂の尾郭西側の長大な横堀です。この西側の斜面が緩やかなため、天正2年(1574)5月の武田勝頼の城攻め時には、比較的早く西峰一帯は武田方に落とされています。そのため、武田属城になり横堀や西側の土塁を築き西側の防御施設を念入りにしたものと思われます。この防御施設は、天正9年(1581)3月22日の最終決戦時において、城将岡部丹波守長教が大久保勢の持口に切り込んだのは、井楼郭・堂の尾郭西側の林ノ谷(赤根ヶ谷口か?)です。ということは、その時点まで井楼郭・堂の尾郭は持ちこたえていたといえます。
 
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 今回新たに確認できたところで、井楼郭北端の虎口です。横堀の北端を空堀と竪堀でイメージ 4囲った馬出を設けています。この馬出の東端を登ると井楼郭の虎口の窪地がありました。
 
 
 


イメージ 5
 西の丸と馬場平の間の堀切西側にある塹壕状の小郭です。空堀にしては両端を塞がれています。写真見木橋の土塁下は、急斜面です。この方面を登ってくる攻め手を待ち受ける武者隠しあるいは、二ノ丸方面への横矢がけを意図した郭の感じです。訪城される方もあまり見ないところと思いますので、行かれた際にはぜひご覧ください。
 
 
 
 
 

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