古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

下総国

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小金城

小金城は、松戸市大谷口にある。別名大谷口城とも呼ばれ、江戸川(戦国期には太日川)左岸の標高20〜22mの台地上にある平山城です。東西850m、南北650mにも及ぶ大規模な城郭だったようですが、ほとんど宅地化され現在見られる遺構は、大谷口歴史公園と達磨口公園にわずかに残る土塁・障子堀・畝堀・虎口などが見られるだけです。 訪城日:2012.2.21
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城址へは、国道6号根木内信号から西に500mで右折します。1kmほどで左折し、すぐに右折すると大勝院の看板があり、その隣が大谷口歴史公園です。ただ、駐車場がありませんので、路駐しましたが、長くは留めておけないです。近くの有料駐車場に入れるか、電車で行くのがいいようです。
左図は、『関東の名城を歩く南関東編』に掲載されている縄張図で、大谷口歴史公園の位置を加筆してあります。
 
 
 
 小金城は、『高城家由来書』によれば享禄3年(1530)に高城胤吉が築城を開始し、天文6年(1537)に完成したと書かれています。しかし、その時期は高城氏の主家である原氏が、永正14年(1517)に真理谷武田氏に小弓領の本拠地小弓城を攻略されて、もとの本拠の小金城に後退していたと考えられています。原氏が旧領を回復して、小弓城に復するのは、天文7年の第一次国府台合戦で小弓公方足利義明が滅亡した後になります。そして、高城氏が、金領(こがねりょう)を原氏から譲られるのは第一次国府台合戦以降のようです。(黒田基樹氏はその時期を天文7〜15年の間と考えていられます。)そうなると、高城胤吉が享禄3年から築城を始めたというのはおかしいことになります。築城は、金領を領有した以降と考えるのが妥当なのではないでしょうか。また、築城主は、胤吉ではなくその父である胤忠と推定されるようです。(胤忠については当ブロクの根木内城を参照してください。)
 原氏は康正元年(1455)小金城に入部しているようなので、その頃から小金城はあったと思われます。千野原靖方氏の『東葛の中世城郭』では、これを前期小金城とし、「馬屋敷・中城・本城・外番場西側区域を城域としていたと推察され」るとしています。そして、戦国城郭として体栽を整えた時期を永禄5〜7年(1562-64)頃と推定しています。
 小田原合戦時、豊臣勢の浅野長政・木村常陸介の軍勢に囲まれるが、戦わずに開城した。天正18年に家康五男武田信吉が3万石で入封、文禄2年(1593)佐倉城に転封後廃城になったと思われます。ただ、関ヶ原合戦の際に里見義康が「小金迄御着陣」(「房総里見氏文書集」226号)とあるので、その頃も城が存続していたのかもしれません。
イメージ 2  大谷谷歴史公園に残る遺構です。小金城の4つの虎口の一つである金杉口で、土塁の残る郭は、虎口や城道を防御するための張り出しと思えます。曲輪の両サイドに障子堀と畝堀を設け、切岸も結構の高さで厳重な防御構造です。虎口から大勝院に入る赤線は、城道を推定したものです。
 
 
 
 
 
 
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金杉口の虎口で、手前下の道路からは10mほど上がっています。右手の張り出し郭の切岸面もかなりの傾斜と高さがあります。は、虎口を入った平場で、斜面部に土を盛って人工的に造られているようでする
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 張出郭北側の堀で、障子堀だったようですが、現在はちっと分からなくなっています。
説明板によりますと、この堀は虎口から20mほどの地点から掘られ、イメージ 5幅4m以上、深さ2.5mほどで、途中一か所に高さ2mほどの間仕切り(障子)が造られていたようです。
 
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 張出郭西側の畝堀で、ここも埋められていてその様子は分かりません。説明板によれば、堀の規模は、幅7m、深さ3mで、堀底に高さ90㎝の蒲鉾形の畝が堀のイメージ 8方向と直行する向きに連続して造られていたようです。しかも、畝が粘土層を掘り込んで滑りやすくしてあったようです。
 
 
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 張出郭内部で、西側から北側に低い土塁が取り巻いていています。発掘調査では、鉄製刀子、銭貨、土師器、擂鉢、鉄砲玉などや瀬戸・美濃窯の小皿・碗なども出土し、特に天目茶碗が多いようです。
 
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  土塁は、「城の内側を約50㎝掘り下げ、台地の縁辺部に土塁の底になる部分を幅約3mの帯状に残し、その上に粘土を盛り上げて高さ約1.5mの土塁しといてる」との説明があり、敵の侵入を防ぐというよりも自分の身を隠す程度の機能だったのではないかとしています。これは、どうも胸壁状土塁とも考えられ、戦国末に見られる鉄砲陣地なのかもしれません。
 
 今回の小金城への訪城は、根木内城に行ったついでにと廻ったこともありまして、下調べが十分でなかったので、次回は達磨口や以降が消滅した本城・中城なども見てみたいと思っています。
 
 
 
 
 
 

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根木内城

 根木内城は、松戸市根木内にあり、東西に川が走る低湿地の台地上(標高20m)にある丘城です。城址の南北に国道6号線が通り、城址の主要部のあった西側が住宅地になり遺構は消滅しており、かろうじて大手の二郭が残るだけです。                 訪城日:2012.2.21
下記の鳥瞰図は、城内に展示されている南西から見たもので、説明のため加筆しています。
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 城址へは、常磐自動車道柏ICから国16号を柏市へ5.7km南下し、呼塚信号で右折して国6号に入り5.6km行って根木内信号で左折してますと、200m先に木ノ内歴史公園の専用駐車場があります。
 
 
 根木内城の築城時期については定かではないようですが、高城氏が寛正3年(1462)あるいは永正5年(1508)に栗ヶ沢城から本拠を移して築城したものとされています。高城氏は、千葉氏の家宰である原氏の宿老で、原氏が小金城に入部したのが康正元年(1455)ですから、その頃原氏と共に小金に入り栗ヶ沢に館を構えたというのが素直なところと思えます。黒田基樹氏の『戦国の房総と北条氏』によりますと、のちの小金城主になる下野守系高城氏が確実な史料に現れるのが、永正14年(1517)に小弓城が真里谷武田氏に攻略された際に高城下野守が退去という記事のようです。この高城下野守が、天文15年(1546)に死去した胤忠と推定しています。永正年間は、上総・下総の諸勢力の所領・家督問題や古河公方家の内紛・両上杉氏の抗争がからんで、緊張関係が高まった時期に対応して、栗ヶ沢より要害の根木内に胤忠によって永正5年に築城されたというのが妥当なようです。
 原氏は、永正14年に真里谷武田氏により本拠地の小弓城を攻略されたため一時もとの本拠であった小金城に後退したようですが、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で小弓公方足利義明が滅亡すると、再び小弓城を本拠にします。その際(永正7年から同15年までの間)に、小金城と小金領を高城氏与えたと考えられるようです。高城氏が本拠を小金城に移したのちも、小金城の防御拠点や至近の小金宿の保護・監視等に使われていたと思われます。廃城は天正18年の小田原合戦後の高城氏の退去後と思われます。
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 城址を南北に国道6号線が建設されたことにより、国道から西側の遺構(城の主要部である主郭・馬出・櫓台等)が消滅しています。かろうじて国道より東側に2曲輪・大手の虎口・空堀・土塁が残っているにすぎません。
 
 
 
 
 
 
 
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南の大手口から急坂を登ると虎口で、土橋の左右はかなりの規模の堀で、それに沿って高さ3mほどの土塁がが見られます。虎口両側の土塁が、わずかに位置を変えた食い違いになっていて、城道を曲げてイメージ 8いたようです。
 
 
 
      
堀の
測定値
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 虎口西側の土塁です。藪っていて分かりづらいですが、よく残っています。ただ、この先はフェンスになっており立ち入れません。虎口に横矢がかかる突出部は確認できないのが残念でした。
 
 
 
 
イメージ 102郭で、当城では最大の郭だったようです。
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2郭北の空堀で、馬出に入る道を狭め、写真左手の郭は一段と高くなっています。
 
イメージ 4消滅している主郭周辺部で、主郭には虎口が二か所あったようで、南虎口には、馬出があり、それに横矢がかかる櫓台というように、かなり技巧的な造りだったようです。この部分が見られないのがとても残念です。
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          2郭の中央北(馬出があったて前あたりになりますか)から    見た主郭方面です。国道と住宅街になっていますんで・・・
 
イメージ 6 駐車場から少し行った南東からの遠景です。現在もこのような湿地になっています。この右手に富士川が流れています。城が自然を利用した要害の地にあったことが分かります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考文献
「房総の城郭」 千葉城郭研究会編
「東葛の中世城郭」 千野原靖方著
「戦国の房総と北条氏」 黒田基樹著
「国府台合戦を点検する」 千野原靖方著
『東国の戦国合戦」 市村高男著

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根戸城

 根戸城は、我孫子市根戸字城山にあります。手賀沼最奥北岸の東方に突き出した舌状台地先端にある典型的な丘城です。城址へは、常磐線北柏駅からほんの10分ほどにありますので、訪城しやすい城址といえます。北柏駅からの地図です。付近に駐車場はありませんので、電車で行かれるのがよいと思います。(どうしても車がよい方は、北柏駅付近の有料駐車場に)
イメージ 5城址南西方向からの遠景です。登城口を入り、狭い堀底道を登りますと竹林です。そこを右手に道なりに進みますと2郭に到ります。イメージ 6
 
                    
       登城口
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 昨日、縄張図を書きに行き、作成したものです。専門家の縄張図からしますと精度は落ちるかと思いますがご容赦願います。
 なお、ピンク線は、城址への現在の進入路で、赤線は、縄張り構造から推定される城道です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
主郭内部で、四方を高3mほどの土塁(西側が高い)で囲まれています。舌状台地の先端に主郭を無理に確保するためなのか2郭より低い位置にあります。そのため西側の土塁を高くしてその弱点をカバーしているようです。(写真左は昨年9月のもので、右が今回のものです。)
写真左に虎口が二か所見えますが、右手の虎口が本来のものです。左手は、破壊道と考えられます。
イメージ 9 主郭北側の空堀です。土塁上から堀底まで5mほどあります。この空堀は、主郭をぐるっと取り巻いています。ただ、主郭西側の堀と北側の堀では段差があり北側の方が深いです。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10 主郭西側の虎口です。土橋で2郭と繋がっています。左手の堀がクランクしています。左手の張り出しは、横矢というよりは、堀底道の城道や虎口を隠す「蔀」と考えられるようです。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
写真左は、2郭虎口から見たものですが、主郭南西の張り出しが分かるかと思います。
写真右は、張り出しの裾のあたりを北側から見たものです。まったく虎口の土橋は見えていません。この地点が当城址の最大の防御ポイントのようです。城の南側からいかにして城の主要部を隠すということに腐心しているかが分かります。
イメージ 3 2郭の内部です。左側に土塁が見えますが、西側から北側にかけて設けられています。空堀は、西側が深く、北側は薄く、いまいちはっきりしていません。また、西側から2郭へ入る虎口らしき痕跡は見当たらなく、西側は城域とは考えられないです。
 
 
 
 
 
 
イメージ 4 主郭東の櫓台跡です。主郭とは堀で遮断されています。東側の地名にも字船戸とあるように、東側から北側に手賀沼からの水路が入り込んでいたようで、その監視・防御拠点だったのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
以上のような感じですが、規模としては在地領主の城といった感じですが、主郭面の低さを高土塁で錯覚させるといったトリックや城道を隠す道具立てなど「山椒は小粒でもピリリと辛い」といった感じの城址でした。
 
参考文献:「東葛の中世城郭」

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本佐倉城

本佐倉城は、千葉氏宗家を継いだ馬加系千葉氏の本拠地で、千葉県の中世城館として唯一の国指定の史跡に指定されています。関東地方の戦国時代の遠因となった享徳の乱(1455-83)から16世紀初頭の永正の乱にかけて、下総国では千葉一族の内部分裂と抗争が顕著になります。千葉城(かっては猪鼻城と考えられていたようですが、千葉氏の館が別にありそれを城郭化したものと考えられるようです)にあった千葉氏宗家は、康正2年(1456)に庶家の馬加氏や有力家臣の原氏によって滅ぼされ、千葉宗家は馬加氏に引き継がれました。この下剋上と言える状況は、上杉・幕府方と古河公方方の激しい抗争の一環でもあり、16世紀初頭の永正年間(1504-17)あたりまで続いていたようです。
 本佐倉城が築城されたのは、敵対勢力(古河公方・両上杉)からの攻撃を防ぐのに強固な城郭が必要になったためなのでしょう。築城時期は、文明15年(1483)6月に千葉孝胤が「常総の内海」に面した佐倉に城郭を築き、千葉城からそこに本拠を移したと伝えられており、発掘調査の出土遺物の年代観も15世紀後半のようですので、ほぼ15世紀末近くと考えてよさそうです。
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この概念図は、現地案内図に加筆したものです。
概念図は、本佐倉城の内郭群を表しています。堀Bの西側に外郭部の「荒上」・根小屋があり、城山・奥ノ山の向かえに出丸的な郭の「向根小屋」があります。比高20〜30mほどの平坦な台地に広大な広さ(南北1500m、東西1100m)で占地しています。
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城山(主郭)へ至る虎口です。主郭南下を登り(写真左)、入り口で直角に曲がって(写真中)入っていきます。内桝形状の左曲がりの坂虎口です。直角に曲がる手前に門跡が見つかっています。写真左は、郭内から見たものです。
イメージ 3城山(主郭)内部は、発掘調査で建物跡や門跡、通路が見つかっており、案内図とロープで示してありまして、とても分かりやすかったです。
イメージ 4城山(主郭)と奥ノ山の間の堀切の上に木橋が架かっていたと推定されるようです。
イメージ 5奥ノ山は、城山と同じ高さで、南東に虎口があり、城山(主郭)との間の空堀(堀切)へ下りる道がついています。奥ノ山と倉跡では1〜2mの段差があり、土塁で仕切られています。写真左の所に奥ノ山への坂虎口がついています。
イメージ 6郭の名前として奇妙な「セッテイ山」ですが、どうも「接待山」がなまったもので、城への客を接待するための施設あたったらしいのですが、北条氏の目付のいた場所とも言われています。このセッテイ山の東西の堀切ABは、巨大なもので堀切Aは高低差10m、堀底巾9m、堀切BにいたってはA以上と思われます。堀底の人の大きさと比べてみてもその大きさがわかると思います。
イメージ 7駐車場のある東山馬場は、南北に細い平場が段になっていますが、ここでの見どころは、概念図の虎口アです。
イメージ 8二つの門と蛇行した通路で、高5mほど上からの監視と横矢がきく仕掛けです。中世城郭の虎口でこのような形が見られるのは珍しく、虎口好きな小生ですが久々に感激しました。
イメージ 9北側の東光寺ビョウから入っていく順です。
イメージ 10東山馬場から見たものですが、両脇の高さがわかるかと思います。

かなり前に訪城していましたが、その時は縄張り図もなく、城山(主郭)の坂虎口を覚えているくらいなもので、今回が初めて訪城といってもよいものでした。国指定でもあるのでしょうが、とてもよく整備され、遺構も様子がよくわかりました。お勧めの城址と感じました。

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