古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

出羽国(秋田県)

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 西馬音内(にしもない)城の続きで、主郭部と堀切イで隔絶される7・8郭です。
イメージ 1 小学校からの大手道は、主郭に至るまで草刈りなどが行われ、遊歩道があって見学しやすくなっています。しかし、堀切イから南側は、藪に覆われて遺構が定かではありませんが、藪漕ぎしてきました。
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 主郭部と7・8郭を南北に分断する堀切イです。堀切というより空堀といった方がいいのかもしれませんで、巾10m、深さ3〜4m、長さ100mというけっこうなものです。
イメージ 3 7郭の虎口3ですが、藪でかろうじて通路が窪んでいるので、虎口なのではと思いました。八巻氏は、「巧妙にできている」と評価していますが、まったくわかりませんでしたね。この郭が城内最高地点185mです。イメージ 4
 
 
 
 
 
 
 
 7曲輪で、奥に一段高い8郭があります。
イメージ 5
 
 
 
 8郭と南側の土塁です。この郭は「伝飯塚館」と伝わり、搦手口の重要な防蟻拠点だったようです。
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南の尾根上の二か所の虎口は、藪に覆われていましたが、巧みなルートを堀切と土橋て造り、堅固な造りになっていました。しかし、藪に覆われ写真にその姿が取れないのが残念でした。
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 虎口1と堀切ウです。尾根の東端に虎口を設け、堀切で狭めた土橋を通るようにして、さらに8郭からの横矢がかかる仕組みです。イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
虎口2ですが、ここは全くわかりません。堀切を食違いにしてその間の土橋を斜めに歩かせるようにしています。城内からの横矢がかかりやすくする工夫なのでしょう。ちょっと珍しい遺構です。
 
 
 この城の構造を見ますと、主郭部と7・8郭では、造りに違いがある感じがします。八巻氏は、7・8郭(5郭の横堀)の構築は、「由利12頭の仁賀保氏などとの対決、最上氏との対決など、天正末年の緊張状態の頃であろうる」としています。この見解がいいのかどうかは、小生には判断できませんが、参考まで載せておきます。
 
参考文献
『中世城郭事典 二』

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  西馬音内城は、別名川内池城とも呼ばれ、雄勝郡羽後町西馬音内堀回にある比高90mの山城です。出羽国は、現在では北の秋田県と南の山形県に分かれているのは、明治元年に戊辰戦争での東北諸藩への処分として北出羽を羽後国、南出羽を羽前国としたことからなのでしょう。ですが、どうもそれだけでなく、もともと出羽国が中央部の丁岳山地(ひのとだけさんち)で南北に分断され、風土や生活習慣などの相違があったようです。西馬音内城のある雄勝郡は、北出羽の最南部にあり鎌倉期から勢力を扶植した仙北小野寺氏によっておさめられ、戦国期には雄勝・平賀・仙北三郡の庄主といわれるほどに勢力を伸ばしました。西馬音内城は、西の由利郡への備え及び進出の拠点として一族の西馬音内氏が長く城主だったようです。   イメージ 1訪問日:2014.10.25 晴れ
 城址へは、湯沢市街より国398号・県道57号を西に進み、 元西小を目指します。元西小の裏手の山が城址です。小学校の校舎の一段上に運動場があり、その南西端に登城口があります。車は、小学校の駐車場におきましたが、平日の際は許可を得た方がよいかと思います。なお、県道わきに空きスペースもあります。
 
 
 
 
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  県道沿いにある大手門址の標柱です。『小野寺家大手門趾」とあります。背後が元西小の校舎です。ここに説明板があり、学校入口にも絵図や説明板があります。イメージ 3
 
イメージ 4イメージ 5 
 
 西馬音内城は、頼朝の奥州征伐の際の軍功で雄勝郡の地頭識を得た小野寺氏が鎌倉期中期の建治3年(1277)に一族の小野寺道直を当地に分置して築かせたものとされています。ですが、八巻氏が「現在の遺構は戦国期のものであり、建治の築城とは、麓に居館を傷位置根のという意味であろう。」としているのは至極妥当な見解と思われます。
 西馬音内城は、矢島街道と由利郡への間道である七曲越が合流する地に位置し、さらに直下に雄勝川の支流西馬音内川が流れ、水陸交通路の要衝の地であるため、小野寺氏領国の西側の戦略拠点として機能していたと思われます。イメージ 26
 小野寺氏の最盛期は、小野寺輝道の時期で永禄期から天正期前半頃だったようですが、天正9年(1581)に間室(真室)の鮭延氏が離反したころから陰りが見え始め、北の秋田氏や南の最上氏との抗争が激しくなり、特に最上氏に領国を侵食され、西馬音内氏も最上氏に内応するようにもなります。 慶長5年(1600)の関ケ原合戦では、東軍加勢で出陣したが、膠着する上杉と最上両軍の長谷堂城の合戦の際に上杉勢に鞍替えしてしまいます。これが、命取りになり、小野寺義道は、領知没収・城地追放の上、石見国に流罪となります。西馬音内城も、攻めくる最上勢の前に自落し、城主小野寺茂道は七曲峠を経て庄内へ逃れ、廃城となったようです。
 
 
 
イメージ 6 元西小運動場の南西隅に登城口の標識があり、『熊出没!注意」の看板も。(苦笑)小学校が県イメージ 7道からすると三段になっていますので、ここも城館の一部で、居住区だったのでしょうかね。
 
 
 
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 登城口を少し登ると、「十三森塚」との表示があり、このようなたんこぶのような塚が道沿いに並んでいます。  説明板もないので何なのか?です。
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 登城路の最初の明確な遺構の堀切です。この手前にも堀切があるとのことでしたが、うっすら窪んだ程度のものでした。イメージ 10
 5郭(左手上)への道で、奥に虎口イメージ 114に至ります。この左手横に横堀が半周し、さらにその下にも薄めの横堀があります。
 
 
 
 
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 5郭で、100×22mほどの広さがあり、西側の土塁囲みの6郭と一体化して、大手筋を防御しています。イメージ 13
 
 
 
 
 
 
 
 
 6郭で、分厚い土塁で囲まれ城道に面した処は切られて虎口のようです。真ん中部分が大きく窪みかっては祠が祀られていたようで朽ちた建物の屋根が見られます。どのような目的で使われた郭なのかよくわかりません。イメージ 14
4 郭と6曲輪の間にある堀切アで、巾20mはありますかな。6郭南西端下に横移動を阻む竪堀があります。
 
 
 
 
 
イメージ 15 堀切アの先の4郭南下の帯郭イメージ 16(空堀かも?)で城道として使われたのではないかと思います。右手の4郭切岸は7mほどあり、堅固です。4郭櫓台直下に竪堀を設け城道をせばめています。
 
 
 
 
イメージ 17
 帯郭の先を進むと右手に2郭虎口が見えてきます。堀切アからここまでイメージ 18は200m近くあり、その間常に2郭と4郭から監視、横矢の攻撃をされるようで、いやらしい構造ですよね。平虎口で左手主郭からの横矢がきついかな?
 
 
イメージ 19
 主郭切岸下から撮ったの2郭です。1001×25mの広さで、4郭と一体化していますので結構な広さがあります。2段で、西が一段低くなっています。
 
 
 
 
イメージ 21
イメージ 20
 主郭で、ここも広く50×100mほどあり、中央に大きい井戸跡が見られます。これらのことイメージ 22からすると、生活空間として使っていたのではないかと思います。
 
←主郭への坂虎口で、2郭虎口と共に、虎口自体は単純な造りです。
イメージ 23
 
 主郭から見える3郭です。主格とは空堀で遮断しています。
イメージ 24
イメージ 25
 
 
 
 
 
3郭は、藪に覆われ形状が全くわかりませんでした。
 
 
7・8郭については、−その弐ーに続けます。
 
参考文献
『中世城郭事典 二』

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大鳥井山遺跡

 大鳥井山遺跡は、秋田県横手市にある国指定史跡です。この遺跡が国指定になったのは、後三年の役(108387)に源義家と戦った清原氏の拠点と確実視されているためです。
 昭和52年より発掘調査もおこなわれ土塁跡・二重堀跡・柵列跡・掘立柱建物跡等が出て、平成21年に国指定を受けましたが、全国的に注目されるまでに至らなかったようです。それが、今年3月22日の朝日新聞の全国版に『山城の出現、200年遡る』という大見出しで掲載され、しかも小見出しに『揺らぐ「畿内から全国へ」』ですから。それも城郭専門家の千田嘉博氏のお墨付きということですから、小生も記事を読んで驚いた一人です。
 この話題になる遺跡を一度見てみたいと思い行ってきたというわけです。
イメージ 2遺跡南側の横手川から見た遠景で、右手の森が大鳥井山で左手の森が小吉山です。中央部の切れ目が、堀切にあたり、現在は道路になっています。
イメージ 1
この遺跡調査は、横手市がこの地に総合運動公園を建設を思い立ったことによるものです。そのため、現滋養において、プール・広場・テニスコートなどが設置されていて、遺構の見られるのは、南側の大鳥井山と西側の小吉山周辺に限られています。
大鳥井山
イメージ 3大鳥井山の頂上には、大鳥井山神社があります。報告書によれば、ここから四面庇付建物が出ています。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
公園の駐車場から神社に向かう途中の尾根状にある、大鳥井山十三塚(写真左)で鎌倉期のもののようです。この右手下に二重堀があります。写真右は、二重堀方面から撮ったものです。堀切ですが、浅いです。
イメージ 6
十三塚の西側にある二重堀です。かなり埋まっているのか迫力がないですね。
 
イメージ 7
左の空堀の南側にある土塁に囲まれた空堀?です。用途がよくわかりません。
 
 
 
小吉山
イメージ 8
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小吉山南端の斜面で、数段の段郭が見られます。
小吉山の上部
北端の空堀は埋められています。
 
 
イメージ 10この写真は、調査報告書に載っている小吉山東部地区の二重の土塁跡と堀跡です。現在は、多目的広場の下に埋まっています。また、この南側に3条の堀が西から東にかけてあります。報告書を見た千田氏が畝状空堀群と分析したと記事に書いてありましたが、実際の斜面を見た限り到底竪堀には見えません。市教委の担当者の方は、東に回り込む堀の跡と判断しているようです。
 
 
イメージ 4遺跡の東側約100mほどに旧羽州街道がとおっています。11世紀末にもこの道が存在すると仮定しますと、交通の要所を押さえる位置にあったのでしょう。また、道を挟んだトイメンに、「台処館』と呼ばれる高台があります。街道を防御している様子が読み取れ、いつの事態にも考えることは同じと感じ入ります。
 
 
 
 
 
 発掘調査報告書によりますと、この遺跡の構造が古代城柵遺跡払田柵をモデルにした可能性が高く、自然地形に沿って曲線的に堀と土塁を巡らしていて、平泉の柳之御所に繋がる点が指摘されています。また、10世紀後半から11世紀にかけて北緯40度以北の郡制施行地域外に営まれた囲郭集落(防御性集落)という説もあります。感じとしては、その説もうなずけるようです。遺物の土器にについては、古代的な器種編成が失われて中世的土器(かわらけ)への転換を示しているようです。
 
 見学の感想ですが、いち訪問者として訪れたならば、「これが国指定の史跡か?」と思う遺構です。めぼしい遺構地面下ですから、期待はずれとなってしまいます。今回は、たまたま市教委の担当者にご案内にご案内いただき、出土した土器や遺物を見せていただき、発掘時の様子もお話しいただきましたので、この遺跡の素晴らしが分かった次第です。
 この遺跡が、「山城」というのは言い過ぎと思います。ただ、千田氏の「畿内で生まれ全国に広がった・・・という図式では理解できない歴史のあることを教えてくれる」ということは確かなようです。
 
 
 
 
 
 
 

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沼舘城

 沼舘城は、別名沼の柵城とも呼ばれています。横手市雄物川町沼館にあり、雄・平・仙を結ぶ要衝の地にあり、戦国期この地に威を張った小野寺氏の本拠地です。しかし、当城の歴史は古く、古代末の後三年の役(108387)に清原家衝(きよはらのいえひら)が源義家・清原清衡に攻められたおり、この地に籠城して撃退したといわれる沼の柵であったとされています。
 沼舘城は大きくは主郭・二郭・三郭で構成され、各郭は土塁で囲まれ、周囲は雄物川の氾濫原の湿地帯が自然の要害となっていようです。現在は、主郭に蔵光院、二郭に小学校、三郭に民家となって、主郭廻りの土塁が遺構として見られます。
イメージ 1蔵光院の楼門です。土塁を切って造られていますが、ここが当時の虎口であるか不明です。東の土塁に虎口が破城で埋められたと思しき窪みがみられます。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
イメージ 3
 
主郭東の土塁です。かなりの規模の土塁で、いろいろお城址の土塁を見ていますが、第一級の規模の土塁です。
上右の写真で人が立っているところが虎口あとのようです。虎口を出る方向に横手に繋がる道になるようです。
 
当城址は、土塁のみの遺構といえますが、この土塁だけでも一見の価値がありますよ。必見です。

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