古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

下野国

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桑窪城

 桑窪城は、別名桑久保城とも呼ばれ塩谷郡高根沢町桑窪字浦山にある比高20mほどの崖端城です。戦国時代末の遺構をよく残す平山城ということで訪れてみました。 訪城日:2014.12.22 晴れ
イメージ 1 城址へは、宇都宮市街より県道64号を東に16kmほど行き、南高根沢簡易郵便局(芳賀イメージ 2町八ツ木)の交差点で左折して、1.5km北上して徳明寺を目指します。お寺手前の三叉路に城址案内標柱がありますので、右折してすく左手が城址です。駐車場はありませんので、登城口にとめるか路駐になります。イメージ 4
東側からの城址遠景です。丘陵上にあるのがわかるかと思います。
 
 
 
 
 
イメージ 3 当城の築城時期や築城主体は、不明です。伝承によれば建久年間(1090-99)に桑窪修理亮秀春が築城したとか、谷口(矢口)筑前守が築いたとも言われています。また、稲毛田城(南に4km強)の支城とも言われいて、正平16年(1361)宇都宮氏綱によって稲毛田城が滅ぼされた頃廃城になったとも言われます。
 建久年間の桑窪氏の築城は考えられませんで、稲毛田城の支城というのも不確かなのですが、南北朝の頃に何らかの城塞があった可能性はあったのでしよう。戦国期に入り、宇都宮氏の那須氏に備える防衛網の一翼として再整備され谷口氏が入ったのではないかと思えます。
 主郭に接した南側で、登城口からは一段高い位置にある平場です。後世にかなり改変されているかとは思いますが、南虎口の前面に当たり、景観からすると城にかかわる施設や郭があったもの思われます。
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南虎口への道がかっての大手道だったように思えました。イメージ 6
イメージ 7 南虎口を正面と東上から見たものです。平入の虎口ですが、巾・深さのある堀に架かる土橋がなんとも言えません。横矢か充分にかかります。
主郭は、東西約60m(最大)、南北約70mのかなり広い郭です。高1〜2mの土塁が西側の一部が欠けていますが、かっては全周していたものと思われます。虎口には南北二か所あり、南虎口が大手と思われます。
南西角から見た主郭
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北西角から見た主郭イメージ 9
南東角から見た主郭イメージ 10
 
 イメージ 11
 主郭北虎口と櫓台?。虎口を出ると堀底に下りておりている。櫓台に?がつくのは、どるいイメージ 12の幅が広く虎口横のため櫓台ではないかと推定されるためです。
 
 
 
 
 
 
主郭を取り巻く堀は、巾約15mあり見事に残っています。イメージ 13
イメージ 14 主郭北側にある堀切で、丘陵を遮断するためのものなのでしょう。100m以上の長さがあるようです。 
 
 桑窪城は、現遺構としては主郭しか残してはいませんが、南側に副郭があったと思われます。主郭を取り巻く堀・土塁など良好に残り戦国後期の色合いをよく残す城跡で、よく整備されていますので、訪城をお勧めします。
 
 
 
 
 参考文献
『とちぎの古城を歩く』 塙静夫著 下野新聞社 2006年

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西明寺城

 陶芸の町、益子は、戦国期紀氏系益子氏が領主であった。この益子氏は、宇都宮氏の両翼の「紀清両党」と呼ばれ鎌倉〜室町時代を通じて活躍した一族でした。平安時代後期の康平年間(1058-65)に那流山(高館山)の麓に古城を築いて、後に詰めの城として高館山城(西明寺城)を築いたとされています。なお、益子氏は、主家宇都宮氏との抗争によって天正17年(1589)に滅亡しています。
イメージ 1
西明寺城は、別名高館山城とも呼ばれ益子を領した益子氏の詰めの城=根城であったし思われます。北西に延びる尾根の突端の御城山に館(益子古城)を構えています。また、西1kmほどに益子城もあります。アクセスは、西明寺を目指していけば、付きます。駐車場も完備しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
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 主郭を北から見たものです。主郭内部は、中央辺りに段差があり手前の北の郭(31×32m)と櫓台のある南の郭(30×36m)になっており、一イメージ 4部に土塁が残っています。
南東隅にある櫓台。
 
 
 
 
 
イメージ 5 主郭北の3郭に出る虎口ですが、草に覆われて高3〜4mほどの土塁が分かりませんね。この郭は、周囲を高土塁で囲まれています。内部はゆるい斜面で削平されていませんが、この先の郭と相まって防御力は高いと思われます。
 
 
 
 
 
 
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3・4郭東下(5〜6m)の5郭との間にある堀切です。中世城郭事典で書かれている中田氏は、3・4郭と5郭の連絡は考えられていないとしています。ですが、5郭から東北に延びる郭群を守っている兵の退却路はどうなっていたのでしょうかね。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7 階段上が5郭です。この切岸は10m弱はあります。階段下の所が堀のようになっていますので、横堀?といった感じでした。
 
 この西明寺城は、主郭から延びる5条の尾根上に土塁で囲まれた郭を階段状に連ねています。虎口など凝った構造は見受けられませんで、南北朝期の切岸主体の構造を引き継いで戦国期も使った感じです。
 
 
 麓の西明寺です。ここも城域に含まれるようです。室町期の建物があり、重要文化財に指定されています。三重の塔は、天文7年(1538年)建立で優美な姿でした。楼門も明応元年(1492年)の建立で益子氏の寄進によるものだそうです。また、閻魔堂の閻魔大王坐像は迫力がありました。
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益子古城

 陶芸の町、益子は、戦国期紀氏系益子氏が領主であった。この益子氏は、宇都宮氏の両翼の「紀清両党」と呼ばれ鎌倉〜室町時代を通じて活躍した一族でした。平安時代後期の康平年間(1058-65)に那流山(高館山)の麓に古城を築いて、後に詰めの城として高館山城(西明寺城)を築いたとされています。なお、益子氏は、主家宇都宮氏との抗争によって天正17年(1589)に滅亡しています。
イメージ 1 益子古城は、現在「陶芸メッセ益子」の敷地になっていますので、行きやすいと思います。また、駐車場も敷地内外に数か所あります。左図の城址要図は、説明板にあり、○番号は写真のものです。
 
 
 
 
 
 
イメージ 3城内側から、「陶芸メッセ益子」の入場門を取ったものです。主郭から5mほど低く、南郭と東郭の堀につきあたりに位置しています。どこが大手筋かよくわかりませんが、ここも考えられる所です。、「陶芸メッセ益子」のHPに景観図か掲載されていまして、城イメージ 4址の感じが分かります。
当時の石垣ではないのですが、野面積がいい感じです。
 
 
イメージ 5主郭の遺跡広場です。御城山遺跡と呼ばれ、発掘調査がされています。掘立柱建物跡が10棟掘りだされて、ピットの上に石が置かれて、位置が分かるようになっている?と思えますが、あまりにも配列がきれいすぎて、本当かな〜と思ったりです。
 
 
 
 
 
イメージ 6
主郭と南郭(陶芸館が建っている)を隔てる空堀です。とてもきれいに整備されすぎていて同痔のままか?ですね。さらに続く所がイメージ 7↓です。クランクしています。堀底に土盛りが見られ障子堀かとハッとしました。
 
 
イメージ 8芝生公園になっている西郭です。主郭とは空堀で区切られていたようですが、隠滅していますが、トイレ背後にそれらしき窪地が見られますから、堀の一部かもしれません。左手に高1〜2mほどの土塁が続いています。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9東郭にある旧濱田庄司氏宅です。主郭・南郭からはかなり低く、東の大手筋と思われる谷津に横矢が
かけられる位置にあります。旧濱イメージ 2田庄司氏宅は、昔の庄屋クラスの農家を移築したもののようで、良き日本家屋の雰囲気をもっています。
 
 メッセまでに行く道は、「やきものロード」といった感じて窯元や焼き物やが軒を連ねていますし、メッセでも益子焼が鑑賞できますので、城跡が苦手な方といってもそれなりに楽しめるところです。
 
 
 
 

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