古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

加賀国

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 金沢城石垣めぐりの最終編です。
イメージ 1鶴の丸から東の丸北面石垣を見て、石川門により、河北門をくぐって新丸に出て大手の尾坂門です。埋められた白鳥堀跡の遊歩道を通って利家像のあるスタート地点に戻ります。











⑬東の丸北面石垣
利家が最初に石垣改修を手掛けたのがこの箇所のようで、天正11年(1583)に入城して9年後の文禄元年(1592)のことです。城の改修が遅れたのは、その間に隣国の佐々成政との攻防や秀吉の全国制覇に駆り出され、九州出兵、小田原出兵などがあったためで、小田原北条氏滅亡で一段落したのがこの時期だったのでしょう。
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イメージ 4自然石や粗割りした石を緩い勾配で積み上げた「自然石積み」(野面積み)で、隅はまだ算木積になっていません。

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整然とした切込みハギよりは、野面積の石垣の方が好きですね。東の丸東面やここは、うっとりするほどのよいものでした。
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石川門に向かう途中に展示されていた城内の井戸と場所図です。近世に使われていた城としては、多いのかどうかわかりませんが、本丸周辺が多く、寛永以後御殿が置かれた二の丸が意外に少ないです。これは、辰巳用水からの引水があるからなのかな。
👇辰巳用水

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⑭石川門石垣
イメージ 9イメージ 10石川門は、搦手口の門で、天明8年(1788)に再建され、枡形の石垣は、明和2年(1765)に改修されています。







イメージ 11イメージ 12左が高麗門の一の門で、右が櫓門の二の門です。





イメージ 13枡形内の石垣がちっと変わっていまして、左手が粗加工石積み。右手が、切石積みとなっいます。これは、火災で右側が被害を受け、明和2年に改修されたものと考えられているようです。左側の残った石垣をそのままにしたのは、どうも財政難だったためのようです。







※新丸
イメージ 14三之丸正門の河北門から尾坂門お手の尾坂門の間に新丸があります。二代藩主利長の時、慶長4年(1599)頃に、新たに拡張された郭のようです。
越後屋敷:
藩主の江戸出府時に重臣たちが政務を行う場
下台所
城内の作事を司る役所
下台所
登城した藩士たちの食事を用意する台所




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⑮尾坂門石垣
イメージ 16イメージ 17尾坂門は、金沢城の大手口です。佐久間盛政の頃は、西丁口が大手だったようで、利家の入城後にこちらに変わったようです。






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イメージ 20創建は、新丸が作られた慶長期のようですが、現在みられるものは、寛文期(1661-73)の改修時の姿のようです。巨大な割石が「鏡石」として用いられています。







この後、白鳥堀を埋めてつくられた遊歩道を通り利家像まで行き、金沢城石垣めぐりを終わりにしました。今回金沢城を訪れたのは、石垣がメインでした。現存する石川門や復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓も見ごたえはありますが、改めて石垣をだけを見るだけでも十分に楽しめる城址でした。一番良かったのが、東の丸東面‣北面や本丸南面の野面積(金沢城では自然石積みと呼ぶ)の高石垣でした。

参考文献等
金沢城石垣めぐりパンフレット



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 金沢城石垣めぐりの続きです。
⑧二の丸北面石垣
寛永8年(1631)頃に造られ、寛文8年(1668)に改修されています。
イメージ 1イメージ 2「粗加工石積み」の中で、最も完成されたものといわれているようです。このことからすると、野面→切込みハギ→切込みハギの進化だけではないその城独自の美学があったと。イメージ 3
二の丸裏門があった場所で、この左手に二の丸北面石垣が続きます。イメージ 4









形や大きさをそろえた粗加工石で積まれ姿は、なんと表現したらよいものなのか…。

⑨菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣
イメージ 7菱櫓から五十間長屋の石垣で、粗加工石積みです。平成10−12年に菱櫓等の復元に伴い、積み直しが行われています。
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手前が3層3階の菱櫓と奥に見えるのが2層2階の橋爪門続櫓で、その間をつなぐのが五十間長屋です。
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菱櫓から二の丸北面石垣です。案内イメージ 8板では、「ゆるやかに弧を描く算木積みの稜線」をお勧めとしています。たしかに見事な算木積みです。


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約5000個の石が使われているようで、モザイクアートのような色違いが、また素晴らしいです。一度バラバラにして同じところに積みなおしているわけですが、現代の石積み職人さんの技もすごいものですな〜。イメージ 10






橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門で、高麗門の「一の門」です。イメージ 11



枡形内に入ると、右手に櫓門形式の「二の門」がある。ここの石垣は、切石積みです。橋爪門の枡形は、城内最大の規模で、石川門、河北門とともに「三御門」と呼ばれているようです。
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枡形の南西背後の鶴の丸から撮ったもので、城内側からの枡形の構造がわかります。






⑩戌亥櫓・本丸石垣
戌亥櫓は、本丸の北西隅(戌亥の方角)に位置していた櫓です。
イメージ 13イメージ 14
粗加工石積みですが、石の隙間に平らな石をはめ込み、切石積みにように見せる技法が用いられていたようです。ただ、隙間の石が抜け落ちてしまっています。







イメージ 15イメージ 16途中に見えた、極楽橋と空堀です。二ノ丸から本丸付段に架かる橋で、かっての金沢御堂の唯一の遺構ともいわれます。
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本丸付段西端の石垣ですが、奥に本丸石垣の戌亥櫓下の石垣が見えます。ちょうど石垣の崩壊を防ぐ草取りが行われていました。これだけの広い金沢城の整備には膨大な費用がかかるると思います。なのに、無料なのです。金沢市に感謝です。イメージ 18






本丸北面石垣で、粗加工石積みです。石垣の中にレンガ造りのトンネルがみられます。
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旧陸軍が、弾薬庫への通路として明治から大正期に造ったもののようです。





⑪三十間長屋
イメージ 20イメージ 21本丸付段にある三十間長屋は、2層2階の多聞櫓で、軍備蔵として安政5年(1858)に造られました。








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説明板に、「切石積みの技法ですが、表面の縁取りだけをきれいにそろえ、内側をあらいままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。」とあります。


⑫鉄門石垣から本丸

イメージ 23イメージ 24本丸付段から本丸丸に入る本丸大手門の鉄門です。切石積みで、渡り櫓が載った重厚な門だったようです。寛永の大火後、二の丸からの入る正門になったようで、それ以前は東の丸方面が本丸大手だったのかな。


イメージ 25明和3年(1766)改修時の姿で、きれいに成形された石が整然と積まれ、本丸大手の威厳も感じます。



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本丸内は、うっそうとした木々が茂り、植物園といった感じです。金沢御堂があった場所と伝わり、利家が入城したのもここだったのでしょう。寛永の大火(1631)まで本丸御殿があり、それ以後は二ノ丸に御殿が建てられたようです。
イメージ 27本丸から東の丸に入り、鶴の丸に出るところの石垣です。寛永の大火までの大手がこちらなのでしょうか。緩やかな弧を描く算木積みの稜線は、何とも言えないものがあります。イメージ 28







東の丸へ入る付段門があった場所だと思います。奥の高い石垣の上が本丸で、上からの横矢がかかるようで、鉄門方面と比べると、防御力はこちらの方が強固のようです。

結構ここまで歩いてきましたので、鶴の丸休憩館で一休みしました。

まだ、続きます。

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 金沢城石垣をめぐってきた順に進めていきます。まずは、見学したコースを載せておきます。
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 車は、お城と兼六園に一番近い石川県営兼六駐車場(駐車料金が安いので、午前中に満車になることが多い)を利用しました。
 そこからすぐの兼六園下信号を渡ると前田利家の像のところに出ます。トイレもあります。城内に入るまでトイレがありませんから、ここで用を済ませるといいです。
S スタート地点 前田利家之像
像は、かっての白鳥堀の南端に立っています。
イメージ 2

















①石川門下ー三の丸東面石垣
イメージ 3イメージ 4ここは、文化4年(1807)加賀藩穴太衆による改修がされ、勾配に合わせて滑らかな表面にする所を、あえて石をずらして荒々しく作り上げている。
イメージ 5粗加工石積み(切込みハギ)の高石垣です。
※粗加工石積みについては後ほど触れます。

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②東の丸東面
イメージ 7イメージ 8金沢城の本格的な石垣造りが始まった文禄元年(1592)に造られた金沢城最古の自然石石積みの石垣。セットバックしていますが、総高は21mあるようです。イメージ 9
刻印がとてもよくみられます。


イメージ 13

案内板にある上からの写真です。







③本丸南面
イメージ 10イメージ 11ここの説明板には、「自然面を残す粗割石を積み上げた割石積み石垣」とありますが、要領を得ません。自然石利用の切込みハギなのでしょうかね。明治になって上部が取り壊されたようで、往時は約12間(約22m)以上あったようで、城内随一の高石垣だったと。
イメージ 12最下段の石垣は、明治40年いもり堀を埋めた際に修築されたもので、谷積みです。(明治期にはやっていた手法のようです)
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金沢城の南西側を囲む外堀の「いもり堀」です。往時には、幅広の所で約40m、深さ10m以上あったようです。

④申酉櫓下ー石垣模型展示ー
イメージ 15イメージ 16申酉櫓f跡は、奥上です。ここには、発掘された石や石垣の積み方の展示があります。
金沢城石垣の説明では、通常の読み方はされていませんで、「自然石積み」「粗加工石積み」「切石積み」とあります。




イメージ 19上の段が「粗加工石積み」で、下の段が「切石積み」」です。
金沢城の石垣は、粗加工石積みの高石垣が基本のようです。
粗加工石積みで最高の石垣は、二の丸北面石垣です。仙台城でもこのような展示物があり、石垣の内部の様子がよくわかる展示だと思います。
城内のボランティアの方に、独特な呼び方をするのか聞いてみましたが、なぜそう呼ぶのかわからないようで、同じような質問を受けるそうです。
どなたか知っている方はいらっしゃらないですかね。

⑤玉泉院j丸庭園に面した石垣群
この地は、西の丸といわれていたようですが、2代藩主前田利長の正室玉泉院が利長の死後に屋敷を構えたことから玉泉院丸と呼ばれるようになったようです。玉泉院が亡くなった(元和9年-1623)のちの寛永11年(1634)3代藩主利常が造園し、寛文の頃(1661-73)改修して今の姿になったようです。庭園は、明治期に廃絶されたようで、平成20〜24年に発掘調査がなされ、そのらと江戸末期の絵図などをもとに復元したものです。ただし、遺構は約2mの盛土されています。

イメージ 18イメージ 17









イメージ 20庭園右手奥のいもり坂周辺の石垣で、金沢城の石垣では「戸室石」が使われていますが、唯一ここだけに黒色の「坪野石」を混在イメージ 21させている石垣です。








「段落ちの滝」、斜面を階段状に流れ落ちる落差約7mの4段の滝を発掘調査をもとに復元されたものです。
イメージ 22

色紙短冊積石垣で、色紙短冊とは珍しいですが、色紙=方形、短冊=縦長方形のようで、その形をした石を組み込んで造られ、見栄えのする石イメージ 23垣です。見せる石垣の究極の形なのですかね。

北側からの庭園遠景



⑥数寄屋敷
 数奇屋敷は、二の丸御殿の奥向きである広式(藩主夫人の住い)に勤める奥女中の住む部屋方が置かれました。江戸城の大奥に類似するところといっていいでしよう。明治になり、歩兵第6旅団司令部が置かれました。
イメージ 24イメージ 25切手門
奥女中に仕える身分の低い女中らが三の丸東側から出入りしたのがこの切手門です。番所かあり、通行には切手が必要なことから、この名が付いたようです。明治14年の火災に焼失をまぬかれて、往時の姿が残しています。 奥の建物が、旧歩兵第6旅団司令部です。                   

イメージ 26二ノ丸側の石垣で、刻印が多数みられる石垣です。寛文頃の改修時のもののようですが、刻印のある石は創建当時のものです。                                                   
  イメージ 27









⑦土橋門石垣
イメージ 28イメージ 29










イメージ 30名前の由来は、北の丸と三の丸をつなぐ土橋に面して設けられたことからのようです。枡形門だったようですが、その面影はないですね、
上左は、享和改修(1801-04) 上右は、寛文5年(1665)

左の案内板の上に見える亀甲石は、水に親しむ亀を現したもので、防火の願いが込められていたようです。





この続きはーその参ーで。


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 金沢城の石垣を見てきました。何度か、金沢市には行っていまして、観光名所というところは大方訪れていますので、今回は金沢城の石垣のみを見てみようと思った次第です。ただ、足を痛めていましたので、城外と城内全てを見てこれるか一抹の不安を持って出かけました。              訪城日:2018.5.29  晴れ

 イメージ 1左図は、江戸期の金沢城主要部の縄張図です。現在、これらがすべて残っているわけではありません。⑥白鳥堀は遊歩道、⑦百遼戮脇始、⑧いもり堀は半分道路となり、城内の新丸西側堀は埋められ、鶴の丸の東側の堀も埋められています。建物は、石川門と三十三間長屋が現存し、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓や河北門が復元されています。

※縄張図は、『日本名城図鑑』(西ヶ谷恭弘/監修 理工学社)に掲載されたものを借用させていただきました。
















イメージ 2
 何度か金沢城を訪れている際に、石垣は垣間見ていまして、その素晴らしさには目を奪われていましたが、石垣の知識もあまりなくただ見てきたといった感じでした。ここ数年、戦国期の石垣を見る機会が多くなり、それなりに見ることができる感じになりまして、「石垣の博物館」といわれる金沢城の石垣をじっくり見てみたいな〜という気持ちになりました。
 調べてみましたら、石垣めぐりの右図のパンフレットを見つけました。なかなかよくできたパンフレットですが、城内ルート約1,5km、城外ルート約2,1kmということで、かなりハードなコース設定です。
 イメージ 4イメージ 3





石川門



 足の具合を感じ取りながら、廻ったルートが左図になります。なお、石垣の紹介は、−その弐ーで。





























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松根城ーその弐ー

再度、縄張図を載せておきます。4郭から北側です。
イメージ 1
 縄張図は、『石川県中世城館跡調査報告書Ⅰ(加賀Ⅰ・能登Ⅱ)』(石川県教育委員会編・2002年)より引用で、説明のため加筆しています。
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 主郭南虎口横にある櫓台跡から4郭方向を取ったものです。4郭から主郭に入るには、両側から竪堀で狭められた通路(土橋)をわたり、一段高い小郭(虎口受けか馬出?)に入って虎口へ至ります。
 通路(土橋)は、人一人しか通れなく、さらに虎口横の櫓台よりの横矢が厳しいかったと思えます。
 
 
 
 
 
 
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 上の箇所を4郭から撮ったものです。左手の竪堀は、搦手口のある横堀の所に行きます。
 虎口は、内桝形状と思われます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 主郭南虎口から見た主郭内部です。40×40mほどの広さで、東西の見晴らしはとてもよかったです。
東  高岡方面     西  金沢方イメージ 9
   ☛城碑
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10 主郭北虎口から2郭へ行く通路です。南虎口と同じで虎口前面に小郭を設けて、かなりの高低差のある坂を下って、両端を竪堀で狭めた土イメージ 11橋を通って2郭へ行きます。
☛虎口手前の小郭とクランク
 
 
 
 
 
イメージ 12イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 2郭(左)と3郭(右)です。通路は歩きやすくなっていますが、それ以外の空間は草藪でしたね。2郭も通路以外に行こうとしまたが、入る気になれませんでした。また、郭表示ですが、写真のようになっていますが、どちらかというと大手方面の方を2・3郭とした方がよいのでは思うのですがね。
 
イメージ 4
 3郭北下の横堀とですが、かろうじてあるんだなという感じですね。さらに見どころである三重畝堀も行ったのですが、草に覆われて見れませんでした。この時期は難しいですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 主郭南虎口手前の堀切(左)を下りますと、搦手口の虎口のようで、そこから南に向けて素晴らしい横堀(右)が続いています。この辺は、草もなく遺構がよく見れるところでした。

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