古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

能登国

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二穴城

 二穴城は、七尾市能登島二穴にある比高25mほどの海城です。七尾には何回か訪れていましたが、まだ能登島へは行ったことがありませんでした。能登島の城址を調べてましたら、二穴城や向田城などがあり訪城してきました。                    訪城日:2015.10.22  晴れイメージ 1
 城址へは、七尾市街より能登島大橋を渡り、県道47号を東進し、支所前信号を右折し1.5km先で右折して、二穴漁港を目指します。城址は、漁港の西側の小高い丘の上にあります。駐車場はありませんので、港の端におかしてもらい、二穴集落内を通り登城口の多賀神社を目指します。イメージ 3
社右手から登りますが、ちっと藪っていましたが
行けました。

イメージ 4
 城歴については、史料等がなく不明といえます。ただ、能登守護畠山氏が、富山湾から小口瀬戸を通って七尾湾内に入る敵軍船に備えて、築城されたものとされています。天正9年に前田氏が能登に入部した際、家臣の高畠茂助・宇野十兵衛を置いたとされるようです。
 当城から小口瀬戸は見通せませんが、東側の野崎城、虧(えのめ)城と連携して、七尾南湾の船舶監視を行う重要な拠点だったことは確かなようです。
 縄張図は、『能登中世城郭図面集』(佐伯哲也著)から借用しています。

イメージ 5城址東側らの遠景で、こんもりイメージ 2と茂った丘にあり、その中段あたりに多賀神社があります。イメージ 6






 
 当城を訪城した方々が、藪がひどく神社迄になっています。たしかに藪がひどかったですが、とりあえず突入しました。ただ、遺構がよくわからずに主郭等の位置を読み間違える失態をしました。イメージ 7




 この位置を⑤と思いこみ、C郭と勘違いしました。実際は、②の下側でした。イメージ 8





 上の写真の左手を西側が撮ったものです。右手の切岸上をてっきり主郭と思いこんでいましたが、実際はC郭③の櫓台下でした。右下の谷間へ続く堀切痕④が見れます。イメージ 9


 ⑦の竪堀の北側の谷間部分です。段郭が見られますが、藪がひどく行っていません。ですが、『石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ』によるとこの左手の尾根上にもかなりの郭があり、堀切もあるようです。ここを見て、少し縄張図との違和感を感じましたが、まだ間違いには気づきませんでした。(苦笑)
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 藪がひどいのであきらめて帰ろうかと思いましたが、攻めで主郭に足を踏み込んでと思い、②あたりから上の段に入り込みました。意外に広い郭で奥まで行きますと土塁があるな〜とイメージ 11思い行きましたら、その奥にさらなる郭があるのではありませんか。いや〜、驚きましたね。ここで明確に勘違いしていたことに気付いたという次第で、いやはや単独でよかったと!イメージ 12
 一段高い主郭(A郭)ですが、写真のごとく藪がひどく全く入り込める状態ではありませんでした。イメージ 13









 C郭虎口の⑤です。ここも奥は藪で立ち入り禁止でした。
 長年、山城巡りをしていますが、なかなか難しいものとイメージ 14改めて感じましたね。
 また、あとで見た『石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ』(南龍雄氏作図)の縄張図からすると、小生が見た以降は、ほんの一部に過ぎないことがわかり、これまた失態でした。


















参考文献
『能登中世城郭図面集』 佐伯哲也著
『石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ(能登Ⅰ)』 石川県教育委員会 


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館開城(たちびらき)

 館開城は、羽咋(はくい)郡志賀町館開にある比高30mの山城です。城址の位置は分っていましたが、登城口がわかりませんで、城址南西の丘に入り込み、右往左往して歩きましたがどうも周囲の様子が持参した縄張図とはだいぶ違っていますので、あきらめて帰りかけたところで、たまたま城址南にある谷間を見つけました。けっこう山城へは行っていますが、なかなか城址にたどり着くのは難しいものと思いましたね。さらに、さまよっている間に、ストックを置き忘れてしまいました。
                                        訪城日:2015.10.23  晴れイメージ 2

 城址へは、能越道徳田大津ICを降り、県道3号を西に300m行って左折します。そこから、550mで右折して、800m進むと登城口の谷間入口につきます。ちっとわかりにくいです。
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   車は、この道路に路駐しました。      


 イメージ 7館開城の築城時期は、定かではありません。築城主体は、得田庄の開発領主で鎌倉期から地頭識を相伝しきた得田氏の非常時の詰の城と思われています。
 佐伯氏は、「土塁を巡らし、櫓台を設けている点、若干の新しい様相がみられるが、虎口は明確ではなく、16世紀中頃の築城と考えられよう。」としています。
縄張図は、『石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ(能登Ⅰ)』(佐伯哲也氏作図)から
借用しています。
イメージ 3 登城口から谷間を進みます。左手が城址にですが、まだ見えません。イメージ 4







              
左手に主郭(a1郭)南下の畝状空堀が見えてきます。この畝状空堀は上下2段で大小様々な形をしていて、写真は下の段のもので上巾7mもあります。
イメージ 5 主郭から見える上の段の畝状空堀です。こちらは、上巾5mほどです。
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 斜面を登り、堀切e2へ向かいます。イメージ 8

 堀切e2で、左手が主郭ですが、堀底から櫓台の2までの高さは10m以上ありそうでした。
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 堀切e2の中央で北に入ると主郭虎口の竪堀があります。両側に櫓台があり守りは堅いです。イメージ 10

 主郭虎口は、竪堀を登りますが、佐伯氏は「通常は対岸の土塁に木橋を架けて」いたと推定しています。対岸の郭は自然地形の緩い斜面ですが、佐伯氏は馬出と考えるようです。イメージ 11写真は主郭虎口から見た所です。

a1の主郭です。東西約30m、南北約20mほどで、南側に主郭防御の郭がないためか、土塁と櫓台を設けています。













イメージ 12 主郭北側のa2郭です。副郭と考えられ、主郭より少し低い位置にあります。この郭の北に堀切e1がありますが、見ていません。イメージ 13



主郭西側にある2条の竪堀の一つ。ここの竪堀は、巾広です。イメージ 14









 北側からの遠景になります。周りが平地で、さほどの標高(50m)ですが、かなりの高く感じます。

参考文献
『能登中世城郭図面集』 佐伯哲也著
『石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ(能登Ⅰ)』 石川県教育委員会 

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七尾城長屋敷支群

 七尾城長屋敷支群は、七尾城中枢部東方尾根を大堀切で遮断したつけ根にある郭群です。本丸から西側の郭群には何度か訪城しています。(※すでに本丸から三ノ丸辺りについては掲載していますので、ご覧ください。)ただ、いつも駐車場から大堀切から長屋敷を眺めて、ここはちっと無理かなと思って行かずじまいになっていました。そうしましたら、城仲間のえいきさんが行かれたということで、ならば行けるんだということで行ってきました。           訪城日:2015.10.23  晴れ
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 この鳥瞰図は、駐車場にある説明板の復元イラストです。
 城址へは、七尾市中心部から国159号を南下して城山登山口で右折して道なりに進めば駐車場につきます。イメージ 2

 七尾城の歴史については、「七尾城ー城歴についてー」をご覧ください。
 ここが、長氏の屋敷とされるのは、江戸期の絵図に「長ヤシキ」「長殿丸」などと記載されることからのようです。
 長氏は、畠山七人衆の一人としてのと戦国期畠山氏の重臣として活躍しています。ただ、畠山七人衆でも畠山氏の根本被官の遊佐氏・三宅氏などとは違い、鎌倉期からの能登の有力国人領主であり外様的存在であった。長屋敷が、主郭背後の重要拠点にあるにしても、主要部内にある遊佐屋敷・温井屋敷とは違って、大堀切で遮断された地にあることが長氏一族の立場を象徴しているようにも見えます。
イメージ 3長屋敷支群は、東西の大堀切に囲まれた一角で、長屋敷(図の長Ⅰ)を中心にして、現在駐車場である平場もその一群に含まれます。イメージ 4




 長屋敷のある東方尾根は、石動山と尾根道で繋がっていることから、尾根伝いに敵軍の進攻が考えられるため、長屋敷を設けその東西に上巾40mもある大堀切を設けて完全に遮断しています。この本丸と長屋敷の間の大堀切も、上巾40m、堀底から土塁天端までの高さ26mというとてつもないものです。駐車場から調度丸に向かう際に必ず目にしまして、これは登れまい。長屋敷へ行けないな〜と思ったものです。イメージ 5

 上の写真が、2010年に訪城した時のもので、左の写真が今回撮ったものです。うっそうとして入るのもはばかれる感じてす。絵図によると、この堀切には、「関東橋(カントバシ)」が架けられていたようです。
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 長屋敷登城口で、駐車場トイレの横手から谷間を登って行きます。イメージ 7



                道はありませんで、直登になりますが、10分ほど で虎口Aの下の段が見えてきます。土留めの石積みが見つかりホッとしましたね。イメージ 8




 虎口Aで、樋口の左右に石積みが見られます。ただ崩落していたり、草に覆われたりしていますので、あまり明確には見られません。
 イメージ 10



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 虎口Aの石は、人が抱えて持てるほどの大きさでさほどの大きくはあり野ません。積み方も在地のもののようで、佐伯氏は畠山氏段階の遺構と推定され、貴重な遺構のようです。イメージ 11
 虎口Aから虎口Bを撮ったものです。長Ⅰ郭は、長屋敷支群の主郭である長屋敷です。南北30m、東西90mと、かなり広い郭ですが、藪に覆われて歩くのに難儀でした。イメージ 12







 南から東側に高土塁をめぐらし、この方面の防御ラインの厳しさがうかがえます。写真の南土塁は高12mありました。イメージ 13

 虎口Bで、平虎口ですが、左手の張り出しにより守りの堅い虎口になっています。さらに、虎口中央部が盛り上がり、通りにくくしているのと郭内部を見通せなくする蔀の役割もあったのでしょうか?、城外と連絡は、この虎口と考えられます。イメージ 14

 長屋敷(長Ⅰ郭)の西南下にある長Ⅱ郭です。佐伯氏が枡形虎口と推定する虎口Cがあり、南の側の土塁に石積みの痕跡が残ります。虎口Cからの通路が虎口B(途中に竪堀がある)につながりますので、虎口Bに攻め寄せる敵兵に向けての出撃郭=馬出的な役割があったのかもしれません。
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 虎口Cで、枡形虎口なのかな〜イメージ 16という感じはありますね。土塁に石積みと思われる石が見られます。イメージ 17







 最後は、長屋敷東側土塁です。虎口Bの東側ある虎口防御と思われる武者溜の小郭です。小郭といってもけっこう広かったです。イメージ 18





 長屋敷東側の大堀切(上巾40m)に沿って設けられている長さ130〜40mもの高土塁の上部です。右手の大堀切は、奈落の底に落ち込む感じで怖ろしかったですね。イメージ 19


 土塁北端の郭です。ここまで来まして疲れましたので、上から写真を取って終わりにしました…。

 本丸中枢部に見られる石垣や桝形虎口は、前田氏の改修とされていのすが、長屋敷の大規模な堀切と土塁による防御線は、上杉氏による改修の可能性が高いようです。前田氏が七尾城に入っても、ここ長屋敷支群は従来のまま使われたのしょう。

参考文献
『能登中世城郭図面集』 佐伯哲也著
『能登七尾城 加賀金沢城』 千田嘉博・矢田俊文編
『石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ(能登Ⅰ)』 石川県教育委員会                                                                         

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七尾城ーその参ー

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 桜馬場から三の丸にかけて回ってみます。再度縄張図(「石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ」を引用し、説明のため加筆)を載せておきます。
 本丸北側に続く尾根上に桜馬場・西の丸・温井屋敷・二の丸と続き、尾根先端の三の丸戸は、大堀切で遮断されています。二の丸までか、七尾城中心部といえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2 桜馬場の南西隅にある本丸登り口から撮ったもので、左手が桜馬場で石垣を挟んで、右手が遊佐屋敷になります。この桜馬場は、チェスの駒の形をしてかなりの広さがあり、西側に石垣や石垣造りの郭が確認されているようです。
 
 
 
 
 
 
イメージ 7 桜馬場から見た西の丸です。西側の大谷川方面を俯瞰する位置にあり、この方面の防衛拠点だったのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8 桜馬場と温井屋敷の間にあり、大谷川(西側)沿い尾根にある「古府城平支群」へ下っていく虎口があります。この虎口について村田修三氏が内桝形ではあるが、「東国系の標準的な桝形とは入り方が異なる。虎口外のテラス(虎口受け)を囲いこんで出来たもののようである。」と述べています。(「中世城郭事典Ⅱ」)
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 温井屋敷です。能登畠山氏には、四臣四家と呼ばれる家柄の重臣がおり、温井氏は、四家の一人です。
四臣とは
遊佐氏、神保氏、平氏、本田氏
四家とは
温井氏、三宅氏、甲斐庄氏、伊丹氏
 
 
 
 
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 温井屋敷から二の丸に向かう道で、石垣を二段積み上げています。調度丸から桜馬場に登る斜面にも同じ造りがあって、どうもこのような造りが七尾城の特徴のようです
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3 二の丸で、中心部北端にあり尾根の分岐点に築かれています。北西は、大堀切を隔てて三の丸・袴腰・沓掛場を経て麓に続く大手筋の道です。北東尾根には5段ほどの腰郭を造っています。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4 二の丸と三の丸を遮断する大堀切です。二の丸から三の丸への遊歩道は、かなりの急斜面を20m以上は下がる感じです。本来は、三の丸から二の丸への直接つながる道はなかったと思われます。三の丸は、大手口の前哨の防衛拠点として半ば独立していたと思えます。
 
 
 
 
 
イメージ 5 三の丸で、最大規模の郭で南北110m、東西25mあるようです。中央部(標柱がある辺)に築地塀の基礎等が見られる石積みが延びて、南北の二つの空間に分かれています。東側中央端に東山腹を回る大手道に繋がる道があったようで、出撃口のようです。
 
 
 
 
 
 
イメージ 6三の丸北下の袴腰(右側)と沓掛(左側)の間の堀切状の通路で、大手道の分岐点になっています。城虎口が設けられていた考えられます。
写真左手が大手道で、三の丸の東山腹を通って調度丸北虎口に到ります。左手は、この先の安寧寺から三の丸への登城路になります。
 
 
 
 
 
 本丸下の駐車場からの遊歩道が整備されていますので、城址の主要部は何なく回ることができます。8月下旬とう城めぐりには不向きな時期でも、十分に楽しめる城址でお勧めです。

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七尾城ーその弐ー

 七尾城に残る遺構を見ていきます。イメージ 1
 麓にある七尾城史資料館から本丸まで行き、帰ってくる散策コースがあり、所要時間約150分のようです。このコースも一度は歩いてみたいものと思っていますが、今回も本丸北駐車場から訪城になってしまいました。
 赤線が、中心部散策コースとほぼ同じです。所要時間約50分とありますが、小生は90分ほどかかりました。なお、縄張図は、「石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ」を引用し、説明のため加筆しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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この本丸北駐車場も長屋敷の郭の一つだったようです。また、本丸の間を遮断する大堀切は、深さ25mに達するものです。
 
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 桜馬場東下の調度丸で、手前に曲輪内を二分していた築地土塀の基礎石積みが見られ、奥に主郭群の壁面で数段に重なる野面積の石垣イメージ 7です。
 この調度丸は、大手道が主郭部へ入る最初の郭にあたり、北半分が虎口郭=大手郭になります。南へは長屋敷に続く木戸口があったと思われます。☛
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 調度丸北虎口(虎口B)で、大手道の坂を上り虎口手前で左に折れて、曲輪内に入ります。正面・左手からの横矢が厳しい造りになっています。
 
 
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               主郭部にとり つく壁面の石垣です。セットバックしての段積みで、高石垣が造れなかった時期のものといえるようで、前田氏の改修の跡と推定されるようです。大手道は、この石段をぬって桜馬場の桝形虎口(現遺構ははっきりしません)にへ至ります。
 
 
 
 
イメージ 4 本丸は、標高300mで眺めはとてもよく、七尾湾がきれいに見えます。南隅に櫓台跡(写真右奥)の土壇が残っています。さて、この本丸への道ですが、現在は東側の石垣積みの階段を上るのが普通のようですが、これは本丸内の城山神社の参道のようで、当時にも道はあったのかもしれませんが、改変が著しいと思われます。ということで、本来の城道は、西に突き出たところです。
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この形は、村田修三氏が織豊系山城の虎口として挙げている「嘴状虎口』(「中世城郭事典P18)で、千田嘉博氏の「織豊系城郭編年」においては、第4類型Aの例としています。
 石垣で固められた入口(控えのスペースを前に張り出すために石垣を用いる必要があった)を、2折れで出入り口と一体化した虎口郭に入り、本丸へはもう一つの虎口を経なければならない構造です。
 「桝形の防御性と馬出の攻撃性を合わせもったもの」(村田氏)ですが、L字状の虎口を出ても狭い坂道を下るのでは、出撃機能が未完と言わざるを得ない感じですね。
 ですが、この虎口部の改修が、前田氏の手入れの証拠として決定的といえるようです。
 
続きは、−その参ーで・・・。
 
※参考文献
中世城郭事典Ⅱ  織豊系城郭の形成  石川県中世城館跡調査報告書Ⅱ

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