飯久保城は、氷見市飯久保にある比高60mの山城です。氷見の山城は、35城ほどあるようです。その中で代表的な山城が湯山城(森寺城)や中村山城で、境目の拠点城郭として能登畠山氏や上杉氏・織田氏が築城、改修しています。一方、飯久保城は、在地の有力国衆狩野氏の持ち城として戦国末まで使われていたようです。 訪問日:2015.10.21 晴れ
氷見市街より県道76号を西進して、十三中を目指します。十三中の少し先を右折して、飯久保集落内の八幡神社に向かいます。そこが登城口です。神社前の民家が空き家になっていましたので、近所の方にお聞きして、庭先に駐車しました。ただ、集落内は道が狭いので、集落手前で止めたほうがいいかもしれません。
飯久保城について
飯久保城は、仏生寺川中流右岸の丘陵上に築かれた戦国期の山城である。標高75mの最高地点からは、かつて仏生寺川下流に広がっていた布勢湖と、その周辺の平野を見下ろすことができ、さらに氷見市街・富山湾まで望むことができる。
城主と伝えられる狩野氏は、飯久保城のほかに惣領砦、鞍骨城などを築き、氷見地域南西部を支配していたとみられる。
永禄3年(1560)頃には、人質を差し出して富山城主神保長職に属しており、まだ同4年には、光久寺に寺地などを寄進している。その後は、相次いで越中を支配した上杉謙信、佐々成政に属したようである。
天正13年(1585)8月、成政が豊臣秀吉に降伏したときに、狩野氏は城を退去し、飯久保城は廃城になったと推測される。
狩野氏はその出自や、城退去後の動きについて不明な点が多いが、宝永5年(1708)に江戸で浪人していた子孫が、富山藩に仕官している。
城の規模は、南北250m、東西400mにおよび、曲輪・土塁・掘などが良好にのこっている。また城下には「鍛冶屋町」の地名がのこり、城下集落の存在が推測される。
氷見市を代表する城郭のひとつであり、特に主曲輪背後の櫓台をそなえた土塁は、大規模な防御施設として注目される。また、桝形虎口をそなえた馬出曲輪の大手口は、戦国末期に改修されたと考えられ、県内における城郭の変遷を知るうえで、貴重な遺構である。
平成14年度に行われた発掘調査では、主曲輪から土師器・備前焼・中国製染付・茶臼などが出土している。
現地案内板より 縄張図は、『越中中世城郭図面集Ⅲ』から借用しています。
補足
狩野氏は、伊豆の狩野氏の一族で鎌倉時代中頃(13世紀半ば)以降、加賀国江沼郡福田庄地頭識を所持し、徐々に勢力を拡大して狩野一党として室町期に室町幕府奉公衆にもなる江沼郡最大の武士団に成長します。しかし、15世紀後半なると、在地支配を強める一向一揆とそれを打倒しようとする守護勢力の抗争で長享2年(1488年)守護富樫政親が敗死し、狩野氏も加賀国から逃れ氷見に落ち延びてきたのではないかと思われます。
「桝形虎口をそなえた馬出曲輪」について、佐伯氏は、発掘調査でC郭と切岸の間には空堀が検出されないことから「前面に空堀が存在しないということは、馬出曲輪には成りえない。馬出曲輪の性格を兼ね備えた内枡形虎口と評価すべきであろう。」としています。
「大手口は、戦国末期に改修された」とあり、改修主体についてはかかれていません。桝形虎口の存在から上杉氏か佐々氏辺りが改修したのではないかという見方がありますが、佐伯氏は、南側の畝状竪堀群が、櫛歯状にならず間隔が広いことから「上杉氏系ではなく、狩野氏独時の畝状空堀群」とし、虎口も狩野氏が独自に構築したものとしています。
登城口の八幡神社です。八幡神社は鳥居の先の階段を上がった所にあります。てっきり、城へは神社の社の辺からと思いこんで階段を登ってしまいましたが、階段を登らずに奥に進みます。
5分もかからずに枡形虎口が見えてきます。虎口左手にC郭があり、手前にもいくばくかの曲輪があるようですが、はっきりしません。
まことに持ってきれいに残る枡形虎口です。まぁ〜、虎口好きにとっても至福の時間でしたね。
虎口内に入ると土塁囲みの平地で、左手奥の両竪堀によって主郭方面とは遮断されています。
2折・1空間の虎口ですが、土塁が大きくせり出しているため、七尾城主郭虎口のようなすっきりした虎口郭にはなっていません。また、馬出としても中半端な感じもします。
桝形虎口の空間を仕切る竪堀のある場所ですが、藪に覆われて、辛うじて表示板でわかります。『氷見の山城』によれば、堀切巾3.8m、土橋幅4mのようです。
主郭(A郭)下の段にある涌水池。虎口空間から入った所にある比較的広い郭で、水場もあることから、居住施設があったのではないかと思われます。
かなり広めの主郭です。(東西35m、南北10〜15m)南の塁線土塁は、長さ50m、高さは最大で6mもありす。
主郭東南端にある6m四方ほどの物見台(櫓台)。
物見台南下の堀切2で、堀底から10m以上あり階段があっても降りるのになかなかきつかったです。
東の尾根を守るB郭です。
主郭も広く、背後の防備も固く、前面を枡形虎口で固める城です。狩野氏が独自の築地技術に優れた武家という片鱗をうかがわせる城のようです。
参考文献
『氷見の山城』 氷見市教育委員会
『越中中世城郭図面集Ⅲ』 佐伯哲也著