古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

越中国

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海老瀬城

 海老瀬城は、氷見市余川にある比高120m(駐車地点からは10m)の山城です。訪城しての印象は、織豊期に城攻めに伴う付城や合戦の際に構築された陣城である、玄蕃尾城・東野山城・田上山砦・上山田城などにとても似ていることでした。             訪城日:2015.10.21  晴れイメージ 1
 城址へは、氷見市街より氷見バイパスを北に向かい、阿尾信号を左折して県道18号に入り、1.5km先で左折して、「氷見あいやまガーデン」を目指します。そこから先が林道(どうもこの道が一刎越えのようです)になり、200m先で右手に塹壕のような道に入り、更に200m程で左手に進むと城址です。林道は、車一台がようやっと通れる幅しかありませんので、路肩多少広めの所に路駐しました。


  当城の城主・築城時期については、確たる史料もなく定かではありません。旧『氷見市史』に長沢善慶が居城していた伝えるとあり、また、稲積の乗福寺過去帳によれば阿尾城を退去した菊池氏が一時この「海老背小山城」に居住したとあります。(『氷見の山城』より)イメージ 2
 縄張りから見ると、塁線に折れを多用し枡形虎口を設ける巧みな構造なのに、低い土塁・浅い堀である。いくつか見てきた、織豊期の臨時の陣城にとても類似しています。このことから、天正13年(1585)の佐々・前田の抗争期に前田氏が佐々方森寺城攻めの付城として築城したのではなてかと推察されるようです。当城が、一刎越えの街道筋にあることから考えられるのは、前田氏の築城以前に街道押さえの何らかの軍事施設(菊池氏の「海老背小山城」)があり、前田氏がそれを再利用したのではないかと。
 右図の縄張り図は、『越中中世城郭図面集Ⅲ』(佐伯哲也氏作図)から借用しています。
 






 なお、一刎(ひとはね)越えは、義仲道とか蓮如道とか呼ばれ、中世以来能越を繋ぐ重要な街道です。氷見から稲積ー芝峠ー一刎ー久江イメージ 3原山峠を経て久江(中能登町)に至る経路です。
 寿永2年(1183)に義仲が能登に進撃する際にこの道を通ったとされ、また、宝徳元年(1449)蓮如上人が北國布教のためにこの道に近い経路で巡回したといわれています。

海老瀬城の詳しい紹介は、後ほどに。











参考文献
『越中中世城郭図面集Ⅲ』 佐伯哲也
『氷見の山城』 氷見市教育委員会


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惣領砦

 惣領砦は、氷見市惣領にある比高90mの山城です。飯久保城から西に1.2kmにあり、更にその西側にある鞍骨城ヶ峰城や鞍骨山城とを結ぶ位置にあることから飯久保城のイメージ 1支城、繋ぎの城と考えられるようです。惣領砦跡遊歩道としてハイキングコースが整備され、登り口に駐車場もあるといったいい環境になっていました。
           訪城日:2015.10.21  晴れ
イメージ 2






  
 城址へは、氷見市街から県道76号を西に進み、能越道のガードを越えた先を右折して約1km進み、左手に登城口の駐車場が見えます。ハイキングコースを20分ほど歩くと主郭につきます。

 この惣領砦は、戦国時代た山城です。標高101.9mの丘陵上に位置し、規模は400×140mを測ります。東西方向にのびる尾根上に連なって築かれた三か所の主要な郭と帯郭、十三本の堀切、土橋によって構成される堅固な縄張を持っています。
 惣領砦は、氷見南部地域の在地領主、狩野氏の出城と伝えられいます。越中狩野氏については、出自は不明ですが、加賀を本拠とした室町幕府奉公衆の狩野氏の系譜と推定されています。狩野氏は永禄3年(1560)頃には越中守護代神保長職に属していましたが、神保氏の勢力が衰えた天正初め(1573∼)頃から上杉方に属し、天正6年(1578)の上杉謙信没後はいち早く織田方に転じたものと考えられます。イメージ 3
 惣領砦跡の東には飯久保城跡、西には鞍骨山城跡(御林山城跡)が存在しています。伝承では、狩野氏が鞍骨山城を本城として、送料、飯久保に砦(出城)を構えており、惣領砦には家老大前左近と奥野主馬が在城したとされています。ですが、それぞれの城跡の縄張や規模から見ると、飯久保城が狩野氏の本城で、惣領砦と鞍骨山城は詰城としての役割を持っていたと考えられます。狩野氏は天正13年(1585)の佐々成政降伏後、飯久保城を離れたと推測されます。同様に、惣領砦もこの頃役割を終えたのでしょう。 イメージ 4                    現地案内板より
※縄張図は、『越中中世城郭図面集Ⅲ』(佐伯哲也作図)から借用し、説明のため加筆しています。





イメージ 6 県道から登城口(駐車場)と城址方面を撮ったものです。駐車場は車10台ほどとまれる広さで、ここに遊歩道の案内板があります。イメージ 5







コンクリート道を墓地まで登り、その先の二股を左に進むと東屋があります。さらに尾根上を進むと最初の遺構の上巾5mほどの堀切1です。この道が大手道と考えられます。イメージ 7
 さらに120〜30m行きますと、堀切2です。片竪堀の土橋状の通路で、人ひとりが通れるほどの幅しかありません。山城の登城路ではよく見かける構造です。イメージ 8







 さらに100mほど進むと堀切3です。上巾5〜6mほどですが、とても浅いですね。このすぐ上が城址になります。イメージ 9

 堀切3から小平場を越えると堀切4です。左手が主郭方面で大きな段差を伴う急斜面になつていて、ここからが本格的な城域といえます。この堀底を北側に進むと帯郭に至りますが、未訪です。イメージ 10







主郭までに2段ほどの段郭が認められますが、ここに佐伯氏は枡形虎口を志向した虎口(②)があったとしています。イメージ 11


 佐伯氏の指摘される場所ですがここです。しかしながら、じっくり観察しましたが、残念ながらよくわかりませんでした。イメージ 12






 主郭で、なんの表示もありませんので、三角点が目印になりますかね。広さは、15×20mほどで、土塁は見当たりません。イメージ 13


 主郭とC郭を遮断する上巾7mほどの堀切5です。イメージ 14







 C郭で、36×5〜8mほどの細長い郭です。ここも、土塁はありません。イメージ 15


 C郭で気になる箇所が、堀切6手前の北西端の小堀切です。規模は、巾2m、深さイメージ 161m弱ほどですが、B郭から堀切6を越えてC郭へ入る虎口部なのではないかと考えられます。堀切が、武者溜なのかもしれませんね。イメージ 17

 堀切6で、上巾は11〜12mほどです。堀底中央に低い土橋状の痕跡が認められます。イメージ 18
C郭から見たもので、微かに土橋状のふくらみがわかりますか。イメージ 19



ひょうたん形のB郭で、長さ南北約30m東西8〜25mで削平はあまりされていません。イメージ 20








B郭西下で、平場なのか堀切なのかちっと判断に迷う場所です。さらにこの先に堀切があるようですが、そこまでは行っていません。

 惣領砦は、砦としては堀切が十数本あり規模も意外に大きいです。かなり堅固な造りになっていたのは以外でした。狩野氏にとっては重要視されていた城だったのではないかと感じました。

参考文献
『越中中世城郭図面集Ⅲ』 佐伯哲也
『氷見の山城』 氷見市教育委員会













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飯久保城

 飯久保城は、氷見市飯久保にある比高60mの山城です。氷見の山城は、35城ほどあるようです。その中で代表的な山城が湯山城(森寺城)や中村山城で、境目の拠点城郭として能登畠山氏や上杉氏・織田氏が築城、改修しています。一方、飯久保城は、在地の有力国衆狩野氏の持ち城として戦国末まで使われていたようです。                    訪問日:2015.10.21  晴れイメージ 1
 氷見市街より県道76号を西進して、十三中を目指します。十三中の少し先を右折して、飯久保集落内の八幡神社に向かいます。そこが登城口です。神社前の民家が空き家になっていましたので、近所の方にお聞きして、庭先に駐車しました。ただ、集落内は道が狭いので、集落手前で止めたほうがいいかもしれません。




飯久保城について
 飯久保城は、仏生寺川中流右岸の丘陵上に築かれた戦国期の山城である。標高75mの最高地点からは、かつて仏生寺川下流に広がっていた布勢湖と、その周辺の平野を見下ろすことができ、さらに氷見市街・富山湾まで望むことができる。
 城主と伝えられる狩野氏は、飯久保城のほかに惣領砦、鞍骨城などを築き、氷見地域南西部を支配していたとみられる。 
 永禄3年(1560)頃には、人質を差し出して富山城主神保長職に属しており、まだ同4年には、光久寺に寺地などを寄進している。その後は、相次いで越中を支配した上杉謙信、佐々成政に属したようである。
 天正13年(1585)8月、成政が豊臣秀吉に降伏したときに、狩野氏は城を退去し、飯久保城は廃城になったと推測される。
 狩野氏はその出自や、城退去後の動きについイメージ 2て不明な点が多いが、宝永5年(1708)に江戸で浪人していた子孫が、富山藩に仕官している。
 城の規模は、南北250m、東西400mにおよび、曲輪・土塁・掘などが良好にのこっている。また城下には「鍛冶屋町」の地名がのこり、城下集落の存在が推測される。
 氷見市を代表する城郭のひとつであり、特に主曲輪背後の櫓台をそなえた土塁は、大規模な防御施設として注目される。また、桝形虎口をそなえた馬出曲輪の大手口は、戦国末期に改修されたと考えられ、県内における城郭の変遷を知るうえで、貴重な遺構である。
 平成14年度に行われた発掘調査では、主曲輪から土師器・備前焼・中国製染付・茶臼などが出土している。                                         
    現地案内板より        縄張図は、『越中中世城郭図面集Ⅲ』から借用しています。        
補足
 狩野氏は、伊豆の狩野氏の一族で鎌倉時代中頃(13世紀半ば)以降、加賀国江沼郡福田庄地頭識を所持し、徐々に勢力を拡大して狩野一党として室町期に室町幕府奉公衆にもなる江沼郡最大の武士団に成長します。しかし、15世紀後半なると、在地支配を強める一向一揆とそれを打倒しようとする守護勢力の抗争で長享2年(1488年)守護富樫政親が敗死し、狩野氏も加賀国から逃れ氷見に落ち延びてきたのではないかと思われます。
 「桝形虎口をそなえた馬出曲輪」について、佐伯氏は、発掘調査でC郭と切岸の間には空堀が検出されないことから「前面に空堀が存在しないということは、馬出曲輪には成りえない。馬出曲輪の性格を兼ね備えた内枡形虎口と評価すべきであろう。」としています。
 「大手口は、戦国末期に改修された」とあり、改修主体についてはかかれていません。桝形虎口の存在から上杉氏か佐々氏辺りが改修したのではないかという見方がありますが、佐伯氏は、南側の畝状竪堀群が、櫛歯状にならず間隔が広いことから「上杉氏系ではなく、狩野氏独時の畝状空堀群」とし、虎口も狩野氏が独自に構築したものとしています。
イメージ 3 登城口の八幡神社です。八幡神イメージ 4社は鳥居の先の階段を上がった所にあります。てっきり、城へは神社の社の辺からと思いこんで階段を登ってしまいましたが、階段を登らずに奥に進みます。
イメージ 5
                                         

  5分もかからずに枡形虎口が見えてきます。虎口左手にC郭があり、手前にもいくばくかの曲輪があるようですが、はっきりしません。イメージ 6




イメージ 7





まことに持ってきれいに残る枡形虎口です。まぁ〜、虎口好きにとっても至福の時間でしたね。
 虎口内に入ると土塁囲みの平地で、左手奥の両竪堀によって主郭方面とは遮断されています。
 2折・1空間の虎口ですが、イメージ 8土塁が大きくせり出しているため、七尾城主郭虎口のようなすっきりした虎口郭にはなっていません。また、馬出としても中半端な感じもします。イメージ 9


イメージ 11 桝形虎口の空間を仕切る竪堀のある場所ですが、藪に覆われて、辛うじて表示板でわかります。『氷見の山城』によれば、堀切巾3.8m、土橋幅4mのようです。 イメージ 10





 主郭(A郭)下の段にある涌水池。虎口空間から入った所にある比較的広い郭で、水場もあることから、居住施設があったのではないかと思われます。イメージ 12


 かなり広めの主郭です。(東西35m、南北10〜15m)南の塁線土塁は、長さ50m、高さは最大で6mもありす。イメージ 13








 主郭東南端にある6m四方ほどの物見台(櫓台)。イメージ 14



 物見台南下の堀切2で、堀底から10m以上あり階段があっても降りるのになかなかきつかったです。イメージ 15







 東の尾根を守るB郭です。

主郭も広く、背後の防備も固く、前面を枡形虎口で固める城です。狩野氏が独自の築地技術に優れた武家という片鱗をうかがわせる城のようです。

参考文献
『氷見の山城』 氷見市教育委員会
『越中中世城郭図面集Ⅲ』 佐伯哲也著





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越中亀山城

 亀山城は、砺波市増山にある比高40mほどの山城です。増山城北西の法花坊谷(ほけぼうだに)を隔てた独立丘陵上にあります。イメージ 1                   訪城日:2015.10.19  晴れ                                                                  城址へは、増山城登城口の和田川ダムを目指し、その近くから増山城を周遊する林道を少し行くと登城口につきます。また、山城大手口からも林道に沿えば行けます。車は、登城口近くに路駐スペースに停められます。
イメージ 3イメージ 2
 林道沿いの亀山・増山城登城口
           
    亀山城登城口




イメージ 4 当城の築城時期や築城主体については定かではありません。砺波市教委の『増山城跡総合調査報告書』では、貞治2年(1363)6月付二宮円阿軍忠状に出てくる「和田城」がその原型だったとしているようです。
 一方、佐伯氏は、主郭に至る計画的な通路や明確な虎口の存在などから当城の築城時期を天正前期と考えられ、築城主体を当時の状況からすると上杉氏の可能性が高いとしています。
イメージ 5 登城口から遊歩道を少し進むと、城址西端の堀切が見えてきます。いつもこのくイメージ 6らい簡単に行けるといいのですがね。
          
堀切西側の平坦面
イメージ 7



 
 西側の堀切。この西側に堀切や平坦面がありますが、実質的にはこの堀切から東が城域になると思います。上巾13mあり、この尾根を完全に遮断しています。イメージ 8





 遊歩道は尾根の壁を登り3郭から行くようですが、堀切で尾根が遮断されていますから、城内へは3郭南下の窪地を登るしかないと思います。
(推定城道は、佐伯氏の指摘を参考にしています)イメージ 9

      
 上の場所を4郭から見たものです。イメージ 10








 4郭から3郭方面を撮ったものです。ここから3郭へ進み、3郭北端を進む道も考えられます。イメージ 11

 4郭から北側を登り2郭へ向かいます。
イメージ 12








 竪堀を登り切ると2郭へ着きます。 イメージ 13

 2郭で、7×23mほどの広さがあります。城道が集まる郭で、大手筋の防御の中核をなす郭だと考えられます。イメージ 14







 2郭から3郭北側を登ってくる城道の関門地点と思われます。少し高めの地点を設け城道を狭めています。木戸と防御施設(櫓台)があったのでしょう。イメージ 15
 2郭から北側を回り込んで主郭西側から虎口に入ったようです。イメージ 16







 主郭で、中央部に深さ50cm程の浅い堀で区画されています。佐伯氏は、かってあった神社の遺構とも考えられ、本来は堀がなくつながった平坦面だったのではないかとしています。
 背後は、孫次山砦があるためか堀切などは見当たりません。
 
 



 増山城に比べれは、はるかに規模の小さい亀山城ですが、山城としては標準的な規模で、よく考えられた城道があり、その城道に常に上部の郭からの攻撃ができる仕組みは、とても巧みなものといえるようです。増山城にどうしても目が行ってしまいますが、意外によい城址といえます。

参考文献
『越中中世城郭図面集 Ⅲ』 佐伯哲也著
         

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増山城ーその肆−

 増山城のⅣになります。すこ〜し長くなってしまっていますが、お付き合いのほどお願いします。二ノ丸北側の安室屋敷・三ノ丸の遺構紹介になります。
 イメージ 2二ノ丸北側の安室屋敷・三ノ丸には北側の亀山城辺りから御所山屋敷を経て二ノ丸に向かう登城ルートがあったと考えられます。このルートは、大手の七曲ルート以前の大手筋の可能性もあるようです。イメージ 1








二ノ丸北下から安室屋敷へ向かいます。右手に二ノ丸が見えますがえいきさんと比べて切岸の高さが見れると思いますが、けっこな高さです。イメージ 3
 
 安室屋敷と二ノ丸の間の空堀です。この空堀、上巾17〜8m、安室屋敷側の切岸3.5mもある大規模なものです。二ノ丸の鐘楼堂まではゆうに10mはあります。北ルートは、このような堀底道で、常に上部からの横矢がかかり、その中でも最難関の場所だったと思います。イメージ 5
 安室屋敷は、隠居郭のようです。35×72mほどの広さで、
北側から南側にかけて土塁が残り、南東の土塁は櫓台と考えられ、東下の北ルートに備えています。
イメージ 4
カモシカがいましたね。前回の訪城でも主郭で見ました。
イメージ 6






イメージ 7 
 北から来た北ルートが馬洗池にぶつかり西に直角に曲がる場所です。三方からイメージ 8横矢がかかり、前に馬洗池があり逃げ場は全くないいやらし場所です。


イメージ 9

安室屋敷と空堀を隔てて東側にある三ノ丸です。「オオヤシキ」とも呼ばれていたようで、64×70m
と広い郭です。別名の通りに屋敷地だったのでしょう。イメージ 10







 安室屋敷と三ノ丸の間の堀切は、安室屋敷北側下から馬洗池を経て無常東下まで続く長さ約280m、切岸の高さ8〜13mにもなる大堀切です。まさに見上げるような切りだった壁が続いています。左図の番号の箇所を下に載せます。



イメージ 11イメージ 12










イメージ 13イメージ 14










イメージ 15 何が何やらわかりませんが、谷間沿いを登り切った位置にあり、谷間方面を開け三方を壁に囲まれた枡形空間のようです。佐伯氏は、「中世には御池谷から登ってくる道が存在していた可能性」があるのではないかとしています。イメージ 16






 大曲登城口の橋から対岸の城下方向を撮ったものです。ダムの造成で左側(東側)は水没したようです。イメージ 17


 城下跡に残る土塁です。堀を伴う長さ約80m、最大幅10m。この右手(西側)に堀があり、巾10m、深さ2mの規模のようです。
 土塁の左手に「下町」、右手(東側)に「寺土居町」があった。
イメージ 18



 土塁の説明板にあった航空写真です。

 大規模な城址で、見どころもとても多く、あれもこれもとなって、つい長々となってしまいました。
 ここまで、お読みくださった方、ありがとうございます。
 




参考文献
『越中中世城郭図面集 Ⅲ』 佐伯哲也著


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