古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

陸奥国(青森県)

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陸奥・新田城(にいだ)

イメージ 1新田城は、八戸市新井田にあります。城址へは、新井田小学校を目標にしていけば着きます。駐車場は、神社境内の社務所横にあります。
 本城は、新井田川の右岸、標高38mの要害の地にある。
 建武の新政にあたり、陸奥国司畠山顕家の国代南部師行が、糠部郡を中心に北奥の地を鎮めるため、建武元年(1334)根城を築いた。その後間もないころに、その孫政持が築いたのがこれである。一説にはこの北方約500mの古館に入り、のちに当城に移ったともいう。子々孫々、新田(にいだ)d氏を名乗り、南部家の重臣として活躍した。
 三戸の南部の信直が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、本領安堵後は、根城もその支配下に入り、寛永4年(1627)22代直義の時伊達藩との国境を守るため、遠野に移り、新田氏12代義実(よしざね)もこれに随行した。
 のち八戸藩6代信依の明和3年(1766)隠居信興のために信御殿をここに営んだ。
 城郭は、本丸と外館(とだて)の二つの郭からなる。本丸は、東西150m、南北130mでほぼ方形を呈する。本丸と外館との間の堀は埋め立てられ、一部しか見られない。本丸の北側から西、南側にかけて帯郭と思われる施設が見られるが、これも堀であったかもしれない。  八戸市教育委員会
以上の縄張図・文章は、現地説明板から記載したものです。
イメージ 2 現在、主郭には、八幡宮が祀られ、二郭は新井田小学校の敷地になっています。城碑が、神社の鳥居前にあります。左手奥に見えるのが土塁かもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3 主郭西端にある八幡宮です。根城南部氏にかかわる神社のようで、南部氏の家紋の「向かい鶴紋」や「割菱紋」が見られました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4 主郭西側(神社の背後)下の平場で、現地説明板にある帯郭と思われます。主郭から2m弱下がっていまして、削平もなされています。その下は急斜面の切岸で高さも10mはあろうもので、どちらかというと帯郭でよさそうです。

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根城―曲輪を並べる―

根城の概念図です。現在残る遺構が見られる所は、濃いピンク色の所です。西端に八戸市立博物館があり、ここに車を停めて見学できます。イメージ 19
 根城は、平城で南北400m×東西450mほどの広さがあり、8つのかなり広めの郭で構成されており、広い郭を並べる(群郭式)という北奥城郭の特徴がよくあらわされている城址といえるようです。ただ、この並べ方にも形があるようで、根城は扇の要に中心となる郭(本丸)を置き、放射状に他の郭を配置しています。この構造が、三戸南部氏の聖寿寺館にもいえるようで、南部氏の本城的な城館としてあったのではないかと考えられているようです。
 
 発掘調査から分かったことは、中館が重臣クラスの屋敷地跡で岡前館と横構地区が家臣団屋敷地跡のようで、本丸には南部氏が入封する前の領主工藤氏のものと推定される遺構があり、天正19・20年頃に破却された遺構も出てきています。破却後も使われていたようですが、城の体をなしていないようです。廃城は、寛永4年に南部宗家に命じられて根城南部直義が遠野への村替えとなっと時と思われます。
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城址への入口にある、城門です。これは、旧八戸城東門を移築したものですが、伝承によるともともと根城にあったものを八戸城に移したといわれています。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7城門を入ってすく左側にある薬研堀です。この堀の左手が東善寺館です。右手に博物館が建っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9中館手前の郭(奥に中館)方向を見ています。この箇所は、堀を埋めて通路にしたところです。説明板の左右に通路があったようです。
 
 
 
 
 
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中館東側の堀です。ここも薬研堀で、左手の中館が高くなっているのが分かります。
中館に渡る土橋ですが、当時はイメージ 10なかったようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11中館から本丸方向を見たところです。ここもかなりの広さでね芝生があってとてもきれいでした。この中館という名称からしますと、本丸が「実城」、中館が「中城」(陸奥・出羽では城を館といっています)でそれ以外の郭が「外城」という中世のお城の構造がここ北奥でも云えるのではないかと思ったりです。
 
 
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イメージ 1中館から本丸に渡る橋と本丸虎口です。橋桁の穴も見つかっていますので、橋が書かっていたのは確かなようです。橋を渡ると、二俣になり、左手が大手の入口で、右手側は馬屋へも直接行くようになっていたので、通用口として使われたのでしょうかね。柵跡の穴も見つかっていますので、周囲をさくで囲っていたようです。
 
イメージ 3 中館にある本丸内部の復元状況を表した模型ですかなり精密にできていまして、本丸内部にの様子がこれでよくわかります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4  本丸内部には、主殿、常御殿、奥御殿の名称つけた三棟の御殿が見せれるのが通常のようです。ここ根城にもその三御殿があり、これは、主殿を復元したイメージ 5ものです。殿様用の雪隠ですね。おまるだったようです。ここまで展示するのは珍しいです。
 
 
 
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二俣に分かれる虎口を本丸内から見た処         虎口北の門をはいると中馬屋があります。
                                  中馬屋は、来客の馬をつないでおく馬屋
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鍛冶工房で、地下90cmの竪穴式です。              納屋で、こちらも竪穴式です。
こんな感じで、復元家屋が建っています。内部もかなり手の込んだ展示の仕方をしています。
 イメージ 17イメージ 18
本丸の西端中央の裏門。搦め手門と思いますが、門を出ると西ノ沢の堀に階段で下りたようです。職人や中・下級武士が使っていたと考えられているようです。
 
こんな感じで、かなりよく整備され説明板も分かりやすく書かれています。生後公開されている城址としては第一級と思います。場所が八戸と大変遠いところ(関東から見てですが)にありますが、ぜひ訪城する価値のある城跡と思いました。
 
参考文献
「中世糠部の世界と南部氏」 「根城」(八戸市博物館刊) 「城破りの考古学」

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根城ー南部氏って?ー

 イメージ 2根城は、八戸市根城にあり、南側の段丘が穏やかに馬淵川右岸に向かって下降する先端部の標高20mほどの所にある平城です。南部師行が建武元年に築城したとされています。その後、師行の子孫は、八戸氏(一般的には根城南部氏)を称し、寛永4年(1627)に遠野に移されるまで、根城を本拠に300年余にわたり三八・上北地方を領有してきました。
 さて、この南部氏ですが、どうもよくわからんのです。江戸時代の盛岡藩南部氏は、三戸南部氏の系統で、一応南部氏の嫡流となっています。ですが、自らの正当性を主張するためにかなりの創作がねつ造されている可能性があるようですね。
 南部氏は、甲斐源氏加賀美遠光の子光行を祖とし、甲斐国南部郷に拠っていたが、奥州藤原氏攻めの軍功によって陸奥国糠部五郡を得て、息子たちに一戸・四戸・七戸・九戸などを分与し、三戸南部氏の基礎が固められたとしています。そして、甲斐国南部郷に残っていた南部庶流波木井氏は、北畠顕家が陸奥将軍府の樹立を目指して陸奥に移った時に波木井南部師行がこれに従って陸奥に入り、糠部郡奉行として目覚ましい活躍をし、師行戦死(延元3年/建武5年(1338年))のあと弟イメージ 1政長が北奥南朝勢力の中心として活躍し、根城南部氏の基礎を固めた。
 大筋では、南部氏が、鎌倉期から糠部を領有し、糠部各地の一族は三戸南部氏の庶流であるということのようです。
 この三戸南部氏=盛岡藩南部氏の主張には無理があるようで、鎌倉末期における糠部の領主としては、一戸は横溝五郎入道・工藤四郎左衛門入道・浅野太郎・ 横溝六朗三郎入道浄円、三戸は会田四郎三郎・大瀬二郎・横溝新五郎入道、五戸は三浦介時継、七戸は工藤右近将監、八戸は工藤三郎兵衛尉がいたことが確認できるようで、南部氏が鎌倉期から糠部を領有していたとは考えにくいです。
 そうしますと、妥当なお話としては、南部師行の陸奥下向時にかなりの南部一族がいっしょに行ったというのが一番つじつまが合う感じです。根城南部氏の云われは、かなりの信憑性がありますが、三戸南部氏の動向は14世紀後半に到るまで定かではないようです。南北朝の動乱期に一族のものが分流してい達のが実態だったのではないでしょうか。ですので、どうも、南部氏の嫡流と呼べる確固たる権力を有する家がないようで、同族連合で対外的には共同で事にあたるが、一族間の内紛が絶えなかったようです。その最後が、九戸の乱のようです。中世南部氏に関する事実の最大公約数を市村高男氏が書かれていますので載せておきます。(『中世糠部の世界と南部氏』)
①南部氏の系統は八戸南部氏と三戸南部氏とに大別されること
②八戸南部氏の糠部への本格的な進出時期は南北朝初期まで下がること
③当初、糠部で圧倒的な勢力を誇ったのは南朝方の信任を得た八戸南部氏の系統であったこと
④三戸南部氏は南北朝後半期に台頭し、室町期に八戸南部氏に対する優位を固めたこと
⑤一見平和的な当主交代の背後に権力闘争が隠蔽されている可能性が高いこと
 
参考文献             参考HP
『中世糠部の世界と南部氏』  武家家伝 南部氏  

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