古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

三河国

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古宮城ーその弐ー

 古宮城の主要部の紹介をします。説明板(その壱に掲載しています)にイメージ 1は、当城が「主要部が東西に分かれた一城別郭式」とありますが、果たしてそうでしょうか。それについては、かなり以前から千田氏が「曲輪5・6が主郭群から突出し、馬出的機能を果たしていた」としていて、さらに近年では佐伯氏が5・6郭を「武田氏城郭でよく見られる丸馬出の性格を兼ね備えている」としています。わたしも西曲輪は、かなり防御・攻撃の両面を兼ね備えた堅固な造りではないかと思います。
 
※縄張り図は、千田嘉博図『中世城郭事典Ⅱ』から借用し、説明のため加筆しています。イメージ 2
 6郭を南東虎口Dあたりから見たものです。南北両端に虎口を設け背後に堀で、馬出といえる構造です。イメージ 3
 5郭を南東端から見たものです。6郭とは高1.5mほどの仕切り土塁で区画されています。約25×20mの広さで、西曲輪の防御の中心的な郭だと思われます。
イメージ 4
 5郭南西端の土塁上から見える虎口Aです。大手虎口が丸見えで、更にかなり高い位置あることから三方の横堀への監視もできるという巧妙な造りです。
イメージ 5
 虎口Dを南から見てたところです。6郭から出ると東西の堀で狭められた土橋を渡り南の帯郭に進みます。大手口を攻める敵への背後からの攻撃拠点だったのでしょう。イメージ 7
  西曲輪から主郭のある東曲輪への唯一の通路である土橋です。南北に堀(竪堀)を設けて通路を狭めています。さらに主郭部の1郭からの横矢が効くようになっています。
イメージ 6
 土橋を渡ると左手に主郭大手の虎口Eがあります。武田氏がよく用いた両袖枡形虎口です。高さ・巾とも4mの巨大な土塁で虎口空間(18×8m)を囲み、通路より高い位置に設けて通路より虎口や主郭内部を見通せなくしています。イメージ 8
 主郭に入る所も盛り上げて入りづらしています。実に豪快にして繊細な造りです。
 
 
 
 
 
イメージ 9
 主郭は仕切り土塁で2郭と3郭に区分けされています。2郭は西曲輪に面していることや櫓台(1郭)があることからすると、防御空間といえます。3郭は、居住空間でその外側に広がる段郭も小屋掛けに最適で武田氏の進攻時の拠点にふさわしい規模と思えました。
イメージ 10 虎口Fで、東下への連絡虎口だったのでしょう。
 
 
 古宮城が、馬場美濃守信春の縄張りによる武田氏城郭というのが一般的な理解のようですが、佐伯氏はそれについて疑問を呈しておられます。どうもここでも「杉山城問題」が起こっているのでしょうか。
当城の特徴的な遺構を上げると以下の3点です。
①両袖枡形虎口(虎口E)
②丸馬出(5・6郭)
③横堀で取り囲む
この3点を当地にかかわる勢力から考えると
①両袖枡形虎口(虎口E)  武田
②丸馬出(5・6郭)      武田 徳川
③横堀で取り囲む      徳川
になります。ですので、徳川氏がどこかに手を入れた可能性もないとは言い切れないのかもしれません。
 また、近年の諏訪原城の発掘調査から巨大馬出が徳川氏の改修によるものではないかということが言われますので、天正3年以降に徳川氏による改修も考えられかもしれません。
 
参考文献
『中世城郭事典 Ⅱ』 古宮城担当 千田嘉博
『愛知の山城ベスト50を歩く』 古宮城担当 佐伯哲也
 

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古宮城ーその壱ー

 古宮城は、新城市作手町清岳字宮山にある比高25mの平山城です。今回で2回目の訪城になりますが、12月に訪れ見やすくなっていることもあり遺構を十分に見ることができました。また、以前の訪れた際の遺構の理解の間違いがわかり、改めて当城のすごさがわかり再訪のかいがありました。
                                      訪城日:2014.12.6  曇りのち小雪イメージ 1
 城址へは、東名豊川ICから国151号を10km程北上し、新城市街の杉山北信号で左折して国301号に入り道の駅つくで手作り村を目指します。そこから約1km先の交差点を右折すると、イメージ 2すぐに白鳥神社があり、その裏手が城址で、鳥居の先に空きスペースがあり駐車できます。
イメージ 3 神社本殿右手の登城口。
 
 
 
 
 
 当城址は甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将・馬場美濃守信房に命じ元亀2年(1571)に築城したと伝わる。城域は南北200m、東西250mの独立した小山全体からなっている。
 当時は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞之神城を通じ、主イメージ 4要部が東西に分かれた一城別郭式の要害堅固な城であった。北側から南側にかけて中央部に全長140mの豪壮な竪堀があり、東城と西城に分離している。この竪堀の北方下端には井戸跡と、三方を高さ1.5mの土塁で囲んだ約2.5アールの溜池がある。
 西城本曲輪は約4アールで、その東側土塁には左右2ヶ所の虎口を設けているのが特徴である。また、西城北側には5重の堀を擁し、西方からの攻撃に備えている。
 東城は頂部において幅約4mの通路で西城と繋がり、約2.8アールの本曲輪と並んで二の曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる。
 東側下端は長さ150m、最大幅30mの馬場を備えており、県内唯一の甲州流築城術といわれる。
なお、要害を誇ったこの城も天正元年(1577)奥平・徳川連合軍によって落城した。
                                       新城市教育委員会  現地案内板より
当城が元亀2年に築城されたというのは、元亀2年に武田信玄の三河侵攻で足助から野田にかけての奥三河地域を勢力下におかれたことから来ていると思われます。しかし、最新の研究では、それは天正3年の勝頼による三河侵攻(設楽原の戦いに至る)時のことで、元亀2年には武田信玄の三河侵攻はなかったとされる説が有力になっています。信玄が三河侵攻をしたのは、元亀3年でその時に山家三方衆(奥平・田峰菅沼・長篠菅沼)が武田氏に従属したされます。従って、作手の地に武田氏が築城するとすれば奥平氏が従属した元亀3年7月以降となります。『当代記』の元亀4年に「同四月、信州通皈陣、長篠在陣中、作平へも人數を遣有普請、被入番手」とあります。「作平」がちっとやっかいですが、作手とすれば元亀4年に武田が作手に新たな城を築いたといえると思います。それ以前から作手には奥平氏が作手城(亀山城)に居ましたから、作手にそれ以外の城からしますと古宮か賽之神がそれに該当するといえるでしょう。イメージ 5
 元亀4年4月の信玄死去後、徳川勢の反撃があり、奥三河の地も安泰ではなく、7月に長篠城が徳川勢に包囲され(9月に開城)、その混乱状態の中で8月山家三方衆の一角奥平定能・信昌父子が徳川氏に従属します。天正3年の設楽ヶ原の戦いまでは当地は武田氏が支配しており、番衆が派遣され三河侵攻の際では拠点として使われ続けていたようです。
※縄張り図は、千田嘉博図『中世城郭事典Ⅱ』から借用し、説明のため加筆しています。
 まずは、大竪堀の西側部分(西曲輪とします)の虎口Cまでの大手道です。
イメージ 6
 当城は、西側を除く三方が沼地のため、街道につながる大手は西側となり、虎口Aが大手虎口となります。平の坂虎口のようですが、5郭からの横矢が厳しいです。イメージ 7
 虎口を入ると5郭西下の土塁上を通って虎口Bへ向かいます。この土塁通路は約100mあり、敵は丸裸の状態で横矢をいかけられることになり、それを避けて堀底を着ても行き止りで袋小路となります。土塁上から5郭の城壁を見上げますとぞっとしますね。イメージ 8
 虎口B手前で、堀に折れを入れ9郭を張り出しています。これは、虎口受けとイメージ 9共に8・9からの横矢を十分にきかせるためでもあるようです。
 
 
 
 
 
イメージ 10
 虎口Bで、桝形状の2折れで虎口を入った9郭は勢い余ればそのまま長大竪堀に落ちてしまうほど狭くなっています。まことに凝った作りで驚きます。
 イメージ 11
  8の虎口Cです。桝形虎口になっています。9→8の通路も主郭1と2からの横矢が効くようになっています。
 
 
当城の防御の要である西曲輪で重要な役割を担っていたのが幾重に掘られた横堀です。イメージ 13イメージ 12
📷1
下から二段目の横堀です。北に進んでも行き止りになり、斜め上からの横矢が十二分に効くようになっています。イメージ 14
📷2
土塁通路からの10郭下の横堀とその外側の横堀で、横矢の架かり具合が見れるかと思います。
 
イメージ 15
📷3
9郭北端、堀切手前からの西側の横堀です。左手の堀底道が見えますが、これは右手の横堀内にある郭からの連絡道なのでしょう。イメージ 16
 📷4
9郭北端の堀切と土塁囲みの平場ですが、ちっとわかりにくいでかね。
 
 5・6郭を取り囲む堀も横堀ですから、西曲輪には3〜4重の横堀が設けられ、そのどれもが行き止りになっていますから、侵入者は迷路のような横堀の中で右往左往して討取られていく仕組みのようです。実に巧妙な縄張りといえるようです。
 
 
参考文献
『中世城郭事典 Ⅱ』 古宮城担当 千田嘉博
『愛知の山城ベスト50を歩く』 古宮城担当 佐伯哲也
柴 裕之著 『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』
武田氏研究会編 『武田氏年表』

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塞之神城

 塞之神城は、別名本城山砦とも呼ばれ、新城市(旧作手村)作手清武字本城にある比高80mの山城です。東側下300mにある古宮城を見下ろす位置にあることから、古宮城となんらかの関係が推測される城跡です。                             訪城日:2014.12.6  曇りのち小雪
イメージ 1 城址へは、東名豊川ICから国151号を10km程北上し、新城市街の杉山北信号で左折して国301号に入り道の駅つくで手作り村を目指します。そこから約1km先の交差点手前で左折して少し行きます城址案内標識があります。登城口です。車は、近くに路駐となります。
 ※文殊山城(車で行けます)から尾根道を500mほど歩いても行けます。イメージ 2
 登城口
 
 塞之神城は、来歴の不明な城の1つである。 伝イメージ 8説も含め、古くは元亀年間(1570〜73) 武田氏によって、奥平氏との和睦の際、 合議により築かれたとも言われ、また、 奥平氏が作手に来往する以前の米福長者 (三河三大長者の1人で作手に在住)時代に 存在したとの推定もされている。 いずれにせよ二時期にわたる構築が指摘されており、 主郭とその東西の虎口の部分、二の曲輪と堀切を含むその付属部分と普請の程度に明らかな差異が見られる。       作手村 
イメージ 3 登城口から10〜15分ほどの堀切アです。ここが城址東端で、城域に入ります。イメージ 4
 ここまでに案内板が所々にあり、わかりやすく助かります。
 
 
 
 
イメージ 5
 
 現在の登城路は、2・3郭の北側を通って虎口Aに至りますが、本来は2・3郭を通って行ったと思われます。このルートが大手なのではないかと思うのですがね。
イメージ 6
 
イメージ 10城道が回り込むように虎口A(→)に至ります。
 
 
 
 
イメージ 7
 主郭は、いびつな形で広さ40×25mほどでです。虎口Aの辺りをのぞいて高2mほどの土塁をめぐらしています。イメージ 9
 虎口Bで、城址西側への出入り口イメージ 11になります。
主郭内からはこんな感じです。→
 
 
 
 
イメージ 12
 
 
 虎口Bを出ると土塁で囲みの4郭です。イメージ 13上部の主郭からは丸見えの郭です。
 
 
 
 
 
イメージ 14 城址の西端の5郭です。比較的広い郭で、4郭からの通路の北側にも平場が見られ事からすると、小屋掛けに使われたのでしょうか。外側に2条の堀切があります。イメージ 15
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16 2郭で、三方を土塁で囲み東に3郭に連絡する虎口Dがあります。
 
イメージ 17
 
 
 
  3郭で、土塁は設けられていません。このことからすると、堀切アからくる城道の導入路を兼ねた平場だったのか。
 
 塞之神城は、規模はさほどではありませんがコンパクトにまとまった山城いえるようです。古宮城の見下ろす背後の山中にあることからして、武田の改修の可能性が高い感じです。古宮城に行かれた際は、是非当城へも足を運んでください。
 
参考文献
『愛知の山城 ベスト50を歩く』
 
 
 
 
 
 
 
 

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小渡(おど)城

 小渡城は、豊田市(旧旭町)小渡町寺下・藪下にある比高70mの山城です。矢作川と介木(けんぎ)川の合流地点にあります。この小渡町は、美濃街道の宿場町、矢作川の水運の湊として栄えたところです。今回の奥三河訪城の宿泊地に選びましたが、後から当城があることを知り訪れました。
                                         訪城日:2014.12.7  晴れ
 イメージ 2城址へは、足助方面から国153号・県道19号で小渡地区に入り、小渡信号を右折して少し先の増福寺を目指します。お寺の本堂左手に登城口があります。お寺の駐車場をお借りできるかと思いますが、風鈴寺として有名ですから行楽時はちっと難しいかもしれません。
イメージ 1
  小渡城は標高240m、比高60mの丘陵に位置し、矢作川の岸壁を背にする要害に築かれた山城である。イメージ 14
 『東加茂群誌』では小渡城として記載されているが、城主は不詳とされている。豊田市の『和徳寺文書』の今川義元安堵状に「鱸兵庫助小渡依致取出為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣〔中略〕阿摺衆馳合遂一戦」とあり、今川方の鱸氏が美濃の岩村衆と広瀬氏(豊田市)と協力して1556年(弘治2年)に小渡城を普請。厳重な防備の山城となっている。
畝状空堀群はこの地域だけで、非常に貴重である。戦国期に改修されたと考えられる。               平成25年度わくわく事業小渡山里愛護会
 捕捉しますと、戦国期に当地は、足助荘で足助鈴木氏が領していたようですが、対岸の矢作川右岸一帯(一色、上切、上中、下中、下切、島崎)を恵那明智氏に嫁ぐ娘の化粧料と割き与えたと伝えられ美濃国恵那郡に編入され、江戸期は旗本明智遠山氏の領知です。このことからしますと、岩村衆が築城に関与し、三河には珍しい畝状空堀群があることも納得がいきます。
イメージ 3
 お寺の本堂左手に登城口があり、略図もあります。(城址の説明板は、虎口の所にあります)イメージ 4
  登城口から10分もしないで土塁遺構のある平場に着きます。主要部から西側の細尾根の先端にある平場で登城路の監視の出丸だったのでしょうか。イメージ 5
 細尾根から見た西出丸で、当城ではっきりした土塁(高1.5m)はここだけです。イメージ 7
  西出丸から主要部をつなぐ細尾根で、約100mほどあり、人が1〜2人があるける幅しかありません。イメージ 6
 細尾根が主要部西端に届くところで、虎口とされるようです。主郭西側の段郭下にあり、虎口空間の平場が見られます。 イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 主郭西下の2段の段郭で、下の段郭は、虎口を監視していたのでしょう。イメージ 9
 主郭で、25×12〜20mほどの不等辺の形。削平は甘い感じで、土塁の痕跡は見られません。イメージ 10
 主郭と副郭との間の堀切アです。深さ5mほどで上巾6〜7mほどですか。イメージ 11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
副郭で、不整形で隅にご夫婦の石像があり、地主さんのご先祖さんなのでしょうかね。イメージ 12
 
 当城最大の見どころの畝状空堀群で、堀切アから見たところです。空堀(竪堀)は5本あり、横堀組み合わせになっています。両端の2本は堀切の続きとも取れます。
 この畝状空堀群のほぼ真ん中に巾広の土塁のような土盛が見られ、一種の防御拠点だったのではないかと…。イメージ 13
 
 
 堀切ウの辺りからの畝状空堀群です。土盛の北側に2本、南側に3本あります。あまり整然とした空堀(竪堀)ではありません。この畝状空堀群が、文書にある岩村衆の関与によるものではないかと思われているようです。イメージ 15
 
 
 
 主郭南の堀切ウです。右手の平場は郭なのか後世の植林の際に整地されたものか?です。
 
イメージ 16
 
 
 
 
 
 
 最後に南側矢作川対岸からの城址遠景です。
 
参考文献
『愛知の山城 ベスト50を歩く』

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市場城ーその弐ー

 市場城の続きです。主郭(本丸)から西側の郭群になります。概念図を載せておきます。
イメージ 1
イメージ 2
 主郭を北側から見たものです。かなり広い郭で、南北約100m、東西約25〜30mあります。虎口は2か所あり、西側に開いています。南虎口が大手で、北虎口は搦手のようで、西下の8郭とつながるようです。北から東側の切岸は急斜面で6郭との落差が約20mにも及ぶもので後ろ堅固です。
 西側は、斜面に段郭が取り巻き屋敷地のある平場か設けられています。
 
 
イメージ 3
 右図は、主郭周辺を絵図(『浅野文庫諸国古城之図』)や高田徹氏の解説をもとに想像したものです。主郭は、3区画に分かれていたようで、主郭内の位置や虎口からすると、Aが中核の郭のようです。
 まずは、南虎口から。イメージ 4
主郭南虎口から2郭・3郭方向を見たものです。主郭石垣は新たにつみなおしたもののようです。なお、この右手下の切岸に残存石垣が少し見られます。イメージ 5 
 
 想像図からしますと南虎口は枡形虎口のようです。この位置にあったと思われますが、痕跡は見当たりませんでした。イメージ 6
 南虎口から北方向(A・B)を見たもので、仕切り土塁の痕跡と思われる土留め石が見られます。イメージ 7
  北虎口を遊歩道下の帯郭から見たところです。この帯郭が虎口前の郭と思われ、主郭の城壁に廃城後破壊され虎口の石垣が残されています。登城ルートは赤線のようだったのではないかと思われ、空間なしの枡形虎口と思われます。イメージ 8
  北虎口に残る石垣です。
イメージ 9
 郭西下の帯郭です。北虎口から出た城道は、5郭を経てこの参段のある帯郭を通って下の8郭につながっていたと考えられます。現在は、5郭から北に下がり畝状空堀の所へ出ます。イメージ 10
 5郭から夕ほどを下りますと右手に6郭が見えます。主郭の北側から東にかけて広がり、主郭との城壁は20mほどもあり、そそり立つ感じでした。主要部との関連があまり感じられませんで、天正期に改修された際に放棄された以前の城域だったのではないかと思えますが…どうなんですかね?
イメージ 11
 6郭西側の壁にある畝状空堀群で、これほどきれいに見える竪堀も珍しいです。近くの小渡城にも竪堀群があり、小原鈴木氏がよく用いたもののようです。この畝状空堀群は、近くの外枡形の構築に伴いその役割を否定されたという千田氏の指摘があります。どうも、ここと6郭は、改修時に放置されたのではないかと思えるのですがね。イメージ 12
 
 7郭北側の外枡形虎口を北側から見たところです。畝状空堀方面からだと、上り坂で虎口が見通せない構造で攻め手にとっては厄介な虎口です。イメージ 13
 
 
 
 
 
 
 
 この桝形は、説明板に拠りますと尾根を掘り切った所に後から石垣を築造したと。まことに見事な2折れの枡形で、これほどはっきりとしたものも珍しいです。イメージ 15
 
 虎口南西にある櫓台から見イメージ 14たもので、すっぽりと虎口が見渡せます。ここからの横矢は恐ろしいです。更にここは、5郭からも横矢が架けられます。イメージ 16
 
 7郭で、「さんざ畑」と呼ばれ家老の尾形三左衛門の屋敷地と伝わります。8郭より5mほど高い位置にあります。イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
7郭から見た8郭です。三方を郭群で囲まれ安全な地といえます。広さも35×50mほどあり居館が想定できる地ですが、一段高い7郭が家老屋敷となると疑問が残りますかね。イメージ 18
 8郭背後の段郭群です。7郭と8郭が最適な居住区であることは間違いないので、主郭北虎口からここに至る道は、高田氏が推察するように背後の段郭を通ってきたのではないかと考えられます。イメージ 19
 
 
 
 
 
 8郭の南西の出口ですが、まったくの無防備です。後世破壊されてその痕跡が見えないのかもしれませんが、ちっと解せません。
 
 
 
※高田徹氏が興味深い見解を書かれていますので、後ほど紹介したいと思います。
 
参考文献
『中世城郭事典 Ⅱ』
『愛知の山城ベスト50を歩く
「愛知県中世城館跡調査報告』

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