古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

安房国

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稲村城

 稲村城は、館山市稲字城山にあり、前期里見氏の居城です。城址へは、館山市街より国道128号を東に約4kmほど進み、稲信号を右折してすぐに内房線の踏切を右折します。少し進むと城址への案内表示がありますのでそれに従って行きますと、比較的広い空地がありますので車が止められます。
 里見氏は、天文2〜3年(1533-34)の天文の内乱によって嫡庶が入れ替わっています。この稲村城は、嫡流の居城でした。滅ぼされた前期里見氏の歴史については、後期里見氏によっていがめられているためかあまり詳しくわかっていないようです。
 「近年の研究では、安房里見氏は、足利成氏の弟(定尊)が関東に復帰し雪下殿となったとき、これに従って安房に入った美濃里見氏が、関東の里見氏の名跡を嗣いだ存在であろうとされている。その中興里見氏の初代が里見義実であり、房総半島南端に位置する安房白浜に白浜城をかまえた。ここ外房と内房とを繋ぐ海運の要にあたっており、山内上杉氏が伊豆七島と一体的に支配していた所であった。鎌倉に復帰した足利成氏は、その山内上杉氏の海上支配の一角に楔を打ち込む形で里見氏を配置したのである。」と市村高男氏が『東国の戦国合戦』に書かれています。その後、義実の嫡子義通の時代に安房一国の統一をなし、白浜城からここ稲村城に築いたようです。時期は、永正期(1504-20)の初めにはすでにあったと思われます。
 天文の内乱は、里見氏三代義豊が、伯父の実堯・義堯父子が北条氏綱と結んでのクデーターの動きに先制して、稲村城にて里見実堯と正木美通綱を殺害して、里見氏嫡流の支配の引き締めを図ったのが発端のようです。その後、上総に逃れた義堯が北条氏綱や真里谷武田信隆の支援を受け義豊を安房より退散させた。義豊は、再起を期して安房に攻め込みますが、安房犬掛で討ち死にし里見氏宗家は滅亡します。義堯は、本城を滝田・宮本方面に移したため、当城は廃城になったようです。
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Pの地点からの遠景
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内房線の踏切辺りからの遠景
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東の水往来と呼ばれています。長い切通しで城道と堀切を兼ねていたと思われます。
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「正木様」の社です。このへんも城域であったかは?のようです。
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主郭方面から見た正木様辺りの斜面です。概念図の黄色で塗られた所です。現在は畑になっていますが、
段郭があった感じもしますし、それらしき以降もあるようです。両側を細い尾根に囲まれていることからしますと、居館があったのかもしれません。
 
 
 
 
 
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 主郭を東虎口辺りから撮ったところです。主郭は、40×50mほどの広さがあり、東かイメージ 8ら南にかけて土塁があり、南端は櫓台として使われていたようです。
写真右は、櫓台下の堀切です。
 
 
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 主郭虎口は、東側(写真左)と北側(写真右)にあります。東虎口は、坂を登り右折れしますと写真の窪地に出ます。桝形状虎口といえるようです。北側の虎口は、堀切に出て2郭に繋がりますが、構造からしますと後世の破壊道かもしれません。
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 写真左は、主郭と2郭を遮断する堀切で、写真右は2郭と3郭の堀切で北端に削り残した土橋を設けています。2郭は、削平度が低く自然地形を残しています。
 
説明板や城址への案内板も設けられていて、比較的見学しやすい城址でした。また、戦国前期の拠点城郭のありようが分かる城址でもあります。

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