古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

常陸国

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

田渡城

 田渡城は、常陸太田市田渡町にある比高80mほどの山城です。以前から常陸大宮市の高部館を見に来ませんかと誘われていました。この地域へは、常陸太田城周辺しか訪れてませんでしたので、高部館を見ながら周辺の山城を訪れてみようと思い、選ん城の一つが当城でした。    訪城日:2017.3.14 曇り
イメージ 2城址へは、常陸太田市街の東側通る国349号を北上し、里野宮郵便局の先で右折して、1km先で右折して約700mの田渡町公民館を目指します。登城口はその先約250m先です。登城口辺りには駐車スペースがありませんので、公民館に車を止めて徒歩で行くのがいいと思います。

イメージ 1
登城口は、以前城址標柱が立っていたようですが、見当たりませんでした。用水柵にピンクのテープがあるので、それを見つけてください。イメージ 3

 当城についての定かな史料はなく、伝承として天文年間(1532-55)に内桶弥太郎が田渡城を築城したと伝えられますが、残る遺構は、戦国後期のかなり技巧的な姿を残しています。
 佐竹氏の本城常陸太田城の北東2.5kmにあり、城址西側に棚倉道が通ることから常陸太田城の東側の防御拠点だったと考えられます
 さらに、佐竹氏が戦国後期に南奥に侵攻する際に使われた棚倉道(里美街道)に面することからすると、その時期に南奥侵攻の拠点として整備されたのではないかとも思われる。
イメージ 4


 登城口から民家の庭先のような道を、100m程行くと道が二股に分かれます。左手が3郭へ直登する道で、右手は4郭から3郭に至る道です。大手道は、右手のようですが、とりあえず左手の道へ進みました。イメージ 5







    
 なだらかな斜面を100m程進みます。イメージ 6



 山腹に設けられた横堀Bが視野に入ります。虎口らしき手前に土橋があり、左右に浅い堀が続いています。イメージ 7






横堀Bは、北から東にかけて主要部を半周しています。堀幅4mほどで深さも0.5mほどのもので今風に言うと塹壕といった感じです。戦国後期に佐竹氏がかなり鉄砲を所有していることからすると、防御用というより鉄砲陣地の堀ということも考えられるのかもしれません。イメージ 8
 横堀Bから少し登ると3郭が見えてきます。途中の斜面は、郭のような平場が何か所か見られますが、郭かどうかは定かではない感じです。3郭の入口が窪んでいますが、あまりにも直登しすぎていることやこの右手により虎口らしき窪地があるので、ここは後世の破壊道と思われます。イメージ 9


  こちらが3郭の虎口と思われる虎口Dです。下ると4郭方面に行けるようです。イメージ 10




 西側から見た3郭で、約40×約25m程の三角形です。東側は、主郭とを隔てる横堀の土塁があります。主郭へは、右側奥の登り土塁上を上り2郭に行くようです。イメージ 12




横堀Aの土塁上からの3郭です

イメージ 11
横堀Aで、左の写真は、主郭南西の折れのところで埋まっているようで浅いですが、右の写真の北側はかなりはっきり残り、主郭側の壁が6mほどあります。











 
イメージ 14
イメージ 13
 3郭から虎口Aへの経路です。左写真の登り土塁上を上り(左右に横堀と竪堀で狭められている)主郭壁沿いに進み、2郭に入り虎口Aに至る。主郭土塁からの横矢がかかる仕組みのようです

イメージ 15













イメージ 16 2郭で、左手下に小郭が付属しています。馬出といえる感じです。

イメージ 17









 虎口Aで、周囲の状況からすると、ここが大手虎口と思われます。イメージ 18
主郭で、約80×50mほどの広さがあり、一部(南東・北西)を除いて高2m程の土塁がある。虎口と考えられる土塁の切れが三か所あるが、虎口地A以外は疑問です。イメージ 19
 高2mの土塁で、高いものは3mあります。


イメージ 20









 虎口Bで、下の竪堀に繋がる感じです。もしかすると材木の運搬口としてあけられたかもしれません。イメージ 21
 
 虎口Cです。虎口を降りていくと、主郭下の横堀の東端に出て、堀切と繋がります。イメージ 22









イメージ 23



 主郭南東下の堀切で、当城唯一の堀切です。



 登城路の二股まで戻り、4郭へ向かいました。

イメージ 24


 4郭へは、なだらかな斜面を少し進みます
 イメージ 25







 4郭手前に虎口らしき箇所みられますが、定かではなく、左折れて主郭方面の斜面に平場かいくつか見えます。ここは、こうも古墳のような感じですイメージ 26

 4郭から主郭方面を見た所です。ちっと疲れてきましたので、この先は登りませんでした。こちらのコースが大手筋の感じです。








 田渡城は、横堀を効果的に使い、虎口にも工夫がみられるかなり技巧的な城と思えます。横堀というと、筑波の多気山城や常陸大宮市の東野城に類似するようです。ただ、多気山城・東野城も当城と同じで、築城主体や時期が定かではありません。強いて言えば、戦国後期に、佐竹氏の関与が推定できるということぐらいですか。

参考文献

『茨城の城郭』 茨城城郭研究会

この記事に

開く コメント(0)

野友城

 野友城は、鉾田市野イメージ 1友にある比高15mほどの丘城です。
  城址へは、袴田市街の西側にあり、県道2号線から西に野友小を目指して進み、野友小手前約250m左手に城址の標柱があります。そイメージ 2こが登城口です
  車は写真手前あたりに留めました。
イメージ 3縄張図は浩一氏作図のもので、説明のため一部加筆しています。
  城歴は、『茨城の城郭』にある余湖氏の記述によりますと、永禄9年(1566)の武田氏と鹿島氏の抗争時に武田氏が鹿島氏の所領に侵攻して築いたものとしています。それは、対岸の当間の津を手に入れんがしたための築城のようです。この争乱後に、当間の津は両氏イメージ 4の半手の地になったようです
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
      北側の県道8号からの遠景です。
 
イメージ 5 駐車地点から斜面沿いに進んで右に進むと、三重空堀が見えてきます。この奥虎口空間になりますか。
イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 三重空堀の一つです。
 
イメージ 7
 
 
 三重空堀の先の虎口空間と思われます。右手はⅠ郭を取り巻く空堀で、右手奥がⅡ郭になります。Ⅱ郭先端(北端)に方形の小空間を張り出している感じてすので、枡形だったかもしれません。
イメージ 8
 
 
 
 
 
 Ⅰ郭の三方(北・西・南)を取り巻くから空堀で、写真の地点で、上巾12.6mありました。高さは7〜8mほどですか。かなりの規模ですね。
イメージ 9
 
 
 
 Ⅱ郭内部ですが、竹藪がひどく奥まで行けませんので、Ⅰ郭に入る土橋まで行ってみました。
イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 Ⅰ郭に入るために土盛りした土橋です。右手がⅠ郭の虎口になりますか?
イメージ 11
 
 
 
 Ⅰ郭内部ですが、ここも竹藪がひどく内部探索はパスしています。
 
 主要郭は、竹藪におおわれていますが、空堀は木場も大きく、しかもしっかりと残っていますので、ここだけを見るだけでも価値がある感じでした。
 
 
参考文献
「茨城の城郭」

この記事に

開く コメント(3)

蕨砦

  蕨砦は、鉾田市借宿にある比高20mほどの砦です。平地のこんもりした丘と言った感じの小山にあります。小規模ですが、意外によく遺構が残っているのに驚きました。      訪城日:2013.3.9 晴れ
イメージ 1 城址へは、鉾田市街地より県道6号を西進しますと、青柳小入口の標識がありますから、そこを右折しとりあえず青柳小を目指します。城址への道筋が説明しにくいので、左図を参考にしてください。駐車は交差点の空きスペースで、そこから右手の森(城址)
イメージ 2
沿いに道なりに行きますと、城址への標識があります。
 
 
 
 
 当砦は、「余湖くんのホームページ」によりますと元亀年間(1570-73)に当間の津の領有をめぐる武田氏と鹿島氏の抗争があった際に、武田氏によって構築された野友城の支城として築かれたものではないかと推察しています。当間の津は、北浦の最北端の津で、応安年間(1368-75)に作成された「海夫注文」によれば鹿島氏庶子宮崎氏の知行分としてあります。一方の武田氏は、南北朝初期に足利尊氏から行方郡小牧郷・倉河郷の使節遵行を命じられた武田高信の系統の可能性が高いようで、北浦町両宿に神明城を築き、天文2年仁木崎城に移ったようで、鳴田津を知行分としています。
  永禄九年(1566)、武田氏が烟田氏(鹿島氏庶家)の所領である新里・当間など三ケ村を侵害し、領有したようです。ここの新里は、当砦の東600mほどにありますから、まさに武田氏の侵攻地に打ち込んだ楔だったのでしょうか。 
イメージ 4概念図ですが、若干方角が怪しいかもしれません。
イメージ 3
 虎口手前の平場です。ここも何らかの形で使われていたものと思われます。
 
 
 
 
イメージ 5
 虎口を下の平場から見た所です。斜面を直に登りますがね当時はどうだったのででしょうか。
 
イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
  虎口を上から見ていますが、ちっと分かりにくいですかね。
イメージ 7
 
 主郭内部を虎口辺りから撮ったものです。高3mほどもある土塁が取り巻いていまして、その外側に立派な堀があり堅固な造りです。
イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 主郭の南から郭2の西にかけて掘られている堀です。上巾7〜8m、深さ5mほどのものです。
イメージ 9
 
 
郭2で、主郭より若干低い位置にあり主郭とは仕切り土塁で区画されています。
イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 
 郭2の北側から主郭と郭2の通路(仕切り土塁の切れ目)を見ています。
イメージ 11
 
 
郭3を北西端が撮ったものです。土塁で囲まれていまして、出入り口がありません。何に使った郭なのかちっと不思議です。虎口へは横矢がこの郭からかけられはしますが。
 
 侵攻地に築いた臨時的な砦といったところですが、意外に堅固な造りで、遺構もしっかり残り分かりやすい城址です。
 
参考HP・参考文献
「余湖くんのホームページ」
「常陸国「海夫注文」再考ノート」(『中世東国の内海世界』所収) 飛田英世 高志書院

この記事に

開く コメント(0)

相賀(おうが)城

 相賀城は、行方市根小屋にある比高30mほどの丘城で、別名を根小屋城とも呼ばれています。北浦につきでた半島状の台地の先端にあり、北浦の水運の湊の一つであった平浜津(行方市白浜)の監視・防御に関わる機能を持っていた城だったと思われる。 訪城日:2013.3.9 晴れ
イメージ 1 城址へは、東関東道潮来ICを出て、県道50号を行方市方向に8kmほど北上し、茂木交差点を右折して県道185号に入り、3km先の矢幡信号を左折して進みますと、左手に竜翔寺がありす。車は、お寺の駐車場を借用させていただきました。駐車場から西に少し進むと鳥居があり、その先の階段を上りますと、郭1につきます。イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 イメージ 10郭4の北端にある説明板にりますと、「相賀城は平安末、逢賀太郎親幹が築いた逢賀城で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになったと伝えられ」「伝承によると、相賀入道の婿の彦四郎は小高氏の軍勢と戦い討死し、また相賀城最後の城主手賀三郎四郎は佐竹氏に攻められ滅亡したと言われています。」
 手賀氏は、常陸大掾氏系の玉造氏初代幹政の次子正家が手賀郷を領したようで、行方市手賀には手賀城かあります。この手賀氏は、応安年間(1368-75)に作成された「海夫注文」に手賀知行分として「ひらはま津」が記されています。「ひらはま津」は、当城の北東近くにあり霞ヶ浦側が行方四頭の惣領家にすでに領有されているために北浦方面に進出した結果だったようです。この辺一帯を勢力下に置いた手賀氏は、行方氏の庶子の中でも行方四頭に次ぐ勢力を張り、その拠点が当城だったのではないかと思われます。天正19年2月に「南方三十三館の仕置き」と呼ばれる佐竹氏による鹿島・行方郡の大掾氏系諸氏が謀殺された中に「アウカ殿兄弟」があり、城もその後佐竹氏によって接収されたようです。廃城は、佐竹氏の秋田移封頃と思われます。
イメージ 3 鳥居から郭1へ行く階段で、比高30mといっても南側は切りだった斜面です。この階段もかっイメージ 4ての城道を拡張したものなのではないかと思われます。途中に手水場がありましたが、井戸だったのでは?と思いますが。
イメージ 5
 
 
 参道の踊り場の左手に郭1の切岸中腹に設けられた横堀が見えます。横堀を見通せなくさせるためかクランクしています。(横矢をかける意図もあるか)
イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 郭1に上がった所からで、奥に八幡神社があります40×30mの広さで、土塁は神社背後にみられ、虎口は北西と南東にあっとみられます。
イメージ 7
 
 
 参道を登りきった左手に窪んだ箇所が見られ、虎口ではないかと推定しました。ただ、下からの道が崩れたのか分かりません。
イメージ 8
 
 
 
 
  横から見た所で、展望台は床が腐っているためか立ち入り禁止になっています。
イメージ 9
 
 
 
 
 堀切1で、幅広のほりきでした。
イメージ 18
 
 
 
 
 
 郭2にで、藪状態でしたが、中心部が長方形の形で窪んでいて、少し変わった郭内部でした。また、虎口の形跡がなく郭1との繋がりが分かりません。
イメージ 15
 
 
 
 郭2の東下の腰郭の連続竪堀です。この腰郭に郭1から木橋がかかっていたのかもしれませんが、定かではないですね。
イメージ 16
 
 
 
 
 
 堀切2で、浅めの幅広の堀切です。ここから北側がの構造がつかみ難いです。
イメージ 17
 
 
 
 
 郭3の手前の小郭です。郭3までに、堀切で区分される小郭か2つあり、土塁は北側に設けられています。ここだけ見れば、郭3を主にした防御の馬出といった感じです。郭1を主郭とすれば土塁は南側に設けると思うのですが、郭3が主郭なのかな〜と思ったりです。ただ、郭3の背後か台地に繋がりますから、主郭にするには・・・で、どちらか主郭なのでしょうかね?
イメージ 19郭3で、40×50mほどの広さがあり、北側(写真奥)に高2m強ほどの土塁が見られイメージ 11ます。虎口は、南の堀切3に面した所にあります。
 
 
 
 
 
イメージ 12 堀切4で、東側に竪堀として落ちています。
イメージ 13
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 14
 郭4で、現在は畑になっています。かなり広大です。説明板は約110mほどにありました。八幡神社入り口の鳥居辺りにあるのが順当だと思うのですが。
 
意外に遺構の残りもよく、城址として楽しめましたが、主郭がどちらの郭かつかみにくかったですね。
 
 
 
参考文献
『茨城のの城郭』  茨城城郭研究会  国書刊行会
「常陸国「海夫注文」再考ノート」(『中世東国の内海世界』所収) 飛田英世 高志書院

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

東野城

 東野城は、常陸大宮市東野にある比高30mほどの丘城です。2011年12月に「Pの、遺跡侵攻記」に紹介された城址です。国道よりほんの250mほどは行った杉山ですが、今まで全く知られていなかった城址のようです。以前からPさんのブログを見ていまして一度行ってみたいと思っていました。今回、知り合いの茨城大院生の方が縄張図を書きに行くということでお誘いを受けましたので、御一緒させていただきました。                       訪城日:2013.3.8 晴れ(花粉飛び散る日でした。)
イメージ 1城址へは、常陸太田市街より国293号を旧緒川村方面に西進し、玉川交差点(国118号と交差する東富交差点から3.8km)先600mの右手に廃ガソリンスタンドがあります。その廃スタンド右手奥の杉山が城址です。車は、廃スタンドにおかせていただき、旧道を東に少し行きますと、石塔が二つありますのでその道を北に進みますと突当りがイメージ 2城址になります。写真奥の林の先です。
 
 
 
イメージ 3 城歴や城主については、まったく不明のようです。ただ、「余湖くんのホームページ」で紹介されている佐竹義篤書状に「烏山の番衆として、初番として野口、東野、高部、小船の者共を、次番として小瀬、檜沢の衆を差し向ける」とあるので、那須氏との抗争の中で当城に在城した者が派遣されようです。佐竹氏の那須勢へ防衛線の一角を担っていた城といえるでしょう
(※佐竹義篤書状を余湖さんは、永禄期のものとしていますが、佐竹義篤は天文14年になくなっていますから、永禄期とするのは違うのではないかと思います。)
 
 
 
 
 
イメージ 4
 虎口Aを下から撮ったものです。虎口は、竪堀状で下の段に虎口受の小郭があります。この郭から竪堀を登り上段の虎口に入り右に折れて横堀へ進むという感じで、変形桝形と言ったところですかな。
 
イメージ 5
 
 
 
 
 
 虎口Aを斜め上から見ています。かなりの急斜面の竪堀状の道の左手上には、土塁で囲まれた平場があります。虎口を守る武者隠だったのではないかと思われます。
イメージ 6
 
 虎口Aから東に続く横堀です。城域の南から東にわたって延びる横堀で右手の城壁は10mほどはあり、堅固な造りです。
 
イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 横堀を日がに進みますと堀底が一段高くし、右下に竪堀をもうけた個所があります。横堀が城道としたらここら辺りに木戸をもうけていたのではないかと思われます。
 
イメージ 8
 郭4を南から撮ったものです。60×30mほどの広さで、副郭的な郭だったのでイメージ 9はないかと思われます。明確な虎口はないのですが、西側中央に窪みが見受けられますので園なのかな〜と思うのですが?ですね。イメージ 10
 郭3(左)と郭4(右)の間の横堀で、郭3がせり出してクランクして、見通せなイメージ 11い造りです。郭4から郭3へは写真の位置の土橋ではないかと思われます。
 
 
 
 
 
イメージ 12
 郭3で、主郭の東側にあって、主郭へはここを通ったものと思われます。どうも虎口郭的で馬出ともいえる感じはします。奥が一段高くなっています。
イメージ 13
 
 
 
 
 
 
 
 
 主郭ですが、藪で周囲を廻るのも大変で内部がどのようになっているのか確認していません。広さは結構あります。
イメージ 14
 郭2です。郭1より5mほど下段にあり土塁は見受けられませんで、南側中央に切り通し状の坂虎口があり、横堀に架かる土場に繋がっています。大手と思われます。
イメージ 15
 
 
 
 
 
 
 
 虎口 Bを郭2から見たものです。
イメージ 16
 
 
 
 虎口Bで、下の平場より土橋を渡って入ります。まことによい状態で残っています。実に見事なものです。
イメージ 17
 
 
 
 
 
 郭1の北側の横堀で、写真右手奥に郭5があります。
 
 これだけの遺構が残る城址が近年まで知られていなかったのが不思議です。見つけられたP殿のご努力に感謝です。
 
参考HP・ブログ
「Pの、遺跡侵攻記」
「余湖くんのホームページ」
「北緯36度付近の中世城郭」
 

この記事に

開く コメント(5)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事