古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

美濃国

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天王山砦

 天王山砦は、恵那市武並町藤にある比高60mの山城です。かなりの山間部ですが、北側直下に木曽川の渡河点があり、それにかかわる城と思われます。イメージ 1     訪城日:2015.4.18  晴れ
 城址へは、中央道恵那ICから県道68号を北上し、笠置橋をを渡り左折して木曽川を左手に見て武並橋を目指します。橋を渡って約800m先で左折して林道に入り、200m先のカープが登城口になります。
イメージ 2
イメージ 3
国道から林道にはいつ地点。
              
登城口で、大きくカーブしますので2台ほど駐車可。


  イメージ 9当砦の築城時期や城主等についての伝承はなく、城歴は不明です。直下に木曽川の渡河点があることから近くの諸城と共に河川監視や防衛する拠点として築城・活用されたものと思われます。縄張りの特徴から武田氏の関与の可能性が指摘されていますが、虎口に石積みがあることからすると織田氏の可能性もありか?
 右図は、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)所収の図面(高田徹氏作図)の一部を拝借し加筆しています。 
 イメージ 5登城口を登りましたが、途中から定かでなくなり、方向は分っていましたのでいつものごとく直登しました。竪堀らしき窪地を登りましたら、横堀Cに到着で、お城の遺構であることが確認できましたので、ほっとしましたね。この最初の遺構を見るのは何とも言えない感覚がありますね。イメージ 4




    城域と思ったら、今いる処を縄張り図を見て確認するのが大切です。どうも、横堀Cの東側の竪堀を登ってきたことがわかりました。イメージ 6


   
 西側に回り込んで、横堀Dを見ました。外側にしっかりとした土塁が設けられ、堀巾もかなりのものです。気が横に倒れているところが仕切り土塁状になっています。イメージ 7




 横堀Dの先(北側)の竪堀です。イメージ 8





   
 横堀D下の堀切Hで、上巾8mほどあります。横堀・竪堀・堀切を設けています。東尾根の遮断が厳重でこちらからの攻撃が気になっていたのでしょうかねイメージ 10
 
 さて、横堀に戻りCからFに向かいました。Fは、虎口と思われます。竪堀で挟まれた斜面が大手筋と思われます。この手の構造はよく山城では見かけます。イメージ 11




            

 F地点です。転がっている石は上段の張り出しの石積みが落ちてきたものと思われます。
イメージ 12
       虎口Fを外側から見たものです。イメージ 13







虎口Fから虎口Aへの経路です。通路を竪堀と張り出しで厳重に防御しているのがわかります。イメージ 14


 虎口Aで、張り出しに石積みが見られます。意外に大きい石が使われています。イメージ 15


 主郭で、約40×30mほどの広さがでほぼ方形です。多少の凹凸は見られますが、ほぼ削平されています。土塁は見られませんイメージ 16で、虎口は二か所(北西端と南西端)あり、南西端の張り出しの切岸に石積みが見られます。イメージ 17

虎口Bを下段から見た所です。

 高田氏の評価として、「当城は、小規模ながら横堀と複数の竪堀を組み合わせ、技巧的な縄張りとなっている。」「横堀に組み合わせた竪堀の形態は、甲斐武田氏城館に類例が見られる。」としています。おおむね納得のいく見解だと思います。ただ、張り出し部分の石積みについては言及されていないのが残念で、武田氏の石積みはあまり見られませんので、その点が疑問点として残ります。

参考文献

『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)

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久須見城

 久須見城は、恵那市長島町久須見にある比高30mほどにある丘城です。長島町は、「ながしま」ではなく「おさしま」と読むようで、地名の読み方は難しいですね。   訪城日:2015.4.18  晴れイメージ 1
 城址へは、中央道恵那ICをイメージ 2降り、県道68号を北上し、約4.5km先の笠置橋を目指します。橋の手前300mで右折し、少し先の中本郷公民館に車をイメージ 3止めました。公民館の裏手の岡が城址です。

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 イメージ 5城歴は、全くの不明のようですが、松尾右京が城址伝えられるようです。(『恵那市史』)ただ、城址から見下ろせるところに、木曽川を渡る「滝坂の渡し」があり、渡し場から大井方面(恵那市)に抜ける旧道が城址東方鞍部を通っていますから、当城がそれにかかわっていたと思われる。
 右図は、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)所収の図面(高田徹氏作図)の一部を拝借し加筆しています。
  公民館隣の民家の脇幹手の小道イメージ 6がと登城口になります。大木の横を通って行きます。比高30mですのでさほどのほどもないのですが、急坂で腰の痛い小生にはちっと堪えましたね。





イメージ 7 ②郭で、主郭北側の帯郭です。東端で堀切Aに面していることから、高田氏は、北側の遮断機能を持たせたものとしています。イメージ 8



 主郭西下の④郭です。主郭イメージ 9は左手一段高い所にありますので、虎口郭とも見れますか。




イメージ 10

 
 主郭で、23×12〜3mほ渡の広さがあります。社は、御嶽神社だったようで、たまたまいられた地元の方によれば、他所に移転してしまっているとのことでした。イメージ 11





 主郭西端で、墓地になっています。この奥に堀切A・③郭と続きます。イメージ 12



イメージ 13  主郭東端から見た、堀切Aと③郭です。③郭は、約15m四方の広さがあり、東端に高約50cmの土塁を設けています。
イメージ 14
 堀切Aで、上巾約10m、深さ2〜3mです。両端は竪堀として落ちていますが、特に北側は丘陵裾まで伸びています。イメージ 15







イメージ 16 堀切Bで、上巾4mほどで北側に延びる片堀切です。

 
イメージ 17 主郭東側の堀切A・③郭+土塁・堀切Bは、東の尾根続きの旧道を意識したものと思われますし、竪堀や②郭の備えからも北側の「滝坂の渡し」への備えを厳重にしていたもの思われます。


 城址から見える旧道です。左手下に行くと木曽川です。
イメージ 18

参考文献
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)

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鶴ヶ城

 鶴ヶ城は、別名神箆(こうの)城・高野城・国府城・土岐城とも呼ばれ、瑞浪市土岐町鶴城にある比高50mの山城です。鶴ヶ城の名は、 尾根先端の頂部に主郭を置き、そこから南東と南に伸びた尾根に郭を配し、鶴が羽を広げたような形状をしていることから来ているとのことです。 
                                           訪城日:2015.4.17 晴れ                                              
イメージ 1 城址へは、中央道恵那ICで降り、国19号を西へ14km先の鶴城信号で曲がって高速道路の高架下を潜り、諏訪神社を目指します。そこから高速道の側道を少し行きますと登城口です。諏訪神社前に駐車スペースがあります。
イメージ 2








 鶴ヶ城は、南北朝期から戦国前期にかけて美濃一円を支配した土岐氏が鎌倉期初期に創築したとされ、城址案内板にも書かれています。しかし、この説明はたいへん怪しげなものと思われます。イメージ 7
 土岐氏は、平安末頃厚見郡鶉郷から土岐郡に移り、鎌倉期に大富館や一日市場館を本拠にしていたといわれ、その後南北朝初めに土岐氏としては初めて頼貞が美濃国守護に補任され、2代美濃守護頼遠の時に守護所を岐阜の長森に、さらに3代頼康が革手城に移したとされています。土岐氏の守護所が大富館や一日市場館→長森→革手と変わっていますが、どれも平地にあることからすると各地にある守護所と同じような「花の御所」を模倣した武家礼儀に則った館だったと思われます。そして、鶴が城のような山城が恒常的に構築されてくるが15世紀後半とされますので、当城が鎌倉期に創築されたとは考えにくいです。また、頼貞の居城が当城という説もありますが、貞頼が当城を使ったとしても南北朝期の戦乱の中で臨時に高所(鶴が城)に防御拠点としたものではないかと思われます。
 鶴ヶ城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀・天正年間で、武田氏に対する織田氏の拠点としてです。天正2年(1574)武田勢が明知城を包囲した際に、後詰におもむいた信長が当城に河尻秀隆を定番とし普請を行っています。また、天正10年(1582)に信長が武田氏攻めでは、高野に宿泊しています。このことから、織田氏にとって当城が東濃における交通・軍事上の要地で、対武田氏への拠点として重要視されていたといえます。
 慶長5年の関ケ原の合戦時に、西軍の岩村城主田丸直昌の支城であったので東軍の妻木氏らの攻撃を受け開城し、廃城になったとされています。イメージ 3
  諏訪神社あたりからの城址遠景です。高速道の側道は、道が狭く路駐もできませんので、諏訪神社辺りに停めるのがいいです。イメージ 4







イメージ 5  登城口で、とても立派な城址碑があり驚きましたね。



イメージ 6 両出丸に囲まれた谷を登る大手道です。大手を守るには最適な構造といえるでしょう。イメージ 8









 二ノ木戸跡で、表示板の右手は平場のようで大手郭なのでしょうか。イメージ 9
 二ノ木戸から見た2郭の虎口で、表示かありませんが「一ノ木戸」なのでしょうかイメージ 10ね。虎口に攻めかかると西出丸と2郭からの横矢が厳しい様子がわかるかと思います。
イメージ 11
 西出丸で虎口辺りから(左)と先端部(右)。下段がありますが中央道の建設時に削り取られています。イメージ 12


 2郭で、「御殿」と呼ばれているようで、井戸もあることから居住区として使われたのでしょう。イメージ 13






2郭奥の段で、「葵の井戸」があり、右手を登ると主郭、東出丸へ。イメージ 14
2郭から主郭への城道です。
主郭へは、坂虎口で登り3折れで入ります。くねらせて上からの横矢の効きを狙っています。

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 主郭虎口で平入りですが、段をつけて入りにくくしています。小技の仕掛けが結構あり、面白いです。
イメージ 16



千畳敷と呼ばれる主郭で、約45×20mほどの広さがあります。イメージ 17


 主郭背後の堀切で、上巾20mのようですが、切岸が深く、けわしかったので行ってはいません。







↓東出丸です。
イメージ 18

 戦国後期まで使われた城ではありますが、防御の主役は急峻な切岸です。さらに、大手道を両出丸で挟むとか虎口の横矢がかりといった技巧的な造りをしていますので、訪城の際はそのようなところを見つけるのも楽しいかと思います。

参考文献
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)
『岐阜の山城 ベスト50を歩く』 三宅唯美・中井均編 サンライズ出版

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下手向(しもとうげ)城

 下手向城は、恵那市山岡町下手向にある比高50mの山城です。「下手向」を「しもとうげ」と読むようで、読めないですよね。県道33号を西に向かいますと小里城に至りますので、この道は岐阜方面と岩村を結ぶ重要な道だったと思われます。                  訪問日:2015.4.17 晴れ
イメージ 2 城址へは、岩村市街より国363号を西に向かい山岡駅前信号で右折して県道33号に入り、約2km先の下手向郵便局を目指します。郵便局横の道を北に向かい、二軒ある民家の奥の民家手前の畑奥が登城口になります。(道が草で見にくいです。)
 車は、郵便局横の空地におけます。
イメージ 1イメージ 3





 イメージ 4築城時期や城主については、不明です。「大井武並神社日記」には、永禄7年(1564)に武並神社の再興され際の記名の中に「手向村城主勝内蔵助義直、同子又右衛門義氏」があり、勝氏が当地の地頭だったようです。元亀4年に武田氏の有力武将の秋山虎繁が岩村城に入り、織田氏と対峙していきます。当城が、岩村城の西側の防衛線の一角を担って改修されたのではないかと考えられます。天正3年に岩村城が織田信忠によって攻められ開城しますので、当城も織田軍に制圧されたと思われます。
 右図は、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)所収の図面(高田徹氏作図)の一部を拝借し加筆しています。




 イメージ 5登城口から道はありますが、途中途切れましたので竪堀Aを直登して、帯郭Aに出ました。上の2郭までは10mありましたが、登り所が見つからずに直登しました。きつかったですね。2郭に登ってからわかったのは、東側からの道があったんです。
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 帯郭Aと竪堀

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  帯郭Aから見える帯郭Bです。土塁が見られ通路と思しきものもあります。大手道なのかもしれません。イメージ 7
   



 2郭ですが、虎口前面のテラス状の小郭で、虎口受けと思われます。イメージ 8




主郭南虎口で、竪土塁上を歩いてはいるようになっています。主郭には、二つの虎口があり、こちらが大手虎口だと思います。イメージ 9



 主郭内から見た南虎口。枡形ではなく、掘り込み状の虎口のようです。イメージ 10

↓南虎口からの主郭。方形(38×42m)に北に土塁で囲われる張り出し(12×22m)を伴った形をしています。削平されており小屋掛けには十分です。













主郭北側の張り出しにあるイメージ 12高約2.5m、幅約1m土塁です。イメージ 13








  主郭西虎口で、下の横堀に通じでいます。搦手口なのでしょ。イメージ 14 
 
 西虎口を下から見たものです。虎口を出るとテラス状の虎口受けの小郭があり、南虎口にもあり当城の特徴といえるのかな。イメージ 15







主郭下の西から南側裾に幅3m深さ1m程の横堀が巡らされています。西虎口とのつながりからすると堀底道だったと思われます。イメージ 16

 横堀の南側端部に二条の竪堀があり、帯郭Aへは連絡できないように遮断しています。なかなかに手の込んだ仕組みです。

 当城は、単郭構造で小規模なものですが、主郭を横堀・堀切・縦土塁を効果的に連動させて、高い防御力を構築しており、技巧的で一貫性のある縄張りです。近くの漆原砦とも類似する感じがします。
 技巧的で一貫性のある縄張りからすると、在地の築城技術というより、築城技術に長けた戦国大名によるものと考えたほうがいいように思えます。
参考文献

『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)

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前田(ぜんだ)砦

  前田砦は、恵那市上矢作町本郷にある比高80mの山城です。「前田」は、普通「まえだ」と読みますよね。「ぜんだ」とは、何とも地名の読みは難しいですね。当地のある東濃東南部は、三遠濃三国の境目にあり、戦国後期に武田氏の南下に伴い織田・徳川両氏との抗争の地になり、在地国衆遠山氏も両勢力の間で翻弄される歴史を刻みました。            訪城日:2015.4.16 晴れ
 イメージ 1城址へは、岩村から国257号を南下して上矢作町で国418号に入り、分岐地点より約1.2kmにあるJAひがしみの上村を目指します。JAの裏手の八幡神社鳥居が登城口で、この先の分岐を大船神社側に入った左手が城址西端の3郭です。駐車場はありませんが、JA前が駐車可能です。
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  登城口の八幡神社鳥居  大船神社への分岐店
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 前田砦の築城時期は不明です。砦の発生は、岩村遠山氏が岩村の南部方面の防衛のために造ったのが初めと思われます。元亀年間に武田の秋山虎繁の侵攻による上村合戦※)が行われた際には、イメージ 5明智遠山景行の武将門野兄弟が一千人の兵でこもり、秋山軍に対峙したといわれています。岩村遠山氏は、元亀3年(1572)11月に武田によしみを通じ、翌年3月に秋山が岩村城に入城し、当砦も武田の支配下に置かれ、武田氏によって改修されたと思われます。
※上村合戦がいつ行われたか、わかりません。合戦日に2説あり、①元亀3年12月と②元亀元年12月。①は、三方原の戦で秋山がその戦いに参戦しているされますから、到底東濃に攻め込むことは不可能かと思われますので、②がいいのではないかと思われます。

上図は、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)所収の図面(高田徹氏作図)の一部を拝借し加筆しました。
イメージ 6 大船神社側に入り50mも行かないうちに左手に平場らきものを見ましたので登ってみました。3郭でした。ここは、3段ほどからなる平坦地のようです。2段目から③を撮ったものです。イメージ 7




 

   上巾20m、城壁10mの堀切Cで、箱堀のようですが、なかなか壮観なものです。イメージ 8


堀切Cと2郭の間にあるE郭です。上巾約10m、深さ約2mで、堀切とは言えませんで平場なのでしょう。このような凹地をわざわざ造るor残すのか大変理解に苦しみます。イメージ 9





 2郭で、数段の平場で構成され、南北の一段下に帯郭が設けられています。イメージ 11


  
                                
2郭東にある上巾約8m、深さ約5m堀切Bです。箱堀のようです。   イメージ 10   
 



                   この堀切の1郭の壁にある竪土塁て囲まれた窪地があります。縄張図のGです。一目見たときは、ここに2郭への橋が架かったのでは、と思いましたが2郭との高さがちっと違う感じて、何のためにわざわざこの窪地を造ったか考えが及びませんです。まぁ〜、時折現代人には理解できない遺構は見ますがね。
イメージ 12
 1郭で、45×15mほどの広さです。東端イメージ 13堀切Aの直上に土壇があり櫓台ではないかと思われます。イメージ 14







 1郭南の腰郭Fですが、虎口郭の感じがします。1郭の南に坂虎口の通路も見られますことや、2郭南下の帯郭と高さもほぼ同じなので、ここから2郭南下の帯郭に橋が架かっていたのではないかと思えます。イメージ 15




イメージ 16
城址最東の上巾約8m、深さ約7mの堀切Aです。両端は、西側に回り込んで横堀状となっています。



イメージ 17 堀切Aの東に続く尾根で、結構な平場になっていますが、ここを城域に入れるかは何とも悩ましい所です。

 




 縄張図イメージ 18作成の高田氏は、「曲輪①と曲輪②は比高差がほとんどなく、どちらが主郭かもにわかに判断しがたい」と書かれています。
 当時、信州根羽から当地を通って岩村に至る上村道(岩村道)は、現在の国418号に沿うものではなかったようです。上矢作町本郷の西にある横道は、江戸期あたりに開かれたようで、大桑峠を越えて笹原ー小笹原に出て、当砦北側の飯田洞方面の山中を通って本郷に出たようです。ですから、当砦が北・西側に防御が固いのもそれに対応したものと理解されます。そうしますと、主郭は、1郭より2郭の方が安全なのではないかと思われます。






参考文献
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第3集(可茂地区・東濃地区)』(岐阜県教育委員会2004年)
『岐阜の山城 ベスト50を歩く』 中井均編


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