古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

陸奥国(宮城県)

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陣林館

 陣林館は、丸森町大内字横手にある比高30m程の平山城です。天正9〜12年の相馬・伊達両氏の抗争時に、伊達方の冥護山館に対抗して相馬方が築いた陣城といわれています。北側約4kmにある相馬方の拠点である金山城の後詰として機能させたと思われます。西側の道路は、ホンの少しで相馬氏の本拠・宇多郡になり、この地点の確保は、伊具郡の金山・丸森両城への支援とともに領域確保の相馬の必死さが読み取れるようです。                                                                                                 訪城日:2018.10.18  晴れ
イメージ 1  城址へは、丸森市街より約7〜8km東進し、大内まちづくりセンターを目指します。案内標識を左折すると、すぐ右手が大内まちづくりセンターです。車は、大内まちづくりセンターの広い駐車場を使わせていただきました。登城口は、センターからまっすぐ東に進むと民家の横あたりから山に入る道があります。イメージ 2イメージ 3





                       
              登 城 口   
 伊達氏天文の乱(1542-48)の最中に、伊達氏の混乱に乗じて相馬氏が、宇多郡を領有し、さらに永禄期になると、伊具郡南部にも侵攻し主要城郭の小斎城・金山城・丸森城を奪い取り、伊具郡南部を領有する事態なっていました。イメージ 4
 そのため伊達輝宗(伊達氏16代政宗の父)は、失地回復のため天正4年(1576)頃から巻き返しに出ます。結果は、はかばかしくはなかったようで、領域の境目は変わってはいません。天正9年(1581)小方斎城主佐藤宮内が、相馬を離反して伊達に転じたことから伊達輝宗・政宗(初陣となる)が後詰し、相馬方も冥護山の陣を構え(西山館か?)ます。
 翌年、伊達方が冥護山に陣城(冥護山館)を築き金山城と宇多郡との通路の遮断を測ったため、相馬が大内村に陣城を築いたとされています。その陣城が陣林館と思われます。天正12年に周辺大名によるあっせんにより講和が成立し、相馬氏は、伊具郡南部を伊達氏に引き渡しました。そのため、陣林館も伊達氏の支配下に置かれたと思われます。その後の経過については不明です。ただ、天正17年に宇多郡北部の新地蓑首城・駒ヶ嶺城を急襲して落としていますので、その頃までは、境目の砦として使われたのではないかと思われます。
イメージ 5登城口から谷戸状の道を進むイメージ 6と虎口Aのところに出ます。ただ、この道が後世の作業道ならば虎口ではないのかも?これを右手に曲がり、さらに曲がりくねる道が続きます。

イメージ 7


谷戸状の道を抜けると城址南側に細長く続く腰郭状の平場に出ます。すぐ左手にイメージ 8一段高くなっていて上の郭(主郭南西端)に登れるようになっています。虎口Bです。


イメージ 9

主郭・2郭の切岸がかなりの高さで、ちっと登りづらいので、2郭東端の堀切1まで行きました。堀切1は、上巾14〜15mほどあるかなり大規模なものです。右手の3郭に登ってみました。
イメージ 10





3郭西端に3郭とは土塁で繋がる平場があります。松岡氏は、ここを堡塁(馬出)としています。2郭へは木橋を架けていたのでしょうか?イメージ 11


3郭で、削平はいまいちといった感じで、北東部に幅広の土塁痕が認めらられます。

イメージ 12





3郭北東下の堀切2です。この先にも段郭があるようですが、確認していません。イメージ 13



2郭で、75×25m程の広さです。西端に虎口Cがあります。松岡氏は、この虎口を「イメージ 14土塁と空堀を別々に食違いにしたユニークなもの」で、「私はこれと似たものを、ほかのどこでもまた記憶がない。」と。
確かに、食い違い虎口の中に空堀を設けてているのは見たことはないですね。非常珍しいですが、写真ではその姿を明確にお見せできないのが残念です。イメージ 15
イメージ 16










イメージ 17主郭で、かなり広いです。虎口は3箇所あり、土塁の痕跡は見当たりませんでした。木々が繁茂して郭内部の様子がいまいちわかりませんでした。
イメージ 18







主郭北側の枡形虎口Dです。ここも藪っていて写真でははっきりしませんが、かなり明瞭にイメージ 19形がわかりました。

外側からの虎口Dです。

イメージ 20







主郭北西の虎口Eですが、いまいちの写真です。



 伊達政宗が、天正17年に相馬氏の蓑首城と駒ヶ嶺城を攻め落とした際に、「両地近年相ヨリ被入念候哉、普請結構ニ候事、絶言句候」と相馬氏の普請の様を称賛しています。まさに、この城の虎口の巧みさは、宇多郡の駒ヶ嶺城にも匹敵するほどの技巧的なものです。写真が明確に撮れないのが残念ですが、是非行かれて観ていただきたいと思います。

参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館

『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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中ノ内城−その弐ー

 中ノ内城の続きです。縄張り図のオレンジ色の楕円部分になりますイメージ 2 拡大図を載せておきます。
城址説明板では、大手筋となる所です。イメージ 1
ここの箇所を松岡進氏は、「連続虎口」として次のように解説しています。
「主郭前面に内枡形を伴う馬出(4郭)があり、その開口部をさらに小さな枡形虎口にして、前面に馬出(7郭)を附属させる。」とし、「(4郭の)馬出の東南角のコーナーの土塁が方形に広げられていて、ここから内枡形の内部も(7郭の)馬出の中も見通せる。」と。このような虎口を「平面的かつ重層的な虎口」として、「立体的な防御施設を複合させれはきわめて有効と思えるのに、そうした施設の発達を十分に伴わないまま、虎口だけが単独で複雑化した傾向を持つ」とし、「近世城郭なら常識と思われることが常識になっていない。その意味で、戦国期独自のローカルなオリジナリティを見て取れるのではないか。」(松岡進著 『中世城郭の縄張と空間』 吉川弘文館 2015年 P68〜69)
 この解説で腑に落ちない点がいくつかあります。
①4郭が馬出なのか?
4郭前面に空堀がなく、切岸で通路を付けて降って行く構造です。馬出というより主郭前面の虎口郭といったものなのではないでしょう。
②近世城郭なら常識と思われることがなってないから→戦国期独自のローカルなオリジナリティとする見方。
「連続虎口」のような構築技術を近世城郭の常識からさかのぼって評価するのではなく、地域間で共有して保持され培われた技術として、地域の独自性や普遍性から評価した方がいいのかもしれません

イメージ 3主郭南西端の虎口Cです。奥に見えイメージ 4るのが4郭で、右手土塁に石が見えますので、石積みが施されていたのかもしれません。イメージ 5






虎口Cは、平虎口で空堀を挟んで4郭になります。主郭と4郭は、木橋が架かっていたのでしょうか?イメージ 7




虎口Cを4郭から見たものです。イメージ 8





主郭と4郭との間の空堀です。


イメージ 64郭南端の櫓台からの4郭で、南北60m、東西が広い所で15m・虎口付近で10mあり、馬出とするとかなり広い空間になります。













イメージ 9
4郭の南西の内枡形虎口です。イメージ 10当城の見どころの一つになりますかね。高い土塁で囲み、一部石積みが残っていますので、虎口全体が石積みで作られていたのかもしれません。イメージ 11


虎口Dを外側から見ています。高い土塁が両方から迫り、見上げるようにして虎口内部に進みますので、ここを通過するものにとっては威圧感を感じるのではないかと思います。
イメージ 12





虎口Dを出て7郭に向かう地点で、奥に低い土塁が見えその先が7郭になります。イメージ 13




7郭から虎口Dの方向を見ています。この7郭、馬出といった感じを受けませんが、どうなんでしょうか?イメージ 14





5郭・6郭から東下の通路状の所に下りるところで、虎口っぽいです。イメージ 15




東側の淵沿いに降りていきますが、左手が一段と高くなっています。どうもここが大手道のように感じました。イメージ 16





すぐ下に民家が見えます。大手口ですかね。イメージ 17





下から見ると、こんな感じです。イメージ 18


駐車地点から大手口(?)にいかれる場合は、下の地点からです。








本屋敷遺跡
イメージ 19遺跡は、城の主な平場の北側に轟川を挟んで面していて、城にとって重要な位置にあるといえます。
遺跡は、縄文時代中期から後期(約4千年)中世・近世(1600年以前)からの複合遺跡で、城址との関連では、溝跡、掘立柱建物跡、柱穴跡、陶磁器、古銭、石臼などがみられ、足軽屋敷・町人屋敷跡であったことが発掘から確認されています。三期に分けられる第三期に掘立柱建物跡がほぼ一斉に廃絶されていることもわかり、城の廃城と強い関係をうかがわせる遺跡のようです。
(「東北横断自動車道遺跡調査報告書」宮城県文化財調査報告書第120集より)

ーその壱ーで、大手が松岡氏の言う南西の虎口Aなのか、それとも案内板の東側なのか、考えてみたいとしましたが、どうも案内板の通りに東側が大手筋でいいと思いますね。当城は天正3年(1575)砂金常久が砂金城より前川中ノ内城に移ったとされています。この砂金氏の本拠移動は、天正2年最上氏の内紛に伴う伊達輝宗の最上出兵などの境目の緊張関係によるものと考えられます。したがって大手は西を向いていたのではないかと思われ、南西の虎口Aがその時の大手だったのではと思います。その後も最上義光が伊達領長井に侵攻するようなこともあり、領国北部への最短コースの笹谷口の境目強化から改修が続けられたと考えられます。城の北側轟川対岸に笹谷街道が通り、城下町も設けられるとともに大手も笹谷街道に向かう東側に移ったのではないかと思われます。


参考文献
『戦国期城館群の景観』 松岡 進著 校倉書房
『戦国大名伊達氏の研究』 小林清治著 高志書院
『伊達氏と戦国争乱』 遠藤ゆり子編 吉川弘文館

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中ノ内城−その壱ー

 中ノ内城は、前川本城(まえかわもとしろ)錦ヶ館とも呼ばれ、柴田郡川崎町前川本城にある比高30mの丘城です。当城は、前川本城と呼ばれていることが多いようですが、現地説明板に「中ノ内城」とありますので、こちらの名を使わせていただきました。かなり前、10年以上ですかね、訪城したことがあります。その時は、藪に覆われて、空堀や土塁などが辛うじてみられるものでしたが、連続虎口がみられ痕に素晴らしい城址ですから「藪を刈っていただければな〜」思ったことを覚えています。昨年、竹さんのブログに掲載された姿を見ましたら、藪が刈られすっきりした郭・空堀・虎口などがみられ、絶賛されていました。機会があれば、是非再訪したいものと思っていました。                                     訪城日:2016.10.19  晴れ  
 イメージ 1城址へは、山形自動車道宮城川崎ICを降り、県道14号を東に向かい、約1.2kmで左折します。道なりに進み、高速道ガードをくぐり、400m先に城址説明板があります。車は、そのあたりに路駐できます。二股の右手の道を進むと右手に東屋が見えます。その奥が登城口です。イメージ 2








 砂金(いさご)氏の祖菅原砂金蔵人常重公は、延元年間(1336〜39)南朝年号(北朝年号建武イメージ 33年・4年)浪士として奥州に来て、砂金邑の守護人となり、文明年中(1469〜86)伊達家に仕え、天正2(1574)年7代まで砂金邑で豪族として勢力を張り、天正3年8代摂津守左衛門常久公の時、砂金城より前川中ノ内城に移り、天正年間以降江戸時代初めまで砂金氏が居住していた。
 その規模は、平場三か所、土塁、空堀、枡形、壇状遺構などが高さ60m、東西に延びる丘陵の東端部頂上に面積が東西南北200mにも及ぶ大型の城郭が構えられ、東西130m南北100mほどの長方形平場が本丸で、東、南、西の三面に土塁、その外側に空堀を築き、二重の防御が施されている。北面は垂直な断崖となって天然の要害となっている。その南山腹には数百mにわたり城郭を取り巻いて東西に伸びる空壕は特筆すべき遺構で、中世連郭式山城である。
 11代砂金右衛門右兵衛実常(常房)は伊達一族となり、川崎館を築き、初代館主となり移住に伴い、中ノ内城は廃城となったので、この城を「本城(もとしろ)」と称し、ここ一帯の地名ともなっている。
                                      川崎町教育委員会      現地説明板より 
中世連郭式山城と記されていますが、川を背にした断崖上に占地した梯郭式の平山城といえます。
※天正3年に常久の時、砂金城から移ったとしていますので、以前からあった前川中ノ内城を砂金氏の本拠地としたものと考えられます。このことからすると、当城がいつ築城されたかは定かではないとなります。
イメージ 4イメージ 17










説明板の横にある略図と概念図です。略図は、大手を東側としていますが、松岡氏は、東屋のある南西の虎口Aを大手としています。どちらが大手なのか?で、おいおい考えましょうかね。
イメージ 5一番わかりやすい登城口で、左手の柱が東屋です。右手下の畑にいた人に声をかけて入城しました。

イメージ 9








そのまま直進すると左手に巨大な堀、二重横堀が見えてきます。イメージ 6

実に見事な横堀で、上巾は30mを越えるようで、長さも200mはあろうかと。まさに、西側=出羽の最上氏に備えての防御と思われます。イメージ 8







左手の横堀を皆が進むと、虎口Aに至ります。現在は下図のオレンジ色の道筋で虎口Aに行きますが、どうも往時は、赤線の様だったのではないかと思われます。
イメージ 7


イメージ 12
イメージ 10




土塁で行く手を阻み、導線を長くし、ジグザグに折れを作っています。巧緻な導入路です。
イメージ 11

虎口Aを北側から撮ったものです。松岡氏は、外枡形の大手虎口としていて、単独で用いられるのは伊達氏の城館の中では珍しいとしています。土塁囲みの虎口ですが、枡形としては少し変形の導線になっているのが気になります。イメージ 13
虎口Aから2郭に入った所から、仕切土塁の北側に広がる2郭で、南北200m、東西100mほどのとても広い郭です。
イメージ 18主郭を取り巻く空堀。かなり埋まっているようです。






虎口Bで、平虎口です。左―2郭から  右ー主郭から
イメージ 15
イメージ 14












主郭を西側から撮っイメージ 16たものです。130×100mの長方形の広い郭です。









主郭南東隅の虎口Cです。イメージ 19











ーその弐ーで、当城の見どころの一つの馬出と内枡形の虎口Dをご紹介します。

参考文献
『戦国期城館群の景観』 松岡 進著 校倉書房


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大窪城

 大窪城は、黒川郡大郷町大松沢にある比高70mほどの山城です。一昨年、たまたま通りかかって県道に城址の表示板を見かけましたが、時間の都合で通り過ぎてしまいました。今回、松島から鳴子の川渡温泉に向かう途中で通りかかり、取立手の予定ものないものですからちっと寄ってみようと思い訪城してきました。
訪問日:2013.11.18
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 城址へは、JR東北本線鹿島台駅から県道16号を西に10kmほど行き、大松沢小を過ぎた少し先に右手に「大窪城址入口」の石碑がありますので、そこから200mほど進みますと、駐車場に着きます。
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       県道脇の入口
 
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郭2にある城址説明板
大窪城は、もと大松沢領主十五代大松沢掃部之輔衛実までの居城で、牛館大久保を改め大窪城となったのである。衛実という人は、天正6年(※1)に八十六で亡くなられているが、若い頃は、伊達家仙台藩士として二十九世慶邦公に仕え、明治元年会津の戦に、藩士三百人を率いて従軍も次いで白河口軍事総督を命ぜられ諸所の戦いに功労があった。会津の乱が平いで後は髪を剃って菩提寺である眞観寺の住職となり戊辰の役で亡くなった人々の冥福を祈り自らも僧侶とイメージ 3して大往生を遂げられたのである。大松沢家の先祖は飯田八郎左衛門藤原吉実といって、今から約六百三十年前伊達家の一族として伊達郡宮沢を治めていたので後に宮沢を名乗ったが、この吉実の玄孫に当る宮沢時実が大松沢初代の領主で、その禄高は八百貫文であった。時実は伊達家十三世尚宗公の代(約四百九十年前)大崎葛西勢に備える伊達の「北の守り」としてこの大窪城によらしめ、大松沢一円を知行させたのである。次いで二代目は祐実で三代目は実家四代景実五代目は 実でこの人は天正年間(約三百七、八十年前)伊達家十七代独眼竜政宗公の時、相馬及び大崎の軍に従いその都度先鋒となり功をたて、更に文禄元年(一五九二年)には朝鮮の役に従軍し功労があり、又永く大松沢に住んでいたので政宗公から大松沢氏を称ずる命ぜられ、改めて伊達家の一族(※2)に列せられた。六代は定実七代頼実八代広実九代信実十代以実十一代文実十二代定実十三代 実十四代良実十五代衛実と続いたのである。
 尚城跡は高さが八〇メートルで頂上の壇東西百メートル南北四〇メートルの所が本丸で南西部の壇が二の丸三の丸を作り、中世の豪壮な城構えを象徴する単郭重層式の古城跡である。今は町立公園として地元町民の熱意と篤志家の風雨を厭わぬ尊い努力に依って着々整備され、町内外の老幼男女の憩いと懐古瞑想の場となっている。
※1  大正6年の間違いでしょう。
※2  伊達家家臣は、家格として「門閥・平士・組士・卒」の4等級にあり、門閥の中に階級として「一門・一家・     準一家・一族・宿老・着座・召出」がありました。大松沢氏は、一族は22家の一家で家禄615石です。
 
イメージ 4
 駐車場から郭2へは、巾8mほどの堀切にかかる土橋を渡ります。駐車場は、郭2とほぼ同じ高さの平場になっていますので、ここも城の一部だったのではないかと思われます。
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 堀切を土橋上から撮ったものです。竪堀となってかなり下まであるようです。イメージ 7
 土橋を入ったところからの郭2で、広々として気持ちがよくなります。左手が主郭で右手が切岸として落ちています。イメージ 8
 
 
 
 
 
 
郭2の北西端にある櫓台と思われます。表示では、「土塁」とありますが。八坂神社が祀られ10基ほどの庚申塔もあります。イメージ 9
 主郭は、郭2から7mほどの高く、切岸加工がきれいにされています。イメージ 10
 主郭で、80×40mほどの広さがあり、井戸も見られました。主郭や郭2の広さからしますと、居館としてかなりの時期使われたのではないかと思われます。 
イメージ 11
 主郭東下の郭で、左手に土塁イメージ 12が盛られているので、主郭との間が空堀状となっています。「通用門跡」の石碑狩り、虎口だったようです。
 
 
 
イメージ 13
主郭北側の腰郭とみられますが、歩いてみましたら横堀という感じもしないではなかったです。
 
 通りすがりにたまたま訪れましたが、意外にも良い城址でした。切岸主体のすっきりとした縄張りで、切岸の整形などよく残され気持ちの良い城址公園として整備されています。
 
 
 
 
 
 
 

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金山城

 金山城は、別名金山要害とも呼ばれ、伊具郡丸森町大字金山字黒森にある比高約70mほどの山城です。伊具郡南部は、16世紀後半相馬・伊達両氏の境目で両軍の激しい争奪戦の舞台となった地です。政宗の初陣もこの金山城争奪戦でした。 今回で2回目の訪城になります。隣町の新地町の城跡に行く予定でしたが、天候不順の雨降りで、たまたまこの地を通りましたら雨が止んでいましたので、新地へ行っても無理そうなこともあって、急遽寄った次第です。            訪城日:2013.9.5  雨のち曇り
イメージ 1 城址へは、丸森市街より国113号を東に約4kmほど進みますと、左手に城址案内板があります。そこを左折して少し行きますと、右手上に案内図か見えますので、そこを右折した先に専用駐車場があります。本丸まで徒歩15分ほどで着きます。
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 登城口(この付近は侍屋敷だったようです)
 
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 金山城は、標高117mの独立山地を利用して作られた山城である。この城は、永禄年間、相馬の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城したとされているが、天正4年(1576)以降、この城をめぐって、伊達と相馬の間で激しい攻防があり、天正12年になってようやく伊達に帰属することに決まった。伊達政宗は、この戦いに最も手柄のあった家臣の中島宗求に、この城と金山本郷・大内・伊手の三邑(二千石)を知行地として与えた。天正16年には、相馬に備えて本城や南の山居・黒森山の各所に、新たに石塁・土塁・堀切などの防護施設を造り、一段と強固な備えに改築を行った。本丸には居館が建てられ、周辺の平場には、兵具庫・煙硝庫・馬屋を配し、これらを囲む土塀や埋門・陸橋などが設けられた。家中屋敷や町場は山麓に配置された。280年間続いた城は、明治維新後、取り壊された。    (丸森町・金山保勝会  現地説明板より)
永禄8年(1565)の伊達稙宗の死去を契機に、相馬・伊達氏の抗争が激化したようで、永禄9年に伊具郡小斎城(柴小屋館)が相馬方の手に落ち、元亀元年(1570)には金山城・丸森城がともに相馬方に落とされ、相馬勢は余勢をかって伊達郡まで攻め込んでいます。伊達方は、天正4年(1576)ころから反撃に移り、天正9年の政宗15歳の初陣も伊達政の失地回復戦の一環でした。天正12年に相馬と伊達の講和が行われ、停戦時の戦線によって境界が設定され、伊具郡は伊達領となり、小斎・金山・丸森城が伊達氏の手に戻った。
イメージ 4
 金山城は、戦国最末期に相馬領との境目の領域の中枢城郭として機能しており、主郭の高石垣が近世初頭の構築と考えられるように、かなりの改修が加えられていたと考えられます。
 
イメージ 5
 
 イメージ 15
  駐車場より少し登った右手に見えるのが米倉跡です。右手に折れて坂を上りますと三の丸虎口に至ります。
 
イメージ 10
 イメージ 11
  三の丸大手埋門跡です。規模はさほどではありませんが、2折の変形の内枡形の感じです。
イメージ 12
  埋門跡から入った三の丸内部で、左手下に埋門に向かう城道があり、それに沿って土塁が設けられています。イメージ 13
  三の丸奥にある不動堂で、城の鬼門に当たる地にまつられたようです。左手が煙硝蔵だったようです。
 
 
イメージ 14
  不動堂の先を少し登りますと、出丸と堀切の場所に出ます。現在はここを左手に進み本丸下の帯曲輪に出ますが、木橋がかかっていたとありますから、当時は出丸に登り木橋を渡って本丸下に行ったものと思われます。
イメージ 7
  本丸北側下の腰曲輪で、本丸下をほぼ一周しています。本丸に上る坂虎口は搦手口と思われます。大手は東側の石垣横の道のようです。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8
イメージ 6
イメージ 16 当城最大の見せ場になる、主郭東下の高さ8mはある高石垣です。大手門が石垣の上に設けられていたようで、この高石垣を見せて客人を本丸に入れたのでしようか。また、東山麓からもこの高石垣がよく見えたと思われますから、「見せる石垣」といえるのでしょうか。
 この高石垣は、近世初頭のものと言われていますので、慶長10年以前の時期に積まれたのではないかと思われます。野面積みで、隅が不完全な算木積みのようです。
 
イメージ 9
  本丸です。広さは30×60mほどで大手門につながる南側が一段低くなっています。中島氏の居館が設けられていたとありますが、他の城と同じように江戸期の中ごろには下の降りていたのではと思いますね。
 主郭南側にも曲輪がありますが、雨上がりでもあり、やぶ状態でしたので行っていません。
 
 
 
 
参考文献
松岡進著 『戦国期城館群の景観』
小林清治著 『戦国大名伊達氏の研究』

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