古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

陸奥国(宮城県)

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前田館

  前田館は、丸森町前田にある比高30m程の丘城です。今回の丸森への訪城は、伊達・相馬両陣営の境目の城館である陣林館・柴小屋館・冥護山館でした。前日に金山城の黒森山砦と三砦を訪れましたので、次の日にその周辺の城館で行きやすく、技巧的な虎口のある当館に訪城しました。  イメージ 1訪城日:2018.10.19  晴れ
城址へは、丸森市街の丸森橋から国349号を西に約6.5km進み、片倉トンネル先で右折して県道24号に入り、途中で県道105号になりますが、約2.5km先の大張郵便局を目指します。郵便局前を左折して最初の左に入る道を進むと城址標柱が立っています。車は、標柱前後に待避スペースがありますので、そこに停められます。イメージ 2






 当館についての史料は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。登城口にある標柱の側面に、「馬上十一騎槍鉄砲百五十人組の陣地の跡ではと推定される。」とあります。どうもこれは、仙台藩の地誌『安政風土記御用書出』にある伝承をもとにしているようです。この伝承を含めて当館を分析した、松岡氏によると、「馬上十一騎」は「近世を通じて苗字帯刀を認められた農民を指し、しばしば「槍鉄砲百五十人」と連称され」「御名懸衆、すなわち伊達氏直属の徒士団の構成員」だったと。また、築城時期としては、苅田郡から丸森に入るルートを抑える位置にあることから天正年間の対相馬戦の時期と考えれ、「小規模で臨時性が強いが、水準の高い築城技術(横堀・堀切と連続虎口をかみ合わせて発展させた技巧的にプラン)を用いて築かれ」、築城主体として伊達氏の関与も認められる可能性があるのではないかとしています。
イメージ 3登城口で、道路沿いにあります。


イメージ 4







主郭に至る登城道ですが、すぐ左手に虎口が有りますので、後世のもののようです。

イメージ 6イメージ 5虎口ですが、よくわからない写真になっています。イメージ 7





美がし側の段郭ですが、ここもよくわかりませんです。



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主郭です。



藪に覆われていまして、遺構がよくつかめませんでした。もう少し、時期が違えば雑草も枯れて遺構がみられるのかもしれません。

参考文献

『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房

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丸森城

 丸森城は、丸山城とも呼ばれ伊具郡丸森町淵ノ上にある比高10m程の丘城です。当城は、一般的には丸山城と呼ばれ、城址内の案内掲示にも丸山城とあります。ただ、伊達家の正史で輝宗期を記録した「性山公治家記録」には、「丸森城」とあり、その当時この名でよばれていたものと思われるので、ここでは丸森城としています。                                           訪城日:2018.10.19  晴
 イメージ 1城址へは、国113号の内川に架かる橋を渡り300m先を右折します。少し進むと、右手に城址案内板があり、道なりに進むと駐車場に至ります。

イメージ 2
イメージ 3






 国道からは市道にある       左手に駐車場
 城址案内板


イメージ 4当城は、周辺の大名を巻き込んだ伊達氏の内乱である「天文の乱」で嫡男晴宗に敗れた稙宗が天文17年(1548)に晴宗に伊達家の家督を譲り、当地に隠居城として築いたものとされます。稙宗が永禄8年(1565)に当城で亡くなると、稙宗の娘たちが(長女は、相馬顕胤に、末娘は顕胤の孫義胤に)嫁いでいた相馬氏が稙宗の隠居領(伊具郡南西部)に侵攻し、金山城と丸森城が元亀元年(1570)には攻略されてしまいます。相馬氏の支配は、天正19年(1581)に始まる伊達輝宗・政宗の伊具郡侵攻によって、伊達勢に攻め込まれ天正12年(1584)の講和で終わりになります。その後、相馬氏との境目の城として、伊達しの大身の家臣が城主となり、慶長6年(1601)大條実頼が鳥屋館を築いて居城を移したことで、丸森城は廃城となったようです。
イメージ 53郭からの4郭です。城内標識では、「二ノ丸跡」となっています。郭へのスイメージ 6ロープ状の道は、農作業用のものと思われます。、耕作地だったようです。

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3郭と4郭の間の堀切1です。巾6m,深さ3m程の箱堀状です。イメージ 8







4郭から見た3郭です。耕作地だったため改変されていて、虎口などは不明ですが、2郭の虎口郭のような感じです。
イメージ 9

3郭から2郭への通路です。軽トラが通れる幅ですので、耕作時のものなのか?2郭は、3郭より一段高くなっています。
イメージ 10





2郭で、通路部分を除くと50×15m程の広さで、割りと広く、この郭に隠居した稙宗の居館があったのでしょうか。イメージ 11


そのためか、標柱には「丸山城本丸跡」とあります。


イメージ 12






2郭から1郭へは、堀切2南端の土橋で渡ります。イメージ 13




堀切2は、上巾10m、深さは6〜7m程です。

イメージ 14





1郭にある愛宕神社と伊達稙宗の墓碑。
イメージ 15





1郭は、さほど広い郭ではなく、大きな石があちらこちらにあり、居住区としては適していないようで、主郭は2郭の方がいいようです。
イメージ 16



1郭東下に枡形状の小郭があります。イメージ 17







稙宗墓碑の東下に見られる石積みですが、墓碑造成時に補強のために造られたものではないかと思えます。イメージ 18


1郭西下の郭。









参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館
『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房
『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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冥護山館

 冥護山館は、明護山館、明子山城とも呼ばれ、伊具郡丸森町大内にある比高30m程の丘城です。伊達氏と相馬氏の長きにわたる国郡境目相論の境目の城館として築かれたもので、伊達氏の築城技術の一端が読み取れる遺構がほぼ完存しています。                           訪城日:2018.10.18  晴れ
イメージ 1 城址へは、丸森市街より国113号を南東方向へ約5kmほど進み、左折して県道103号に入り(交差点にコンビニとガソリンスタンド有り)、約1.3kmで右折して県道245号に進みます。カーブの辺りに電波塔があり、その下に城址案内板があります。そのまま直進しますと、墓地に至り、そこが登城口になります。車は、空地におけます。





イメージ 2イメージ 3県道103号と県道245号の交差点辺りからの冥護山館

県道245号から左折して直進すれば墓地に至る。

イメージ 4

  天正9年(1581)4月小斎の領主佐藤宮内が、相馬方から伊達方に転じたことから伊達相馬両氏の境目をめぐる抗争が激化します。相馬方は、小斎と金山の間の冥護山に陣城を築き、伊達方は、後詰に稙宗・政宗(初陣)が出馬し、「小斎城辺ノ山ヲ御陣城」として対陣した。その際の相馬方の陣城が冥護山の西山館、伊達方がこの柴小屋館とされるようです。
 その後戦況は小康状態であったようですが、翌年4月に伊達勢が、金山城(相馬の伊具郡の拠点)と宇多郡との交通路(大沢越ルート)の遮断を意図して「地利」を構えた。この「地利」が冥護山館と考えられるようです。
 天正12年に田村清顕らの厚戦により講和が成立し、停戦時の戦線によって境界が決まり、伊具郡南部は伊達領となります。当地の拠点である金山・丸森城が伊達氏に帰属したことから、当館は、廃城となったと思われます。イメージ 6

イメージ 5登城口の墓地です。この辺りも城域のようで、段郭を墓地にしているようです。説明板も設置されています。図も描かれていますが、いまいち大雑把すぎてよくわかりませんでした。後で知ったのですが、どうもこの図は、貞享元年(1684)の調査図を基にしてリライトされたもののようです。
イメージ 7

説明板のすぐ先に城址標柱がありますが、すでに何本もの横堀が見えています。ただ、横堀の位置関係が読み取りにくいので、西側奥に進みました。イメージ 8








Ⅲ郭西下の横堀です。この西側にも横堀がありますが、埋まっているようで明確ではありませんでした。
イメージ 9

Ⅱ郭西下辺りで、振り返って撮ったもので、左手にⅡ郭の切岸、横堀とその右側に一段高い平場(?)があります。イメージ 10






Ⅱ郭西下の横堀に北側からの土塁が切れるところがあり、下の連絡口になのかもしれません。イメージ 11



さらに北側に進みました。このまま進めば谷間奥から西山館に行けると考えていましたが、行き止りのようで、この右手にⅠ郭に登る道があり、そちらへ向かいました。
イメージ 12





坂道を登った所で、Ⅰ郭とⅡ郭の間に出ました、少し窪んでいて枡形虎口ぼっく見えます。この坂道が往時のものなのか定かではありませんので、何とも判断しずらいです。イメージ 13

Ⅱ郭をⅠ郭の虎口辺りから撮ったものです。Ⅱ郭に行こうとしましたが、かなり藪っているため、あきらめました。イメージ 14








Ⅰ郭虎口で、左右に土塁がありますが、平虎口のようです。イメージ 15


Ⅰ郭虎口を内部から見た所です。土塁の様子が、こちらの方がよくわかるかと思います。イメージ 16








Ⅰ郭です。くの字の形で、南北80m東西25m程の広さで、両側に低い土塁がみられます。イメージ 17

Ⅰ郭北側です。この先に虎口が有り、下の堀切や平場もあるようですが、やはりここも藪ッており、降りては行きませんでした。

最後に複雑な虎口のあるⅢ郭に向かいました。
イメージ 18




Ⅲ郭は、土塁囲みの郭で、貞享図では、「扇桝形」としています。何をもってこの名がついたが?ですし、枡形には見えません。ただ、Ⅲ郭下の腰郭(貞享図では小溜り)
と連携して、攻め手を幾重にも方向転嫁させる造りは、見ものなのですが、藪がひどく藪切をしたのですが、撮った写真は、藪のみでした。


イメージ 19イメージ 20イメージ 21







Ⅱ郭南虎口                 Ⅲ郭の虎口辺りの土塁       Ⅲ郭下の腰郭の西への出口

西山館へは、冥護山館から続けて行けると考えていましたが、藪に阻まれて行けませんでした。

大軍が駐屯する陣城の様子が垣間見れますが、Ⅲ郭の虎口部やⅠ郭北側からの尾根に続く郭もみれるとさらによかった感じです。

参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館
『戦国期城館群の景観』 松岡進著 校倉書房
『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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柴小屋館

 柴小屋館は、伊具郡丸森町小斎にある比高50m程の丘城です。伊達領の亘理郡からの小斎峠越えルートを抑える位置にあります。伊達氏と相馬氏の長きにわたる国郡境目相論の初期の境目の城館として築かれたもので、伊達氏の築城技術の一端が読み取れる遺構がほぼ完存しています。以前から縄張り図を見て訪れてみたい城址と思っていました。                                訪城日:2018.10.18  晴れ
イメージ 26 城址へは、丸森市街より国113号を約3km東に進み、国道が直角に曲がる辺りで県道28号に入り3km程北上して、右手の小斎小を目指します。そこから東に約1km程で登城口の案内標識が見えます。車は、登城口手前の駐車場(ただの空地です)に停められます。
 登城口から、主郭までは、10分もかかりません。





イメージ 1道路から登城口です。イメージ 2
背後の丘陵が城址に
なります。
  
  登城口から入口を取っ       
  たもので、佐藤家旧住
  居跡です。


 天正9年(1581)4月小斎の領主佐藤宮内が、相馬方から伊達方に転じたことから伊達相馬両氏の境目をめぐる抗争が激化します。相馬方は、小斎と金山の間の冥護山に陣城を築き、伊達方は、後詰に稙宗・政宗(初陣)が出馬し、「小斎城辺ノ山ヲ御陣城」として対陣した。その際の相馬方の陣城が冥護山の西山館、伊達方がこの柴小屋館とされるようです。イメージ 11
 ここで問題は、当館と小斎城が同じかどうかです。垣内氏は、「小斎には佐藤宮内の居城が存在したはずであるが、小斎城と柴小屋館との関係は必ずしも明らかではない。小斎城を各地用・改修して、現在みることのできる柴小屋館のような姿になったものなのか、柴小屋館とは別に小斎氏が存在したのか、そのいずれとも決し難い。」としています。しかしながら、城内の説明板に天正4年7月に伊達方の攻勢を予期して、主郭や堀切等を整備したとあり、この地が小斎城だった可能性が強いと思われます。天正4年8月に伊達輝宗は伊具表に出馬し、小斎を攻め翌年12月の講和まで相馬方が当地を死守しています。
 2郭西側の虎口AとBは、かなり技巧的な連続虎口で、どちらの勢力が構築したものか、定かではありません。相馬の築城技術はかなりのものですし、伊達氏も連続虎口を用いています。ただ、どちらかといえば、伊達氏の手によるものの可能性が高い感じですかね。
 天正12年(1584)に相馬との講和がなり、伊具郡南部が伊達領となり、さらに天正17年に宇多郡北部が伊達領となり、境目としての城館の役割を終え、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となったようです。廃城後も当地は、仙台藩の「在所」(※1)とし軍事上、治安維持上の要所として機能していたようで、領主は佐藤氏が伊達家臣一族(※2)1000石とて幕末まで続いています。
 ※1  藩内の要地におかれ、軍事的・政治的重要性、城館・屋敷の規模から城・要害・所・在所の区分がされて
     いた。   
 ※2  伊達藩の家格は、一門・一家・準一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出・平士・組士・卒の順序でした。佐
    藤氏は、22家ある「一家」の家格でした。 

イメージ 3主郭に向かう登城路ですが、主郭にある八重垣神社の参道と思われますので、往時の城道ではないと考えられます。イメージ 4








登城路を登って最初の遺構の3郭です。藪っていましたので、中には入ってはいません。イメージ 5

主郭東下の台形状の平場で、馬屋跡の表示があります。説明では、三十頭程の馬を飼育出来る馬小屋があったと。3郭とは空堀で隔てられ、陸橋が架かっていたようです。イメージ 7
  八重垣神社→





イメージ 6

八重垣神社の建つ主郭で、東西約50m南北約30mの長方形の郭です。イメージ 8






主郭西南の内枡形虎口です。この枡形は、江戸期に麓の佐藤屋敷からの短縮ルートとして設けられたものと考えられます。右手の土塁上に「陸橋跡」の表示板があり、2郭との連絡は、この陸橋を通っていたものと思われます。イメージ 9







イメージ 10



主郭側から見た陸橋跡
2郭側から見た陸橋跡
2郭側に大手門跡とあり、ここに木戸(門)あったのでしょう。また、「結びの御門」とも呼ばれていたようで、登城路の道筋も記載されていますので、後ほど触れたいと思います。イメージ 12

主郭と2郭の間の堀切Bです。上巾10m程で深さは7〜8m程です。(目測で?です)この上に木橋が架かり、堀底は道だったようです。イメージ 13







2郭で、東西約60m南北30m程の広さで、西北端に搦手門、西南端に土塁。この土塁は虎口Aとに架かる橋台と思われます。イメージ 14

2郭西北端の搦手門跡です。2郭へはここから入ったようです。また、清水沢(西下の谷間か?)へ通じる間道があったようです。 イメージ 15





イメージ 16

2郭西下の堀切Cです。深さ10m程で急峻な切岸で降りるのに苦労しました。説明板に伊達勢の攻めを防ぐため「天正4年7月17日相馬盛胤が佐藤為信、泉大膳を番頭として堀切普請を行った」とあります。
イメージ 18




堀切Cの西側の尾根の狭窄部に複雑に土塁を組み合わせた虎口空間を連続させています。馬出との捉えもあるようですが、連続虎口と見たほうがいいと思います。
イメージ 17
虎口Aで、堀切Cからは4〜5mほど高く、周囲を土塁囲みした枡形虎口です。
イメージ 19







虎口Bです。虎口Aから一度下り土塁で右に折れ登ります。狭い通路をアップダウンさせる仕組みのようです。イメージ 20


虎口Bの内部です。ここも土塁囲みになっています。

イメージ 21






西端の西舘城(説明板の名称)。相馬氏によって攻め落とされた小斎邑の領主小斎氏の居城だったところのようです。100m四方の広さがあり、土塁や腰郭などもみられますが、東側と比べると格段に防御力は低く、小屋掛けの場所だったのでしょう。
イメージ 22帰りは、西舘城からもと来た道でなく南に下る道を下りましたら、「杢郎道(もくろうどう)」に出ました。この道は、説明板によると、「昔は朱雀口とも呼ばれ殿様が通る道とも言われた。」もののようです。佐藤氏の居館が4代まで柴小屋館の西南中腹にあったので、この道を使ったのでしょう。






最後に城内の城道を推定してみたいと思います。 
イメージ 23イメージ 242郭東端の堀切B手前にある、大手門跡の説明板と、2郭西北端の搦手門跡の説明板から考えてみます。



これからすると.①堀切Bを堀底道として使う。②2郭へは搦手門が使われていた。厳重な西側の連続虎口から入り、2郭南の腰郭から堀切Bを通り、2郭北下から搦手門に至るという道筋が見えてきます。イメージ 25
図に書き込むと左図のようになります。
あまり当てのない推測ですので、参考までにご覧ください。

柴小屋館のある丸森町一帯には、伊達・相馬両氏の境目をめぐる壮絶な抗争時の城館がほぼ完存の形で残っています。ぜひ一度訪れてほしい地域です。






参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館
『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館
『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編 吉川弘文館
 

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陣林館

 陣林館は、丸森町大内字横手にある比高30m程の平山城です。天正9〜12年の相馬・伊達両氏の抗争時に、伊達方の冥護山館に対抗して相馬方が築いた陣城といわれています。北側約4kmにある相馬方の拠点である金山城の後詰として機能させたと思われます。西側の道路は、ホンの少しで相馬氏の本拠・宇多郡になり、この地点の確保は、伊具郡の金山・丸森両城への支援とともに領域確保の相馬の必死さが読み取れるようです。                                                                                                 訪城日:2018.10.18  晴れ
  イメージ 20城址へは、丸森市街より約7〜8km東進し、大内まちづくりセンターを目指します。案内標識を左折すると、すぐ右手が大内まちづくりセンターです。車は、大内まちづくりセンターの広い駐車場を使わせていただきました。登城口は、センターからまっすぐ東に進むと民家の横あたりから山に入る道があります。イメージ 1イメージ 2





                       
              登 城 口   
 伊達氏天文の乱(1542-48)の最中に、伊達氏の混乱に乗じて相馬氏が、宇多郡を領有し、さらに永禄期になると、伊具郡南部にも侵攻し主要城郭の小斎城・金山城・丸森城を奪い取り、伊具郡南部を領有する事態なっていました。イメージ 3
 そのため伊達輝宗(伊達氏16代政宗の父)は、失地回復のため天正4年(1576)頃から巻き返しに出ます。結果は、はかばかしくはなかったようで、領域の境目は変わってはいません。天正9年(1581)小方斎城主佐藤宮内が、相馬を離反して伊達に転じたことから伊達輝宗・政宗(初陣となる)が後詰し、相馬方も冥護山の陣を構え(西山館か?)ます。
 翌年、伊達方が冥護山に陣城(冥護山館)を築き金山城と宇多郡との通路の遮断を測ったため、相馬が大内村に陣城を築いたとされています。その陣城が陣林館と思われます。天正12年に周辺大名によるあっせんにより講和が成立し、相馬氏は、伊具郡南部を伊達氏に引き渡しました。そのため、陣林館も伊達氏の支配下に置かれたと思われます。その後の経過については不明です。ただ、天正17年に宇多郡北部の新地蓑首城・駒ヶ嶺城を急襲して落としていますので、その頃までは、境目の砦として使われたのではないかと思われます。
イメージ 4登城口から谷戸状の道を進むイメージ 5と虎口Aのところに出ます。ただ、この道が後世の作業道ならば虎口ではないのかも?これを右手に曲がり、さらに曲がりくねる道が続きます。

イメージ 6


谷戸状の道を抜けると城址南側に細長く続く腰郭状の平場に出ます。すぐ左手にイメージ 7一段高くなっていて上の郭(主郭南西端)に登れるようになっています。虎口Bです。


イメージ 8

主郭・2郭の切岸がかなりの高さで、ちっと登りづらいので、2郭東端の堀切1まで行きました。堀切1は、上巾14〜15mほどあるかなり大規模なものです。右手の3郭に登ってみました。
イメージ 9





3郭西端に3郭とは土塁で繋がる平場があります。松岡氏は、ここを堡塁(馬出)としています。2郭へは木橋を架けていたのでしょうか?イメージ 10


3郭で、削平はいまいちといった感じで、北東部に幅広の土塁痕が認めらられます。

イメージ 11





3郭北東下の堀切2です。この先にも段郭があるようですが、確認していません。イメージ 12



2郭で、75×25m程の広さです。西端に虎口Cがあります。松岡氏は、この虎口を「イメージ 13土塁と空堀を別々に食違いにしたユニークなもの」で、「私はこれと似たものを、ほかのどこでもまた記憶がない。」と。
確かに、食い違い虎口の中に空堀を設けてているのは見たことはないですね。非常珍しいですが、写真ではその姿を明確にお見せできないのが残念です。イメージ 14
イメージ 15










イメージ 16主郭で、かなり広いです。虎口は3箇所あり、土塁の痕跡は見当たりませんでした。木々が繁茂して郭内部の様子がいまいちわかりませんでした。
イメージ 17







主郭北側の枡形虎口Dです。ここも藪っていて写真でははっきりしませんが、かなり明瞭にイメージ 18形がわかりました。

外側からの虎口Dです。

イメージ 19







主郭北西の虎口Eですが、いまいちの写真です。



 伊達政宗が、天正17年に相馬氏の蓑首城と駒ヶ嶺城を攻め落とした際に、「両地近年相ヨリ被入念候哉、普請結構ニ候事、絶言句候」と相馬氏の普請の様を称賛しています。まさに、この城の虎口の巧みさは、宇多郡の駒ヶ嶺城にも匹敵するほどの技巧的なものです。写真が明確に撮れないのが残念ですが、是非行かれて観ていただきたいと思います。

参考文献
『中世城郭の縄張と空間』 松岡進著 吉川弘文館

『伊達政宗と戦国時代』 垣内和孝著 吉川弘文館


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