古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

信濃国北信

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 福平城は、別名溝口城とも呼ばれ、長野市戸隠栃原福平にある比高26mの平山城です。福平城は、戸隠神社の南側の裾花川右岸の比較的平坦な丘陵地帯で、旧戸隠村の中心部の栃原地区にあります。戸隠神社周辺のにぎわにとはほぼ無縁などこにでもある信州の山村といえます。とはいえ、古き時期より人々が住んでおり、中世の時期にかかわる小規模な城館があまた見られます。          訪城日:2018.4.13 晴れ
イメージ 1城址への道は、非常わかりにくく、更に道が狭い(普通車でようやっとの幅)です。説明しにくいですが、大昌寺前場バス停辺りから西に入り、道なりに進んで福平生活改善せんた―を目指します。その先の案内板を右に入ると、城址の手前に行けます。手前の畑の脇に駐車しました。軽自動車ならば、神社(2郭)まで行けます。

イメージ 2








 享禄年間(1528-32)に構築された平山城。文禄年間までにこの地を治めていた溝口伯耆守の居城といわれ、溝口城ともよばれる。一説には、じ治承年間(1180年頃)、今井四郎兼平が築いたとの伝説も残る。
 城跡は、南北400mにわたる丘陵を防御のために利用しており、戸隠地区最大の城跡である。今木八幡神社周辺を本郭とし、北側には、土塁や空堀の跡がよく残されている。
 この城を中心として、周囲にはいくつかの小城が築かれている。
         長野市教育委員会      現地案内板より
補足イメージ 4
弘治3年(1557)2月に落合備中守が守る葛山城は、武田軍の急襲を受け落城します。直ちに上杉勢は、反撃に出ています。①4月初めに長沼城から大倉城に退いた島津月下斎(げっかさい)の兵を鳥屋(戸谷城)に送り、小川・鬼無里方面の武田方の大日方氏に圧力をかけています。(『戦武』557)そして、j②4月18日に謙信が救援部隊を率いて山田要害・福島城を攻略して善光寺に向い、旭山城を再興している。(『上越市史』145、148)これが第三次川中島合戦です。
 この時期の善光寺平一帯は、上杉氏の支配下にあり、戸隠辺りは甲越両軍の境目だったと思われます。①の島津勢の鳥屋侵攻は、侵攻しやすい飯綱之北山麓を回り、戸隠から七二会に出たものと思われますので、福平城ある栃原地区も、上杉勢に席巻されたと思われます。その際、福平城の溝口氏をはじめとする栃原地区の武士たちは、甲越のどちらに組したかです。
 そのことは、晴信が弘治3年の葛山城攻めと同年7月の安曇郡小谷城攻めの際の感状を多く発給している先が、どうも当地の関わる武士のようで、その中に「溝口」や「春日甚之介」(戸谷城の春日氏の一族か)の名があり、更に小谷攻め感状では「溝口」の横に(包紙)「溝口又左兵衛門」とあります。(『戦武』543、566)このことからすると、溝口氏をはじめとする栃原の武士だちは武田に組したと思われます。
 ただ、永禄元年(1558)に柏鉢城・大岡城・東条(尼厳)城に籠城する甲斐・信濃衆に防備を厳とする城中掟を出していますので、この方面の防衛ラインはかなり後退させられていたようです。(『戦武』592)
  その後、永禄6年(1563)4月信玄が越後侵攻を意図したが、犀川の増水で渡河ではなかったため、飯縄山麓に軍用道路(棒道)を造らせます。(『戦武』820)どうもこの頃までに、戸隠辺りは、武田イメージ 3の支配下iになり、溝口氏も福平城に戻れたのではと、思います。
 その後の当城や溝口氏については、定かではありません。ただ、天正10年(1582)の天正壬午の乱に始まる上杉景勝と小笠原貞慶の攻防戦において、当地が境目に当たることから、上杉氏によって改修されたという可能性も考えられます。

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                    駐車地点からの遠景。

イメージ 62郭下の道からの駐車地点。奥に栃原地区の集落が見え、見通しはすこぶるいいです。

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2郭東下から登ってきました。この小道は、神社の参道のようです。今木八幡社です。イメージ 8

神社脇からの2郭です。広い郭で65×35m程です。






イメージ 9神社北側の主郭です。城址の神社の背後に土塁がよく見られます。それは、神社を造る際に土寄せを行ったことに拠るものなのですが、この土塁はそのようなものではないようで、主郭と2郭を区切るものとして作られたものと思われます。主郭と2郭を合わせて主郭としてもいいのかもしれません。
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当城最大の見どころの堀切1です。主郭と2郭を北から東にぐるっと取巻いており、堀切というより内堀(外側にも堀がある)と云った方がいいようです。イメージ 11



上巾30〜40m、長さはゆうに300m以上の感じです。形態は、箱堀のようで宮坂氏は勢溜りの可能性もあるとしています。高さが、10mもあろうかで、小田原城の小峯御鐘ノ台大堀切以上の感じもします。
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堀切1の北側の堀切2です。主郭部を2重の堀で厳重に防御しています。どうも北を意識した城のようで、川中島合戦時に武田が上杉に備え構築したものなのかな〜と。この北側の4郭と堀切3は見損ないました。とても残念!イメージ 13

帰りがけに見ました、3郭です。


わかりずらい場所にはありますが、素晴らし箱堀は一見の価値があると思います。





参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著

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 古城は、長野市戸隠宇和原にある比高30m(駐車地点より)の山城です。戸隠といえば、戸隠神社や蕎麦というのがすぐに思い浮かべます。今回は、戸隠神社のある所から南側の旧戸隠村の中心部周辺に点在する城館巡りで、時間があれば戸隠蕎麦も食したいと思っていました。この地域は、古くから開けていたようで、小規模な城館が点在しています。ただ、山間部で狭い道が多く、目指す城を探すのに結構難儀しました。
                                                  訪城日:2018.4.13 晴れ
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  長野市街から国406号を約12km西進、参宮橋で右折して県道86号に入る。やく2.3km先の織橋を渡り、すぐに右折し約500m先を左折して、奈良尾沢沿いに進むと奈良尾集落のバス停に着きます。そこを右折して450mほど進んだカーブが登城口(👇)になります。
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登城口がとてもわかりにくく、この辺を行ったり来たりしてしまいました。



 イメージ 4 当城についての史料や伝承は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりませ。ただ、この地域の城館の位置からしますと、南の裾花川から戸隠神社を経て越後に抜ける古道(戸隠往来裏街道)が楠川右岸沿いにあったと思われます。福平城のある辺りが戸隠村の中心部に当たり、当城が北の関所的な役割を持って築城、使われたのではないかと思えます。





イメージ 3


駐車地点から少し入るとすぐに城域に入ります。あまりはやく着きすぎて戸惑ってしまいました。(笑)そのためか、4郭と堀切1の確認がおろそかになってしまい、堀切1を横から撮り忘れてしまいました。これは、堀切1の2郭側の切岸です。イメージ 5







堀切1をよじ登りますと2郭です。北側から撮っていて、手前が巾4−5m、奥が巾10mで、長さが40m程の細長い三角形です。堀切2側に土塁がみられます。


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2郭からの堀切2と堀切3です。二重堀切ですが、堀切2は、溝といった感じで、堀切3は上巾7mのしっかりしたものです。
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↓主郭で西辺の南北40m、南辺の東西30mの不整形台形で南西に向けて高くなっています。北、西、南に土塁がみられます。
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イメージ 11上巾14mの堀切4です。主郭側の堀切の高さは10m程はありますが、南側がちっと低く、堀切といった感じはいまいちです。

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主郭からの3郭です。イメージ 13



主郭と2郭の東下(15m)にある5郭です。意外と広く、小屋掛けの場所かもしれません。イメージ 14







5郭に石積みが見られました。井戸のような感じもしますが、?です。



堀切などはしっかり造られている感じですが、郭内の削平はさほどではないです。どうも、緊急時に築かれた感じもします。ですが、遺構はよい形で残っていますので、一見の価値はあります。

参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著 

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霜台(そうだい)城

 霜台城は、城の峯とも呼ばれ、長野市若穂保科須釜にある比高300mの山城です。石積みのある城と聞いていましたので、訪れてみたいと思っていました。しかし、比高300mあり、一人ではちっときついかな〜と思っていましたが、城友のNさんがご同陣くださるとのことで行ってきました。       訪城日:2017.5.5イメージ 1
 城址へは、上信越道長野ICから国403号(旧谷街道)を東へ約8km行き、領家信号を右折して2.5km先の若穂隣保館を目指します。
 霜台城へは、ハイキングコースがあり(若穂太郎山トレッキングコースの太郎山南展望・史跡コース)、若穂隣保館の駐車場が使えます。平日に駐車する際は、隣保館に声をかけていただければと。




イメージ 2イメージ 3道路沿いには若穂隣保館の案内板がありませんので、向えの「丸文食品」を目印にするといいです。
登城口は、若穂隣保館の裏手の川向うです。

 霜台城は、標高720mの両側が急峻な尾根を利用して築城されている。城内には積石塚らしい遺構があり、それらの石を利用している。イメージ 4
 保科の豪族である保科弾正忠正利が延徳年中(1489-91)に築城し、居城したと伝えれ、居館は麓にある現在の廣徳寺の場所にあったといわれる。
 保科氏は代々弾正忠の職で、城名は弾正台の唐名である霜台からとったものと考えられる。城は善光寺平を一望できる場所にあり、足下には菅平を経て上州、鎌倉へ通ずる街道が走っている。戦いの備えと共に他社の侵入を監視する役目も果たしたものであろう。
 城は連郭式の山城で、切掘や土塁・石垣が設けられ、主郭のほイメージ 5かに5つの郭がある。南側には腰郭があり、西斜面には、前面の備えの小さな曲輪が20余ある。城から北側に少し下がった所に水の手(水場)があった。また、この霜台城址からは、焼けた小麦などが発掘されたと伝えられている。
 霜台城は保科氏の要害城として築かれたが、のちに相当大がかりな改修の手加えられた可能性が高く、戦国末期まで使われたものと思われる。          
 平成28年4月 若穂太郎山トレッキングコース愛護会保科支部
                             現地説明板より                         
※補足
 長享年中(1487-88)に坂城の村上政国が高井郡に兵を出し、西隣の大室氏を降し保科正利を攻めたともいわれます。そして、敗れた正利は子の正則とともに、伊那郡高遠に逃れ、村上氏に降った次男の左近将監に保科氏の旧領が与えられともいわれます。
 村上氏が、武田氏に攻められ没落した後は、武田氏に従い、武田氏滅亡後は上杉氏に従っています。天正壬午の乱後の天正12年5月に保科豊後守が上杉景勝より稲荷山留守居役を命じられています。そして、文禄3年では、保科佐左衛門(豊後守の養子)が稲荷山留守居役で540石であった。この流れからすると、若穂保科氏が、戦国期を通じて当地を領したことがわかります。
 このことからすると、当城の築城時期などは、定かではありませんが、保科氏による築城は確かといえるようです。
 登城口から比高で100m程登ると出城の保科前ノ山砦に着きます。直前の急坂はきついですが、休憩を兼ねての観察となり、いい位置にあります。
イメージ 6イメージ 7イメージ 8
 





単郭で背後に土塁・堀切(上巾5m)といった単純な造りです。大手筋への関門と眼下の街道監視の役割を担っていたものと考えられます。ただ、前面に防御施設が全くないのが気になりますが、東西と南の斜面がかなり急斜面ということで設けなかったのでしょうか。

 イメージ 9前ノ山砦と霜台城の中間地点にある弾正岩です。畳10枚位は敷かれる巨石で、保科弾正忠正利の名を取って名が付いたようです。イメージ 10
 岩の上に立つと保科扇状地全域と保科大笹道を眺望できますので、見張り台として使われたと思われます。イメージ 11
 
 
 向えに加増城や和田東山城が見え、保科大笹道を挟んで築かれているのがわかります。 イメージ 13



 
 前ノ山砦から比高で200mありますが、緩やかな坂道を登るのできつさはあまり感じられませんでした。途中の西斜面に巾2〜3mほどの段郭がいくつも見られます。耕作地の跡なのか城にかかわるものなのかは定かではないようです。



イメージ 12 城域西端の6郭で、上の5郭の石積みが見えます。
イメージ 15










イメージ 14 5郭で、削平された10×17mの広さで、周囲を割石の石積みが見られる。イメージ 16




イメージ 17
4郭の壁で上部に石積み。   
5郭南側の石積み。南側の方がしっかりと残っています。イメージ 18
 4郭で、ここも周囲を石積みで固めています。





イメージ 20

 4郭南側の石積みですが、何段にも積み重ねているようです。

 イメージ 19




 3郭と4郭の間に石を積み重ねた幅広の土塁状の高まりがあります。どうも古墳のようです。イメージ 21


 3郭で、ここも周囲を石積みで固めています。3〜5郭が改修されたところだったのでしょう。改修後の主郭は、ここ3郭ではないか思われます。イメージ 22






 
 3郭東側の上巾6mの堀切ア。イメージ 23




 2郭で、二段で南側が高いです。イメージ 24







 上巾5mの堀切イ。イメージ 25




 1郭で、台形で当城最大の郭です。改修前の主郭だったのではないかと思います。イメージ 26






 上巾7mの堀切ウです。
イメージ 27




 7郭です。奥の土塁は1郭西側のものです。イメージ 28






 城域最東の上巾7mの堀切エです。

参考文献
『信濃の山城と館 2更埴・長野編』 宮坂武男著
『信濃須田一族』 志村平治著

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屋代城-その弐ー

 屋代城の続きで、土砂採取された馬之背の南側にある主要部です。イメージ 1
 北西約3kmにある塩崎城からの屋代城です。善光寺平南の入口を千曲川の左岸は塩崎城、右岸は屋代城が押さえていたというのがわかる感じです。天文22年(1553)4月2日に屋代氏は塩崎氏とともに武田に内通します。この7日後、村上義清は千曲川左岸の支えの城、狐落城・荒砥城が相次いで落城したため、葛山城を捨てて上杉謙信を頼り越後に逃れます。狐落城・荒砥城の落城が直接の自落のきっかけとしても、領国北側の防御拠点の両城が武田方になったというのは、義清にとっては手痛い痛手となったのでしょう。
イメージ 2
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6郭からの屋代城の遠景です。土取りされた所イメージ 4








イメージ 5 まず目にするのが、上巾6mの堀切ウです。埋まっていてうっすら堀切があるな〜という感じですかな。イメージ 6







5郭群で、段差のある二つの郭が見られます。イメージ 7


上巾9mの堀切エで、右側6郭群の城壁は7〜8mある。堀切には土橋があります。イメージ 8






4郭群で、いくつかの段郭があるがあまり明確ではないです。イメージ 9

 
上巾11mの堀切オを3郭群から撮ったものです。はっきり土橋が見られますが、発掘調査ではこの土橋は後世に造られたものと分かったようです。そのため、4郭群までは、登城路として尾根上を通ったと想定できるようですが、ここから主郭までの道は現在みられるルートではなく側面の削平地群等を考慮に入れたルートも考えられるようです。
また、土塁の位置がちっと珍しいです。イメージ 10

 3郭群です。三つの郭があり、下の郭群に比べますと、郭がかなりはっきりとわかります。イメージ 11







主郭防御の最終堀切カです。上巾11mほどですが、2郭側の城壁が15m(途中に小郭)以上あり、更に東西に山裾まで続く長大な竪堀となっていて堅固な造りです。イメージ 12
 堀切オの所でも見られましたが、堀切の外側に土塁を設けています。通常、堀切に土塁を設けるならば、堀切の内側に設けます。ですが、屋代城では、外側です。掘った土の処理で盛ったとしても、攻め手の竪となってしまいますから、あまりよいものとは思わないのですがね。不思議に土塁です?

イメージ 13


 現在の2郭への登城路です。3郭群からの城道が定かではないようですが、堀切オの上の小郭経由で2郭というのが考えられますので、この道もありか?イメージ 14



2郭と一段高い主郭です。残さ地点に、破却時に埋められた空堀があったようです。堀切オ側に土塁があったようです。イメージ 15




主郭です。主郭と2郭は一体と考えてもよいのかもしれません、広さは25×65m程の広さです。主郭に土塁の痕跡が認められるようです。また、城壁に石積みが見られ、全周していたようです。
イメージ 16

主郭西側の石積みです。東側にもあるようですが、藪がひどくみていません。

イメージ 17





主郭背後で、ここも土取りが行われ破壊されていますが、竪堀bが残っています。




 屋代城は、天文22年(1553)頃屋代氏が本拠を荒戸城に変えて、廃城になったとされています。破却の跡ともあることから、そのことは考えられますが、城のある地理的位置などからするとその後も武田氏の番城としてや、天正壬午の乱の際には上杉氏が再利用した可能性もあるのではないかと思いますか?どうでしょうかね。

参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著
『長野の山城 ベスト50を歩く』


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屋代城-その壱ー

 屋代城は、千曲市大字屋代にある比高95mの山城です。かなり前(10年ほどかな?)に一度訪れたことがありました。そのためか、登城口前を何度も通っていましたが、再登城する気もなく通り過ぎていました。今回、同行者のM氏の希望もあって行くことになりました。訪れて気が付いたのは、以前の訪イメージ 1城はどうも奥の主郭まで行っていないということで。土取りされている処で引き返していたようです。主郭に至るまでのものすごい堀切に驚かされ、主郭側面の石積みの素晴らしさを見せられ、改めて屋城城の良さを発見できました。M氏に感謝です!
 右の写真は、かなり前に長野道姥捨SAによった際に撮ったもので、屋城城から虹がきれいに立ち上がっています。あまり見られない珍しい景色だと思います。
           訪城日:2016.4.25  晴れ

イメージ 2 城址へは、千曲市街中心部の国18号粟佐信号を東に入り、国403号を直進して(神社先で国道は左折しますが)しなの鉄道の踏切を渡ったすぐ右手の一重山公園入口を目指します。公園入口が登城口で、そこに駐車で来ます。


イメージ 3








 
 屋代城は、一重山全域に城郭施設を設けた山城です。尾根筋に12の曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は堀切や竪堀で遮断されているが、土橋で連結しているところもある。曲輪の周囲の斜面には、この城の大きな特徴である雛壇状の腰曲輪(削平地)が設けられている。主郭の周囲には、土留めの石垣が積まれている。
 この屋代城は、15世紀後半代の応仁・文明の乱のころ、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、海野・井上氏と抗争し、その必要性から屋代氏によって築城されたと考えられている。天文22年(1553)4月に、村上義清の拠点狐落城・葛尾城が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。この戦乱の中で屋代氏は武田方に転身するとともに屋代城を去って、新たに与えられた荒砥城を拠点とすることとなり、屋代城は廃城となったと推定される。屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と次々に主人を変えた典型的な戦国武将といえる。
 こうした地方武将の居城であった屋代城は、戦国末期の改造の手が加えられていない。また、屋代城の特徴である雛壇状の腰曲輪は、信濃の城郭の一つの標準型であり、重要な山城である。
  千曲市指定史跡   千曲市教育委員会                   現地案内板より
イメージ 4 登城口ですが、一重山公園などの説明板などはありますが、城址への表示は全くありませんね。
 奥上の一段高い所が、一重山不動尊で10郭です。
イメージ 5





9郭で、墓地になっています。イメージ 6


矢代神社のある8郭です。50×20mほどの広さがあり、城址北側では最大の郭です。ここからの見晴しはとてもよく、東の戸倉方面、北の善光寺平が一望できます。イメージ 7



上巾10mほどの堀切アです。東西に長大な竪堀tが、当城の特徴なんですかね。イメージ 8





 7郭で、2段になっていましたかな?イメージ 9




上巾9mの堀切イです。イメージ 10

 



 6郭です。南西端に櫓台跡と思われる一段高い平場があります。この先(南側)は土砂採取で削られていますが、かっては御岳社がありかなり広い郭だったようです。イメージ 11

6郭東下に落ちる竪堀aです。宮阪氏の図によれば100mはあるようです。イメージ 12







 約100mにわたり土砂採取れています。宮阪氏が採取される前にいかれているようで、それによると馬之背と呼ばれる平場があったようです。けっこう急な斜面で高さは15m程はありそうです。イメージ 13
 急坂を降りますと、こんな感じの平坦地になります。長さ70m程ですか。

 宮坂氏は、「屋代城が今のような形になる以前には北部に砦が築かれ、やがて屋代城が築城されるに及んで、この砦も取り込んで各地用されたものと考えられる。」と。ちょうどこの土砂採取されたところを境にして、造りが微妙に違う感じはあります。どちらが先にあったかは定かではないので、何とも言えませんが、宮坂氏の云われることは首肯できる意見だと思います。

この続きは、-その弐ーで。

参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著
『長野の山城 ベスト50を歩く』


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