古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

信濃国北信

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春日山城

 春日山城は、長野市七二会御射山にある山城です。城址内まで車で行けます。戸屋城の説明板では、鎌倉期に地頭として入った春日氏が最初に居城としたのがこの春日山城であると。しかし、城というより屋敷地といった感じです。                                           訪城日:2018.9.28 晴れ
イメージ 1城址へは、長野市街より国19ごうを西進し、明治橋を過ぎた先の瀬脇信号を右折して道なりに市場集落を目指します。そこから西に向かう:県道401号に入り、約3.5km先で右手上の道を進むと神社に着きます。
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                               春日山神社の鳥居 この手前に 駐車できます。  

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春日山城は、御射山の頂上にあり、鳥屋からは南西800m程です。展望はよく、春日氏が治めた春日郷21ヶ村を一望でき、鎌倉期の在地豪族が居館を設けるとすると良い立地だと思えます。戸屋城の説明板では、室町時代初期の延徳元年(1489)に要害の地である戸谷城に移ったとあります。

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駐車地点から南西方向の景色です。左下が笹平城の辺りで、雲に隠れていますが遠くに北アルプスが望めます。

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神社手前は広い平場です。城址柱や「宝徳元年領主春日氏寄進夜燈」があります。


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  宝徳元年領主春日氏寄進夜燈                    城址標柱             木花咲耶比売命の碑

イメージ 10春日山神社の社殿。春日山神社は、春日三郷21ヶ村の総鎮守です。由来は分りませんが、春日氏が戸屋城に移った後創建されたのでしょうか。

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社殿のある辺りは、少し低くなっていて、西側が一段高い所(土塁?)があり、木花咲耶比売命の碑(蚕神)が祀られています。イメージ 12

南東の広場として使われているところです。かなりり広い空間です。


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夜燈のある東側に展望台があり、そこからの景色です。吉窪城や川中島方面が一望できます。



参考文献

『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著

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戸屋城

 戸屋城は、長野市七二会地蔵堂にある比高15m(駐車地点より)の山城です。萩野城のあるやぐら峰から南に下る丘陵の末端部にあり、かって春日氏が治めた七二会が一望される地にあります。鎌倉期より戦国末までの長い時期にわたり当地を治めた春日氏の本城です。                  訪城日:2018.9.28 晴れ
イメージ 1城址へは、長野市街より国19ごうを西進し、明治橋を過ぎた先の瀬脇信号を右折して道なりに市場集落を目指します。そこから西に向かう:県道401号に入り、約1.5km先で右折して500mほどで登城口につきます。車は、その近くに路駐しました。

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               登城口


イメージ 3春日氏は、伴野庄春日郷(北佐久郡望月町春日)の地頭であった。この七二会の地に移り住んだのは鎌倉時代のことである。初めは岩草村の春日山城を居城としたが、室町時代初期の延徳元年(1489)に、橋詰村の険阻なこの場所に戸屋城を築き居城とした。その所領は、ひがしは
七二会の
論地から西は梅木、念仏寺、長井など中条村の一部までにおよび、その一帯を春日郷と総称した。有名な川中島の戦いの折には、武田信玄が小川の大日方氏に宛てて春日氏を味方に味方に誘ってほしいていう文書を送っており、武田方として奮戦した。武田氏滅亡後、上杉景勝に属し慶長3年(1598)には上杉景勝とともに会津、米沢と移っていった。その地でも代官として重く登用された有徳な武城であった。
弘化4年(1847)の善光寺大地震により上下橋詰村の人口787人家160軒のうち、潰れ家60軒焼家1軒半潰れ6軒40人死失(むしくら日記)イメージ 4とあり、未曾有の被害を被った。そのとき平地であった本丸跡は、現在のようにゆがんだ地となり、前のところは崩れ落ちたと伝えられている。築城当時はもっと広い場所であった。    
                                                      現地説明板より


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登城口のすぐ先から主郭北側に続く段郭があります。5段ほどで、途中に民家(3郭)があります。


イメージ 6主郭南端から撮ったもので、東屋のある所は土塁の残りのようです。地震でこの西側が下がったといわれるようですがよくわかりませんでした。イメージ 7



主郭南西下の腰郭。


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北側の2郭(畑)と3郭(民家)



川中島方面が膠着状態にある中で、鬼無里・戸隠から信越国境の柏原を繋ぐ脇往還が甲越両軍の攻防が行われています。そのような攻防戦の中で、戸屋城は、柏鉢城と共に武田勢の重要拠点として機能したと思われます。

参考文献

『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著


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笹平城

 笹平城は、長野市七二会(なにあい)笹平にある比高15mの丘城です。当城は、戦国期に七二会から旧中条村にかけて21カ村三千貫を領した春日氏の戦国末期の本城といわれます。今回は、この春日氏の諸城めぐりとして七二会地区を訪れました。                                      訪城日:2018.9.28 晴れ
イメージ 1 城址へは、長野市街より国19号を西進し、犀川にかかる明治橋を渡り、笹平トンネル手前を左折して笹平集落内の正源寺を目指します。城址は正源寺背後の段丘上にあります。
 車は、お寺の駐車場に停めさせていただきました。









イメージ 2犀川左岸の七二会・旧中条村を領した春日氏が、戦国末武田氏滅亡後に上杉氏に就いた頃に長らく本拠にした戸屋城から当城に移ったとされているようです。ただ、築城は、近くの春日丘神社が天文22年(1553)に創建されていることからその頃なのではないかと宮坂氏は推察しています。慶長3年の上杉氏の会津移封により春日氏も会津に移ったため廃城となります。


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お寺の駐車場よりの城址遠景です。イメージ 5



御屋敷に登る小道の途中から正源寺を撮ったものです。正源寺は、春日氏の菩提寺です。
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御屋敷の南側の小道の先の虎口。イメージ 6





御屋敷を西側から撮ったものです。畑地として利用されていたようで、それらしき遺構は、見当たりません。イメージ 7





御屋敷のほぼ中央の木の下にある春日氏の墓碑。正源寺を中興開基した春日右衛門満喜とその夫人のもののようです。

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ない遺構の中で、かろうじて残された遺構が北斜面にある竪堀かと思いましたが、よくわかりませんでしたね。
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西側にそびえる城山です。ですが、城郭的なものは無いようです。

春日氏が戸屋城から笹平城に移ってこの地に築城したのは、戦の世が収まりつつある中で、険阻な山奥の本拠地では、地域支配が貫徹されにくいことがあってのものと思われます。



参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著 

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 福平城は、別名溝口城とも呼ばれ、長野市戸隠栃原福平にある比高26mの平山城です。福平城は、戸隠神社の南側の裾花川右岸の比較的平坦な丘陵地帯で、旧戸隠村の中心部の栃原地区にあります。戸隠神社周辺のにぎわにとはほぼ無縁などこにでもある信州の山村といえます。とはいえ、古き時期より人々が住んでおり、中世の時期にかかわる小規模な城館があまた見られます。          訪城日:2018.4.13 晴れ
イメージ 1城址への道は、非常わかりにくく、更に道が狭い(普通車でようやっとの幅)です。説明しにくいですが、大昌寺前場バス停辺りから西に入り、道なりに進んで福平生活改善せんた―を目指します。その先の案内板を右に入ると、城址の手前に行けます。手前の畑の脇に駐車しました。軽自動車ならば、神社(2郭)まで行けます。

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 享禄年間(1528-32)に構築された平山城。文禄年間までにこの地を治めていた溝口伯耆守の居城といわれ、溝口城ともよばれる。一説には、じ治承年間(1180年頃)、今井四郎兼平が築いたとの伝説も残る。
 城跡は、南北400mにわたる丘陵を防御のために利用しており、戸隠地区最大の城跡である。今木八幡神社周辺を本郭とし、北側には、土塁や空堀の跡がよく残されている。
 この城を中心として、周囲にはいくつかの小城が築かれている。
         長野市教育委員会      現地案内板より
補足イメージ 4
弘治3年(1557)2月に落合備中守が守る葛山城は、武田軍の急襲を受け落城します。直ちに上杉勢は、反撃に出ています。①4月初めに長沼城から大倉城に退いた島津月下斎(げっかさい)の兵を鳥屋(戸谷城)に送り、小川・鬼無里方面の武田方の大日方氏に圧力をかけています。(『戦武』557)そして、j②4月18日に謙信が救援部隊を率いて山田要害・福島城を攻略して善光寺に向い、旭山城を再興している。(『上越市史』145、148)これが第三次川中島合戦です。
 この時期の善光寺平一帯は、上杉氏の支配下にあり、戸隠辺りは甲越両軍の境目だったと思われます。①の島津勢の鳥屋侵攻は、侵攻しやすい飯綱之北山麓を回り、戸隠から七二会に出たものと思われますので、福平城ある栃原地区も、上杉勢に席巻されたと思われます。その際、福平城の溝口氏をはじめとする栃原地区の武士たちは、甲越のどちらに組したかです。
 そのことは、晴信が弘治3年の葛山城攻めと同年7月の安曇郡小谷城攻めの際の感状を多く発給している先が、どうも当地の関わる武士のようで、その中に「溝口」や「春日甚之介」(戸谷城の春日氏の一族か)の名があり、更に小谷攻め感状では「溝口」の横に(包紙)「溝口又左兵衛門」とあります。(『戦武』543、566)このことからすると、溝口氏をはじめとする栃原の武士だちは武田に組したと思われます。
 ただ、永禄元年(1558)に柏鉢城・大岡城・東条(尼厳)城に籠城する甲斐・信濃衆に防備を厳とする城中掟を出していますので、この方面の防衛ラインはかなり後退させられていたようです。(『戦武』592)
  その後、永禄6年(1563)4月信玄が越後侵攻を意図したが、犀川の増水で渡河ではなかったため、飯縄山麓に軍用道路(棒道)を造らせます。(『戦武』820)どうもこの頃までに、戸隠辺りは、武田イメージ 3の支配下iになり、溝口氏も福平城に戻れたのではと、思います。
 その後の当城や溝口氏については、定かではありません。ただ、天正10年(1582)の天正壬午の乱に始まる上杉景勝と小笠原貞慶の攻防戦において、当地が境目に当たることから、上杉氏によって改修されたという可能性も考えられます。

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                    駐車地点からの遠景。

イメージ 62郭下の道からの駐車地点。奥に栃原地区の集落が見え、見通しはすこぶるいいです。

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2郭東下から登ってきました。この小道は、神社の参道のようです。今木八幡社です。イメージ 8

神社脇からの2郭です。広い郭で65×35m程です。






イメージ 9神社北側の主郭です。城址の神社の背後に土塁がよく見られます。それは、神社を造る際に土寄せを行ったことに拠るものなのですが、この土塁はそのようなものではないようで、主郭と2郭を区切るものとして作られたものと思われます。主郭と2郭を合わせて主郭としてもいいのかもしれません。
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当城最大の見どころの堀切1です。主郭と2郭を北から東にぐるっと取巻いており、堀切というより内堀(外側にも堀がある)と云った方がいいようです。イメージ 11



上巾30〜40m、長さはゆうに300m以上の感じです。形態は、箱堀のようで宮坂氏は勢溜りの可能性もあるとしています。高さが、10mもあろうかで、小田原城の小峯御鐘ノ台大堀切以上の感じもします。
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堀切1の北側の堀切2です。主郭部を2重の堀で厳重に防御しています。どうも北を意識した城のようで、川中島合戦時に武田が上杉に備え構築したものなのかな〜と。この北側の4郭と堀切3は見損ないました。とても残念!イメージ 13

帰りがけに見ました、3郭です。


わかりずらい場所にはありますが、素晴らし箱堀は一見の価値があると思います。





参考文献
『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著

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 古城は、長野市戸隠宇和原にある比高30m(駐車地点より)の山城です。戸隠といえば、戸隠神社や蕎麦というのがすぐに思い浮かべます。今回は、戸隠神社のある所から南側の旧戸隠村の中心部周辺に点在する城館巡りで、時間があれば戸隠蕎麦も食したいと思っていました。この地域は、古くから開けていたようで、小規模な城館が点在しています。ただ、山間部で狭い道が多く、目指す城を探すのに結構難儀しました。
                                                  訪城日:2018.4.13 晴れ
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  長野市街から国406号を約12km西進、参宮橋で右折して県道86号に入る。やく2.3km先の織橋を渡り、すぐに右折し約500m先を左折して、奈良尾沢沿いに進むと奈良尾集落のバス停に着きます。そこを右折して450mほど進んだカーブが登城口(👇)になります。
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登城口がとてもわかりにくく、この辺を行ったり来たりしてしまいました。



 イメージ 4 当城についての史料や伝承は、ほとんど伝わっていないため、城の創築年代、存続年代、築城者及び在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりませ。ただ、この地域の城館の位置からしますと、南の裾花川から戸隠神社を経て越後に抜ける古道(戸隠往来裏街道)が楠川右岸沿いにあったと思われます。福平城のある辺りが戸隠村の中心部に当たり、当城が北の関所的な役割を持って築城、使われたのではないかと思えます。





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駐車地点から少し入るとすぐに城域に入ります。あまりはやく着きすぎて戸惑ってしまいました。(笑)そのためか、4郭と堀切1の確認がおろそかになってしまい、堀切1を横から撮り忘れてしまいました。これは、堀切1の2郭側の切岸です。イメージ 5







堀切1をよじ登りますと2郭です。北側から撮っていて、手前が巾4−5m、奥が巾10mで、長さが40m程の細長い三角形です。堀切2側に土塁がみられます。


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2郭からの堀切2と堀切3です。二重堀切ですが、堀切2は、溝といった感じで、堀切3は上巾7mのしっかりしたものです。
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↓主郭で西辺の南北40m、南辺の東西30mの不整形台形で南西に向けて高くなっています。北、西、南に土塁がみられます。
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イメージ 11上巾14mの堀切4です。主郭側の堀切の高さは10m程はありますが、南側がちっと低く、堀切といった感じはいまいちです。

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主郭からの3郭です。イメージ 13



主郭と2郭の東下(15m)にある5郭です。意外と広く、小屋掛けの場所かもしれません。イメージ 14







5郭に石積みが見られました。井戸のような感じもしますが、?です。



堀切などはしっかり造られている感じですが、郭内の削平はさほどではないです。どうも、緊急時に築かれた感じもします。ですが、遺構はよい形で残っていますので、一見の価値はあります。

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『信濃の山城と館 2 更埴・長野編』 宮坂武男著 

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