古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

信濃国中信

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埴原城ーその弐ー

埴原城の続きになり、2郭から東側の遺構です。
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※縄張図は、宮坂武男著『図解 山城探訪』から借用し、説明のため加筆しています。赤線は、今回の見学コースです。


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2郭南中央にある虎口3です。周辺に石がごろごろあり、石積みの虎口だったと思われます。

イメージ 4イメージ 5

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虎口3の東側の切岸にある平石積みの石積みです。二段の石積みは、残存石積みの最東にあり、高さは3m程です。2郭周辺の斜面に石が散乱していることから石積みが全周していたと思われます。

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虎口3から入ると2郭です。50×13〜5m程の広さで2段になっていて、東側を囲むように高土塁が巡っている。イメージ 8



2郭上段東側の高土塁。

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1郭で、ここも2段なっていて、背後に大堀切の堀切2があります。1郭と2郭が主郭部と思われ、一番安全と考えられる1郭が居住区で、2郭は戦時の司令塔の役割を持つ郭だったのではないかと思います。
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水場まで戻り、東へ向かいます。1郭から派生する尾根の中腹にある虎口4です。福原氏の指摘がなければ何気なく通過してしまうところです。土塁状に残されたところを直角に折れさせています。イメージ 12





虎口5へ向かう右手下にある畝状竪堀です。4条ありますが、その一つです。畝状竪堀は、写真に撮るのが難しいです。これは、きれいに撮れています。イメージ 11



堀切2の手前(南端)にある虎口5です。通路をクランク状に屈折してしています。イメージ 13







堀切2ですが、上巾が測れないほどの規模です。

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違った角度からの堀切2です。

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堀切2の東側斜面に設けられていね畝状竪堀です。竪堀が迷路のように掘られていています。これは、東がに続く尾根が主郭部より高くなり、敵に占拠されないようしたデットスペースとして畝状竪堀を設けたものと考えられるようです。

 埴原城は、広大な城域でとりあえず主要部を回ってきましたが、まだ見どころが多々あるようですので、また訪城して見てきたいと思います。

参考文献
『信濃の山城と館 4松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男著 戎光祥出版
『長野の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版


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埴原城−その壱ー

 埴原城は、松本市大字中山にある比高約220mの山城です。ここへは、ほぼ10年ぶりぐらいの訪城になります。改めて縄張り図を見ましたら、こんな虎口・堀切石積みなどは見てないな〜と。いやはやいい加減なもので、で 再訪問しなければと思い至り、再訪城となりました。           訪城日:2017.11.25  晴れイメージ 1
 城址へは、登城口の蓮華寺を目指します。長野自動車道塩尻ICを出て、国20号を西に向かい桟敷信号で右折して県道63号に入り、約9km北上し、右手に城址案内板がありますので、そこを右折して道なりに進む纞華寺につきます。城址専用駐車場があります。城址へは、寺の左手の道を行きます。







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 埴原城についての関係史料はなく、築城主体や時期は全く不明ですが、背後の宮入山や高遠山を越えれは小笠原氏の本城(林大城・小城)のある入山辺の谷に繋がり、また、信濃府中(深志-松本)の南(諏訪・木曽方面)の入口に当たることから、小笠原氏の軍事拠点として築かれたと考えられるようです。時期としては、天文年間の武田氏との抗争期か天正10年の天正壬午の乱のあたりが考えられます。宮阪氏は、武田に備えて府中小笠原氏が築城し、その後武田氏も使い、天正壬午の乱の際に小笠原貞慶が現在の形にしたと。福原氏は、天正壬午の乱に「小笠原家貞慶によって一時期に築城された可能性がある」としています。

※縄張図は、宮坂武男著『図解 山城探訪』から借用し、説明のため加筆しています。








イメージ 3専用駐車場(写真右手横)のある蓮華寺です。この背後に城址があり、登城路は、寺の左側の道を登って行きます。イメージ 5


蓮華寺から堀切1ー3郭を通って主郭に向かう道が大手道のようです。今回は、大手道を通り、1郭・2郭のある主要部と北尾根を回ってきました。滞在時間は約3時間でしたので、残りの4尾根を回りますと、ほぼ丸1日かかる感じでいかね。当城は、大規模な山城の多い長野にあっても抜きんでて、遺構の残りもほぼ完存しています。

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イメージ 6蓮華寺から数分で御屋敷跡といわれている平坦地です。この先に鹿対策の柵がありますので、扉の開閉はしっかりしていきます。

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堀切1の手前、大手道の途中に2段ほどの小平場がみられます。行きには気付きませんでしたが、下りの方角(写真)から見ると段差が明確でどうやら大手道の関門の出郭なのではないかと思えます。宮坂図には載っていませんが、福原図にはありました。

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西尾根の堀切1で、上巾10m深さ5mです。ここから西側の尾根に堀切や平場かありますが、今回は行っていません。イメージ 9



福原氏は、「段差を利用した虎口のような構造になっており、ひじように技巧的な遺構である。」と費用化しています。堀底道だったのでしょうが、右手の平場沿いに土塁があり、左手上にも平場ですので、大手を守る重要な防御地点だったのでしょう。
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堀切1の上部の段郭ですが、主要部から派生する5本の尾根に隙間なく設けれらているようです。イメージ 11





3郭の虎口1です。何の変哲もない平虎口のようですが、上部の段郭や3郭側面からの横矢がかかるようです。
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大手筋の防御拠点と考えられる3郭です。さらに、南方面の防御の要の郭でもあるようです。南側の尾根も見どころが多そうでしたが、未訪です。
イメージ 133郭上部の段郭です。この辺りもみると面白いようですが、ここも未訪です。次回の楽しみかな。

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虎口2です。登城路をS字に掘り窪め、防御の張り出しを設け、更に虎口に石積みを施しています。実に凝った造りで、つい見とれてしまいました。イメージ 15
虎口2を内側から見てたもので、石積みが見えます。拡大したものがイメージ 16






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水場が途中にあり、「お姫様の化粧水」の標柱が立っています。この少し上で道が二手に分かれ左手に行くと主要部。右手は、主要部背後の大堀切です。イメージ 18





まずは、左手の道を登り主要部を目指しました。その途中にある帯郭です。この先を進むと西後や方面のようですが、未訪になっています。
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ようやっと、2郭の虎口3が見えてきました。大きめの石がごろごろ転がっています。石積みが崩落したものと思われましたが、そのまま虎口に入ってしまいまして、虎口の右奥の石積みを見過ごしてしまいました。(貴が次後で見ましたが)イメージ 20



2郭で50×13m程の広さがあり、奥に見えるのが高土塁です。

この続きは、−その弐ーで。




参考文献
『信濃の山城と館 4松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男著 戎光祥出版
『長野の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版


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青柳城

 青柳城は、東筑摩郡筑北村青柳東山・麻績村野口にある比高230m(搦手の駐車場が主郭と同じ標高ですので、こちらから行けば比高0mとなります)の山城です。当城には度々訪れていましたが、麓の清長寺(青柳氏居館)をに入ったことがありませんでしたので、訪れ見ようと思い来てみました。お城はスルーするつもりでしたが、せっかく来てみていかないのももったいないという貧乏人のオタク根性がふっと湧いて訪れてしまいました。(笑)以前に訪れた際は観光客が結構いられましたが、土曜日というのに誰もいませんでのびのび?と見てきました。まぁ〜、このくそ暑い(気温が30度をはるかに超えていました)時期に、わざわざ来るのはかなりの変人なのかもです。 
                                          訪城日:2015.7.25  晴れ
イメージ 2 城址へは、長野自動車道麻績ICから、国403号を西に向かい、約4.6km先で左折してJR坂北駅を目指します。駅からは、案内表示があり、途中にある碩水寺などを目安に農道・林道を進みますと、青柳城址公園の駐車場につきます。駐車場の向いに模擬櫓門があり、登城口になっています。イメージ 1







 清長寺の館跡・その下の寺小路の両側の侍屋敷・青柳城山の山城を合わせた中世の城館である。始は坂北村全部と木村城の大部分を本領にしていた青柳氏の城であった。 小笠原氏滅亡後、武田信玄は川中島への拠点として改修し天文22年(1553)に、ここに10日間泊まっている。武田氏滅亡後は小笠原貞慶がまた川中島への拠点とした。
  天正11年(1583)4月から翌年までの1年間小イメージ 3笠原貞慶と上杉景勝との間で、ここと麻績城の取り合いが4回繰り返された。天正15年青柳氏が滅亡して、小笠原氏の家臣松林氏が在番している。
実戦の行われた数少ない城のうちのひとつである、山城には武田・小笠原氏の改修により、各時代の特色が残っている。     現地案内板より
 イメージ 4     
 模擬櫓門から斜面を少し降りていくと左手に竪堀があります。100mほどの長大な竪堀のようです。この辺からが城域になるかな。


 


  長大竪堀ともに搦手を守る二重堀切です。尾根の鞍部になった地形をうまく生かして作られています。
搦手口から1本目                        搦手口から2本目  
イメージ 5
イメージ 6←上巾15m

→上巾30m





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 搦手の二重堀切から尾根上に登ります。自然地形の細尾根で郭というより通路として使われていたのでしよう。2本の薄めの堀切が設けられています。イメージ 8







 「堀切と堀底土橋」の表示のある所の堀切。上巾12mで結構な堀切で、岩を砕いて掘ったようです。イメージ 9

 5郭手前の二重堀切(上巾17mと4m)でかなりの規模で、堀底から5郭の壁も優に10m超あります。堀切に続く竪堀もかなり下まで掘り込められているようで、主要部の南斜面(大手道あり)への敵兵の侵入を厳重に遮断しています。イメージ 10





 二重堀切の壁を登り、5郭虎口への道。虎口左手に土塁があり、堅固に造りイメージ 11になっています。



    イメージ 12
 5郭虎口で、山城によく見られる坂虎口で左手に土塁を伴う張り出しになっています。(内側からの5郭虎口→)イメージ 13

 4郭で、5郭からは土橋を渡ります。本来は4・5郭は一つの郭だったイメージ 14のを改修で分割したものと思われます。




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 4郭から見た主要部で、手前の窪んだ平場が3郭です。8×10mの方形で麓の館からの大手道が登り着く郭で、枡形といってもいいのでしょう。たどり着いた敵は、両側の一段と高い郭から攻撃され殲滅される仕組みのようです。復元の冠木門の位置は違う感じですが、門の形態はこんなものだったと思われます。イメージ 16


 3郭に入る大手坂虎口。麓の青柳氏館(清長寺)からの大手道がここに至り、途中には段郭が何か所か設けられているようです。イメージ 17





 
 3郭から左手の坂虎口をのぼると2郭です。すぐ上が主郭ですが、主郭東斜面にある石積みは、この郭から見ます。イメージ 18


 当城最大の見どころで、主郭東下壁にある布目積みの石積みです。往時は全周していたのではないかといわれていますが、現在はここの壁にしか残っていません。戦国末の小笠原貞慶時代に改修されたものといわれています。松本入山の山家城と共に素晴らしい石積みを残していまして、見ごたえのあるものです。
 主郭虎口で、虎口右手に高1.5m程の土塁がみられます。
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イメージ 19 主郭を東(虎口)から見たものです。一番奥に櫓台があり、52×17mのほぼ長保系の形をしています。




 櫓台からの眺めはまことに持って素晴らしいものです。手前に青柳・麻績、奥の山々は北アルプスの峯が連なっています。
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 この青柳の地は、西の松本平と東の善光寺平を繋ぎ多くの街道が集まる交通の要衝です。そのため度々争奪の場となり、特に天正10年〜13年にかけての天正壬午の乱では、松本の小笠原氏と越後の上杉氏が度々当地をめぐり抗争を繰り広げました。そのため、青柳氏や麻績氏は、両勢力のはざまで生き残る道を模索しました。そのような歴史を古城を訪れて思い巡らすのもいいものだと思いますね。

参考文献
『信濃の山城と館 4松本・塩尻・筑摩編』 宮坂武男著





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清長寺青柳氏館

 清長寺青柳氏館は、筑北村青柳にある居館跡です。青柳城へはたびたび行っていましたが、居館跡には訪れることもなく終わっていました。夏場のこともあり、あまり汗のかかない平場の所かよいと思い、訪れてみました。                           訪城日:2015.7.25  晴れ   
イメージ 1 居館跡へは、長野自動車道麻績ICから、国403号を西に向かい、約4.6km先で左折してJR坂北駅を目指します。駅からは、案内表示がありますので、清長寺に行けます。途中の町屋が青柳宿です。お寺の手前に駐車場があります。
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    宿場からの青柳城遠景
イメージ 3清長寺
 天正元年(1573)青焼城主青柳伊勢守頼長が開基。最初やや北方の里坊の地に、父清長の菩提を弔うために創立した。後に小笠原氏が青柳氏を滅亡させたあと、居館跡の現在地に移して整備したといわれている。近江守清長が中興した碩水寺の末寺で曹洞宗の古刹。寺の墓地には、清長・頼長の奥方の墓がある。清長・頼長父子の墓は、本寺碩水寺裏の墓地の最上段にある。
               現地案内板より
 青焼宿は、北国脇街道の宿場で青柳氏が戦国期に居館を現在の清長寺境内の地に移し街道をかぎの手に曲げて、その両側に町屋や侍町を形成したようです。現在の姿は、青柳氏没落後に松本城主石川康長が街道を整備して、伝馬役を定め宿場に定めました。(現地案内板より)イメージ 4
 青柳宿の街並みで、駅方面から下イメージ 5町・中町・横町と約600mあるそうです。→傾斜地にあるため石垣の上に家を建てています。水路がその石垣の下を通っていますちょっと珍しい構造です。イメージ 6




 横町の道から東側に入ると、寺小路呼ばれる道を進みます。寺小路の両側は、堀が並行して流れていますので、屋敷の地割りがなされていたものと思われます。お寺手前に「侍屋敷跡」の石碑が立っています。イメージ 7



石碑の左手上に車を止めました。寺小路が大手道思われますので、寺に突き当たって、左に折れれると鐘楼門があります。往時のままなのではないかと思います。イメージ 8




 鐘楼門です。イメージ 9 





清長寺本堂です。お寺は無住のようです。結構あれていますが、建物もそれほど傷んでいませんので、何らかの形で残していただきたいものと思います。イメージ 10

本堂の裏手に青柳氏の墓地があります。説明板には、清長・頼長の奥方の墓があるとのことですが、どれがそれなのかわかりませんでした。
イメージ 11←本堂左手に青柳城への登城路の標識がありました。ここから行きますと、比高230mと、結構な登りです。

 大切通し
イメージ 12 清長寺から見える大切通しです。
善光寺街道随一の名所。天正8年(1580)に青柳伊勢守頼長により切り開かれた。元禄11年(1698)には「長さ13間5尺、横8尺5寸、高1丈」と記され、その後享保元年(1716)、明和6年(1769)、文化6年(1809)三回にわたって切り下げが行われた。右側の岩上方には普請記録と馬頭観音が刻まれている。この先には小切通し(麻績村堺)がある。
 二つの切通しの開通により通行が容易になり、「善光寺道名所図会」には「是に依て旅人并に牛馬の往来聊も煩はしき事なく野を越え山を越して麻績宿に至る」と記されている。現在の大きさは長さ27m、巾3.3m、高さ6m。 現地案内板より
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 この大切通しは、予想外すごかったです。これほどのものかとは思いもしませんでした。これは一見の価値がありましたね。
参考文献
『信濃の山城と館 4松本・塩尻・筑摩編」 宮坂武雄著

             

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奈良井城

 奈良井城は、塩尻市樽川奈良井にある比高50mほどの段丘面にある丘城です。今回、奈良井宿を訪れて、宿場の観光地図に当城の位置が載っていましたので、やはり城跡があるならばいかざぁ〜なるまいと思い、訪城してきました。                     訪城日:2015.7.20 晴れ
イメージ 1 城址へは、国19号線沿いの奈良井宿を目指してください。駐車場は左図のP1の道の駅がいいです。(P2は、有料駐車イメージ 2場で、城址へはちっと遠いです。)












イメージ 3 奈良井城は、説明板によると「奈良井治部少輔義高居館」のようです。義高は、木曽福島主木曽義康の弟とも、また、洗馬の武居城主三村氏の子ともいわれるようですが、定かではないようです。ただ、天正12年(1584)3月頃徳川方小笠原貞慶に備えて贄川に在番していた義高が、小笠原貞慶に内通したとて義昌に成敗されています。この事件は、その後奈良井氏と関係の深い贄川氏や千村氏らが義昌を恨み逆心を企て、小笠原氏にナイツするといったことになります。このことからすると、義高が小笠原に内通したということはなく、秀吉の誘いに乗り徳川方を離反した義昌の疑心暗鬼によるものだったのではないかと思えます。

 イメージ 4奈良井城は、奈良井宿や街道を監視・防衛する拠点として機能していたものと思われます。同じように他の木曽路10宿にも言えるようです。ただ、中山道は、慶長7年(1602)以降に徳川氏によって整備され、江戸期以降は街道監視・防衛の城は廃城となっています。
 東美濃から信濃への道は、古代からの東山道がありました。美濃国坂本駅(中津川市駒場)から神坂峠(信濃坂)を越えて信濃国阿智駅(下伊那郡阿智村駒場)に下り、天竜川沿いを遡上します。この道は、比高千mを超える急峻な神坂峠越えの難儀な道だったようです。
 木曾谷の道が、いつごろから整備されたか定かではないですが、戦国期に入り木曽氏が木曽郡をほぼ一円支配するに至り、領国内の道路整備(軍事・物流)をしたものと思われ、更に木曽氏を支配下に置いた武田氏が下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・藪原・福島の7宿に伝馬制を設けます。



イメージ 5イメージ 6宿場内の水場の横から山手に入って行きます。イメージ 7



少し先の十字路を直進します。イメージ 8




突き当りを右手上に登りますと城の堀切(道状)が右手にあります。

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上:北側から撮ったもので。右手下がカツ沢です。
横:西側から撮ったものです。かなり立派に堀です。
 郭は、60×50mほどの広さで土塁痕などは見当たりません。イメージ 11



ここから鳥居峠に行けるようで、表示に「市道鳥居峠線(至鳥居峠)」とありました。
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 南西の稲荷社方面で、こちらが大手筋だったようです。

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 奈良井の宿は、宿場の雰囲気がよく残り、落ち着いた風情が楽しめます。土産物屋も地物が多く、名物の漆器も手ごろな値段で買えますのでお得ですね。
 おそばもおいしいお店がありますが、帰りがけに本山宿の「山本そばの里」に寄ってきました。↓
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参考文献
宮坂武雄著『信濃の山城と館 4松本・塩尻・筑摩編』
平山優著『秀吉の野望』





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