古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

信濃国南信

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的場城ーその弐ー

 的場城の続きです。概念図を載せておきます。
イメージ 1
4郭の南面から2郭の西側イメージ 2直下まで横堀が巡らされています。






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4郭北側の3郭で、長さ30m幅6〜7m程の通路状の郭です。両側の5mほど下に横堀(西側)と腰郭(東側)があります。イメージ 5






3郭北端の右手を進むと、坂虎口の2郭東虎口(虎口4)です。イメージ 6


2郭は、37×10m程の長方形状の郭で、土塁が全周しています。虎口は二か所で西側の虎口は枡形状、東側は平虎口です。西虎口は、西側の横堀外縁の狭い土塁上を通路として主郭や4郭に繋がるメインのルートに繋がっています。東虎口は、4郭から3郭に繋がる城内路のものだったのでしょう。イメージ 7



郭内からの東虎口(虎口4)で、土塁の様子が見とれるかと思います。イメージ 8






西虎口(虎口3)で、よく撮れていないのが残念です。イメージ 9




西虎口を横堀に出たところです。4郭から横堀の土塁上
が通路となっているようですが、このルートに侵入した敵は、100mを越える距離を2・3・4郭からの横矢にさらされます。イメージ 11



横堀沿いに竪堀が何本かあり、その中の一つです。主郭・2郭の周辺には竪堀が集中していて、間隔は空いていますが、畝状竪堀群といってもいいようです。
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横堀沿いに進み、主郭北西下の三日月堀の手前です。イメージ 12




東側の三日月堀あたりから撮ったもので、腰郭の間に三日月堀があり、そこから竪堀が下っています。主郭へは、主郭の西側から南側に回り込んでいます。イメージ 13



主郭南の虎口で、あまりはっきりしません。虎口の左右に低い土塁が設けられています。イメージ 14
三日月堀から主郭虎口へ道


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主郭で、長辺約26m短辺約20mの三角形をしていて、土塁は虎口付近のみです。主郭ですが、櫓台的な役割の郭ではないかと。イメージ 16

東西の三日月堀の間にある腰郭から北の5郭へ行けます。往時のルートは定かではありませんで、主郭の背後を守る5郭とは遮断していたのではないかと思われます。イメージ 17








5郭を□方向から撮ったものです。右手は比較的高めの土塁で防御されていますが、削平は甘く、自然地形を残しています。



 的場城は、横堀を巡らし、そこから放射状に竪堀が設けられ、山梨の白山城や白馬の三日市場城などと類似することから、武田氏の関与がみられるというのが一般的に言われています。しかし、白山城は、武田氏の関与か疑われていることや、諏訪原城も巨大馬出が徳川によるものといったことが言われ、静岡の丸子城もどうも徳川の関与も言われるようです。横堀+竪堀のパターンが、武田氏のみのものかどうか、見直さないといけなくなってきているのかもです。
 それにしても、実に素晴らしい遺構が、ほぼ完存の形で残さていますので、高遠城にお寄りの際はぜひこちらの山城にも登城していただければと、思います。近くに、藤沢城・山田城・守屋山城など見ごたえのある山城もあります。

参考文献
『信濃の山城と館 5 上伊那編』 宮坂武男著 戎光祥出版
『長野の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『東国の中世城郭』 中世城郭研究会

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的場城−その壱ー

 的場城は、伊那市高遠町的場字城山にある比高160mの山城です。ここへは、以前2回訪れています。1回目は、10数年も前で登城路がわからず蓮華寺の背後からやみくもに登っり、藪に覆われたところをあちらこちら見ましたが、果たしてここが城址なのか定かではなかったです。2回目は、やはり蓮華寺の背後の斜面を登り、それなりに遺構を見ていました。今回は、前回下城した道が登城路であることがわかりましたので、そこから登城して、時間をかけてじっくり見てきました。                          訪城日:2018.4.12 晴れ
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 城址へは、諏訪方面から国152号を南下し、杖突峠の峠の茶屋より約7kmほどで、三叉路を右手に入り1.2km先の蓮華寺を目指します。蓮華寺奥にある絵島の墓の背後の用水沿いに500m(?)ほどにある木橋(絵島墓から4つ目)を渡り、20分ほどで尾根上の城址南端に着きます。
 車は、蓮華寺駐車場を借用させていただきました。

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    絵島の墓と墓の右手上の用水路入口



イメージ 15的場城についての史料は全く存在しないため、創築年代、存続年代、築城者及び在城者など、確かなことはわかりません。ただ、戦国期当地を領していたのが高遠氏ですので、高遠氏にかかわる要害なのではないかと推察されます。さらに、天文14年(1545)に武田氏の高遠侵攻で当地が武田氏の支配下に入り、天文16年に、伊那谷の拠点として高遠城が造られますが、その防衛拠点として当城が補強改修されたのではないかと考えられます。
 天正10,年(1582)織田勢の攻撃を受けて高遠城が落城します。その際に、的場城も攻撃を受けたと考えられ、ほどなく廃城となったと思われます。








イメージ 3絵島の墓から用水沿いを歩き、4つ目の橋です。ここから山に入ります。


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橋を渡ると谷地状の緩い斜面で、麓の番所を設けるに十分な空間です。また、対岸に杖突街道を望み、尾根への道も堀底道で往時の登城ルートのような感じですので、ここが大手筋と感じられました。
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尾根上に出て少し進むと、竪堀が右手に見え、左手も落としています。往時はもっと狭い道だったのでしょう。イメージ 6








少し進むと、土塁と竪堀で守られた小空間があります。大手の防御拠点なのでしょうか?イメージ 7

通路沿いの土塁の先の竪堀です。当城には数多くの竪堀がありますが、よくわかる竪堀です。

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4郭を取り巻く横堀です。
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横堀を渡り4郭の虎口1(南虎口)へ向かいます。


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坂虎口の虎口1です。イメージ 11
→郭内からイメージ 12
















↑4郭で、南北約50m、東西約25mの広さで、千畳敷と呼ばれるようです。周囲が土塁で囲われており、昭和54年の発掘調査で礎石が検出されているようです。当城最大の郭や土塁が全周していることからすると、居住空間で居館も想定でき、中心曲輪といえるようで、実質的な主郭だったのでしょう。
イメージ 134郭の虎口2(東虎口)で、東下の横堀・帯郭へおりる虎口です。イメージ 14










4郭東下の横堀です。


以上、4郭までです。この続きは、−その弐ーで続けます。

参考文献
『信濃の山城と館 5 上伊那編』 宮坂武男著 戎光祥出版
『長野の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
『東国の中世城郭』 中世城郭研究会

※上記の中に的場城の縄張り図が掲載されています。
『信濃の山城と館 5 上伊那編』では、宮坂武男氏です。
『長野の山城ベスト50を歩く』では、中井均氏です。
『東国の中世城郭』では、大久保健司氏です。

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西平(にしだいら)城

 西平城は、飯田市山本西平にある比高150mの山城です。飯田市山本は、飯田市南西約6kmにある小盆地で、木曾谷と結ぶ清内路街道、三河と結ぶ三州街道が交差する交通の要衝です。
                                           訪問日:2015.4.18 晴れイメージ 1
 城址へは、中央道飯田山本ICを降りて国153号を南に約1kmにある交差点を右折して高速道の下をくくって道なりに約1.4km先の浄玄寺を目指します。お寺背後の墓地横が登城口になります。駐イメージ 2車場は、墓地横のお寺の駐車場をお借りしました。

 城歴については、定かではありませんが、松尾小笠原氏の持城久米ヶ城の支城といわれています。当城にかかわる文書等はありませんが、当地にかかわる文書が残っています。天正3年と推定される8月10日付けの武田家朱印状(軍役覚書)−戦国遺文武田氏編2514−です。天正3年5月に長篠で武田氏を撃破した徳川家康の遠州侵攻の後詰に織田信長が伊那に攻め入ることを警戒して、高遠の保科正俊に高遠城・大島城を中心に伊那郡の防備をするように指示したものです。その中で「一、小掃者(※小笠原信嶺)、在所之人数悉召連、清内路口警「固」、自身者山本在陣之事、」「一、下条者、波合口、新野口以下貴賤上下共、人数悉召連警固、自身者山本在陣之事、」とあります。
清内路口は、小笠原信嶺と、波合口・新野口は下條信氏の手勢を置き、小笠原信嶺・下條信氏は山本に在陣させています。地下人には、「厳重ニ誓詞被申付、不可企逆「心之」旨被相定、然而山小屋へ入、或敵退散「砌歟」、或通路をさいきるへき時召出、挊可被申付事、」として、山小屋に入り通路を遮ることなどを指示しています。この時に、当城が使われたかの可能性が高いと思われます。また、織田信長の天正10年の甲斐攻めの際も、信嶺の内通で織田軍先陣の団平八・森勝蔵が妻子(妻籠)口から晴南寺(清内路)口へ攻め入り、「なしの(梨子野)峠へ御人数打ち上られ候処、小笠原掃部大輔手合せとして所々に煙を揚げられ」と『信長公記』にあります。木曽方面の備えとし清内路口に備えた武田氏でしたが、そこを守る国衆が降ったのでは防ぎようがありませんね。
 当城の規模からしますと、近くの久米ヶ城と共に信濃南端の国境イメージ 4を守る重要な拠点とし、松尾小笠原氏や武田氏によって戦国末まで使われていたと思われます。
 清内路街道は、右図のように飯田市山本から清内路村を通り、木曾谷の妻籠へつながる道で、みの道とも呼ばれています。木曾谷と伊那谷を結ぶ峠道はあまりなかったようで、この道も永正年間(1504-20)に下条氏が清内路関所を設け、弘治年間に(1555-57)に武田信玄が引き継いだとされます。しかし、それ以前から使われていたと思われますが、かなり古い道ですね。
イメージ 6
イメージ 5

 
 






    
 登城口から長く続く切通しのような道を比高で100mほど登りますと堀切アにつきます。ここからが城域と思われますが、途中の道の掘り込み方がかなりなものなので、何らかの関連があるのかもしれませんね。イメージ 3


 堀切イです。堀切アもそうですが、かなり薄めでかろうじて堀切とわかる程度の規模てす。イメージ 7







  4郭で、30×10mほどの広さがあり、南東尾根では、まとまった最初の郭です。イメージ 8


 4郭の背後にある上巾8mの堀切ウです。この辺りから本格的な城域になるようで、備えも厳しくなっていきます。イメージ 9






 上巾6mの堀切エです。
イメージ 10



 3郭で、20×10mほどの広さがあり、両側の斜面に腰郭が巻いています。大手筋を守る要の郭なのでしょう。
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 3郭と堀切オ(上巾9m)を2郭へ上る道から撮ったものです。イメージ 12





 堀切オから登ると主郭西下の通路状の帯郭に出ます。切岸の高さは、7〜8mほどあります。
イメージ 13



 2郭を主郭南端土塁上から撮ったものです。堀切カが埋まって写真ではよくわかり
ませんね。
イメージ 14


 
 主郭で、けっこう広くて80×20mほどで長方形の形です。イメージ 15





 主郭東側中央部に窪地と石積みが見られます。普通は、枡形虎口と考えられますが、宮坂氏は、「往古のものとは思われない。」としています。イメージ 16



 ここが虎口とすると、東の郭からですが、かなりの急斜面なので何イメージ 17らかの形跡がないか探しましたら、石段の痕跡のようなものがありましたね。イメージ 18


 北東尾根の遠景です。今回は、南東尾根から登り主郭部辺りを見ただけになってしまっています。当城が、主郭から派生する尾根筋のすべてに郭を設けて堀切で遮断していることからすると、ほんの一部しか見ていないことなり、再訪城しなければならないと思っています。
 大手が、宮坂氏は、南東尾根としていますが、主郭東下の段郭群からも想定できることなども再訪城で確認してみたいです。


参考文献
『信濃の山城と館 6 諏訪・下伊那編』 宮坂武男著
『長野の山城 ベスト50を歩く』 河合克造・三島正之・中井均編

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小出城

  小出城は、伊那市西春近城にある断崖城です。    訪問日:2014.3.19  晴れ
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 城址へは、伊那市街から県道146号を南下し、小黒川を渡った先を右折して、広域農道の山本信号に向かいます。そこを左折し、700m先で右折して少し行きますと、右手にこんもりとした森が見えます。そこが城址です。城址への道が狭いので、広めの道に路駐しました。 イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
         北側からの遠景
 
 
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 小出城のある地域は、鎌倉期から戦国期には小井弖郷と呼ばれています。その領域は、天竜川右岸の小黒川から藤沢川に至る南北約5kmで、鎌倉期には伊豆工藤氏の一族が地頭を務め郷名から小井弖(こいで)氏を名乗ったと思われます。
 小井弖庶流家(北郷家)に残る工藤文書(5通)から、小井弖郷北側の小黒川から戸沢川一帯は、分家の北郷家が開発し、領有していたものと思われ、その拠点的城館が小出城と考えられます。周辺には、あまたの城館が密集して小井弖氏の本拠地を形成しています。
 小井弖北郷氏は、室町期の諸合戦(中先代の乱・大徳王寺城戦・大塔合戦・結城合戦)にも参戦し、享徳2年(1453)頃婚姻関係のあった神氏(後の諏訪氏)の依頼を受け諏訪に移住したと云われています。戦国期にも武田家に属した小井弖氏がいたようで、当地で何らかのかかわりがあったものと思われます。また、当城は、戦国期までに拡張補強して使われてきたものと思われます。
イメージ 3 城址に向かっていきますと、堀アとウの合流地点に至ります。南に下る道は堀切だったようです。
 
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 中城で、主郭と思われ、55×40mほどの広さがあり、南と西側に土塁が残ります。イメージ 5
 堀アで、合流地点から西に行きますとこの道が堀切だということがわかります。
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 中城(郭1)と郭2の間にあるに二重堀切の堀イです。イメージ 8
 
 中城西側の西城で、二段で現在は畑地になっています。イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 
 郭4と5を北側から撮ったものです。
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 堀エで、用水路として残っています。
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 堀オで、ほんの一部が残る程度手した。
 
 
参考文献
現地案内板
宮坂武雄著『信濃の山城と館 5上伊那編』 
宮脇正美「小井弖氏館跡」(『信濃中世の館跡』)

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北の城・下の城

北の城・下の城は、上伊那郡宮田村中越にある平城です。訪城日:2014.3.19  晴れイメージ 3
イメージ 1 城址へは、国153イメージ 2号宮田村役場前信号で、東に入り、700mほどで左折して狭い道を用水(大沢川)に沿って、天竜川にかかる北の城橋て前です。北の城内に駐車場が設けられています。
 
 
 
 
 城歴については、定かではありませんが、宮坂氏は、在地の中越氏にかかわる城址と推定しています。中越氏は、鎌倉期末にはいたようで、戦国期に武田に組していたようです。
北の城
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イメージ 5 北の城は、主郭に虎口・土塁・堀が残り、南郭(現時様、畑地↓)の間の断崖地形が残ります。イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下の城
イメージ 7 下の城主郭で、周囲に低い土塁が取り巻いています。
 
イメージ 8
  主郭虎口と堀跡です。
 
 
参考文献
宮坂武雄著『信濃の山城と館 5上伊那編』 
 

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