古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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但馬竹田城−その弐ー

 竹田城の続きで、遺構編になります。下図は、城址説明板にある縄張図で、説明のため加筆しています。イメージ 4

イメージ 1 中腹にある駐車場です。以前はここまで一般車も入れましたが、現在は関係車両しか入れません。駅からのバスはここの手前まで来るようで、「天空バス竹田城跡バス停」があります。城址へは、舗装道を0.8km(約20分)歩きます。(トイレあり)
イメージ 2




 少し行きまイメージ 3すと表米登山道からの道が合流します。イメージ 5




 料金所です。以前はここまでかるまで来ることもできましたが。現代の関所ですかね。大人(高校イメージ 6生以上)500円で、中学生以下は無料です。まぁ〜、良心的な料金設定ですか。(トイレあり)駅裏登山道がここで合流します。城址碑を見たい方は、イメージ 7建物裏にありますので、見過ごさないように。



 大手口です。2折れで北千畳に入りますが、常に前面・右手からの横矢がかかる構造で、かなり堅固な造りとなっています。













イメージ 8 大手虎口を入ると右手に見えるのが北千畳です。かなり広い郭で、南千畳・花屋敷と同じ構造で馬出郭(※1)のようです。イメージ 9



 三の丸虎口です。かなり大きな石が使われていますが、算木積みは不完全のようです。イメージ 10






 三の丸から二ノ丸虎口の石垣。見学路が凸凹していてとても歩きにくいのですが、あまりに多くの人が訪れすぎて、表面表土の草がはげ、表土が荒れて流失したため、土のうを積んでいるとのことでした。イメージ 11



イメージ 12   二の丸虎口です。





イメージ 13 二の丸から見える本丸・天守台です。現在は遺構保存のため本丸・天守台イメージ 14へは入れません。










イメージ 15 搦手の花屋敷です。周囲に石イメージ 16塁が取り巻く長方形プランで肥前名護屋城の遊撃丸、倭城の西生浦城の郭(※2)に類似しているといわれています。
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 南二の丸からの本丸です。本丸・天守台は、土砂が流失して20cm近く低下しているようです。原因は、観光客急増で地面の下草がはげたことに拠るものと考えられるようです。イメージ 18




          
 南二の丸虎口辺りからの本丸です。かなり大きい石が積まれていて、見ごたえがありました。イメージ 19




 南千畳から本丸方向を撮ったものです。ここ出る見学ルートが設けられて、勝手に歩き回れませんでした。

 本丸に登れば、両尾根に連なる石垣の郭群が見事な姿を見せてくれますが、仕方がないですね。
イメージ 20

参考文献
『中世城郭事典 三』 1987年7月刊
『ひょうごの城紀行 下』 1998年12月刊
『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』 21015年3月刊

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但馬竹田城−その壱ー

 竹田城は、別名虎臥城とも呼ばれ、朝来(あさご)市和田山町竹田古城山にある比高110m(天空バス停からの比高で、駅からは比高250m)にある山城です。ここ最近、「天空の城」イメージ 2と呼ばれつとに有名になり、昨年の入城者が約58万2千人を数えるまでになり、石垣の一部の崩落や踏み荒らされる城道の土砂流失などの遺構崩壊の状況になり見学区域の制限(本丸・天守台・花屋敷への立入れ禁止)や入城料徴収(500円)が始まっています。また、城址大手口へのアクセスも一般車両は麓の駐車場において、徒歩・バス・タクシーで行くことになっています。
 今回で4回目?の訪城になります。初訪城は10年以上前で、中腹の駐車場にもあまり止まっている車もなく、城址の人影もまばらでした。それがツアーで行ける城址になっていますから驚きです。ですが、元々は観光用に整備された山城ではない所へ年間何十万人も訪れるスポットになってしまっては、城も荒れてきてしまうのは明らかですよね。山城に興味を持っていただけるのもいいのですが、年間何十万人では城址も持ちませんですね。 
                                           訪城日:2015.9.11 晴れイメージ 1
 城址へは、播但連絡道路和田山ICを降り、和田山市街に向かいます。中腹の駐車場は一般車両進入禁止ですので、JR竹田駅周辺の観光駐車場(二か所)か城址西側麓の「山城の郷」の駐車場に停めるしかありません。
登城コースイメージ 3
①徒歩では、駅裏登山道(約0.8km40分)と表米神社登山道(約0,7km20分+10分)の2コースあります。
②バスは、竹田駅から山城の郷経由で竹田城跡バス停(城址まで徒歩20分)があります。(運行機関あり)
お勧めは、行きに駅からバスで、帰りに駅裏登山道を下ってくるのがいいのかな。駅裏登山道が、大手道と考えられますので。                                


〈城址説明板〉
嘉吉年間(1441-44)、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に13か年を費やして築いたものと伝えられててきた。築城当時の城には石垣がなく、曲輪を連ねただけのものであった。それが現存の完成された城郭に整備されたのは、天正〜慶長初期と推定されている。
 城は築地後、山名の家臣太田垣光景がイメージ 4初代城主となったと伝えられ以後、太田垣氏は7代にわたりこれを守り継いだ。永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃を受け竹田城はついに落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。同8年(1580)桑山重晴が城主となり、13年には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀を竹田城主として入れた。広秀は、九州征討、朝鮮の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原惺窩との親交も厚く、領民二は産業を奨めて深く敬慕された。関ケ原の役には西軍に属した。関ケ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺で自刃して果てた。(現地説明板の内容を端折っています)
現地説明板の補足
 山名宗全築城説や太田垣光景初代城主説は、現在では否定されているようです。現在有力な説としては、応永6年(1399)に但馬守護代になった太田垣氏によって15世紀前半頃に築城されたされるようです。太田垣氏は、山名イメージ 5氏四天王(垣屋・八木・田結庄氏)とも呼ばれる有力国衆で、16世紀に入ると守護家山名氏が弱体化し象徴的存在となり、山名氏四天王が但馬の領国経営の実権を握ります。
天正期になり、但馬が西の毛利・東の織田の両勢力の境目になり、但馬国衆も両陣営に分かれ、太田垣氏は毛利方についたようです。天正5年に織田方に攻め落とされたが、上月城合戦や三木合戦を受け、太田垣氏が再入城しました。しかし、天正8年1月に三木城落城し、織田方の但馬攻めが始まり、同年5月に落城しました。
 イメージ 6天正13年、赤松広秀(斎村政広)が2万2千石で入封します。赤松氏の在城は、天正13年(1585)〜慶長5年(1600)の16年間です。この間に、現在みられる竹田城の遺構が造られたものと考えられ、それについて『近畿の名称を歩く』で竹田城を記述した谷本進氏がとても興味深い説を述べています。
 「現在の石垣をもつ竹田城の築城は、倭城よりさらに進んだ平面構成をしていることから慶長3年から5年と考えてる。時期的にみて、関ケ原の合戦に備えて豊臣政権が、大坂城を守る支城群の一つとして整備したものであろう。」さらに、瓦も「姫路系瓦工人集団が作ったという指摘があり、竹田城の構築には姫路城主を通じた豊臣政権の関与を推定している。」この時の姫路城主は、北政所の兄・木下家定ですので、この可能性が高いといえるようです。
 廃城は、赤松広秀が切腹し、赤松家廃絶の慶長5年10月以降の近い時期だったと考えられます。

参考文献
『中世城郭事典 三』 1987年7月刊
『ひょうごの城紀行 下』 1998年12月刊
『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』 21015年3月刊

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有子山城―その弐ー

 有子山城の本丸等がある山頂部は、下図の縄張りです。
イメージ 1
イメージ 2
 標高250m辺りから山頂部へ南側斜面を登っていきますと、初めにみられるのが、6曲輪(手前)と5曲輪の石垣です。石垣は部分的に構築され、本丸や3曲輪の石垣の積み方とは技巧的に少し異なるようです。
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 5曲輪の石垣です。
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  3曲輪の石垣を4曲輪虎口を入れて撮ったもので
す。まことに立派なもで思わず声が・・・ イメージ 8
 
 
3曲輪は、前面石垣で、高4.5mで、北西面の隅角を3回の鈍角のシノギ角積みにして曲げています。イメージ 13
 
3曲輪から本丸へ城道、とても興味深いものでしたね。この辺を探すのがお城訪問の醍醐味ですかな。3曲輪の虎口は2曲輪へアプローチのためかかなり窮屈になっている感じです。
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拡大 
 
 
 
    3曲輪から2曲輪へは、防御のためか両岸を狭めての坂虎口にしています。時代が進めばこの辺は石垣の枡形にするんでしょう。
 
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  2曲輪虎口からの本丸石垣です。
 
イメージ 3
 右手の階段が本丸虎口です。2曲輪は、虎口受けの曲輪といった感じですかな。
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 2曲輪から本丸北面の石垣です。奥に「折れ」が設けられ石垣下西方向を防御しています。また、この北面の石垣は、防御というより城下よりの視覚を意識した権威のシンボルの役割が高かったと思われます。イメージ 15
 
 
 
 
 
 
本丸で42×20mの広さがあり、南東隅に天守台が設けられています。石垣は北と西面にあり、南は「く」の字に折れた土塁が設けられています。イメージ 16
 
 
 南面の「く」の字に折れた土塁です。南面斜面の西方向からの攻撃の防御を意識しています。イメージ 18
 
 
 
 
 
 
 
 曲輪から大堀切・千畳敷へのルートです。3曲輪の石垣が延々と続いています。
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本丸と千畳敷の間にある大堀切で、上巾30m以上はあるようで、高さも20mはあり、じつに見事な堀切でした。
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千畳敷です。120×45mというだだっ広い曲輪で、小屋掛や貯蔵施設に使ったのでしょうかね。それにしても広かったです。
 
 
※「シノギ角積み」について
イメージ 20イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
↑3曲輪北西面石垣        本丸北面石垣で算木積→
石垣の隅角が直角ではなく、鈍角のものをシノギ角と呼ぶようで、古い時代の積方のようです。
 
 
イメージ 11イメージ 12
  最後に、駐車場の料金所でいただいた「見学コース」の紙に石取場が載っていましたので、見てきました。6曲輪から比高で20mほど下がった北斜面の7郭です。結構大きい石がごろごろとあり、その中に矢穴のある石も見られました。山頂部の石垣に使われた石切り場と思っていましたが、山麓の出石城の石垣に関わる石切り場だったようです。(堀口健弐氏よりお教えいただきました。)
 
参考文献
「ひょうごの城紀行 上」

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有子山城ーその壱ー

イメージ 1 有子山城は、豊岡市出石町内町にある比高310mの山城です。麓の出石城と一体となって機能していたが、ここでは区別して山頂部(標高321.5mの有子山)にある城址を紹介します。右の写真のように出石城の背後の山頂部に見えまして、「あれに登るのか」と思うと気もなえてきますが、行ってきました。訪城日:2013.4.10
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 城址へは、出石の町の中心部にありますので間違えないでいけるかと思います。駐車場は出石城前にある大手門前駐車場が便利かと思います。(駐車料金400円)登城口は、出石城に架かる左手(東側)の橋を渡って、稲荷神社参道の鳥居が連なる道を登っていけば着きます。
 左図は、出石城にある説明板に加筆しています。
 
 
 
 
 
 有子山城は、南北朝に「六分一殿」といわれた山名氏が天正2年に新たな居城として築城したのが始まりとされるようです。但馬国は、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にありました。山名氏は、長らく此隅山城を本拠地にしていましたが、永禄12年(1569)に羽柴秀吉に攻められ落城し、山名祐豊、氏政父子は堺に逃れました。ほどなく織田信長に通じて但馬に復帰して、天正2年に新たに有子山城を築いて本城とします。その名を落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したといわれています。
 しかしながら、毛利氏の攻勢や家臣団の分裂などで毛利・織田の両勢力の間で揺れ動き、天正8年(1580)の織田軍の第2次但馬攻略で羽柴秀吉に攻められ落城し、山名氏は没落します。その後は、羽柴秀長の家臣木下昌利、続いて青木勘兵衛が封じられます。天正13年(1585)には前野長康が但馬10万5千石として入城した。前野長康は文禄4年(1595)年の関白豊臣秀次の失脚に連座して子の景定と共に自刃、替わって小出吉政 が入封します。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の役で、小出氏秀政・吉政父子は西軍に与しましたが、東軍に与した吉政の弟・秀家の軍功により吉政は西軍に加担したことを許され出石の本領を安堵されています。吉政の嫡子吉英は慶長9年(1604)山麓の居館部を大改修して出石城を築き、有子山城を廃城としました。
 有子山城は、山名祐豊の築城されていますが、石垣の修築については、最近の研究により天正8年以降の織豊期に築かれたものとされていますので、青木氏〜前野氏の時になされたものと考えられますかな。
イメージ 3 出石城は、最上段に稲荷曲輪(稲荷神社があります)を置いて本丸・二の丸と階段状に曲輪を配置していまして、見学するには稲荷神社の赤い鳥居の参道を登っていきます。山頂部の有子山城へも稲荷曲輪まで行って左手にある登城口からです。
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稲荷曲輪に入る左手にあります登城口です。道案内板には、「あと980m」とありましたが、ここが標高50mですから比高からしますと「あと260m」登るわけです。
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 急斜面の細尾根の途中(標高170m)にある堀切に架かる土橋です。ここまでもきつい坂道でしたが、さらにここからがきつかったですね。
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 ↑ようやっと平場(標高235m)につきました。比高185mですが尾根筋の直登で経験した登りの中でもベスト3に入るきつさでした。
イメージ 9 山腹を行きますと、右手下に井戸曲輪が見えますが、下まで行っての確認は・・・無理イメージ 10ですね。斜面の崩壊を防ぐ石積みが見られます。はるか下に出石の町が見えますね。
 
 
 
イメージ 2
 
 山頂部の曲輪群の紹介は―その弐―でさせていただきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考文献
「ひょうごの城紀行 上」

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八木(土)城

八木(土)城は、養父市八鹿町八木にある比高300mの山城です。当城は、南東約450m離れた尾根続きの八木(石)城と一体をなすものと考えられ二城あわせて「八木城」と呼ばれますが、ここでは二城を区別するため八木(土)城としています。イメージ 1
 城址への行き方と城歴については、「八木(石)城」をご覧ください。
 なお、八木(土)城について補足しますと、八木氏時代にはすでに両城ともあったようです。ただ、八木(石)城の石垣や八木(土)城の食違い虎口などは八木氏退去後、天正13年(1585)に入った別所氏によって改修されたものと考えられています。
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  八木(石)城からは、比高で80mほど尾根を登ります。八木(土)城は、細尾根上に14段の郭を並べ.る(全長350m)連郭式の山城です。堀切1条、竪堀なしという山城としては珍しい縄張りです。写真は、郭9です。
イメージ 4 郭8から郭7を見ています。左手に消し残しの土塁があります。各郭は、段差をつけて設けられていて、最高地点に主郭があります。
 
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  郭4で、郭内に水たまりが見られ、井戸の感じです。三方を土塁で囲んでいますから井戸郭だったのかもしれません。イメージ 5
  郭4の水たまりを郭3から見た所です。ここでも右手(西)に土塁が見られます。
 
イメージ 6
  土塁が郭の西側に設けられ、その外側(西)に通路が設けられているのは、通路から郭内を見られることを防ぐとともに、街道から攻め寄せる敵方を想定したものと考えられます。
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 当城最大の見どころの郭2の虎口です。食違い虎口と思われますが、外枡形虎口との説明もあります。別所氏が土の城を改修したとされる所で、それ以外の所へは手をつけていなといわれます。実にいい形で残っていまして、虎口好きにとってはたまらんものです。
 郭3の土塁で進路を曲げ、城壁の西側から虎口に導いて3折れしての導入になっています。小規模な虎口ですが、実に技巧的造りになっています。
 
 
 
イメージ 8 主郭らの郭2で、右側に土塁が伸び、その先に虎口があります。
 
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 主郭で、16×12mのだ円形をしていまして、西から北にかけて低い土塁が見られます。
 
 
参考文献
八木城跡のパンフレット二部
(※城跡パンフレットとしては、秀作です。登城前にいただいていきますととても参考になります)
「ひょうごの城紀行下」

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