古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

島根県

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 5日目、出雲国に入りました。前日、境港のホテルに泊まったため、境水道対岸の島根半島にあるお城から始まります。
 訪城した城址の位置を地図に示しておきます。番号は訪城順です。イメージ 1
18.横田山城 松江市美保関町森山イメージ 2
 海岸沿いの独立丘陵に主郭・2郭を構える小規模な城ですが、境水道(中江瀬戸)を押さえる水軍城だったようで、尼子氏の軍事的・経済流通の拠点として機能していたようです。主郭虎口に石垣が認められ、関ケ原の戦い後に入封下堀尾氏によって会使用されたのではないかと推察されるようです。2郭と主郭の半分は草が刈られ見学も容易でしたが、主郭半分からの北側は藪のため入れませんでした。堀切や畝状竪堀があるようですが。

19.土居城 松江市上大野町イメージ 3
 島根半島のほぼ中央にあるので、横田山城からはかなりの距離(40km)になりますが、遺構が素晴らしいとのことで、訪城しました。規模は100×120m程ですが、精巧な縄張りと大規模な普請が見事に残っていて、見ごたえのあるお城でした。写真は、主郭と2郭を隔てる堀切ですが、堀底道として使われ、ここの中央から両郭へ上がるようになっています。ここに之、規模の大きい畝状竪堀がみられました。


20.白鹿城 松江市法吉町イメージ 4
 尼子氏の島根半島の戦略拠点で、雲芸攻防戦(1562-66)では激しい攻城戦が行われました。白鹿城を中核とする城砦群がありますが、当城のみの訪城です。登城口から安乗登らずに本丸跡に着きます。ただ、ここが主郭ではないようで、南東にある通称一の床が主郭になるようです。取り立てての遺構はありませんが、山城の雰囲気は感じ取れました。



21.富田城 安来市広瀬町富田イメージ 5
  松江城を見ずに一路南下しました。 20数年ぶりの再訪になります。当城の整備ぶりには驚かされました。山頂部や山中御殿の虎口がほぼ破城で埋められていたとのことですから、前の訪城ではきっと見ていなかったのでしょう。それを見れただけでも、とてもよかったと思います。

ここまでが、5日目です。

6日目になります。
22.佐世城 雲南市大東町下佐世イメージ 6
 佐世は、「させ」と読みます。独立丘陵に大きく二つの郭群がありますが、北側の公園化した所しか見れませんでした。南側は藪かひどく入れません。公園なので見やすいですが、かなりの改変がされていると思われます。写真の奥が最高所ですが、狭いこともあって一段低い所が主郭だったと思われます。





23.城名樋山城 雲南市木次町里方イメージ 7
 城名樋山は、「きなひやま」と読むそうで、今遠征ではフリガナを付けないと読めない白目が結構ありました。城のすぐ近くまで車で上がれ、駐車場も完備していました。駐車場から主郭に向かう途中の四重の堀切(写真)がみられます。今遠征では初めての多重堀切で、この地域では珍しい?のかもしれません。尾根先に郭を並べる連郭式の山城です。主郭は他の郭より高15m程高い位置にあります。


24.三刀屋城 雲南市三刀屋町古城イメージ 8
 三刀屋は、「みとや」と読みます。山稜の先端の最高所(城山)に主郭を置き、派生する尾根に階段状の郭を設けています。主郭や大手虎口に石垣(写真)がみられます。石垣は、堀尾氏時代のもののようです。公園になっていて、主郭まで来るまで行けます。






25.三沢城 奥出雲町鴨倉イメージ 9
 出雲南東部の山間部の急峻な山上にあります。ここも麓の登城口に駐車場があり、訪れやすいです。(ただ奥地です)登城口からすぐ上がった所が大手口で、人身大の巨石を用いた高石垣の虎口(桝形状)があります。城内は、よく整備され遺構も見やすかったです。



ここまでが、6日目です。

7日目は、夜に雨が降ったようで、朝方も小雨で2城予定していましたが、とりあえず最初のお城に向かいました。
26.佐々布要害山城イメージ 10
   松江市宍道町佐々布
 時折小雨がパラパラする中の訪城でした。丘陵の二つの突起部に郭群を配置する一城別郭の城です。藪でおおわれていましたので、遺構を明確に確認できませんでした。写真は、西郭群へ向かう大手筋通路です。幅広い丘陵部ですので防備が厳しいため、尾根が少し狭まった地点の両側を削り落としています。多勢の敵を渡らせない工夫なのでしょう。


 次に向かったのが金山要害山城でイメージ 11しが、
小雨はやむ感じではなかったので、登城をあきらめ、帰ることにしました。写真は、城の遠景です。



 因幡の若桜鬼ヶ城やこの金山要害山城を見ていませんし、更に石見の諸城も未訪の終わっていますので、時期を見つけて訪れ見たいと思っています。


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松江城ーその弐ー

松江城ーその壱ーの続きで、本丸周辺です。
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 三ノ門を入ると本丸南にある二之丸になります。二之丸は、二の丸御殿がありました。本丸には、御殿はなかったようで、築城当時から天守を中心とした詰の丸だったのではないかと考えられています。
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イメージ 3 二之丸御殿は、二段に分かれていたようで東側が一段低く、藩の政務や儀式をおこなった「御広間」や「下御台所」・「二之丸番所」などがあり、大手筋から見える位置に櫓(太鼓。中・南)や土塀を設けています。一段高い西側は、藩主が私的な接客や面会をおこなった「御書院」などかありました。(写真は土塀と太鼓櫓です)
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  右手の建物(お便所ですが)辺りに二之丸番所があったようで、奥に見える神社が一段と高くなっているのがわかると思いますが、二之丸西側です。
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  二ノ門跡で、右手上見えるのがに本丸一ノ門に連なる南多門櫓です。
 三ノ門からの一ノ門への城道は、3折れの複雑な動きを強要しますが、二ノ門・一ノ門とも方形の虎口空間を持ちませんで、枡形にはなっていません。元和期のような厳重な虎口構造と言えないもので、慶長期の特徴ともいえるようです。
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イメージ 8 本丸一ノ門前の空間です。二之丸より一段高い造りになっています。階段を上り左手に折れると一ノ門に至りますが、かなり広い空間を設けています。階段あたりに門が設けられれば典型的な枡形構造になるのですが、そうしなかったんですね。石垣は比較的大きめの石が随所に 見られ、かなり意識した造りのようです。
 一ノ門と南多門櫓の一部は、昭和35年(1960)に復元されたものです。
 
 
 
イメージ 9イメージ 10
 
 
イメージ 11 本丸は、築城時から御殿などは設けられていなかったようで、天守や6つの櫓(御武具・御祈祷・乾・鉄砲・坤・御弓)とそれをつなぐ太門(石垣上の多門長屋) がある詰の丸だったようです。
 天守は、望楼様式の4層5階、地下1階で入口防御に付櫓を設けている複合望楼型天守です。土台の石垣は牛蒡積みで、壁は下見板張といったぐわいでかなり武骨な姿ですが、実戦的な天守といえるようです。
 天守に行ってもあまり中に入りませんが、今回は行ってみました。そこで、少し珍しいものを
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地下一階にある深さ24mある井戸。天守に井戸があるのもちっと珍し之かな〜
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「箱便所」とあり、殿様用の雪隠とのことです。ここの中に狭間があるのがおかしいです。天守に雪隠があるのを見たのは備中松山城でも見た記憶がありますが、あまり見ないです。松江城狭間は、袋狭間と呼ばれているようです。
 
イメージ 14 本丸北西端にある搦手の北之門。門の右側にある石垣は乾櫓跡です。門を出ると水の手御門まで広めの帯曲輪があります。
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  水の手御門で、2折れの虎口ですが、枡形虎口にはなっていません。イメージ 17
水の手御門外の「キリキリ井戸」跡です。イメージ 16
 
  本丸東下帯曲輪の石垣で、野面積みの石垣がみられました。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18堀川めぐりの発着場で、大手前にあり乗ってきました。。堀川めぐりは、城を囲む堀川を45分ほど遊覧するもので、内堀・外堀からお城や城下を楽しむのどかなものでした。9時から15分間隔で出ています。大人1200円、小人600円。イメージ 19
 コースの中で、唯一天守がみられるところで左手が北総門橋です。 イメージ 20
  舟が二之丸下段東側を通った際にこのような刻印を多く見かけました。これは、堀尾家が築城時に、土木工事を円滑・組織的に行うために付けた記号と思われ、扇紋です。このほかに分銅紋・鱗紋・雁紋などがあります。 
 
 
 
参考文献
「松江城研究1」 松江市教育委員会
 
 
 
 
 
 

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松江城ーその壱ー

 松江城は、別名千鳥城とも呼ばれ、松江市殿町にある比高20mほどの平山城です。以前といっても十数年も前に訪れたことがありましたが、今度寝台列車(サンライズ出雲)で出雲大社への旅のついイメージ 3でに訪れてみました。城址の隅々までの探訪とはなりませんでしたが、本丸周辺と堀川めぐりで満喫した松江城でした。
 
 
 
 
 
           訪城日:2013.9.27 晴れ     写真:「松江城研究1」より借用しています。 
史跡   松江城                               昭和9年5月1日国指定
 堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ケ原の合戦で武功を立てた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は慶長5年(1600)出雲・壱岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
 しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
 築城工事は、慶長12年(1607)から足掛け5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360m、南北560mあり、周囲に幅20〜30mの内濠をめぐらす。
 標高28.1mの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米倉が立ち並んでいた。
 その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山の南には三之丸(今の県庁付近)があり藩主の御殿があった。
 石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
 城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が十代続き一度の戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えた。
 明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇願により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。            
                                  昭和55年3月 松江市教育委員会
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※上記の城地図は、本丸内ある現地説明板からのものです。
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 宿泊先が、宍道湖畔のホテルでしたので、南側からの紹介になります。本丸などのある主要部の南側に三之丸があり、二之丸とは千鳥橋(廊下橋)でつながっています。三之丸には御殿がありましたから、殿さまが千鳥足で渡ったなんて言うことから名がついたかどうかは?ですがね。現在は島根県庁の建物が立っています。
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 大手口に向かう時に見られるに二之丸東側の見事な高石垣と櫓・多門です。高石垣は高10mある打込ハギで、櫓・多門は南側から南櫓・中櫓・太鼓櫓で平成13年に復元されたものです。
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 大手口の大手木戸門跡で、城址碑や堀尾吉晴像もあります。ここに市営の大手門前駐車場があり、堀川遊覧船乗り場もあり便利です。
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 大手虎口前の馬溜です。ここ大手虎口が、大手門前に広大な前庭空間を設け、見るものを圧倒する構造になっています。これは、慶長期に築城された城郭の特徴の一形態といえるようです。
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 大手門跡です。説明板には、「江戸時代の絵図・文献史料によると、長さ8間(14.5m)幅3間半(6.4m)のしゃちほこをつけた大きな門」とあります。礎石も地下50cmi見つかっているようで、今あるのは復元展示のもののようですね。イメージ 8
 
 
 
 大手門を入ると二之丸下段の曲輪で結構な広さがあります。米倉などが立ち並ぶところだったようです。二之丸帯曲輪の石垣が、左手に見え、屏風折れになっています。
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二之丸下段から二之丸帯曲輪に向かう大手道で、見るものを圧倒します。道幅や左手の高石垣と太鼓櫓の景観は、権威と格式を意識した特別な登城路として設けられたものなのでしょう。
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 大手木戸門から二ノ門までの城道を図にしておきます。
 二之丸上の段に入る三ノ門跡です。本丸へは右に折れ二ノ門を過ぎ、さらに一ノ門をくぐらなくてはなりませんで、複雑な厳重な造りになっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
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イメージ 11            三ノ門跡                            二ノ門跡
本丸や堀川周りは、その弐になります。
 
参考文献
「松江城研究1」  松江市教育委員会
「日本名城図鑑」  理工学社
 
 
 
 

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