古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

紀伊国(三重県)

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鵜殿城

 鵜殿城は、南牟婁郡紀宝町(旧鵜殿村)にある比高40mの平山城です。熊野川の河口左岸にあり、対岸は新宮で、当地を領した鵜殿氏は、熊野別当家の出といわれています。
                                           訪城日:2014.2.4  晴れ
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 城址へは、新宮市街から熊野大橋を渡り、国42号を1.5km東進(矢渕中から150m)し、左折すると「ふるさと歴史公園」でと登城口になります。駐車場・トイレも完備しています。
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イメージ 4 当城の築城時期や築城者については定かではありませんが、14世紀の中頃には既にこの地を領していた鵜殿氏が築城したと考えられます。鵜殿氏は、熊野別当家の出といわれ、熊野川河口と外洋(熊野灘)に接する鵜殿の湊を根拠地にして熊野水軍の一翼を担っていたと思われます。南北朝期初め、南朝に味方し、興国3/康永元年(1342)に土佐の花園宮に加勢して同国幡多郡の諸城を陥れた功労で綸旨で賞されていますのも、はるばる海を越えての遠征も熊野水軍を要していた証といえましょう。その後、鵜殿氏が北朝に転じたことで、永徳2/弘和2年(1382)に南朝方の北山勢に当城を攻められ、交戦数日後に撃退したことから、14世紀後半には当城があったことがわかります。※
 戦国期の鵜殿城については資料もなくわかりませんが、鵜殿氏は、享徳3年(1454)木本の有馬氏と阿田和で合戦したこともあるので、ある程度の勢力を保持して戦国前期に至っていたと思われます。15世紀中ごろから、新宮の堀内氏が台頭し、奥熊野へ侵攻するよう中で堀内氏に属するようになったと思われます。なお、一族の中で三河の鵜殿氏を頼った者もいたようです。
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 城址東側の「ふるさと歴史公園」駐車場から撮ったものです。山上の展望台あたりが城址になります。イメージ 5
 主郭南の堀切です。下の公園からは5分ほどてつきます。 手前側に腰郭とおぼしき平場があり、左手下にも平場か見られます。                イメージ 6 主郭で、20×30mほどのだ円で、低い土塁が全周しています
 
 
 
 
 
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 主郭北側堀切です。南の堀切に比べるとこちらの方が深く、幅も大きいようです。
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 城址南の尾根先端部で、このあたりから熊野川が見えると思っていきましたが、木々が茂り見えませんでした。しかし、土塁で囲まれた平場が見つかり、河口の監視所だったのではないかと思われます。
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  城址入口の国42号の熊野川岸辺から見た新宮城です。戦国期には、新宮城はまだ築城されていませんで、堀内氏の監視砦などがあったと思われます。
 
 
 鵜殿城は、主郭にいくつかの平場を設けた砦といったいいほどの規模でした。ここで、北山勢を相手に籠城して撃退した言うのがちっと信じられませんw@<背後に熊野水軍の後詰があったのでしょうかね。
 
※城址説明板では、南朝勢の攻めを興国4年(1341)としています。しかし、興国4年は1343年で間違っていることや、前年に南朝から綸旨を与えられることからすると、『日本城郭全集8』に記載されている永徳2/弘和2年(1382)でよいのではないかとしました。
 
参考文献
『日本城郭全集8』 

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岩本城

 岩本城は、熊野イメージ 1市新鹿町字岩本にある比高90mの山城です。訪城日:2014.2.5  晴れ
 城址へは、紀勢道熊野新鹿ICから県道737号を東(海岸方向)へ向かい、国311号の交差点を左折して湊川橋手前で左折して少し進んだあたりで路駐し、国311号の西側に並行する小道の途中から西側の山に向かいます。
 登城口で、背後に墓地があります。ここを入り少し進み、右手上に階段状の
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道を10分ほど登りますと祠が祀られている2郭につきます。
 
 
 
 
 当城は、応永年間(1395-1428)に有馬和泉守忠重が築城したというのがあります。応永年間の有馬氏の当主は和泉守忠永で応永(1412)亡くなり、その子和泉守忠親となっています。しかし、忠親が永正18年(1521)に産田神社を造建したという棟札があることから、忠永と忠親の間に2代ほどはあったと思われ、しかも受領名(和泉守)も同じですので、この忠重は忠永の後継者だった可能性が高いと思われます。ただ、縄張りからしますと室町期というより、戦国期のものという感があります。『日本城郭全集』には、永禄初年(1558)頃堀内氏が、南下する伊勢国司北畠氏を防ぐために築いたものとしていますので、室町期の古郭を改修して使ったというのが素直感じがします。なお、永禄期頃はまだこの地は有馬氏の支配地で、当主有馬楠若を堀内氏から養子に迎え、実質的に堀内イメージ 3氏にのみこまれていますので、堀内氏の築城となったのでしょう。
 永禄6〜7年(1563〜64)頃、北畠方の曽根の佐々木弾正が攻め寄せ、有馬(堀内)勢は、当城を第一線として防ぎ、その後も有馬・北畠両氏のか合戦が続いたようです。 
 天正10年(1580)には、堀内氏善(有馬氏に養子に入り、のちに堀内氏を継ぐ)が紀伊長島方面まで攻略して、志摩国英虞郡に編入されていたこの地方を大化以前の熊野地方に取り戻します。
 写真は、2郭にまつられている祠です。
イメージ 4 2郭手前にある帯郭で、虎口部になるかと思われます。ただ、明確な虎口は見受けられません。この奥の2郭の切岸に石積みがみられます。
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  2郭南面の土止めの石積みです。※印から位置がわかるかと思います。
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  主郭と2郭の間にある堀切です。けっこう石が散らばって見られますので、この辺のどこから石積みがされていたのかもしれません。
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 主郭は、二段に分かれ手前が下段で、奥が上段です。約45×40mほどの広さで削平はとても良いです。東の堀切に沿って土塁が設けられています。イメージ 8 
  主郭上段です。下段から2mほど高く約30×20mと結構な広さがあります。周囲の低い土塁もみられます。
イメージ 9 主郭背後にある三条の堀切の主郭よりの堀切で、三条の中では一番大きく、端は竪堀としてかなり下まで落ちています。
イメージ 10  その竪堀です。
 
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 真ん中の堀切。イメージ 12
 一番奥の堀切。 
 
 
 くるわ2つほどの小規模の砦でしたが、背後の三条の堀切や石積みなどを見ると、以外にしっかりとしたつくりでした。
 

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大里京城

大里京城は、南牟婁郡紀宝町大里にある比高60mほどの山城です。訪城日:2014.2.4  晴れ
イメージ 1 城址へは、新宮市街から県道35号か県道141号を北上して、両県道の合流地点の大里地区の倉本橋を目指します。城址は、倉本橋の北西のお可能にあります。倉本橋付近に車を路駐させ、そこから西に進みますと、北西に入る小道の入口に説明板があります。登城口↓です。そこから2郭まで5〜10分ほどです。
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 当城は、新宮と吉野をつなぐ北山街道にあり、天正16年(1イメージ 3588)に起こった北山一揆を攻略のために新宮城主堀内安房守氏善が築城したとされています。この堀内氏の新宮城は、現在のそれではなく、新宮市街北西にある千穂ヶ峰の東麓ありました。(全竜寺)
 堀内氏は、天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めで秀吉につき本領を安堵され、天正19年には「熊野惣地」に任命され牟婁郡を手中に収めました。しかし、関ケ原の戦いでは西軍に与したため和歌山の桑山一晴に新宮城を落とされ、当城に落ち延びたようです。その後、氏善の西軍への荷担が強要されたものとのことで、許され肥後の加藤氏に預けられたようです。廃城は、定かではないです。なお、「戦国期の奥熊野の国衆の動向」については別に載せたいと思います。
 
イメージ 4 登城口から階段を上りますと、東泉寺跡の平場に出ます。奥の斜面が見えますが、墓地への道を造っているようです。
 
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  大里東墓地への道で、この左手上が3曲輪になりますが、この切岸に石積みがみられます。また、3郭への道はついていませんので、この切岸をよじ登ります。
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 3郭南面にある石積みです。高さ3m、巾20mの規模で、一抱えほどの石を使っています。
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イメージ 8 3郭ですが、草に覆われて何が何やらわかりません。当城最大の郭で東西48m、南北22mほどの方形をしているようです。
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  3郭北西にある枡形虎口のあるあたりを撮ったものですが、ここも何が何だかです。
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 3郭の桝形虎口から、上部の主郭部に行くと途中にある平場の4郭です。通路は土塁上になります。3郭が居住部と考えられますから、上部の詰め丸の虎口部なのかもしれません。イメージ 11
 4郭から上部の主郭部への登城路で、土止めの石積みがみられます。
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 主郭と2郭の堀切です。4郭からの登城路をあがると、主郭部東下の帯郭となり、左手に堀切となり主郭への通路にもなっています。
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 帯郭から見える主郭東面の石積みです。2郭南面の石よりは小さいようです。イメージ 16
 
 
 
 
2郭で、自然地形のままで郭としては用をなさない感じです。イメージ 14
 
 
 
 
 
 堀切内を通り、西側から主郭に入る虎口です。虎口両側に土塁があり、多少食い違っています。
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主郭は、5×13mほどの長方形で、南西に高1mほどの土塁があり、虎口は南北2か所。
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主郭北虎口を下から撮ったもので、この右手にも石積みがみられます。
 
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 主郭背後の二重堀切で、左手が主郭になります。
主郭よりの堀切       主郭奥の堀切
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 以上が城址を回ったところで、5郭や二重堀切の先にある畝状竪堀などは見ていませんが、3郭の状態からしますと藪で確認はとれないと思えます。
 『三重の山城』で当城を担当した、伊藤裕偉氏は、「曲輪に石垣を用いる手法は、熊野では藤倉城跡や寺谷館跡などに見られ、当地の特徴である。畝状立堀群や枡形虎口は熊野では少なく、地域外から持ち込まれた要素であろが、在地手法を中心に据えた造作と考えられる。」としています。堀内氏が天正期に築城したとしますと、同時期に築城された赤木城を見比べてみると、築城技術の違いがよくわかりおもしろかったです。
 
参考文献
『三重の山城 ベスト50を歩く』 サンライズ出版

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赤木城

 赤木城は、熊野市紀和町赤木にある比高30m(駐車地点より)ほどの平山城です。国指定史跡で、石垣や桝形虎口が築城当時のまま残っているということで、写真を見てもその様子がわかりぜひ一度訪城したいと思っていました。今回の三重遠征を決めた城址です。それにして、紀伊半島南端の山中で、熊野市までもかなりの距離があり、さらに林道に近い道をくねくね行く山奥でした。
                                            訪城日:2014.2.4  晴れ
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城址へは、熊野市方面からは国311号で、新宮市方面からは、県道35号を風伝トンネルを目指します。トンネルの先で県道40号に入り5km進み、左折して(案内表示有)1kmほどで右折しますと城址に着きます。専用駐車場・トイレ完備です。途中、規模としては日本一の丸山千枚田があり、見事な棚田が見られますが、季節イメージ 1的には殺風景な風景でした。
 
 
赤木城の歴史と地域イメージ 2
「赤木城の築城年代については和歌山藩が編纂した『紀伊風土記』には寛文雑記を引いて天正年間、藤堂佐渡守(のち和泉守高虎)と、羽田長門守の両人が北山代官のとき築き、罪を犯した者を赤木城の西方の田平子峠で斬首し獄門にしたと記している、また熊野市神山の倉谷家文書には天正16年(1588)大和大納言(豊臣秀長)の北山攻めの後築城したとある。藤堂佐渡守は天正13年の紀州攻めの際北山入りし、文禄4年(1595)四国伊予三郡を与えられるまでの11年間北山付近に在居し、この間二度の北山の陣で一揆方を成敗したり北山材の切り出しを行っているのでこの頃に現在の城郭に整備したものと考えられる。  現地説明板より
<捕捉>
 赤木城の麓には、田平子峠を越えて西の入鹿・本宮へ通じる木津川街道、東側には風伝峠から吉野へ抜ける北山街道が通り、古くからの交通の要衝でした。また、この地は那智近辺の銅山と合わせて熊野銅山と呼ばれ、鉱山資源に恵まれていました。そのような地に、秀吉が天正13年(1585)に紀州攻め入り、豊臣秀長が大和、紀伊及び和泉と伊賀の一部を領すると、秀長は山奉行を設け、豊富な森林資源・鉱山資源の収奪を行ったようで、山奉行吉川平介が秀長の命で切り出した熊野の木材2万余本を大坂で販売し、その代金を着服した事件も起こっています。
 天正14年、北山郷などの奥熊野の地侍たちが蜂起した。北山一揆と呼ばれ、゛二公一民゛とするなどの従来の慣習を変える太閤検地への反発からと言われますが、熊野材や銅の利権にも絡んでいたのではないかと思われます。秀長自らの出陣で蜂起から二か月余りでほぼ制圧されますが、九州征伐などがあり火種は残り、吉川事件もあって天正17年に藤堂高虎が派遣されます。高虎は北山入(北山郷攻略)で在地土豪らの討伐・懐柔を行い、その拠点として赤木城が築かれた。なお、当地を室町期から治めていた小栗須の入鹿氏は一揆勢に加わり加わりこの時に滅亡しています。高虎は、築城完成時に言葉巧みに一揆の残党を誘い出し、捉えて田平子峠で処刑したという悲しい話もあります。秀長、高虎の残酷非情な一面を現す事件です。
 また、慶長19年(16)大阪冬の陣に浅野氏が大阪表に出陣した際にも一揆がおこっています。これも、浅野氏が行った厳しい出だしの慶長検地(紀伊全土で20万5千石→37万4イメージ 6千石)も一因のようです。浅野氏の一揆討伐の拠点として赤木城は使われたものと思われます。
 豊臣秀吉の行った全国統一戦後に封じられた豊臣系大名の領地において一揆が頻発します。この地の北山一揆はその先駆をなすものなのでしょう。秀吉の性急な統一への歩みが在地秩序の変革をもたらすとともに在地の矛盾を拡大させたと思われます。中世的秩序が崩壊し、近世的秩序の確立における生みの苦しみだったのかもしれませんが、そこに生きた人々にとってはあまりにも犠牲の多いものだったのではないでしょうか。この城は、新しい権威の象徴として築かれたとしても、これを仰ぎ見る人々にとっては抑圧の象徴でしかなかったか?と思ってしまいます。
 縄張り図は、主郭虎口下段にある説明板にあるものを借用しています。
 
 
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 駐車場から見た城址で、ここにトイレもあります。 説明板の上段が(伝)鍛冶屋敷跡です。発掘調査では、多数のピットや土坑・焼土が検出され、永楽通宝や施釉陶器(16世紀瀬戸産)近世染付椀の小片が出土したようです。(説明板より)
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 堀跡と伝わるもののようです。
 
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  鍛冶屋敷から坂を登り、左に向きを変えて東郭の虎口へ向かいます。この坂が虎口近くで急坂になっているのも防御のためのようです。
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 坂虎口ですが、一度の折れが東郭1・2からの横矢を有効にする感じです。虎口には門の礎石が2石残り、間口8尺( 242cm)、奥行6尺(181cm)の四脚の門があったと推定しているようです。
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イメージ 9 東郭虎口を入ると、右に折れ東郭1の西側を通り主郭虎口下段虎口に向かいます。東郭の1と2は、段差がみて分かるかと思います。
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  郭虎口下段手前からの主郭虎口上段。土塁には、階段は設けられていなかったようで、写真のように梯子で上がったようです。
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 主郭虎口下段から主郭に入るには、4折れの重ね枡形という複雑な造りです。
 主郭虎口で、虎口石垣を破壊する「破城」がみられるようで、築城時を想定した積み直しをしているようです。それにしても見事な虎口ですね!
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イメージ 15 虎口から見た主郭です。30×25mほどの広さがあり、北と南西の二か所に張り出しを設け横矢がかかるようにしています。
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北郭北西端から主郭方面を撮ったものです。北郭は、他の郭と違い石垣が西側になく、さらに2〜4段ほどの低さです。下から見えないので手を抜いたといえます。このことからしても、この城が地域を威嚇するために造られていたことを示すものと思えます。イメージ 19
  北郭の先に上巾9mほどの堀切があります。北尾根の遮断ですが、この辺は中世城郭の色合いを残していて面白いです。
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 主郭南下を通り、西郭に向かいます。
 
 
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  西郭2から西郭1で、奥に主郭が見えます。西郭は、4つの郭が段階状に並び、斜面も緩いためか登りにくいように削っています。
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  西郭1で、ここからは、2棟の礎石建物と室か水溜と思われる石組み遺構が見つかっています。西郭2・4にも礎石が見られ建物があったと思われます。麓からよく見える石垣は大きめの石を使っているようです。イメージ 23
 
 西郭最下段の西郭4の石垣です。
 
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  西郭と東郭に挟まれた谷間の裾にある南郭で、居住区と思われます。建物の礎石やかまど跡が見つかっています。発掘調査で、出土遺物(16世紀末から17世紀初頭)が極めて少なく、大人数が城に入っていたとは考えにくいようで、常時は少人数が南郭に詰めいたものと思います。
石垣は、主郭では高3mで反(そり)のない野面積で、隅は不完全ですが算木積がみられます。
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主郭桝形虎口  巨石を用いています。            主郭北西隅
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東郭2南西隅                          西郭1
 
 以上みてきたように、赤木城は、規模としては小さいながら、野面積の石垣や桝形虎口など用いた織豊系城郭の天正期のお城です。ただ、瓦が発掘からは出てきていないようです。国指定で遺構ほぼ残り、案内板や駐車場などが完備され見学しやすいです。惜しむらくは、山奥にあり交通の便が悪いので、車で行かれることをお勧めします。
鉄道・バスをご利用される方は、以下のルートがあるようです。(KemaAkekの全国城めぐり参照)
・熊野市駅前バス停
↓ 三重交通バス 南紀01-1 新宮駅行(約20分)
・阿田和端地バス停
↓ 熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 瀞流荘行(約30分)
・千枚田・通り峠入口バス停
↓ 徒歩(約50分)
・通り峠
↓ 徒歩(約30分)
・丸山千枚田
↓ 徒歩(約50分)
・赤木城
参考文献
『三重の山城 ベスト50を歩く』 サンライズ出版
参考HP

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