古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

紀伊国(和歌山県)

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新宮城

 新宮城は、別名丹鶴城・沖見城とも呼ばれ、新宮市新宮にある比高40mほどの平山城です。新宮城の北裾を流れる熊野川が和歌山と三重の県境になっています。しかし、明治以前までは三重県紀伊長島町までが紀伊国牟婁郡で、紀伊藩の領地として一括で支配されていましたので、県が分かれた今でも同一の文化圏として考えても良い地域のようです。    訪問日:2014.2.4  晴れ
イメージ 1 城址へは、熊野市方面から国42号を南下し、熊野川に出ましたら熊野大橋を渡り、すぐ先の速玉神社前信号を左折します。200mほどで左手に市民会館です。市民会館の駐車場に車を止め、徒歩で少し行きますと、登城口です。本丸南下に専用駐車場がありましたが、工事中で使えませんでしたので、市民会館に駐車しました。なお、本丸へは、市民会館裏手の堤防を東に行けば、船着き場経由で行けます。
 
 
 当地方(熊野)は、戦国期後半に熊野水軍にかかわる堀内氏が領有していました。堀内氏は、関ケ原の戦いで西軍に与して改易されます。慶長6年(1601)に紀伊国に入封した浅野幸長の家臣浅野忠吉が新宮に入り、すぐに築城に着手したようです。元和元年(1615)の一国一城令で廃城を命じられますが、当地の重要性が認められ元和4年(1618年イメージ 2)に再建が許可されました。翌年、浅野氏が安芸国に転封となり、築地工事は中断しますが、徳川頼宣の付家老水野重仲が新宮に入封し、工事を再開し寛永10年(1633年)水野家2代重良の時に完成し、水野家3代重上が増築しました。廃城は明治維新後です。
イメージ 4 登城口です。古図を見ますとこちらから登城する道はありませんので、後世の道になります。本来の大手口は、保育園(二之丸)北側から登っていたようで、松ノ丸に至る左手に大手の張り出しがみられます。イメージ 3
 登城口を登った左手の大手の張り出しです。ここから下の二之丸に行っていたようですが、現在は崩落していて立ち入り禁止になっています。 
『正保城絵図』の古図を見ますとよくわかります。(『図説正保城絵図』新人物往来社刊より)
イメージ 5 『図説正保城絵図』で千田嘉博氏の解説がありますので、参考として載せておきます。
見出しは、「典型的な倭城型縄張り」としていて、「新宮城は典型的な倭城タイプの縄張りをもった。本丸は中央部に天守を核にした、いわゆる天守曲輪があり、天守台脇を通る厳重な城道をもった。天守は大小天守を組み合わせたものであった。本丸から鐘ノ丸へは大きな外枡形を備えた。それに対し鐘ノ丸から松ノ丸への出入りは内枡形で、一見一貫性がないように見える。しかし、これは松ノ丸を 鐘ノ丸の虎口空間として位置づけたからで、両脇に外枡形を開いた松ノ丸と 鐘ノ丸とが連動した縄張りであった。」 
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イメージ 10イメージ 9 大手の張り出しから松ノ丸西虎口に至るルートで、攻め手は向きを5回変えなければなりません。この松ノ丸西虎口は、外枡形で桝形内は右上の鐘ノ丸の張り出し(→)から横矢がかかる仕組みになっている、堅固な造りです。
 
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 松ノ丸には東虎口もあり、これは北下の水の手に至り、船着き場が築城当時から設けられていたようです。
 写真は、松ノ丸の南にある鐘ノ丸北虎口です。左手に入る内枡形です。東隅には巨石が積まれています。イメージ 12
A4の紙と比べてその大きさがわかるかと思います。
 
 
 
 
 
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鐘ノ丸を本丸方向から撮ったもので、かなり広い曲輪でした。右写真の背後が本丸虎口前になります。
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さて本丸です。
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イメージ 18  本丸大手の南虎口も3折れの複雑な構造で、本丸に入るか階段が2つあるという珍しい構造になっています。身分の違いで使う階段が違うのでしようか。
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 本丸北西にある出曲輪です。橋が架かっていたようです。麓の水の手にある船着場や熊野川の監視をしていたのでしょうか。
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 本丸北虎口で、搦手口と思われますが、立ち入り禁止になっています。イメージ 22 
 本丸石垣です。当城は、慶長末からから元和を経ての築城で、石垣積の最盛期にあたるために整形のとれた積み方がされて、現在でも良好に残り石垣好きな方にはたまらないものとも思われます。(当方石垣オタクではないのですが、見ごたえがありましたね)
 
 
 
 
 
 
イメージ 23
 鐘ノ丸から見た、水の手です。ここで、平成6年の発掘調査で多数の建物跡が見つかり、その床面に砂利がひかれ炭の粉が堆積していたことから、1万俵もの炭俵が収納可能な「炭納屋群」と想定されたようです。イメージ 24
当 城が国指定されたのは、この遺構が近世城郭の経済的側面を実証するもので、全国的にも例を見ないものとして評価されたことによるもののようです。 イメージ 25
 実際、水野家は紀伊藩附家老3万5千石でしたが、内実は10万石とも言われていたようです。それは、熊野川流域の熊野材と新宮炭(備長炭)を江戸に送っていたことに拠るようです。炭は年間10万俵で江戸の炭相場を左右し、熊野材も江戸の木材需要の3割を賄ったといわれます。
 
参考HP
「新宮市観光協会」の新宮モダン
 
 
 
 

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