古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

伊勢国

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千種城

 千種城は、千草城とも呼ばれ、三重郡菰野町大字千草字城山にある比高16mの平山城で、県指定史跡になっています。ここへの訪城は、三重遠征の4日目で遠征で予定した城址はほぼ回り終わり、帰りがけにと選んだもので、訪城疲れもあり比高の低く、藪のない所ということで行ってきました。                                                  訪城日:2014.2.7  晴れ
イメージ 1 城址へは、伊勢道四日市ICを降り、国477号を約5km西行し、菰野信号を右折して国306号に入り北1.4km先の潤田信号を左折します。県道762号を約2kmほどで着きます。道が狭くわかりずらいですが、道の右手に児童公園のような空地の道沿いに案内板があります。車は、その空き地に止めました。イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 この山城は西側に本丸、東側に出丸の二つの郭に分かれ、その間に空堀が切られている。周囲は土塁跡がみられ、中世の典型的な山城の形状をよく残している。なお南の向城、東の金ヶ原城は、この城の支城といわれている。
 城主は、後醍醐天皇に仕えた千種忠顕の子顕経が、イメージ 3はじめ禅林寺城に拠り、のち要害の地であるこの地へ移り城を築いたと伝えられている。城の下は、伊勢から近江へ峠越えの千種街道が通じこの城は軍事、経済上の要衝であった。
 戦国期は北勢地方の豪士の頭領として三重郡二十四郷を領して大いに勢威があった。信長そして秀吉の軍勢に攻められ、最後の城主顕理が大坂夏の陣で戦死して廃城となった。   
   菰野町教育委員会           現地案内板より
 
               縄張図は、『再発見北伊勢国の城』(伊藤徳也著、2008年)より引用、加筆。
 
 この北伊勢は、鈴鹿山脈を通る峠道を通じて近江とのつながりが深く、特に菰野町千種から根ノ平峠を越えて、現在の滋賀県東近江市永源寺町甲津畑まで至る「千種越え」と菰野町田光から八風峠を越えて、永源寺町杠葉尾までの「八 風越え」とが多く利用されていました。 イメージ 4 
 当地を抑えていた千種氏は、八風・根ノ平両峠の通行権益を所持していたようで、永禄2・3年(1559・1560年)の「保内商人申状案」によると、近江の保内商人が八風・千種越えで、千種氏から両峠の流通独占権を認められ、その見返りとして役銭を支払っていた記録があるようです。しかし、近江とのかかわりが深いことで、弘治元年(1555)に近江六角氏の侵攻を受け、六角家臣後藤賢豊の弟を養子に迎え和睦しています。それ以後、千草氏は六角氏の属し、城は六角氏の北伊勢侵攻の拠点となったようです。
イメージ 5
 登城口で、階段を上がりますと、Ⅱ郭です。なお右手を進むと軽自動車なら主郭まで行けます。また、右手の道奥にⅢ郭があるようですが、当日縄張り図がなく、Ⅲ曲輪があることがわかりませんで、未訪になっています。イメージ 6
  35m四方のⅡ郭です。北東が窪みⅢ郭への虎口なのかもしれません。イメージ 7
  主郭から見た、Ⅱ郭の間にある土塁・堀と土橋です。土塁(上巾8m高2∼3m)堀(上巾10m深2∼3m)で、かなりの規模です。主郭から見ると、堀の先に土塁があり、何か違和感があります。普通は、土塁の先に堀ですがね。主郭がⅡ郭ということも考えられますが、縄張りからすると、Ⅰ郭が主郭だと思うのです。イメージ 8
 
 
 主郭を土橋から撮ったものです。45×50mの広さがあり、西から南にかけて土塁があります。イメージ 9
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 10 藪っていますが、主郭西下の堀切です。
 
 
 当城は、規模として大きくはありませんが、国衆の城館として機能を備えた城だったようです。一部公園化で破壊された部分もありますが、よく当時の遺構が残る城址です。
 
参考文献
『再発見北伊勢国の城』

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大河内城

 大河内城は、松坂市大河内町城山にある比高40mほどの平山城で、県指定史跡になっています。
訪城日:2014.2.6  晴れ
イメージ 1 城址へは、松坂市街から国166号を南西に進み、大河内町信号から650m先を右折し、すぐ先の大河内地区市民センターを目指します。ここの駐車場に声をかけて止めさせていただきました。北西方向に見えるのが城址で徒歩15分ほどで主郭につきます。この駐車場に、説明板がありました。
市民センターからの城址遠景
イメージ 2
 
 
 
 城は北へ突き出た標高110m余りの丘陵突端部に築造されており、東裾と北裾とを阪内川と矢津川が洗い、西側と南側には深く谷が入って自然に要害の地を形成している。
 応永22年(1415)、北畠満雅が阿坂城
で室町幕府に反旗を翻したとき、築城して弟顕雅を籠城させたという。以後、顕雅の子孫が居城し、大河内御所と称した。
 永禄12年(1569)織田信長が南伊勢攻略の大軍を発したとき、伊勢国司北畠具教は本拠を多気(一志郡美杉村)よりこの城に移し、補強して信長の軍勢を迎え撃った。
 8月より1ヶ月余りも戦いは続いたが、北畠軍は利あらず、信長の二男信雄に北畠の家督を譲る条件で信長の軍門に降り、具教は城を退去した。天正3年(1575
)、信雄より本城は廃城となり、翌年南伊勢を統治する拠点を田丸城
(度会郡)に移した。
 現在は本丸跡・二の丸跡・西の丸跡と呼ぶ台状地や平坦な馬場跡、土塁や堀切が城の面影を残すにすぎない。
                                              松坂市  現地案内板より
イメージ 3
 西連寺を過ぎて、案内板に従い大河内神社参道を進みますと、鳥居が見えます。ここが登城口に当たります。この辺を地元では搦手と言い伝えているようです。
イメージ 4
イメージ 5
 
 
イメージ 6鳥居から主郭東下は、馬場跡や二之丸の御納戸跡のようで、後世の開墾や植林で改変されて旧状は不明のようです。イメージ 7
 主郭て前の道沿いに見られる石積みです。一抱えする石を3段ほど積んでいますが、当時のものか?です。 イメージ 8
 主郭で、現在は大河内神社境内になっています。広さは、60×30mで土塁などは見られません。
 
 
イメージ 9 主郭背後、Ⅲ郭の間にあるイメージ 10堀切で、丘陵の北裾から入る谷の奥を掘り通したもので、深い堀切でした。 まむし谷と呼ばれているようです。
 
イメージ 11
  主郭西側にあるⅢ郭で、西の丸と呼ばれています。「信長公記」に西搦手より夜襲かけたと書かれているのが、このあたりイメージ 12やまむし谷あたりではないか推定されます。
←北側の腰郭
 
 
 
 
イメージ 13
馬場跡から北方へ派生する平坦地は、永禄12年の籠城戦の際に動員された兵の小屋掛けの地をほうふつさせます。この平坦面の両端の先端部に遺構が残るとのことでしたが、藪がひどく西端をちらっと見たにすぎませんでした。
←土塁らしき土盛のある平場。
イメージ 14
 平場の先にある堀切だと?
 
東端は、大手口の言われる廣坂口に面していて、土塁や虎口が残るとのことで藪に分け入りましたが、さっぱりわかりませんでした。
 
参考文献
『三重の山城 ベスト50を歩く』
『図説中世城郭事典Ⅱ』

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八田(はった)城

八田城は、松坂市嬉野八田町(旧嬉野町)にある比高30mの平山城です。 訪城日:2014.2.6 曇
イメージ 1城址は、伊勢道一志嬉野ICを降り、県道67号を南下して、中村川の架かる島田橋を渡り、さらに南下して、2つ目の路地を右折し、道なりに進んだ左手に見えます。イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7
 八田城についての同時代の史料は見当たらない。近世の地誌である『勢陽五鈴遺響』には、大多和兵部少輔が居たとし、明治年間作成の地誌をまとめたと思われる『伊勢名勝志』には、大多和氏の前身三浦氏の築城とする。       現地説明板より」
この三浦氏の築城が、三浦盛時とされていますが、にわかには信じがたいです。盛時は、鎌倉中期の宝治合戦ののち三浦宗家の家督を継承した人物で、盛時が伊勢に下向したとは考えられませんので、地頭識を得て一族のものが派遣されたと考えられます。それが大多和氏だったのかもしれません。また、現遺構からすると到底鎌倉期ということは考えられませんので、永禄12年(1569)の織田信長の
伊勢侵略の際に秀吉が攻めあぐんだ言われていますので、これ以前に築城されていたことは確かのようです。確かなことは言えませんが、大多和氏が伊勢国司北畠氏に属し、戦国期になって築城したものと考えるのが妥当な所ではないでしょうか。
イメージ 3
 獣除けのフェンスの先に模擬櫓があり、その先の登城路です。この道が正面(主郭)と右手(2郭)から見下ろされていることから往時の大手道ではないかと竹田氏(『三重の山城』)は推定しています。
イメージ 4
  堀切3を南から見たもので、西側の3郭の切岸と土塁で挟まれた堀で、堀切というより横堀と云った方がいいようです。堀底が登城路で左手の3郭張り出しからの横矢がかかる仕組みのようです。
 
イメージ 5
イメージ 6堀切3の南下の井戸と竪堀です。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8 堀切3を抜けて主郭虎口に向かうと、左に土塁、右が3郭の壁の緩いのぼり坂になり、攻め手にはまだ虎口は見通せないという微妙な造りです。
 
イメージ 9
  主郭東虎口右手前の堀切2です。ここも、通常の堀切というより攻め手を攪乱・殲滅する空堀といった感じではないかと?イメージ 10
 主郭東虎口で平虎口ですイメージ 11が、虎口手前を2折れにするというちっと珍しい構造です。
←主郭内から見た。
 
 
 
イメージ 12
 イメージ 13
 主郭を東虎口から撮ったもので、30×50mほどの広さで、東、南()西の三方には高3mの土塁があり、南中央に高5〜6mの櫓台が設けられています。
←北側は土塁はなく、もともとなかったか崩れたか定かではないようです。
イメージ 14
 
 
 
 
イメージ 15 主郭南虎口を外側から撮ったもので、中央に見えるのが櫓台で、堀切に丸太橋が架けられていました。
 
 
 当城は、規模としても小さく、取り立てて目立つパーツなどはありませんが、要所の防御はピリリと辛い縄張りになっています。しかも、それが地元の方々のご努力だと思いますが、よく整備され遺構も完存状態で、見ごたえのある城址でした。
 
参考文献
『三重の山城 ベスト50を歩く』

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高(たかん)城

 高城は、松坂市大阿坂町にある比高20mの平山城です。南西約1.5kmにある阿坂城の国指定史跡に伴って「附」(つけたり)として枳(からたち)城と共に指定されました。古い街道に沿った集落内にあるため道が狭く、迷路のよイメージ 1うに入り組み城址にたどり着くのに苦労しました。訪城日:2014.2.6 晴れ
    城址へは、伊勢自動車道松坂ICを降り、県道58号にイメージ 2入り約3km北上して大阿坂バス停先を左折し、阿射加神社を目指します。神社前を右手に少し行きますと、宮池が見えそイメージ 3の先右手に城址標識があります。車は、そのあたりに路駐になります。
 
 
イメージ 4
 高城は、阿坂城の出城の一つと言われています。阿坂城にかかわる戦いとして、応永12年(1415)の北畠満雅足利幕府軍を迎え撃った戦いと永禄12年(1569)の大河内城に拠る北畠具教を攻めた織田信長との戦いがあり、遺構の感じからしますと後者の時期にかかわるものではないかと思われます。
イメージ 5
 
 
 
駐車地点から右に10mほど行って、左手の小道を上がるとすぐにお地蔵さんがあります。このあたりは、なだらかな斜面で城域になるかどうかわかりません。城域ならば2郭といったところですか。イメージ 6
 
 
 
 主郭東虎口の外側で、この手前に説明板があります。2郭?と比べると凹凸があり、何らかの施設があったのかもしれません。イメージ 7
 
 
 
 
 
 主郭東虎口で、主郭内に窪みが見られますから桝形だったのかもしれません。
 
 
 
 
イメージ 8 主郭で、60m四方の広さで周囲に土塁がまわっていますが、北から西にかけての土塁がは幅15mと分厚く、外側の高さは10mほどで堅固な造りです。
 
 
 
イメージ 9 主郭西虎口で、ここも内部が屈折していて枡形状になっている感じです。
イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 主郭内部は、削平はあまりなされていませんで、凹凸が目につきますが、小屋掛けには十分な広さがあり、阿坂城の居館部といった感じを受け、兵の駐屯地の役割を果たしていたのではないかと思われます。

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阿坂城

 阿坂城は、松坂市大阿坂町枡形・椎之木谷・井戸谷にある比高260mの山城です。昭和57年に国史跡指定されています。                    訪城日:2014.2.6  曇一時小雪
イメージ 1
 城址へは、伊勢自動車道松坂ICを降り、県道58号に入り約3km北上して、岩倉口バス停を左折、浄眼寺を目指します。浄眼寺↓が登城口で、案内板・トイレ・駐車場完備です。他にも登城ルートがあるようですが、駐車場やルート整備がよい浄眼寺ルートがいいようです。イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
  一志郡嬉野町との境界に近い標高300mの山頂に築かれた山城で、南北300m、東西150mの範囲に及び、南北二つの郭からなり、北郭は175m×75mの範囲に土塁イメージ 3を巡らした台状地や堀切等を配しており、椎ノ木城とも呼ばれている。一方、南郭は白米城とも云われてきた部分で、上面が25m×30m、高さ約14mの台状地が大部分を占め、堀切と小台状地を伴っている。
 阿坂城は文和元年(1351)の南北朝を伝える資料に初めて登場するが、最もよく知られているのは応永22年(1415)に北畠満雅が足利幕府軍を迎え撃った戦いである。満雅は馬の背に白米を流して水があるように見せて敵を欺き、幕府軍を撃退したと「南方紀伝」(江戸時代初めに成立)は記している。
 その後、永禄12年(1569)、大河内城に拠る北畠具教を攻略するため、織田信長は大軍を発し、8月26日、先ず北畠の重臣大宮氏の守る阿坂城を木下籐吉郎らに攻めさせて落としている。以後、阿坂城は使用されることなく廃城に至った。
 なお「南方紀伝」には「両出城」があったとされており、それは現存する枳城・高城跡と考えられ、どちらも国指定史跡となっている。         
  松阪市教育委員会  現地案内板より 
 
イメージ 4
 軽自動車が楽に通れる幅の緩いのぼり坂の登城路が浄眼寺から城址まで続き、40分ほどで着きます。ただ、腰痛のため休み休みで50分もかかってしまいました。(帰りに気づいたのですが、こののぼり坂が緩そうできつい坂ということを!) イメージ 5
 城址大手口で、通路を竪堀で狭め土塁でさえぎっています。さらに、左手の見張り台からの横矢が厳しいです。食い違い状虎口いえるようです。イメージ 6      大手虎口を城内側から見たもので、見張り台の南にも竪堀があり、通路を狭めています。なかなか凝った作りの虎口で、技巧的です。イメージ 7           大手虎口先の平場で、右手に土塁、左手が北郭(椎之木城)2郭の壁がそびえ、奥に城道を狭める大規模な竪堀があり、変形馬出か?ここに入った敵兵は北郭上から攻めに逃げ場のない空間になります。 イメージ 8
北郭(椎之木城)2郭虎口です。虎口手前を登り坂にして攻めにくくしています。 
イメージ 9
 
 
 
 
 郭内からの北郭(椎之木城)2郭虎口です。イメージ 10
 北郭(椎之木城)2郭です。
郭北端から見える大手口で↓、丸見えですね。 イメージ 11   
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 12
 北郭1郭で、虎口から70mあり、西側に低い土塁が残ります。
 
 
 
 
イメージ 13
 北郭(椎之木城)南端からの南郭(阿坂城)。南郭の平坦さがよくわかります。
 
イメージ 14
 
 
 
 
 
 
 
 
北郭から南郭への尾根道ですが、鞍部まではきつい急坂で駆け下りて止まれないほどでした。イメージ 15
 
 南郭(阿坂城)で、山頂を削平し、周辺の斜面を削り落としています。それにしてもこれほど真っ平の郭も珍しいです。イメージ 16
 
 
 
 
 
 
 
 眺めはすこぶる良く、南東松阪市街地方向です。
イメージ 17
 
 
 
 南郭(阿坂城)からも北郭(椎之木城)が見えます。
 
 北郭(椎之木城)と南郭(阿坂城)では、造りがかなり違いますから、築城時期がずれるでしょう。北郭は、かなり技巧的で、説明板の通りに戦国期後期までは使われていたと思いますね。
 
 
参考文献
『三重の山城 べス50を歩く』
 

 
 
 

 
 
 
 

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