古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

陸奥国(岩手県)

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九戸城ーその弐ー

 九戸城の本丸・二ノ丸以外の郭と発掘調査について書いていきます。イメージ 1
 左の鳥瞰図は、城址パンフレットに掲載されているものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 鳥瞰図の土井晩翠歌碑の所が搦手門だったようです。石沢館・若狭館・三之丸方面への虎口のようです。イメージ 3
  搦手門を出たところから見た、石沢館と二ノ丸の間の空堀です。堀巾は優に20mはあります。
 
 
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 この石沢館前の堀底道は、城の裏側の白鳥川までの小径に繋がり、九戸城時代からの古い道だったようで、九戸氏のもう一つの本拠地九戸村へもこちらから往来していたようです。(説明板より) 
イメージ 6 南西端からの石沢館です。東西150m、南北75m〜100mはある広大な曲輪です。自然地形に拠った曲線的な曲輪で、南部の城址によく見られる姿をしていますので、若狭館と共に九戸氏が拠った九戸城の面影を残す曲輪だったのではないかとされるようです。イメージ 7                          若狭館と二ノ丸の間にある堀で、ここも堀巾20m以上はあります。イメージ 8                        若狭館で、一部しか撮れていません。ここも東西150m、南北75m〜130mほどもある曲輪です。 
 
 
 
 
 
次に、発掘調査からわかる「九戸城」の姿。
 現在みられる本丸・二ノ丸・松ノ丸の石垣や土塁、枡形虎口は、天正19年に蒲生氏郷が普請したものです。近世城郭の「福岡城」といえます。(平成元年〜9年度の本丸調査から)
 九戸氏の「九戸城」は、現遺構としては石沢館・若狭館が残るようですが、本丸・二ノ丸の「福岡城」の下からその一端が垣間見られました。
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左図は、現在みられ「福岡城」の縄張り図です。
 
平成元〜4年度の調査で、「堀が途切れ、土橋状であるこの虎口(本丸南虎口)中央に設定されたトレンチでは、古い堀跡の端部が検出され、九戸城期でもここが虎口であったことがわかった。」
平成7年度の調査で、「二ノ丸大手門跡の東脇に、二之丸東側の段差に沿って埋め戻された大規模な堀跡が発見され、堀底から15世紀の白磁壺底部が出土している。」
平成10年度の調査で、「平成7年度に二ノ丸大手門東脇で検出された旧堀跡が二ノ丸の北側まで現在地上で観察される段差に沿って曲輪を東西に分断するかたちで延びていたことが確認された。平成11〜13年度のの調査ではこの堀の東の郭に工房跡である竪穴住居群が立ち並んでいたことがあきらかとなり,この曲輪の縁には旧堀に面して塀または柵列があり、さらにこれに連なって櫓門跡と思われる大規模な遺構が検出されている。」
以上は、『中世糠部の世界と南部氏』の九戸城の記述からの抜粋です。これから考えられる九戸城期の縄張りを推定してみました。
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 九戸城期(九戸氏の九戸城)の縄張りは、ほぼ同じ規模の平場を巾広の堀で区画するという南部地方によく見られる城館と類似していたものと思われます。このように、「曲輪を並べ」た城館は、近くの浄法寺館や根城・浪岡城・一戸城・七戸城などあげることができます。福岡城の本丸・二ノ丸は、九戸城期には三か所に区分される曲輪だったと考えられます。九戸城期の曲輪A・A‘と曲輪Bは、堀で区画されています。また、曲輪A・A‘も堀で区画されていたのではないかと推定されます。
 
 
発掘調査から素人が推定したものですから、あまり参考にはならないかもしれませんが、歴史ロマンとして楽しめましたね。これも、城址巡りの醍醐味といったところです。国指定となっていますので、整備がなされ季節を問わずに見学できます。お勧めの城址といえますね。 
 
参考文献
『中世糠部の世界と南部氏』
『九戸城跡』(城址パンプレット                           

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九戸城ーその壱ー

 九戸城は、別名福岡城・白鳥城とも呼ばれる二戸市福岡五日町にある平山城です。二戸市にありながら九戸城といわれるのは、戦国後期に糠部郡(ぬかのぶぐん−青森県東部から岩手県北部)に三戸南部氏、八戸南部氏と並ぶ有力国衆である九戸氏が居城したことに拠ります。現在みられる遺構は、九戸氏の時代のものではなく、天正19年(1591)に三戸南部氏跡目相続に端を発する「九戸の乱」後に蒲生氏郷が改修した近世城郭の福岡城です。ただ、地元では九戸氏への特別な思い入れなのか、福岡城とは呼ばずに九戸城と呼んでいますので、当ブログでも九戸城とします。         訪城日:2014.22  晴れ
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 城址へは、二戸市の国4号中曽根信号を東に入り馬淵川に架かる二戸大橋を渡り、すく先の交差点を右折して400m弱進んで左折しますと着きます。駐車場は、二ノ丸内にあります。
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   城址への道が大手門脇堀跡で堀底巾60mで、堀とは思えませんでした。イメージ 9
 築城年代は15世紀以前のようですが、詳しいことはわかっていません。ただ、二戸市のHPでは、「政実の4代前の光正が明応年間(1492-1501)に築城」したとしています。
 当城が、歴史の表舞台に登場するのは、天正19年(1591)の「九戸政実の乱」です。三戸南部氏24代晴政が、天正10年(1580)に病を得てなくなり、その跡目をめぐり晴政の実子晴継を押す九戸政実派と晴政の養嗣子であった石川(田子)信直を押す一派が対立しますが、25代を継いだ晴継が謎の死を遂げ、両派の思惑が渦巻く中、石川信直が26代三戸南部当主となります。その後も九戸政実は、反信直の姿勢を変えず、南部氏内部抗争に乗じた津軽の大浦為信に津軽三郡を奪われる事態も招きました。
 天正18年(1590)の豊臣秀吉の「奥州仕置」後に起こる葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆に乗じて、政実は翌年3月に三戸南部氏打倒の兵を挙げました。反乱初期は、九戸氏有利でしたが、南部信直が秀吉に支援を仰ぎ、豊臣勢の6万といわれる大軍に九戸城は攻めら、籠城戦4日にして開城します。婦女子や兵の助命を条件の開城でしたが、これは豊臣勢の謀略で城内の者は悉く撫で斬りにされ、政実と7人の重臣も三迫(宮城県栗原市)で秀次により斬首されました。イメージ 3
 落城後、秀吉の命により蒲生氏郷が改修し、10月に信直に交付されました。信直は直ちに三戸城から移り、福岡城と改名し、元和元年(1615)盛岡城に移るまでの20年余り南部宗家の居城であった。寛永13年(1636)に破却され廃城となりました。
※右の城址鳥瞰図は、城址パンフレットより。
 
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  大手門脇堀跡から少し進みますと、大手門跡に着きます。二ノ丸から撮ったもので、虎口と思われますが、二ノ丸進入路で改変され往時の様子がわかりません。左手の堀は、巾20m以上で水堀だったようです。イメージ 6
   二ノ丸南東(大手門跡方向)からからの見た本丸。
 
イメージ 7 二ノ丸は、三之丸を除くと城内最大の郭で、本丸をL字型に囲う形です。写真左は、鳥瞰図の土肥晩翠石碑あたりから撮ったもので、写真下は、本丸南西隅櫓跡下から撮ったものです。地形を活かし曲線的な曲輪を並べる南部の平山城であった九戸城を、直線、矩形を基本プランとして本丸・二ノ丸を造り直したのが福岡城だったようです。イメージ 8
  本丸北東から東にある堀です。
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 本丸南虎口は、二ノ丸とは土橋で繋がり、枡形虎口になります。その土橋辺りの石垣で説明板では「古式穴太積」と呼ばれる野面の布積み崩しとあります。
 
 
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イメージ 14 南虎口西側の堀で、見事に石垣が残っています。
 
 
 
 
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 本丸南虎口ですが、古図や伝承に名称がなく無名の虎口だったようです。発掘調査で土橋状の虎口中央に古い堀跡がの端部が検出され、門礎石が出たことから、九戸城期にもここが虎口であったことがわかったようです。イメージ 15
 南虎口築石で、比較的大きい石をそろえ、鏡石と思われ、その周囲に巻き積みの手法がみられるようですが、石垣に疎い小生にはちんぷんかんです。
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 本丸内部から見た南虎口です。イメージ 17
 南虎口を入ったすぐ先にある井戸跡です。
 
↓本丸南西隅櫓跡から見た本丸内部です。イメージ 18
        イメージ 19                                                           本丸 南東隅櫓跡前あたりからの本丸です。本丸は。方100mほどの広さがあり、本丸整地面層の下から多数の火縄銃弾やその鋳型や火を受けた痕跡のある陶磁器片、銭が出土しています。蒲生氏の改修がこれらを覆土して石垣や虎口を造ったものと考えられるようです。イメージ 20
 
 
 
 
 
本丸東虎口の追手門跡です。ここも枡形で、堀底から木橋の橋脚礎石が検出され木橋がかかっていたようです。ただ、現在は武骨な橋が架かり興ざめな感じがしました。
少し長くなりましたので、この続きはーその弐ーで
 
参考文献
『中世糠部の世界と南部氏』
『城と石垣 その保存と活用』
『九戸城跡』(城址パンプレット

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