九戸城の本丸・二ノ丸以外の郭と発掘調査について書いていきます。
左の鳥瞰図は、城址パンフレットに掲載されているものです。
鳥瞰図の土井晩翠歌碑の所が搦手門だったようです。石沢館・若狭館・三之丸方面への虎口のようです。
搦手門を出たところから見た、石沢館と二ノ丸の間の空堀です。堀巾は優に20mはあります。
この石沢館前の堀底道は、城の裏側の白鳥川までの小径に繋がり、九戸城時代からの古い道だったようで、九戸氏のもう一つの本拠地九戸村へもこちらから往来していたようです。(説明板より)
次に、発掘調査からわかる「九戸城」の姿。
現在みられる本丸・二ノ丸・松ノ丸の石垣や土塁、枡形虎口は、天正19年に蒲生氏郷が普請したものです。近世城郭の「福岡城」といえます。(平成元年〜9年度の本丸調査から)
九戸氏の「九戸城」は、現遺構としては石沢館・若狭館が残るようですが、本丸・二ノ丸の「福岡城」の下からその一端が垣間見られました。
左図は、現在みられ「福岡城」の縄張り図です。
平成元〜4年度の調査で、「堀が途切れ、土橋状であるこの虎口(本丸南虎口)中央に設定されたトレンチでは、古い堀跡の端部が検出され、九戸城期でもここが虎口であったことがわかった。」
平成7年度の調査で、「二ノ丸大手門跡の東脇に、二之丸東側の段差に沿って埋め戻された大規模な堀跡が発見され、堀底から15世紀の白磁壺底部が出土している。」
平成10年度の調査で、「平成7年度に二ノ丸大手門東脇で検出された旧堀跡が二ノ丸の北側まで現在地上で観察される段差に沿って曲輪を東西に分断するかたちで延びていたことが確認された。平成11〜13年度のの調査ではこの堀の東の郭に工房跡である竪穴住居群が立ち並んでいたことがあきらかとなり,この曲輪の縁には旧堀に面して塀または柵列があり、さらにこれに連なって櫓門跡と思われる大規模な遺構が検出されている。」
以上は、『中世糠部の世界と南部氏』の九戸城の記述からの抜粋です。これから考えられる九戸城期の縄張りを推定してみました。
九戸城期(九戸氏の九戸城)の縄張りは、ほぼ同じ規模の平場を巾広の堀で区画するという南部地方によく見られる城館と類似していたものと思われます。このように、「曲輪を並べ」た城館は、近くの浄法寺館や根城・浪岡城・一戸城・七戸城などあげることができます。福岡城の本丸・二ノ丸は、九戸城期には三か所に区分される曲輪だったと考えられます。九戸城期の曲輪A・A‘と曲輪Bは、堀で区画されています。また、曲輪A・A‘も堀で区画されていたのではないかと推定されます。
発掘調査から素人が推定したものですから、あまり参考にはならないかもしれませんが、歴史ロマンとして楽しめましたね。これも、城址巡りの醍醐味といったところです。国指定となっていますので、整備がなされ季節を問わずに見学できます。お勧めの城址といえますね。
参考文献
『中世糠部の世界と南部氏』
『九戸城跡』(城址パンプレット |
この記事に