古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

飛騨国

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萩町城

   萩町城は、大野郡白川村萩町にある比高(60m、駐車地点からは0m)の丘城です。城址は、庄川右岸の台地上にあり、現在は南麓に広がる萩町合掌集落を一望する展望広場となっています。ここには、3回ほど訪れていまして、お城址とは知っていましたが、遺構らしきものも見当たらず、素晴らしい合掌集落の景観を見るだけでした。白川郷の合掌集落すばらしさを再度見たいとは思っていましたが、ここのところの外国の方々の訪れや観光地化された感じに二の足を踏んでいました。金沢から五箇山を訪れたついでに、萩町城や帰雲城推定地を見てみるのもいいかなと思い、訪れてみました。                      訪城日:2018.5.30 小雨

イメージ 1
 城址へは、東海北陸自動車道白川ICをを降り、国156号を南下し、萩町信号手前20m程に展望台への案内標識がありますので、そこを左折して約1km程で右折(案内板あり)して、進むと荻町城跡展望台の無料駐車場があります。無料駐車場に入る手前にも駐車場がありますが、食事処天守閣の駐車場(買い物か食事をしないと無料にならないのかな)なので、ご注意してください。
 徒歩でも行けます。萩町バスターミナルの東側の和田家の後ろから15〜20分で着きます。また、萩町の信号からの急登の道(徒歩10分)もありますが、急坂と道悪でお勧めできません。イメージ 2





 展望台駐車場から撮った萩町合掌集落です。白川郷の写真といえば、この景色ですよね。城址(取った場所から数m横)に行く前にパチリでした。

イメージ 3



 萩町城の城主が、『飛州志』には帰雲城主内ケ島氏家臣山下大和守としています。内ケ島氏が白川郷に足利将軍義政の命をうけて寛正年間(1461-66)の前ごろに入部し、白川郷の南の入口牧戸に城を築き、寛正の末頃には北部に帰雲城を築き拠点としたようです。
 鎌倉末から浄土真宗が白川郷鳩ヶ谷(減殺の白川村役場付近)の正蓮寺を中心に教線を伸ばし侮れない勢力で、内ケ島氏との軋轢も起こったようです。ただ、この浄土真宗が蓮如の本願寺派とは違う宗派と思われるようです。
 内ケ島氏が本願寺派と、正蓮寺が在来の有力勢力=三島氏が結び、対立抗争になり、文明7年(1475)と同17年に内ケ島氏が勝利したようです。
 このようなことから邪推しますと、当城が正蓮寺近くの丘上にあることから、文明期の合戦にかかわってどちらかの勢力によって築城されたのかもしれません。
 虎口が石垣造りの内枡形ということが発掘調査でわかりましたので、天正13年(1585)内ケ島氏の滅亡頃までは使われていたと考えられるようです。
イメージ 4駐車場のすぐわきにある空堀です。箱堀で、土塁はかき揚げのようです。説明板によると、大規模な作り替えの痕跡は無いようで、当初の形態を残しているようです。尾根続きを遮断する堀切なのでしょう。両側が竪堀状になっているようです。イメージ 5






空堀から少し入った所で、発掘調査で内枡形虎口とされるところです。イメージ 6



土塁脇に石が見られます。石垣の一部のようです。

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虎口から少し郭内に入った所に「ここは搦手です」と書かれた標識がありました。内枡形虎口が搦手と。そうすると大手は?探しましたが、それらしき所が見つかりませんでした。イメージ 8

主郭北西から撮ったものです。右手奥に櫓台おぼしき土盛の箇所があります。単郭で約25×25m程の広さです。
城址北麓に「シモゴソ」→下御所、南麓に「オンチ」→御地があるようです。
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集』で当城を担当した佐伯哲也氏は、「麓の城主居館とセットになった城郭と推定されよう。」としています。

参考文献
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集(飛騨地区・補遺)』 岐阜県教育委員会 2005年
『飛騨中世史の研究』 岡村守彦著 戎光祥出版

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帰雲城(かえりくも)

 帰雲城は、城址の所在地が特定されていませんが、推定地として岐阜県大野郡白川村保木脇にあった城館です。白川郷には、何度か訪れ展望台になっている萩町城跡にも行っていますが、あまりにも観光地化されすぎていることもあってちっと避けてきました。今回、金沢城の石垣めぐりの帰りに五箇山を訪れたましたので、久しぶりに萩町城を訪れ、以前から気になっていた帰雲城の推定地も見てみたいと思い、行ってきました。
                                            訪城日:2018.5.30 小雨のち曇り
イメージ 1城址推定地へは、白川村市街から国156号を約9kmほど南下すると、左手に「帰雲城埋没地」の上番が見えてきます。そこを左折すると城址碑があります。車は、その前あたりに駐車できます。

 









 帰雲城は、白川郷の国衆内ケ島氏が寛正年中(1461-66)の終わりごろに築いた城館と考えられるようです。内ケ島氏は、明徳応永年中(1390-1428)足利将軍に奉仕した奉公衆だったようで、寛正年間の前ごろに奉公衆として足利将軍より御料所を預かり、領地を賜って信濃のから白川郷に入部したとされるようです。
 中世の白川郷は、現在の白川村、高山市荘川町(旧荘川村)を合わせた範囲で、内ケ島氏は白川郷の南部に入口に当たる牧戸に城を築いたと。現在、牧戸に向牧戸城があり、それがその城なのでしょうか。その後、北に勢力を伸ばし帰雲の地に帰雲城をきずいたのが寛正の末頃とされるようです。ただ、内ケ島氏が、築いた城が山城というより、萩町城(内ケ島氏の北の境目の城で、合掌集落を見渡せる台地先端部に築かれている)と同じような造りだったのではないかと思うのですが。
 内ケ島氏は、文明年間に郷内の対立勢力の三島氏を本願寺派と結んで敗退させ、郷内での支配を確立したようです。
 戦国末になり、天正13年(1585)8月に豊臣勢の金森氏が飛騨に侵攻し、内ケ島氏も金森氏の軍門に下り本領の白川郷を安堵され、その祝いの宴の先日=天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、近畿から東海・北陸に甚大な被害を及ぼした天正大地震が起こり、当地でも帰雲山の大規模な山崩れが起り、帰雲城は城下町ともども一瞬にして崩落した土砂の埋まり、城主内ケ島氏一族を含む領民300人はことごとく遭難し、一夜にして滅亡したと伝えられています。そのことが、本願寺顕如(1543-92)の右筆によって書かれた『宇野主水日記』にも書かれています。「飛州ノ帰雲ト云う在所ハ、内島ト云奉公衆アル所ナリ。地震ニ山ヲユリクヅシ、山河多せカレヲ
(テカ)、 内島一類地下人ニイタルマデ、不残死タル也。他国へ行タルモノ四人ノコリテ、ナクナク在所へ帰タル由申訖、彼在所ハコトゴトク淵ニナリタル也。」

 帰雲城の所在地は、いまだ不明のようですが、帰雲城と内ケ島氏を調査・研究する方々(新・帰雲城と内ケ島氏の謎)の成果から、庄川の左岸にあったのではないかということが分ってきています。帰雲城を飲み込んだ大規模な山崩れは、どうも帰雲山の斜面の崩落だけでなく、背後の三方崩山や皈雲山(現在は標高1402mの皈雲台地)からの崩落もあったと推定されるようです。イメージ 2
城址碑のある所から帰雲山です。















イメージ 3
城址碑と白川村が設置した説明板です。
白川村の観光HPには
「庄川河川からの採石業を営む田口建設という建設会社のかつての社長の夢枕に帰雲城の武将が立ったことから、帰雲山崩壊地を背景とする作業現場周辺を住民の協力を得て整備し、その霊を祀る観音像や神社などをこの地に建立、公園化して今に至っています。」と、あります。





イメージ 4帰雲山の大崩落の場所が、今でも生々しく見れました。ここは、江戸時代にも崩落したようです。












参考HP

参考文献
『飛騨中世史の研究』 岡村守彦著 戎光祥出版
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集(飛騨地区・補遺) 岐阜県教育委員会2005年

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松倉城

 松倉城は、高山市西之一色町、上岡本町にある比高60m(駐車場から)の山城です。前回(2008.10)は、下調べもせずに訪城しましたので、今回は縄張り図もしっかり持参し、行けるところはすべて行けました。             イメージ 1                       訪城日:2014.7.24  晴れ      高山市中心街から国158号を「飛騨の里」を目指して西に進みます。国41号の上岡本町交差点を過ぎて「飛騨の里」の案内に従いひ左折して、「飛騨の里」の前を通りそのまま進みますと松倉城への案内が出てきますので、それに従って林道を進むと、約1.5kmほどで駐車場に着きます。駐車場左手に登城路があり、10分もしないうちに城域に到達します。イメージ 2
駐車場
 林道脇にかなりの空きスペースがあります。トイレもあります。
 
 
 
 
三木(みつき)良頼、自綱によって、永禄年間(1558〜)から天正年間中頃(1573〜)にかけて築城された。三木良頼は永禄元年長子良綱(自綱)を将として、天神山城(後の高山城)の高山外記と畑佐城(新宮町)の山田紀伊守を討った。三木自綱は天正5年(1577)中山城(下岡本町)の岡本豊前守を討ち、白川郷を除く一円を支配し、桜洞(益田郡荻原町)を冬城に、松倉城を夏城とした。イメージ 3
 松倉城は山城ながら山上の本丸に矢倉、城門を置き、標高856.7m比高360mの松倉山上に巨石を使って、堅固な石垣を築き上げている。戦国末期の山城から一歩前進した雄大な縄張りをもつ城である。天正13年(1585)金森長近、可重父子に攻められて落城し以後廃城となった。  
高山市教育委員会  現地案内版より
 三木自綱の当城築城は、大野郡を制圧し、吉城郡への進出拠点としたものであった。ただ、この立派な石垣等を三木氏が造築したとは、ちょっと考えにくいものです。調査報告書の中井均氏は、「高石垣の採用、桝形虎口などは典型的な織豊系城郭の構造を示しており、従来より言われている三木氏の築城とはとても考えられない。・・・現存する城跡は、天正13年(1585)豊臣秀吉によって飛騨に封ぜられた金森長近が高山築城に先駆けて旧領主三木氏の城を改修したものである可能性が高い。」と述べていられるが、納得できる見解であると思います。
イメージ 4
 城址西端の堀切Bです。駐車場からだと最初の遺構になります。埋まっていますので規模がよくわかりませんね。この堀切は、三木氏時代のものなのかな〜と思います。イメージ 5
  堀切を経て最初に目にする③郭西南の石垣です。結構大きめの石が使われていて、なかなか見ごたえがあります。奥に②郭の石垣が見え、折り重なる石垣は来訪者(敵兵・賓客)に対してかなりの重圧感を与えるのではないかと思います。イメージ 7
 ③郭に入りますと、目の前に石垣が迫ります。搦手門があったようで、搦手道は③郭西南角石垣の横を通り写真左手下から来たようです。イメージ 6 
 ③郭を東側から見たところで、西南角櫓や搦手門辺りの削平は十分ですが、手前側はごつごつしています。
 イメージ 8
 ③郭南東隅にある方形区画(イメージ 9A)の南中間櫓の南石門跡です。出桝形虎口と見られているようです。虎口下はかなりの斜度でここへの城道は…?イメージ 10
 主郭から見た④郭。東端に石垣が見られ、それ以外は切岸になっています。この東端に大手門跡の標柱があるので尾根上の大手郭なのでしょうが、石垣造りの搦手に比べて正面が土造りというのは何か変ではないかと思いますか…。イメージ 11
  ④郭から見た②郭虎口です。②郭は、主郭外郭と呼ばれるようです。イメージ 12
 主郭虎口です。
 
↓主郭を北西方向から見たものです。20×25mの正方形で周囲は石塁がまわり、礎石も見られます。
イメージ 13
 
 
 
 
 
 
 
  
イメージ 14 ④郭東端の大手門跡の標示のあイメージ 15る所で、左手すぐ下に井戸があります。
 下から見た④郭東端で、石垣で段築されています。はたして、ここを登って行ったんでしょうかね。イメージ 16
中井均氏は、ここG地点を「谷筋よりの虎口」としています。谷筋の城道が大手筋としていますので、大手二ノ門となるのでしょうか。
 
イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 18
 ④郭から東に派生する尾根を遮断する堀切Eとその直上の石垣です。
 
イメージ 19
 
 
 
 
 
 
 
 
谷筋のI郭を見に行きましたが、ご覧のように藪に覆われ見ることはできませんでした。中井氏は、ここが麓からの大手で、石垣で築かれた枡形としています。一ノ門ですかね。また、堀切Cも見たいと思い来ましたが、ここも倒木や藪で残念しました。
 
イメージ 20
 これを書きながら思ったのは、主郭への城道は、G地点から④郭東端の大手門跡ではなく、④郭南下を通り南中間櫓の南石門に至るものなのではないかと。(オレンジ色の道)
 G地点から④郭東端の段郭を登っての道は大手道としてはきつく見栄えのないものと思われ、横矢の架かる城の南を迂回させ、石垣造りの石門がそれにふさわしい道なのではないかと思ったのですが。まぁ〜いつもの邪推ですのでお許し願います。
 
参考文献
『岐阜の山城 ベスト50を歩く』
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第4集(飛騨地区・補遺)』 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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広瀬城

  広瀬城は、高山市国府町名張字上城山、瓜巣字井口にある比高約90mの山城です。当城で特筆するのが畝状竪堀群です。7月という時期で、藪に覆われてるものと観念しての訪城でしたが、豈図らんやの素晴らしい竪堀群を見ることができました。          イメージ 1訪城日:2014.7.24  くもり
 城址へは、高山市街より国41号を古川町方面に向かい、国府町の名張信号で左折します。300m先を左折したすく先右手に城址案イメージ 2内板があります。案内板横の道を300mほど行きますと文化財保護センターがあり、車はそこに停めさせていただきました。
 
 
 当城は、鎌倉期よりこの広瀬郷(平安期からの名は武安郷)を本拠地とした広瀬氏が築いたものと考えられます。この広瀬氏ですが、飛騨の歴史に登場するのは、応安5年(1372)の将軍足利義満の広瀬氏宛御教書で、その出自はわかっていません。この御教書はイメージ 16、守護被官人垣見らの山科家領押領停止を広瀬左近将監に命じたもので、この時期に御教書で命じられるのは通常守護だったようなので、宛名の広瀬左近将監が守護の可能性が高いと思われます。どのような経過で守護識についたかは定かではありませんが、広瀬氏が飛騨国の有力国人としてあったことは確かなようです。この時期の飛騨国の有力国人は姉小路・江馬・垣見氏などのようです。
 その後、応永18年(1411)に広瀬常登入道は、飛騨国司姉小路尹綱ともに幕府に対して挙兵し敗れ、広瀬郷を没収され広瀬氏は逼塞します。しかし、しぶとく広瀬郷に蟠踞して戦国中期天文年間ごろに南部の三木氏と手を結び山崎城や高堂城を築いたとされます。高堂城が街道沿いからかなり奥にあることから出先の砦として広瀬城が築かれたのではないかと思われます。
 天正10年(1582)の八日町合戦で北飛騨国衆江馬輝盛に勝利した姉小路(三木)自綱は、天正11年味方の広瀬宗城の高堂城を攻め広瀬氏を滅ぼします。その後、高堂城に居を移し、織田方の金山勢の侵攻に備えて諸城を改修したと考えられ、広瀬城もその際に大改修を施されたと考えられるようです。 廃城の時期は、不明です。
イメージ 7
左図は、城址説明場にある縄張り図で、説明のため加筆しています。
イメージ 3
 写真の左手の建物が文化財センターで、奥に見える山が城址です。 
 
 センターから少し行くと6郭イメージ 4下で、右手に進み鳥獣除けフェンスをあけて進みます。
 
 
 
 
 
 
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 登城路左手の尾根(2郭から6郭への尾根)を遮断する堀切アが、見えます。右手は、城洞と呼ばれる沢です。イメージ 6
 城洞を登り切ると主郭直下の城壁に突き当たり、大手道は左手に続きます。イメージ 8
 大手の虎口だとは思うのですが、それらしき遺構がみられないのが不思議てす。他の箇所でも明確な虎口は見当たりませんで、この規模の城としてはとても珍しいです。イメージ 9
  大手口から見た2郭方向。イメージ 10
  2郭で28×15mほどの広さです。4m下に幅3〜4mの腰郭がまわり、その一段下に大手道を見下ろせる出郭があります。イメージ 11
  2郭から6郭へ延びる尾根を遮断している堀切ア。イメージ 12
  2郭の北斜面に7条ほどの畝状竪堀があり、見に行きましたが、ご覧のように草に覆われて見れませんでした。イメージ 13
  大手口から主郭方面で、主郭下の郭でほとほどの広さがあります。大手道をこの郭と2郭下の出郭で監視、迎撃したのでしょうか。イメージ 14
  主郭下の平場の城壁に石積みが崩落したと思われる石が見られます。佐伯氏は、「石垣上に石垣でしか耐えれない重量建造物が建って」いたと推定しています。主郭手前ですから、防御用の建物などは想定できますが、重量建造物まではどうでしようか?どちらかといえば見せる石垣なのかも。
 
イメージ 15
 主郭で、東西約90m、南北約50mのL字形で、当城最大の郭です。だだっ広い感じで、南側が一段低くなっていましたね。ここも虎口らしい箇所が見当たりませんでした。イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
 主郭西端から見た堀切ウで、主郭からはかなりの高低差があり、降りるのがきつかったです。イメージ 18
 
 
 堀切ウを横から見ています。高低差がわかりますかな?イメージ 19
 
 
 
 
 
 
 
 3郭東端から主郭方向を見たものです。堀切手前の土塁の存在が?のようです。佐伯氏は、「不可解なのは3郭と主郭の間に大型の堀切ウを設け、さらに主郭を警戒するかのように3郭側に土塁を設けている点である。2郭に見られるような主郭に対する求心性があまり見られず、主郭と3郭が完全に分離してしまい、それぞれが独立しまっている。また、連絡性もかなり悪くなってしまっている。土豪国人層の城郭に見られる欠点の一つといえよう。」と岐阜県中世城館調査報告書で書かれています。大規模な堀切ウによって分断され、一城別郭の構造になっているとし、織豊城郭との比較における後進性を言われているようですが、果たしてどうなのでしょうか。この点の評価については改めて考えてみたいと思います。(ここで立ち止まりますと、アップできませんので…苦笑)
イメージ 20
 5郭で、城址東端の郭で、主郭より高い位置にあるためこちらが主郭という説もあります。西の尾根伝いには広瀬氏主城の高堂城にも行けるようです。三木自綱が広瀬氏を滅亡させたのちに、高堂城に入り広瀬城の改修をしたという伝承からしますと、堀切ウ西側の部分がそれにあたるのではないかと思えます。イメージ 21
 
 
 5郭西下の堀切エです。
イメージ 22
 
 
 
 
 
 
イメージ 23
 
 
 
 
 5郭の下部周辺に設けられている畝状竪堀です。5郭から4郭西側をなるように竪堀が設けられており、この方面からの攻撃をかなり予想しての防備だったようです。イメージ 24
 
 
 4郭から下城になります。ここは、馬場といわれる郭ですが、藪がひどく西下の竪堀群は確認できませんでした。
 
以上で、広瀬氏の紹介を終わりますが、夏場の訪城でも遺構がよく見られ、特に西側の畝状竪堀群の遺構は素晴らしいものでした。飛騨の歴史が作り出した国衆の卓越した城の形態がよく残る城址と感じ取りました。
 
参考文献
『岐阜の山城 ベスト50を歩く』
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第4集(飛騨地区・補遺)』 
『飛騨中世史の研究』 岡村守彦著

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江馬氏下館

 江馬氏下館は、飛騨市神岡町殿にある国史跡の居館跡です。イメージ 1当館は、鎌倉期に高原郷の地頭識として入部し、南北朝〜戦国期にかけて北飛騨・中飛騨に威を張った江馬氏の居館跡です。水田の中に5つの大きな石があり、「五ヶ石」と呼び「江馬の殿さまの庭の跡」と言い伝えられてきていたそうです。昭和51年〜53年に土地改良に伴う発掘調査が行われ、言い伝え通りに中世武家館跡の遺構が見つかり、昭和55年周辺の山城群(高原諏訪城跡・洞城跡・石神城跡・寺林城跡・政元城跡・土城跡)とともに「江馬氏城館跡」として国指定史跡を受けました。      訪問日:2014.7.24 くもり一時小雨
 イメージ 2
 下館跡へは、神岡市街国471号沿いの道の駅(宙ドーム神岡)近くの江馬町信号を東に入り、少し先を右折すると江馬氏下館(史跡江馬氏館跡公園)の駐車場に着きます。駐車場には、3〜4台停められトイレもあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 下館は、発掘調査から江馬氏が14世紀末〜16世紀初め頃イメージ 3まで使われた館跡であることがわかりました。館の最盛期は、遺物の出土量から14世紀末〜15世紀前半と考えられ、現遺構は最終時期の15世紀後半〜16世紀前葉のもので、整備復元もこの時期に合わせているとのことです。
 下館は、「南・北・西を堀で囲んだ約100m(1町)四方の方形」で、中心部に庭園・会所・常御殿・対屋・台所を配置し、土塀外に馬屋・宿直屋・工房などもあったようです。この構造は、室町将軍邸の「花の御所」に類似していてます。このことは、江馬氏が、14世紀〜15世紀にかけて、幕府管領・奉行人から公務執行命令を受けるほどの有力在地勢力として、中央との政治的、文化的結びつきを示すことで地域支配の権威を高めたものと考えられます。
 下館が16世紀前半に廃絶されるのは、永正13年(1516)に江馬氏が姉小路・三木氏に挙兵し敗れたことに関連すると思われます。この江馬の乱後、江馬氏歴代のなかで具体的に記録に残る江馬時経が跡を継いでいますが、江馬家嫡流ではないようです。江馬家嫡流は、居館の下館と共にほろんだのではないかと思います。なお、下館廃絶後の江馬氏の居館は不明とされています。
イメージ 4
  西向きの館正面で、二か所に門があり、主門が復元されています。脇門(間口9尺)は、位置表示です。土塀は、高3mです。西堀は、上巾約4m、深さ約3mで門に繫がる土橋が二か所ある。主門両脇は薬研堀で、脇門北側は、箱堀です。この形態の違いを説明板では、「説館の正面を強調するために深い堀の薬研堀を設けた」と書かれています。面白い解釈で、そういうものなのかな〜と思ったりです。イメージ 5
 主門前で、14世紀末〜15世紀前半では、犬追物などを行う儀礼空間だったようです。15世紀後半〜16世紀前葉になると、宿直屋・馬屋が設けられたようです。
イメージ 6
 主門で、礎石は削平によって失われていますが、礎石建ちの四脚門と推定されて復元したようです。奥の建物が会所です。イメージ 7
 
イメージ 8 館内部を北西方向から見たもので、主門から会所・常御殿・対屋・台所が並んでいます。
 
 
 
イメージ 10
イメージ 9
イメージ 11
 
イメージ 13 会所内部。「可能な範囲で、当時と同じ材料・工法によって復元したもの」とありますが、これほど立派だったかどうかは・・・と係りの方が云っていました。右の武者隠は、どこかでも見た覚えがありますが、16世紀初めにもあったとはねやはり厳しい時代だったんですね。
イメージ 12
下館の最大の見どころの庭園です。東西27m、南北12mの不整楕円形の池(水ははられてない)と荒々しい大きな石組みと盛土のみで形成されているようです。下館成立期の14世紀末〜15世紀初めに造られたことがわかり、地方の武家館に伴う庭園としては最も早い時期のものです。このようなプランのもととなった京都の花の御所が1378〜1381年頃ですから、それを見てすぐに作れるという江馬氏の財力・文化的素養もかなりのものだったことが感じ取れますね。
 
 最後に、「下館」は、古文書や古絵図等に「江馬之下館」と記されていることから命名されたのでしよう。ただ、下館があれば「上館」はないのかな〜と思うのです。普通、下館の地のみに館が営まれているならば、下館は「江馬之下館」といわれずに「江馬之館」「江馬氏館」といわれるのではないでしょうか。やはり、当時や少し時代を経た人々の意識の中にこの地以外にも館があり、その館が「下館」を下と見れる地にあったのではないかと…。冒頭の高原諏訪城からの写真がまさにそれなのではと思うのです。「上館」は下館背後の高原諏訪城といわれたのではないかと思うのです。
 さらに妄想しますと、下館廃絶後の江馬氏の居館は不明とされていますが、江馬時経が居館としたのが高原諏訪城だったのではと。遺構からすると、居館向きではないのですが、発掘して詳しい城址の様子がわかるといいのですかね。
 
参考文献
「発掘調査現地説明会資料」 神岡町教育委員会
「江馬氏下館」 三好清超 (『岐阜の山城 ベスト50を歩く』)
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』

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