古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

街道

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白河街道

 会津盆地へは年に1〜2回ほど訪れる地です。以前は、よく高速道(東北道→磐越道)を利用していましたが、近頃は白河で高速を降り国289号で下郷町で国121(118)号を経て会津若松に行くことが多くなりました。この国121号が、会津西街道(下野街道)と呼ばれています。昨年は、会津西街道を通らずに白河街道と道沿いの城址もいいのではと思い、通行してきました。下図は、白河街道(白河市側からは会津本街道や会津越後街道)の概念図です。
イメージ 1
















   













 

 白河街道は会津五街道(※1)の一つで会津若松市と白河市を結ぶ街道です。江戸期には会津藩(新発田藩・村上藩なども)の参勤交代の道としても使われ、佐渡の金銀を江戸に運ぶ佐渡三道(三国街道、北国街道)の一つでもあったため、五街道に次ぐ脇街道として重要視されたようです。
※1 街道の名は、行先の名を冠するのが通例のようです。会津五街道も、それぞれの行先を持って付けられい
   ます。白河街道・下野街道(南山通り、会津西街道)・越後街道・二本松街道・米沢街道
 
 江戸期の白河街道の様子も気になりますが、私の関心としては、中世においてのルートがどうであったのかですので、①戦国中期から主要ルートになる勢至堂峠越えの道 ②勢至堂峠越えの道以外のルート に分けていきます。
①戦国中期から主要ルートになる勢至堂峠越えの道
 会津と白河を結ぶ道は、いくつかありますが、国道294号沿いの道が主要道になったのは、天文14年(1545)に葦名盛氏の明を受けた赤目越中父子によって勢至堂峠が開削された以降のようです。この時期、岩瀬郡の長沼周辺の領有を二階堂氏や田村氏と争い、仙道進攻のルートを整備したと考えられます。この時期のルートは、会津〜背あぶり山〜湖南〜勢至堂峠〜白河です。
 羽柴秀吉が、天正18年(1590)小田原攻めの後、奥州仕置のために会津黒川に下向しますが、その際にこのルートが使われ、伊達政宗に領内の会津までの街道整備を命じています。その内容は、幅三間に直し、船渡、橋を整備し、「御座所」(宿舎)を設ける等です。ただ、背炙峠や勢至堂峠では、幅二間だったようで、太閤道として現在も残っているようです。
 寛永4年(1627)に加藤嘉明が入部して、滝沢峠を開削して新たなルート、滝沢北街道を開きます。これは、背炙峠が険しく、政宗によって整備された太閤道を通った秀吉も籠から降りて馬に乗り換えて九折の峠を登ったようです。この新ルートに合わせて鶴ヶ城の大手筋も天寧寺町口から甲賀町口に変わりました。新ルートは、会津〜滝沢峠〜湖南〜勢至堂峠〜白河です。
②勢至堂峠越えの道以外のルート 
 勢至堂峠が開削される以前の道は、いくつかあったようで、安藤峠越えの道、馬入峠越えの道などです。安藤峠越えの道は、羽鳥通りと呼ばれるようで、湯川沿いに溯り東山温泉ー川渓ー一ノ渡戸ー二弊地―安藤峠から大平に出て、羽鳥ー白河のルートのようです。かなり険しい峠越えの道と思われます。馬入峠越えの道は、馬入峠に至るのにいくつかあるようですが、その一つが赤津から馬入峠に至り、大平。羽島に出るようです。馬入峠には、関ヶ原合戦時に上杉氏が会津防衛に築いた堡塁が残されています。戊辰戦争の際には、会津藩がこの土塁を修復して官軍(西軍)の攻撃に備えたされていますので、中世から引き続いて江戸期にも使われていた道といえます。

次に会津を訪れる際は、白河街道の宿場や太閤道の残る馬入峠越えの道から赤津に出て、背炙峠を経て若松に入りたいと思います。

参考文献
『会津若松市史 3 会津葦名氏の時代』
『会津若松市史 19 会津の史的風景』




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氷見市街から能登へ通ずる道は、7ルートほどあるようです。この7ルートについては、「富山県民生涯学習カレッジ」の「テレビ放送講座 平成3年度テキスト「第5回 能登への道」」を参考にさせていただき、地図を作成しています。

イメージ 1
①海岸沿いに行く道
②石動山を経る道
③磯辺・国見を通っ
  て荒山峠を越る道
④一刎越えの道
⑤懸札を越える道
⑥論田・熊無を通っ
    て羽咋へ出る道
⑦御上使往来といわ
    れる臼ケ峰を越え
    るルート

本道は、⑦の臼ケ峰越えです。

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鞍骨山周辺の古道

 鞍骨山は、長野市松代町の西側の山地で、大峰山脈が北に延びた山嶺にあります。千曲川の流路にぶつかる尾根先端部に上杉謙信が第4次川中島合戦で陣を構えた妻女山(赤坂山)があります。なお、妻女山については、本来は「赤坂山」といっていたようです。そのことについては「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
 鞍骨山には、その西麓の清野を本貫した清野氏が築いたとされる鞍骨城があります。どちらかというと鞍骨城のある所と云った方がわかりやすいのかもしれません。
 右イメージ 1の写真は、尼厳城から見た松代・鞍骨山周辺で、戦国期には千曲川が海津城※1の直下を流れ
ていました。海津城は、永禄2、3年(1559、60)頃築城とされていますが、この地に武田が築城した意図がこの写真から読み取れます。川を堀とし、東(尼厳山)西'(鞍骨山)の山地を巨大土塁とみなし、南(地蔵峠・真田)に後詰衆を配置して、前面(北方)の上杉勢と対決する陣形だったのでしよう。
※1 海津城が、武田の占領地における典型的な城郭プランだったことがこの写真からよく取れる感じです。
 鞍骨城からは、松代や川中島が一望でき、この地が、武田氏にとっては尼厳城と共に戦略地点だったことがわかりますね。
イメージ 2イメージ 3










 鞍骨山のお話に戻りまして、この山地の両側の地は、戦国期武田氏が侵攻する前は坂城の村上氏の一族である清野氏が領有していたところです。また、千曲川の流路が現在とはかなり違い、山地の先端部妻女山(赤坂山)の山裾を洗い、清野の地奥まで湾入していたと思われます。そのため、氾濫原の平地の道より、山地越えの峠道がよく利用されていたようです。
 今に伝わるものとして、以下の道があったようです。「妻女山の位置と名称について」を参考にしました。
①倉科坂(清野街道)
 二本松峠越えで倉科と清野・松代に繋ぐルート
①‘宮坂峠越え
戸倉から宮坂峠越えで森に至り、倉科に至るルート
②唐木堂越え 
西条の入りから唐木堂越えで鏡台山を経て坂城の日名に至るルート
③傍陽(そえひ)街道
倉科から鏡台山を経て真田の傍陽に至るルート
イメージ 4
 天文22年4月に坂城の村上氏が葛山城を自落して上杉謙信を頼って落ち延びています。この村上氏の没落は、坂城の東側防衛網の砥石城が落城し(天文20年)、更に対岸の狐落城(天文22年4月)などによって、形勢不利と見て自落したものと思っていました。ですが、この峠道を知りまして、更に村上氏の劣勢ぶりがさらにわかる気がしました。イメージ 5
 坂城は、現在は国道18号で両隣の千曲市や上田市に行けますが、そうなったのは江戸期になって北国街道が整備されたことに拠るもので、戦国期には北の横吹峠や東の岩鼻は、千曲川の流路が迫り到底通行できる状態ではなかったようです。(写真は、和合城から見た坂城)
ですから、坂城から出るには、千曲川を渡河して対岸に渡ったようです。ですから、坂城から上田に行くには、渡河して室賀峠越えの道が使われたようで、あとは太郎山山塊のかなりけわしい尾根越えだったようです。   
 北へは、渡河して北上したようですが、背後の峠道がよく使われたようです。これらの峠道は、かなりの道幅があったようで、牛馬の通行も難なくできていたようです。したがって北信濃の雄としての出兵の際もきっと使ったのでしょう。しかし、武田の侵攻時になりますと、早々清野氏や寺尾氏(天文19年)が武田につき、峠道の通行もままならなくなってきていたのでしょう。更に、東の砥石城が真田幸綱に寄って攻略され(天文20年)されますから、まさに村上氏は、武田によって「袋小路の鼠」にされていったようです。

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中馬街道

 中馬街道は、江戸期の三河と信濃を結ぶ物流の重要な幹線道路でした。中馬が運んだ荷物は、信州から年貢米・タバコ・その他,山の産物,足助から「足助塩」「足助直し」と呼ばれた塩だったようで、「塩の道」でもあったようです。
 中馬とは、「江戸時代、信濃において行われた庶民の物資輸送のために用いられた馬または駄送行為をいう。伊那地方農民の駄賃かせぎとして始まり、次第に普及して信濃全域に広がり、中部山岳地帯と江戸その他名古屋、岡崎などの太平洋岸の地域を結ぶ重要な運送機関となった。」(『角川 日本史事典』)ものだったようです。
 中馬街道には、本道と脇道があったようです。本道は、信州飯田から南下する伊那街道が信州の最南端の根羽に至り、ここから2方向に分岐します。一つは、伊那街道をさらに南下して津具・田口(設楽町)を経て吉田(豊橋市)に至ります。もう一つは、西南に向かって飯田街道(三州街道)で足助を通って岡崎・名古屋に至ります。イメージ 1
 脇道(脇往還)は、根羽から飯田街道(三州街道)の先から北に分岐します。大桑峠(現、県道101号)を越えて、上村(現、上矢作)明智・柿野(土岐市)をへて尾張の瀬戸・名古屋に至る道です。
 本道が、信濃と三河を南北に繋ぐ道としますと、脇往還は信濃・美濃・尾張を東西に繋ぐ道といえるようです。
 現在の道も、ほぼこれらの経路をほぼ踏襲しています。

 さてこれらの道が、戦国期においてどうであったのかを、武田氏が東美濃、三河に侵攻するルートから当時の道を見たいと思います。
①元亀3年(1572)12月22日三方原合戦〜元亀4年4月12日信玄の死後の引揚げ路
 信玄の率いる本隊は、駿河から高天神城を降して袋井・見付を経て、二俣に着陣。(11月晦日落城)
山県昌景・秋山虎繁の別働隊は、信州伊那から青崩峠から遠州に入り佐久間から三河に入り、長篠城・野田城を攻めた後二俣へ。
※従来の説では、信玄本隊が青崩峠を越えて遠江に進軍し、秋山の別働隊は東美濃を攻めたとされていました。
 三方原合戦後、野田城を攻略した後長篠城に入りますが、信玄の病状悪化により引き揚げたが、その途中、4月12日に死去します。その場は信州駒場とも根羽ともいわれています。
 この時の進攻路は、三州・伊那街道は使われていませんが、引き揚げ路は、伊那街道→三州街道で間違いないでしょう。
②上村合戦
 上村合戦は、秋山虎繁の率いる武田勢が、東美濃に侵攻し際、遠山勢が上村(上矢作町)で迎え撃ったものです。その際の武田勢の進攻ルートは、平谷・根羽から大桑峠を経て上村の北側の飯田洞に出て上村に至ったもののようです。これからすると、戦国期にすでに上村街道はあったようです。
※上村合戦の合戦日がいくつかあってよくわかりませんのです。
A)元亀3年12月。この説が一般的のようです。
B)元亀元年暮。
Aの秋山の東美濃侵攻は、信玄の遠江・三河侵攻時の別働隊によるものと考えられてきていましたが、秋山がこの時は山県と行動を共にして東三河に侵攻し、三方原合戦に参加していますので違うのではないかと思います。また、元亀3年10月に岩村遠山氏が武田に従属し、信濃衆の下條信氏が岩村に派遣されていることなどから、どうもBが合戦日と思われます。
 秋山が、岩村城代として東美濃支配を進めるのは元亀4年3月以降と考えられています。
③天正3年5月の長篠合戦
 この時の三河侵攻ルートは、伊那口より足助城を落とし、作手城(武田の三河での拠点)を経て、野田城を攻略して、吉田から長篠城を取り囲んだようです。伊那街道から飯田街道を使った。
退却路は、武節を通っていますので、伊那街道を北上したものと思われます。
 
参考文献
『武田氏年表』
『武田信玄』 平山優著
『定本 徳川家康』 本多隆成著

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 以前に、信濃の古道である大内道について紹介しました。(信濃の古道ー大内道(おおないどⅠー)そのあと、地元の市誌や町誌を調べましたら、紹介した内容とは少し違う事が分り訂正して、新たな内容紹介したいと思います。
イメージ 2  この写真の場所は、長窪古町と芦田宿のほぼ中間地点の立科町宇山の日中集落にある「龍の子広場」です。ここにある大内道の説明板を読みまして、興味を持った次第です。
この前を通る道が大内道だったと書かれていますので、周辺を探索しました。ここから芦田宿入口までの道筋は、多少推定できますが定かではないかもです。


 

  まず、「大内道」の読み方ですが、上田市誌は「おおねいどう」、武石村誌も「おおねいどう」、立科町誌は「おおないどう」としています。どちらが正しいかは判別できませんので、ここでは地元の立科町誌を尊重して「おおないどう」としておきます。
 この道が、確かな史料から確認できるのが江戸期で、その当時の当地の周辺の諸道を図にしたものがありますので、載せておきます。(『上田市誌 歴史編8』)なお、この上田市誌の大内道についての記載は、「佐久・碓氷峠への道は信濃守護所の府中松本から武石峠を越えて、長窪城の脇を通って宇山の大深山に上がり、蘆田氏の支配地・芦田を経て、佐久の岩村田へ通じる大内道がある。」と。
イメージ 1
 大内道とそれにつながる武石道は、松本藩編纂の『信府統記』(享保9年(1724))に「この路往還にあらず、松本より上田・小諸等の城下を除けて・中山道長久保へ出る道なり」と書かれるように、江戸時代後期になっても街道としての公認を得られない「在地道」(造語です)でしたが、松本と江戸を結ぶ最短の道としてよく使われていました。

松本から江戸までの路線別距離
武石・大内道通り  55里9町
保福寺通り      58里12町
諏訪甲州道通り   60里25町
塩尻中山道通り   61里半

 また、当道が、正規の道でないため宿駅や伝馬が整備されていなかったので、宿場での宿継ぎのない中馬(一人で数匹の馬をひき、途中での荷物の積み替えなしに、物資を目的地まで直送する荷物輸送)が活躍していました。
 上図では、長窪古町から芦田宿の間だけが大内道となっていますが、中山道が整備される以前の戦国期はどうであったのかを探ってみたいと思います。
①中山道と芦田宿の成立
 関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、交通・運輸の便宜を図るために街道の整備に着手し、慶長6年(1601)の東海道、翌年に中山道などに伝馬制(宿駅ごとに人馬を常置させ、公文書や荷物を次の宿駅へと輸送する)を定めました。その整備は、戦国期から使われた街道の宿駅や伝馬制を充実・拡張させたものですが、新たに宿駅や新道が作られたところがあります。下諏訪宿から望月宿の間の道筋、宿駅は、新設だったといえるようです。
 この区間の江戸期の中山道は、下諏訪宿ー和田峠ー和田宿ー長久保宿ー笠取峠ー芦田宿ー茂田井間宿ー望月宿です。距離にして約40kmです。この道を前田慶次が慶長6年11月4日に歩いています。徳川氏が中山道を整備する前年です。ここで、慶次は「和田峠こゆれとも、みちはまだ長くほ(久保)也、漸くあした(芦田)に付(着)は、もとみしかわりて、あれはてたるさまなり。」と愚痴ってはいますが、十里を越える峠道で御年69才といわれますからむべなるかとは思います。それにしても古人の体力は目を見張る思いです。
 下諏訪宿は、天正3年(1575)頃に武田氏が宿駅として公認していたようです。武田氏時代のにおいては諏訪から長窪へは大門峠越えの道が主に使われたと思われ、和田峠越えの道は間道であったと思われますが、和田宿には「馬次」があり商人宿・牛馬宿があり、それなりに利用されていたと思われ、慶次一行も利用できたのでしょう。和田宿は、慶長7年の中山道開設と共に公認されたようです。
 長久保宿(長久保しなったのは明治になってからのようで、江戸期を通じて長窪宿でしたが、ここでは武田氏時代の宿と区別するために江戸期の宿駅として長久保宿とします)は、中山道の長窪宿として長窪新町に新たに作られた宿駅です。北側の長窪古町に大内道の長窪宿がありましたが、大内道経由の芦田への山道は和田峠越えの中山道にとってはかなりの回り道となるため、笹取峠越えの新道が取り立てられたようです。
 芦田宿は、徳川氏が中山道を設置する以前の慶長2年に立駅されたようで、その由来を記した『昔噺覚書』の中に「西国代名(大名)方の御通行の往還巡り候に付、今の古町は片辺り故、荒(新)宿取立て馬継ぎなされ度き由」とあり、その中で書かれている「今の古町」が芦田城の城下である芦田古町と思われ、そこが「片辺り」で西国大名の往来には適さないということなのでしょう。どうも、この芦田城の城下である芦田古町を通る道が大内道と思われます。前田慶次は以前にこの地を通過したことがあったので「漸くあした(芦田)に付(着)は、もとみしかわりて、あれはてたるさまなり。」と芦田宿の寂れ方に驚いたのでしょうが、慶次の見た芦田宿は大内道の芦田宿で、新道からはずれさびれたいたものと思われます。これからしますと、慶次が通った道は長窪古町の長窪宿から宇山の山道を越えて芦田古町へ出る大内道を通ったのではないかと思えます。まだ、笠取峠越えの新道は開通していませんから、山越えをしたところで新芦田宿への道を知らずにそのまま大内道に進んだのでしょう。
②武田信玄と大内道イメージ 4
 信玄は、天文10年(1541)に父信虎を駿河に追放し、翌年諏訪氏を滅亡させると、本格的に信濃侵攻を始めます。その際に使われた道は、若神子から八ヶ岳東麓を通って海ノ口から佐久平に出る佐久往還がよく使われていたようで、佐久郡内を東西に通る大内道も重要な軍道として使われています。天文12年(1543)の長窪城主大井貞隆攻めや天文22年(1553)の塩田城の村上義清攻めで佐久かに大内道を通り長窪に出兵しと思われます。
 この時期の武田の東信の戦略拠点は、筑摩郡の深志城、佐久郡の内山城・前山城、小県郡の長窪城ですが、これらはすべて大内道沿いに位置していることを見ても武田がこの道を重要視ししていたのがわかります。
 長窪城は、村上氏との戦いやその後の川中島での長尾氏との戦いで武田勢の兵站基地としてになつていたようで、長窪城の城下として長窪宿も整備されます。この辺のことにつきまして図にしましたので、参考してください。
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③武田氏の佐久侵攻以前(室町・戦国前期)の大内道
 武田氏の佐久侵攻以前の大内道についても、確かな史料はありませんので、断片的な事件から推定するしかないようです。
 『満濟准后日記』永享7年(1435)正月29日の条に「大井トアシタト弓矢落居、かたがた然るべく存じ候。サク郡二この大井モアシタモ要害を構へ候。サク郡ヲ通リテウスイタウゲヘモ、又上野国ヘモ罷り通るべきの間、越後勢を以て大井ヲ御合力候テ、アシタヲ御退治然るべし。大井ト小笠原ト一所ニ罷り候はば、信州の事ハ何程あるべく候か。」と記されています。この内容は、岩村田の大井城主大井持光と芦田城主葦田下野守が、ともに要害を構えて抗争を続けているので、佐久を通って碓氷峠や上野国へ行くにも差しさわりがある。そこで、幕府が信濃守護小笠原氏と越後勢と共に大井氏を援けて、葦田下野守を討つように命じたというものです。その中の「サク郡ヲ通リテウスイタウゲヘモ、又上野国ヘモ罷り通るべき」の一節は、大内道をさしているものと思われ、大内道の要衝を押さえる葦田氏によって、信濃守護所の ある松本と関東を繋ぐ最短路である大内道が「路次不自由」となっていたのでしょう。
 この両氏の抗争は、本来は領土問題と思われますが、中央の将軍義教と鎌倉公方足利持氏の対立が背後にあり、持氏方の葦田と幕府方の大井氏の抗争でもあったようです。持氏挙兵時に迅速に幕府方の小笠原氏などが関東出兵ができない事態になるため、早期に葦田氏討伐を幕府が命じたのでしょう。
 大内道は、かなり昔から佐久郡内の東西を結ぶ幹線道として機能していましたが、江戸期になり東山道が当地の主要道路になったことで、長窪古町と芦田宿間を残すのみとなったと考えられます。

 大内道と聞かれて、これに答えられる人はほぼいないでしよう。ほんの百年程前に頻繁に使われた往還が草木の中に埋もれています。ですが、この埋もれ・忘れられた道が歴史を造ったことも確かなようです。小生も、たまたま公園の案内場にあったこの古道を知りました。古道については、この年になっていたく興味持っていますので、あれこれ調べました。実に面白いですね。断片的な歴史事象が道によってつながってくるのです。この面白味を多少なりとも知っていただければ幸いです。

参考文献
『上田市誌』 『武石村誌』 『立科町誌』


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