古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

沖縄(琉球)

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今帰仁城

 今帰仁城は、国頭郡今帰仁村大字今泊字ハンタ原にある丘城です。沖縄グスクツアーの二日目で、近くの沖縄美ら海水族館を見てからの訪城でした。沖縄美ら海水族館も素晴らしかったですが、それに匹敵する今帰仁城でした。               訪城日:2016.1.22  くもり                           イメージ 1               
 城址へは、今帰仁市街から国道505号を本部町方面に向かい、今泊信号を左折して県道115号に入り、1.3km南に進みます。城址は公園になっていて、隣接の今帰仁村歴史文化センターに広い無料駐車場があります。
 観覧料400円、見学時間8時〜18時(5〜8月は19時まで)      ↓城址航空写真イメージ 2












 14世紀、やんばるを勢力圏とする北山王の本拠地ですが、築城時期は定かではないようです。1982年〜1986年に実施された主郭の調査にはじまる発掘調査の成果によると、13世紀末〜14世紀初めかけて石垣を伴わない城柵と掘立柱建物の簡単な城が造られ、14世紀前半〜中頃にかけて高い石垣を築き、14世紀後半〜15世紀前半に志慶真郭の拡張や本丸の平場拡張と礎石建物2軒が建てられたことがわかってきたました。イメージ 3
 これらの考古学の成果に符合する史料として中国の史書『明実録』があります。その記述によれば、山北王は、怕尼芝(はにじ)・Α覆澆鵝法攀安知(はんあんち)の三王で、明の皇帝へ使者をおくり朝貢貿易を行ったとされています。1383年から1415年の33年間に山北王・怕尼芝が6回、山北王・Δ1回、山北王・攀 安知が11回。まさに、14世紀に山北王の治世は全盛期を迎えていたようで、その支配地域は、沖縄北部地域と奄美大島近隣まで広げていたようです。イメージ 4
 城址にある説明板に次のように述べられています。
『この城は、築城年代については明らかではありませんが、1322年頃怕尼芝(はにじ)が城主となり、その後攀安知(はんあんち)にいたる94年間で大修築をうけ、今日の規模に達したようです。尚巴志によって滅ぼされた1416年直後、この城には首里の王権が北山地方を掌握するために北山監守が置かれました。城内にはその由来を刻んだ「山北今帰仁城監守来歴碑」(1749年建立)が現存します。 城郭は最高所の主郭を中心とした連郭式で、西側から東側に大隅(うぅしみ)、大庭(うみやぁ)北殿跡、御内原(ううちばら)そして本丸と続き、さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。 この今帰仁城跡は、歴史が古く規模の雄大な遺構がよく残り、特に外郭の石垣が大きく、屏風形の曲線を描いていて沖縄屈指の名城たる風格を備えています。』
 廃城は、1665年の監守体制の廃止によってなされたとしますが、実質的な廃城は1609年の薩摩郡の琉球入りといわれる侵攻時に、標的にされ放火されことに拠るものと思われます。ただ、発掘調査では、1416年の中山軍、1609年の薩摩郡の進攻に拠る2度の焼失の跡が見つかっていないようです。
※上記の城址概念図は、出田和久氏「沖縄のグスクとその空間的配置に関する若干の検討」(『歴史地理学』40-1)から引用・加筆しています。また、鳥瞰図は、城址リーフレットから引用。イメージ 7
 料金所の左手に広がる外郭です。高2m前後の低い石垣が数百m蛇行して続いています。発掘調査で屋敷跡が出ています。イメージ 5







 
 平郎門前にある城址碑です。その先に見えてくるのが、とても印象的な湾曲した城壁です。

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イメージ 8 大手門にあたる平郎門です。中城城や座喜味城で見られるアーチ門でなく、天井に一枚岩を載せた四角い箱型です。左右に門番ののぞき窓のように狭間が設けられています。イメージ 9






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 城内側からの平郎門で、今回見たグスクにはないものでした。イメージ 11 
平郎門から大庭(ウーミャ)まで続く参道で、七五三の階段と呼ばれるようです。戦前に地元の方々が桜の植栽とともに直線道にしたようです。更に、戦後米軍の車両が城内に登ることもあってこのような階段にした。イメージ 12


 七五三の階段の途中の右手に大庭(ウーミャ)に通じる往時の城道があります。イメージ 13







 
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 大きな岩盤の谷間に、曲がりくねった急な道です。とても歩きにくかったですが、往時もこんな感じ?だったんでしょうかね。
現在の大庭の入口で、左手に野面積の古い石垣。
イメージ 15イメージ 16

↓大庭(ウーミャ)で、建物跡(北殿、南殿)があり、政治・宗教の儀式などを行った広場だったようです。
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 北西部に城内に2つある御嶽のイベ(最も聖なる場所)のひとつのソイツギ(城内下之御嶽)。

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大庭北側の御内原の御嶽のイベのテンチジアマチジ(城内上之御嶽)。今帰仁グスクの守護神と崇められる最も神聖な拝所です。イメージ 20
 御内原(ウーチバル)で、城の女官の生活の場といわれ、女官が神事を担っていたようです。イメージ 21



 御内原は高台にあり、眼下に大隅(ウーシミ)が一望できます。大隅は、兵馬の訓練場だったようで、大量の馬骨が発掘されています。イメージ 22








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  主郭で、大庭の東側の一段高い位置にあります。礎石が見られことからかなり立派な建物(正殿)t@
あったことがわかります。発掘調査で、13世紀末から17世紀初め頃まで使われていたことがわかるようです。
 1665年の監守引き上げ以降に設けられ火神(ヒヌンカー)の祠。イメージ 24
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 主郭南側のかなり低い位置にある慶真門郭(シゲマジョウカク)です。家臣の生活の場で、緩やかな斜頸地に段差を設けて平場を造り、建物を建てていたようです。6m×6mか4m×5m程の炉のある掘立柱建物。
 最奥に裏門の志慶真門があります。門外には志慶真ムラがあったようです。イメージ 26




 主郭からの志慶真門郭の石垣です。ほぼ往時の原形をとどめているようです。ただ、近づけませんので上から見るしかないようです。




 沖縄本島北部を代表する素晴らしいグスクです。城壁の波打つような曲線美は、一見の価値があります。近くの沖縄美ら海水族館に行かれる方は多いと思いますが、この今帰仁城にもぜひ訪れていただければと思います。

参考文献、HP
城址リーフレット
今帰仁村役場HP

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 中城城は、中頭郡北中城村・中城村にある比要項160mの石灰岩の丘陵上にある丘城です。数あるグスクの中でも、最も発達した縄張りを残すグスクとされています。
                                        訪城日:2016.1.22  くもり
イメージ 1 城址へは、沖縄自動車道北中城ICで降り、県道29号の第一安谷屋交差点を右折して県道81号入り、安谷屋交差点を右折して県道146号線を道なりに進むと、右手に駐車場が見えて来ます。
駐車場は、十分な広さですが、見学時間が決まっていて、見学料が必要になります。
見学時間: 8:30〜17:00(5月〜9月18:00)
見学料:大人400円中高生300円小学生200円イメージ 2










 
 中城城は、かっての貿易港であった屋宜(やぎ)の港から2kmイメージ 3ほど離れた標高約160mの丘陵上の東崖縁にあります。城は、先中城按司が14世紀後半頃までに数代にわたり、西の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味グスクから移って北護佐丸により、北の郭、三の郭が増築され現在みられるグスクが完成したとようです。
護佐丸滅亡後は、琉球王国世継ぎの中城王子の所領となり、17世紀前半には一の郭に番所が置かれ、明治期には琉球の日本併合と共に番所が役場となった。
                                              城址パンフレットよりイメージ 4
 駐車場から行きますと三の郭の城壁が見えてきます。見学コースは、右手の裏門から入り北の郭を通って正門に向かいます。イメージ 5








 護佐丸により築かれたといわれる三の郭の城壁と裏門です。イメージ 6

 裏門に入るとご座護佐丸が井戸を取り込み増設した北の郭になります。護佐丸の増設部分は、石積み技法の最も進んだ相方積み(亀甲乱れ積み)です。イメージ 7






 北の郭にあるウンガ―(大井戸)で、城内に水場があるのは、グスクでは珍しいことのようです。イメージ 13


兵馬の訓練をしたとされる西の郭で、120m程の長大の郭です。右手の一の郭・二の郭の石垣がそそり立つ感じで圧倒されます。

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 西の郭西端の南の郭虎口への階段です。ここは、嘉永6年(1853)イメージ 9にペリーが浦賀来航する前に沖縄に威力訪問した際に、当城を訪れスケッチした場所のようです。
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 大手門に当たる正門を城内が見ていイメージ 12ます。左手は南の郭。
門は、布積みで積まれ櫓門のようで門の幅としては狭いです、。


イメージ 10城外からの正門で、グスクによく見られる虎口構造で、門を挟むように左右の石垣がせりた゜しています。

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 正門を出た南の郭下の広場です。廃墟となったホテル跡(心霊スポットとなっているようですが、基本立ち入り禁止)の奥芳香が首里城方向のようです。イメージ 15

南の郭下の壁にある、カンシャーガマ(鍛冶屋跡)。

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 南の郭の虎口です。イメージ 17


           
 郭から南の郭へ行く階段ですが、ちっと変わっていましては巾と段差の違う二種類の階段があります。なぜこうなつたかは分っていないようです。身分によって通る階段がイメージ 18違うのか?




 
 南の郭は、古い様式の野面積みの石垣で拝所も三か所あり、宗教色の強い郭のようです。イメージ 19



       南の郭から一の郭への城門。ここは、左右のでっぱりがありません。


↓南東隅からの一の郭です。二の郭よりに正殿跡があります。イメージ 20











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イメージ 21幕末の番所間取り図






 一の郭南側の断崖地形です。こちらからは攻め込めませんね。

イメージ 25イメージ 24←二の郭城門を張り出し部から。

→二の郭
城壁の曲線が素晴らしいです。
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イメージ 27 三の郭からの二の郭の城壁で、両脇が張り出していますが、張り出す必要があるのかな?と思ってしまいました。三の郭の東の城壁も同様ですが。



↓二の郭の城壁上からの三の郭です。護佐丸が増設した郭といわれています。ただ、二の郭から直に行けませないのが不思議です。イメージ 26

 本土のお城の言い方をしますと、連郭式の城郭となりますが、二の郭と三の郭の連絡がなく、護佐丸の意図がつかめません。ですが、今回見たグスクの中では、手の込んだ縄張でした。石垣の高さに目を見張るものがあり、十分に楽しめる城址といえます。

参考文献
城址パンフレット
城址案内板


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座喜味城

 座喜味城は、別名読谷山城と呼ばれ、読谷村字座喜味城原にある丘城です。勝連城の跡に訪れました。雨は、小降りになつていましたが、傘をさしての訪城となっています。太平洋戦争での旧日本軍の高射砲陣地建設や戦後の米軍のレーダー基地建設などでかなり破壊されていたようですが、まことに見事なほどに復元されていました。            訪問日:2016.1.21  小雨イメージ 1
 城址へは、那覇より国道58号線を北上。読谷村喜名より左折、県道12号線に入り座喜味城案内板に従い、読谷村歴史民俗資料館を目指します。資料館前に広い駐車場が完備されています。

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 座喜味城は、15世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。
護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山尚巴志の北山攻略に参戦、北山攻略後は戦後処理のため一時北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。城跡は座喜味部落北側の小高い丘、標高120m
余の名護層からなる台地を石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、城は2つの郭からなる連郭式の形態になっている。城郭内の面は約4012.5㎡で、沖縄のグスクとしては中規模である。イメージ 3
 この城には一の郭と二の郭にアーチの門がそれぞれ一つずつ造られているが、アーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両側にクサビ石がはめられており、他のグスク等には類例がみられない。このことから座喜味城のアーチ石門が現存するアーチの沖縄で最古のものと見られている。
 座喜味城跡は1972年の本土復帰に伴って国の史跡に指定され翌年の10月から沖縄県ではじめて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ成果を上げた、出土遺物は、グスク系土器と須恵器が少量、中国製陶磁器や古銭などがあり、これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国陶器からみると、15世紀から16世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が1440年に中城城へ移った後も使用されたと考えられる。
 遺構については一の郭の北側に間口16.58m奥行14.97mの石組が発掘され、この中に建物が建っていたと思われる。しかし瓦等は出土しないことから屋根は板葺か茅葺の建物であったと推定され、また一の郭内の南側では城壁を作る以前の柱穴群も発見され、出土遺物からそれほどの時代差はないものの、一の郭内において2つの時期の遺構が確認されている。
 城跡は第2次大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、整備の始まった翌年返還された。城壁は1982年に修復を完了した。城壁の上に立つと首里・那覇をはじめ本島西側本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望出来る要害の地にある。』 
                    国指定史跡 文部省・沖縄県・読谷村    城址案内板より
※上図の座喜味城略図は、「グスクの縄張りについて(上)」(当真嗣一『沖縄県立博物館紀要』第18号)より借用、加筆しています。
イメージ 4 資料館駐車場にある城碑です。ここからお城に向かいます。

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 うっそうとした松原先に二の郭がみえてきます。この松原は、戦争で焼けてしまったようですが、残った種からの自然林だそうです。イメージ 6
 二の郭虎口で、一の郭虎口と共に虎口部分を深く湾入させて左右の石垣を迫り出しています。虎口に迫る敵兵に横矢がけを意図イメージ 7したものなのでしょう。虎口の右手に拝所があります。当城には、4か所拝所があり、ここに移設されています。
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 石造アーチ門は、15世紀中頃から、大陸から取り入れられた技術のようです。当城のほか中城城・勝連城・知念城で見られます。アーチ門天井にくさび石があります。二の郭は三角で、一の郭は方形です。イメージ 9
                    

 二の郭を一の郭虎口東側張り出しから撮ったものです。平坦でなく多少の傾斜あります。



 イメージ 10二の郭の西側に両側を石壁で囲まれた通路のような郭?があり、行き止りになっています。ちょっと不思議な空間です。虎口から左にカーブしますので、行き止りとは気づきませんので、攻め込んだ敵を誘い込み、上からの横矢等で殲滅する空間だったのでしょうかね。左手の位置の郭の城壁は10mはありますかね。
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 一の郭の虎口です。城壁がカーブして虎口の左右がせり出しているのがわかるかと思います。イメージ 12




     
 一の郭内部です。中央に約17m×15mの礎石建物跡が見つかっています。
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座喜味城の石垣の積み方は、主に布積み↑で積まれていますが、一部古い段階の野面積→や新しい段階の相方積みも見られます。石垣上部の幅は5m以上あり、他のグスクより広めのようです。イメージ 15











参考文献
城址パンフレット
城址説明板
「グスクの縄張りについて(上)」(当真嗣一『沖縄県立博物館紀要』第18号)

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勝連城

 勝連城は、中城湾に突き出した与勝半島の付け根近くのうるま市勝連南風原にある比高70mほどの丘城です。晴れていれば、本丸から陽光きらめくコバルトブルーの海が見えるようですが、訪問日が雨になりとても残念な訪城でした。ですが、城跡の素晴らしを雨と強風の中堪能してきました。
                                          訪問日:2016.1.21  雨
イメージ 1 城址へは、沖縄道沖縄北ICから県道36号を南東へ5km進み、県道16号との交差点を左折し、4kmほど先の「勝連町文化財資料館」を過ぎた先の路地を右折しますと「勝連城跡休憩所」につきます。休憩所の目の前が城址で、広い無料駐車場が完備しています。
イメージ 2








イメージ 3




 城は、半島のつけねに立地する標高60〜100mの丘陵上に築かれています。崖地形が巧みに利用され、北西側の一番高い所が一の曲輪で、各平場が階段状に低くなり、南東側の東の曲輪で再び高くなっています。このような形になったのは、9代茂知附按司の時とか、10代按司の阿麻和利(あまわり)の時ともいわれるようです。ただ、、築城時期は古く12〜13世紀になるようです。説明板には、次のように書かれていのす。
「口碑伝承では、初代城主は英祖王系・大成王の五男であったといわれています。その後、勝連按司は4代続き、6代目に世継ぎができないことから養子縁組により、伊波グスクの伊波按司の六男が迎えられています。続く7、8番目は交代の理由は分りませんが、浜川按司になっています。そして9代目は茂知附(もちづき)按司となります。しかし、この按司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒されます。彼が10番目の城主になってからは勝連はますます栄えることとなったとあります。阿麻和利は琉球王国の尚泰久の娘を妻にするほどの力を持ち、中城城の護佐丸を討ち天下の統一を夢見たが、1458年王府軍に攻められて落城しています。」
 阿麻和利は、1458年の「護佐丸・阿麻和利の乱」で護佐丸と共に歴史舞台から姿を消されていますが、琉球正史に書かれた通りかどうかは定かではないと思われます。往々にして正史は自家(尚氏)に都合よく書かれていることが多々ありますから。また、尚氏の軍に攻められ落城したとされていますが、城址には大きな戦いの痕は見られないも、その証左になるのかもしれません。イメージ 4
 休憩所内にある立体模型です。正門(南風原御門ーはえばるうじょう)を下るとかって南風原集落(南風古島遺跡)が展開し、海岸には海外貿易の拠点となった港があり、裏門の西原御門(にしはらうじょう)側は、かっては湿地帯で、水田などの農地が広がっていたようです。
イメージ 5 イメージ 6四の曲輪の正門・南風原御門(復元されていません)から見た城壁。琉球石灰岩の切石が絶壁のようにそそり立って、見事でした。












イメージ 7イメージ 8 四の曲輪(居住区)から三の曲輪へは、急な階段を登ります。虎口は、布積み憎まれた石垣で、堅固さが見とれます。イメージ 9


三の曲輪で、結構広い郭です。一段高い二の曲輪と更にその上にある一の曲輪を望む。二の曲輪に大きな舎殿が建っていますから、その前の広場としさまざまな儀式をおこなうな空間だったのでしようか。イメージ 10

 三の曲輪には、落城後に祭祀の場になったようで、「トゥヌムトゥ」と呼ばれる石列があります。

※「トゥヌムトゥ」とは、旧暦の2月と5月に行われるウマチー(収穫祭)の際、神人(カミンチュ)が腰かけていた座石。イメージ 11



    二の曲輪の殿舎跡で、約17m×14.5mの大きな礎石建物で、周辺からしか大和系・高麗系の灰色の瓦が出土していることから重要な建物だったと思われます。瓦は、首里城・浦添城と当城だけですから、王城に匹敵する経済力・軍事力を有していた証なのかもしれません。イメージ 12
 二の曲輪殿舎跡の背後の壁に「御嶽(うたき)」があります。御嶽は、南西諸島に広く分布している「整地」の総称です。グスクには、必ずといっていいほどこのような御嶽があり、このことから、グスクを防御・軍事施設面から評価するだけでなく、先祖を崇拝する神聖な場所、あるいは集落だったのではないかという説もあります。そして石造りのグスクが「力と財のある者の象徴的な建造物」なのではないかて考える方もいます。
※ウミチムン(火の神)−ここは台所であった考えらています。「火の神」とは台所に祀られている家の神のこと。
※ウシヌジガマーガマとは洞穴のこと、天災や戦のとき、ここに身を潜めて難を逃れたといわれています。
イメージ 13 二の曲輪から一の曲輪虎口へ向かう石段。上に登るほどに階段幅が狭くなっています。敵を一気に攻め入らせない仕組みのようです。イメージ 14







一の曲輪内からの虎口です。虎口の門付近から唐草様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されていることから、装飾を施したアーチ門であった可能性があるようです。
イメージ 15 一の曲輪で、岩盤を削って平坦面を造成し、瓦ぶきの建物を建てていたようです。イメージ 16








「玉ノミウヂ御嶽」ー按司の守り神を祀る拝所で、大きな岩は勝連を守る霊石といわれています。

 結構な雨と強風の中の訪城でしたが、見上げる石垣のすごさとその曲線の美しさには目を見張るものがありました。陽光きらめくコバルトブルーの海が見えるときに再度訪れてみたです。

参考文献等
城址パンフレット
城址各所の案内板


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グスク巡り

 沖縄のグスクに訪城してきました。世界遺産で国指定されている首里城・中城城・勝連城・座喜味城・今帰仁城の5グスクです。今回訪城したグスクは、14世紀のグスク時代最盛期の三山鼎立時期のものですが、まことに素晴らしい石垣のグスクです。太平洋戦争での沖縄戦で、壊滅的な被害を受けましたが、1972年の日本復帰に国指定史跡になり発掘調査や城壁修理が行われ往時の姿を取り戻したようです。
 グスクについては、石垣造りのお城といった程度の認識しかありませんでしたが、本土の石垣造りの城と違う曲線美の石垣やその成り立ちなどを改めて知り、とてもよい訪城でした。
 グスクは、かっての琉球王国の政治支配地域の奄美諸島(鹿児島県)から宮古・八重山諸島に広く分布し、奄美諸島・沖縄島では「グスク」と、宮古列島では「ジョウ」と、八重山列島の石垣島です「スク」と呼ばれているようです。時期は、グスク時代と呼ばれる12世紀の終わりから13世紀の初めころにかけて出現し、統一王朝の成立する15世紀半ばころまでのようです。イメージ 1
 沖縄島とその周辺離島には、北部に45か所、中部に65か所、南部に113か所の計223か所あるようです。(昭和58年の沖縄県教委『ぐすくーグスク分布調査報告(Ⅰ)より)北に薄く南に厚い分布の様は、地域の地理的要因からくるもののようです。北部ー山がちで農業適地に乏しく、人口の分布が希薄。南部ー水はけのよい石灰岩台地が広がり、農業適地・村落立地に優れ、人口も多い。
 このことは、グスクの造りにも関わるようです。島の中南部にあるグスクの多くが石灰岩台地上の端部・縁辺部にあります。台地・尾根を遮断するには普通堀切を設けますが、琉球石灰岩台地では堀を設けることができず、石垣を積みあげて尾根・台地伝いに侵入する敵を防いだと思われます。
 また、グスクには必ず御嶽(うたき)や拝所があり、先祖崇拝の神聖な場所でもあったことです。本土の城郭にはない特徴といえます。                 ※上図は沖縄本島のグスク分布の図です。「歴史地理学」40巻1号  
                     の出田和久「沖縄のグスクとその空間的配置に関する若干の検   
                       討」所載の図に加筆しています。
今帰仁城ー北山王が拠点としたグスク
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座喜味城ー15世紀、読谷山按司御佐丸によって築城されたといわれている。イメージ 4
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勝連城ー名君の誉れ高い阿麻和利(あまわり)の居城。
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中城城ー護佐丸が居城。現存グスクで最も遺構の残りの良いグスク。イメージ 8
イメージ 9










首里城ー琉球王国の主城。
イメージ 10イメージ 11










参考文献
當眞嗣一「グスクの縄張りについて(上)」(「沖縄県立博物館紀要」第18号)
出田和久「沖縄のグスクとその空間的配置に関する若干の検討」(歴史地理学」40巻1号)
『琉球王国のグスク』 東京地図出版

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