古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

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宮尾城

 宮尾城は、別名宮ノ尾城、宮尾ノ城、宮ノ城、要害山城とも呼ばれ、廿日市市宮島町ある比高25m程の丘城です。宮島の厳島神社は、以前山陽道の宮島SAから遠目で見たことがありましたが、訪れたことがなく一度行ってみたいと思っていました。宮島へのツアーは、他の観光地とのセットになっていることが多く、倉敷、津和野、萩、松江などへは行っていますので、宮島だけのものはないかと思っていましたら、日帰り・宮島ツアーを見つけたということです。     訪城日:2016.9.3  晴れ
イメージ 6 今回は、ツアー参加ということで、山陽新幹線広島駅で山陽本線に乗り換え、宮島口駅下車。そこから徒歩で宮島口フェリー乗り場へ向かいます。10分乗船で宮島に着きます。城址登城口は、宮島フェリーターミナルを降りたすぐ先にあります。イメージ 1







イメージ 2現地説明板の内容を載せておきます。
1555年(弘治元年)5月、毛利元就は陶晴賢をイメージ 3討つために、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点とし、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えた。この城は、数個の分かれた山城であるが、開城に突きだし、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も併せ持っていた。
 同年9月、晴賢は2万余の大軍を率いて厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、3百余の城兵はよく守り持ちこたえた。元就は主力の軍を率い、泡ヶ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を殲滅させた。
 この時期の安芸国南部における陶軍・毛利軍・三島村上水軍の動きについて補足します。
 天文20年(1551)8月、陶隆房が大内義隆に謀反し、義隆を倒して実権を握りますが、隆房は謀反の8日前に広島湾制圧を意図して佐西郡桜尾城と厳島を占領します。毛利軍もそれに連動して大内方の銀山城を落とし、陶氏の占拠した佐西郡などの一部を除いて安芸国内の大部分を勢力圏としました。その後、陶氏の謀反を良しとしない石見津和野の吉見氏との関係を巡って、毛利氏と陶氏(大内氏)の緊張が高まり、天文23年(1554年)5月に毛利氏は、陶氏と手切をし、陶氏方の安芸西部の諸城(桜尾・銀山・草津・仁保)を攻略、更に陶軍が周防方面からの侵攻拠点となる大野門山城を破却し、厳島と廿日市も支配下にに収めます。イメージ 4
 吉見氏と和睦した陶晴賢は、弘治元年(1555)の年明けから大野瀬戸・広島湾制圧のため江良房栄・白井賢胤らの警固衆を使い佐東・厳島方面に攻め寄せ毛利方と小競り合いをし、5月には陶方の警固衆が有ノ浦を焼き払ったようです。毛利氏は、陶氏の安芸侵攻における制海権確保に乗じて、厳島を決戦場として見定め、春から有ノ浦の北側の要害鼻に宮尾城を築き、己斐豊後守と新里宮内少輔を城将とし、城兵300〜600が守ったようです。
 厳島合戦の勝敗を左右したといわれる三島村上氏の動向は、あまり定かではないようです。三島村上氏(来島村上・能島村上・因島村上)は、芸予諸島の海賊衆として海上交通の要地に関所を設け、そこにおいて関銭(帆別銭・駄別銭・津公事などの呼び名がある)を徴収することを生業としていたと考えられています。この関銭徴収についての縄張りが三島村上氏の間にあったようです。能島村上は、北九州や長門・周防方面からの舟を赤間関(下関)・上関で、来島村上は豊後水道を通る伊予からの舟、因島村上は、備後よりの舟といった具合だったようです。したがって、厳島での権益は能島村上氏にあったと思われますが、天文20年に能島村上氏と陶氏の廻船とのトラブルがあった翌年イメージ 9陶氏が厳島に「掟」を出し、従来からの海賊衆の権益を停止しています。陶氏が安芸沿岸の制海権を確保し、毛利氏の佐西郡進攻をためには、三島村上の中で取り込み可能な能島村上水軍との協調関係が重要だったと思われるが、厳島周辺の経済的権益の独占することを優先してしまい、毛利につけ入る隙を見せていたともいえるようです。三島村上氏の中で、因島村上は小早川氏との密接な関係があり、毛利氏が味方に引き入れようとしてのが、来島村上水軍でした。かなりの説得をしたようですが、合戦ギリギリまで態度を見せず元就もかなり焦ったといわれます。(能島村上水軍の動向は諸説あって不明のようです。毛利氏が来島村上氏に期待を寄せたのは、天文24年に小早川隆景の養女を来島村上通康に嫁がせ縁者となっていたことも大きな理由だったのではないかと思われます。)
 海上から 宮尾城ーー有ノ浦(合戦の頃は町屋は海だったようです)ーー塔の岡―厳島神社イメージ 5






イメージ 7 宮島フェリーターミナルの近くにある登城口で、本当にフェリーを降りたらすぐの所でした。堀切まで、5分もかかりませんでしたが、暑くてちっと難儀しました。イメージ 8






まずは、当城で明確に残る堀切に向かいました。箱薬研の堀切のようです。現在も生活道と使われてますが、往時も堀底道として使われたと。イメージ 10
 この堀切を挟んで、南西郭と北東郭があります。南西郭の端から北東郭の2の辺りを撮ったものです。北東郭の大手口ではないかと思われます。イメージ 11

   2の辺りは、平場が2段ほどあり虎口っぽいスロープ状の登坂も見られます。イメージ 12

    北東郭の最上部の1です。方10m程の広さがあります。北東郭には、帯郭を含め10ほどの郭があるようですが、藪に覆われて確認は難しかったです。イメージ 13




築城時の要害鼻は、三方を海に囲まれ、二つの丘に郭群を構築し、水軍城としても使える城だったようです。城の中心は南西郭より高い位置にある北東郭だったのではないかと思われます。イメージ 14

堀切から南西郭に向かいますと、右手の張出に沿って登ります。どうも虎口といった感じです。イメージ 15







南西郭の4から頂部の3方向を撮ったものです。左手下に登城道が見れ、横矢がかかる仕組みです。イメージ 16
南西郭頂部の3です。イメージ 17








南西郭から陶氏が本陣とした塔の岡がよく見えます。手前は、土産屋などが立ち並ぶ現在の町屋ですが、往時は海だったようです。
イメージ 18跡から見える大野瀬戸です。対岸が二日市です。宮島口と宮島は、1.8kmほどですが、狭い所では600m程です。まさに海賊衆が関所として待ち構えるのに絶好の場所というのが実感できます。
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厳島神社にも参詣しきました。城址からの大鳥居です。潮が引いてて大鳥居まで行けましたので、触ってきました。ラッキーでしたよ!イメージ 20



参考HP
参考文献
『西国の戦国合戦』山本浩樹著 吉川弘文館
『豊臣水軍興亡史』山内讓著 吉川弘文館
『毛利の城と戦略』 成美堂出版


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