古城の風景

戦国期の東日本の山城紹介

越前・若狭国

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

小丸城

小丸城は、越前市五分市町にある平城です。珍しい屋根形態(本殿と拝殿が屋根が接続している)のある大瀧神社・岡太神社の里宮(越前市大滝町)を訪れました。その際に、ナビに小丸城跡の表示を見つけ、これは行かなければと思い、早速訪れたしだいです。                      訪城日:2018.5..28  晴れ
イメージ 11城址へは、北陸武生ICを降り、県道262号を約9km程東進すると、右手に小丸城跡の案内表示がありますので、そこを右折して案内表示に進むと着きます。城址碑の横に駐車スペースがあります。
イメージ 12







下図は、現状の姿を図にしたものと、現在みられる遺構や発掘調査から推察される概念図です。イメージ 13
イメージ 14












 福井県指定史跡 小丸城址
 天正3年(1575)織田信長軍が越前の一揆を平定した後、早速が築いた平城である。この城は味真野の扇状地末端に、野々宮廃寺跡に一部を取り込んでつくられたもので、本丸、二の丸、三の丸と隅櫓の遺構がよく残されている。本丸の規模は、東西45m、南北50m、高さは水面から7mあり、四方に10〜30m幅の堀が巡らされていた。
 なお、北西の乾櫓から出土した一揆成敗のありさまを刻んだ文字瓦は有名である。この瓦は、越前の里郷土資料館に展示してある。
越前市教育委員会 観光資源保護財団                           現地説明板より

補足  
イメージ 15一揆平定後に、信長より府中二郡(今立・南条)10万石を不破光治・前田利家・佐々成政の三名(府中三人衆)の相給知行として与えられた。不破は龍門寺城、前田は府中城を改修、佐々は新たに小丸城を築いた。不破と前田が日野川の左岸の府中をおさめたのに対して、佐々が味真野地区に小丸城を築城したのは、敦賀と一乗谷を結ぶ朝倉往還(左図参照)を押さえるためと思えます。

昭和7年に工場用地造成の際に西北隅乾櫓跡から、一向一揆への過酷な成敗を記した文字瓦が出土した。
「此書物後世ニ御らん志られ、御物かたり可有候、然者五月廿四日いきおこり其まゝ前田又左衛門尉殿いき千人はかりいけとりさせられ候也御せいはいはりつけかまニいられあふられ候哉如此候ふて書とゝめ候」 

成政が、天正7年(1579)に越中富山に移封された後、使われなく廃城になったようです。

イメージ 1
本丸への登城口です。この地点から、まっすぐに行きますと本丸西虎口(?)に。右手にを進むと南面の石垣を見ながら東虎口進みます。

イメージ 2







ちょっと見にくいですが、本丸南面の石垣です。緒豊系の本格的な石垣といわれ、南にあった野々宮廃寺の礎石や石組みを利用したといわれています。イメージ 3














イメージ 4イメージ 5







 




イメージ 6本丸東虎口です。入口に石門があり、穴倉形式の枡形虎口のような感じです。ただ、この石門は、昭和49年に本丸内に忠魂碑を建てる際に発掘されたものを積んだもののようで、往時の姿ではないようです。

右上は、東虎口内部です。石垣の石はね意外に大きく見ごたえがあります。

左は、本丸からの東虎口です。イメージ 7



本丸を西東端から撮っとものです。17×20m程の広さで、虎口の形態からすると、ここには天守に相当する建物が立っていたのかもしれません。イメージ 8




本丸東側の空堀ですが、往時は水堀だったと思われます。

イメージ 9








本丸北側の濠で、水か溜まっているのがわかります。イメージ 10


右手に本丸東の堀が見えます。本丸の東側は、二の丸といわれています。(本丸西側ー常安楽院のある方は、三の丸)
二の丸、三の丸を取り囲むように土東西約140m、南北約170mの土塁がまわり、その外側に最大幅20mの堀があったようです。
ただ、成政の在城金が4年余と、短かったため未完成だったとも言われているようです。


参考文献
『前田利家 北陸の覇者』 西ヶ谷恭弘・三木範治共著 JTB

この記事に

開く コメント(0)

後瀬山城ーその弐ー

 後瀬山城の続きで、主郭やその西側の山上御殿があったとされる4郭を見た後、下山しました。そのまま来た道を引き返し、出発地点の愛宕神社鳥居へは向かわずに、北東尾根を進み先端下の八幡神社に下りればすんなりと行けたようです。しかし、北西尾根の麓に守護所の居館があることや見事な畝状竪堀があることから、大手筋と思い、見ないわけにもいきませんで。(この思いが危険なんですよね)まさに、怖いもの知らずに下ってしまいました。が、まことにひどい目を味わう次第になりました。
イメージ 54郭の堀切から主郭西下に回り込んで北西尾根に取り付きました
















イメージ 1

北西尾根に向かうところです。結構な下り坂で、ここでその先を予想できればいいのですが、これも山城によくある尾根ですので、そのまま突入!

イメージ 2






5郭辺りには、数段の段郭が設けられています。写真は上から二段目の段郭で、南側に土塁があります。
イメージ 3

5郭と6郭を遮断する北西尾根唯一の堀切です。この長い尾根に一か所。どうも若狭の山城は、尾根筋の遮断は堀切より、段差のある城壁をもってする感じてす。



イメージ 4
6郭で、この尾根筋の中核的な曲輪のようです。南から西に土塁がみられ、櫓台おぼしき土盛がみられます。













イメージ 66郭西側下に設けられている畝状竪堀です。17条あるとのことですが、畝状竪堀をまともに写真に撮ることは難しく、ここでわかりにくい写真になっています。
角度を変えて撮ったもので、こちらの方がわかりやすいですかね。
イメージ 7

北西尾根の西側斜面には、この畝状竪堀以外にも竪堀を幾重にも入れています。このことから、西側に意識した防備で、説明板にある丹後国守護一色氏に備えたものといえますので、武田氏時代の遺構なのでしょう。

イメージ 8
イメージ 9









イメージ 10この3枚の写真は、6郭から7郭に至る段郭やその城壁です。いくつもの段郭が設けられ、それらの段差もかなりのもので20mを越えるものも何か所もあり、それを下る道もなく、木々に摑まりようやったおりました。
古野田草のある城壁からしますと、この尾根が大手筋とは考えにくい感じです。北東尾根が大手筋かもしれません。また、北東尾根と北西尾根の郭群を繋ぐ「谷の横道」が設けられていますが、確認していませんで、残念なことをしたと思っています。
7郭から急斜面を下りましたが、線路の高いフェンスに阻まれ、「どうするんだ」となりました。たまたま、保線作業用の隙間が見つかり、ようやっと麓のお寺にたどり着                            
                                   着きました。イメージ 11
守護居館跡です。ここは、小浜小学校跡地で、南側の空印寺境内を含めての規模で、東西110m、南北120mのようです。三方をi二重の堀で囲み(堀幅5.5m、西側が12m)、土塁が回っていたようです。

狭武田氏の本拠地にふさわしい山城で、武田氏滅亡後も織豊系大名によって改修の跡目明確に残り、見ごたえのある城址でした。




参考文献
「図説中世城郭事典Ⅱ」村田修三編 新人物往来社
「福井県史」通史編2 中世


この記事に

開く コメント(0)

後瀬山城

後瀬山城は、小浜市伏原・男山にある比高140m程の山城です。当城は、若狭守護武田氏が築城し、慶長5年頃に小浜城が築城されるまで若狭国守護の本城として使われました。そのため、規模も大きく南北600m、東西550mにもなり、若狭国を代表する山城の一つです。(若狭三大山城をあげるなら、後瀬山城・砕導山城・国吉城ですかな?)                                 訪城日:2016.10.7 晴れイメージ 1
城址へは、小浜駅南側を通る国27号線を西進し、後瀬山トンネル手前の後瀬山東信号で右折し、すぐ先で左折しますと愛宕神社の鳥居につきます。愛宕神社は、山上の主郭にあります。社務所横の空地に駐車できます。イメージ 4










イメージ 2イメージ 3











 いにしえは万葉集にも詠われた後瀬山。古くから小浜に住む人々、また小浜を訪れる人々に憩いをもたらす山として存在しています。この後瀬山に戦国の世に叶った山城が築城されたのは、大永2年(1522)のことです。当時の若狭守護武田元光は、すでに全国的にも飛躍を見せ、海外貿易をも視野に入れた小浜湊を望み、山麓に貫通する丹後街道を掌握する要衝の地にこの城の縄張りを行います。
 後瀬山城は標高168mの位置に石垣を配する主郭を置き、ここから山麓の現空印寺の位置にあった居館に通じる北側稜線と、本登山道に平行する東側稜線に大小合わせて139ヶ所の曲輪と呼ばれる平場の防御施設を設けています。これら2本の稜線に造られる曲輪をつなぐ道路が北東谷間に幾本もみられ、「谷の横道」と呼ばれています。また、北側稜線の先端には、畝状竪堀・竪堀などを設け、防御を固めています。このことは、丹後国守護一色氏と度々戦火を交えた若狭武田氏が、西の小浜の入り口(青井口)の防御を強く意識していることを想定させます。イメージ 24
 城主は、築城した若狭氏5代 元光から、六台信豊、七代 義統、八代 元明へと継承され、若狭武田氏滅亡後は、緒豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、若狭国を統治する拠点として存続します。そして関ケ原合戦後に入国する京極高次により後瀬山城は廃城となり、新しく築城が開始される近世小浜城にその役目が引き継がれることとなります。
 発掘調査が実施された主郭北西に位置する曲輪では、礎石建物跡とこれに付属する築山、そして多くの茶器類が検出されています。京都や当地において旺盛な文芸活動を見せた若狭武田氏の一端を示す調査例といえるでしょう。
 現在地(愛宕神社参道入口)からの登山道は、廃城後に主郭に創建された愛宕神社の参詣道を利用し、歴史と自然を体感できるように遊歩道整備をしています。                                                現地案内板より
イメージ 5愛宕神社鳥居からの道は、整備されていますが、石段が続ききつかったですね。北東尾根(説明板では東側稜線)へは比高で100m程です。イメージ 6








ようやっと尾根にたどり着きました。ですが、ここが持っていった縄張り図のどこなのかがわからず、とにかく登り勾配の左手に進みました。右に進むと八幡神社への道でした。イメージ 8
尾根を南に進むとようやっと段郭の先端らしきものが見えほっと一安心しました。ここら辺から3郭辺りの段郭が続きます。
イメージ 7






主郭への道は、尾根上に設けられた段郭の東側を通っています。イメージ 9


3郭群から進むと2郭に至ります。広い郭の手前に方形の窪地があります。以前これに似た空間を見たことがありますが、それは社跡でしたのでここもそうなのか?と。イメージ 10


北東尾根では主郭を除いて最大の郭なのではないかと思われます。奥に堀切が設けられています。     
イメージ 11








主郭との間を遮断する堀切です。イメージ 12

堀切の土橋を渡ると主郭が現れ、ちょっと感動ものでした。主郭は三段に分かれれています。
下段は、半円形の平場です。イメージ 13







中段は、三方を石垣で囲んでいます。
上段は、周囲を石垣を巡らしています。イメージ 14


主郭上段の虎口で、左右のイメージ 15角が若干の食違いを見せていていますが、なんなのですかね。






イメージ 17上段で、40×30mほどの広さがあり、愛宕神社の社があります。
イメージ 16






神社脇の石垣ですが、周辺の石垣に比べる違和感がありました。
イメージ 18イメージ 19










イメージ 20
主郭の中段・上段の石垣です。これらは、武田氏滅亡後の天正元年(1573)に若狭国主として入部した丹羽長秀が天正10年頃までに補修したものと思われます。
石垣の石材は、さほど大きいものでなく、野面積みでほぼ直線に積まれています。イメージ 21






主郭背後の4郭へ行く土橋沿いにある竪堀です。
イメージ 22




土橋右手の堀切で、上巾20mほどで主郭城壁の石垣が崩落したのでしょうか、石イメージ 23がごろごろしています。




4郭ですが、藪っていてよくわかりませんででした。発掘調査で礎石建物跡や肩衝(かたつき)・天目茶碗などが出土していますから、武田氏の御殿があったと思われ、山上で生活していたことがわかります。

下城は、来た道でなく北西尾根(説明板では北側稜線)の畝状竪堀を見たいと思い下りました。しかし、無謀な選択をしてしまいました。郭の城壁は20mほどもあるものが何か所もあり、道は見当たりませんでした。さらに、下って線路にようやっとたどり着きましたら高いフェンスで行き止りでした。さあぁ〜…困ったと!

北西尾根については、続きになります。

参考文献
「図説中世城郭事典Ⅱ」村田修三編 新人物往来社
「福井県史」通史編2 中世
                            

この記事に

開く コメント(0)

国吉城ーその弐―

国吉城、本丸から北西尾根に延びる郭群イメージ 1
 本丸が城址最高所(標高197.3m)で、南西の尾根伝いに五つの郭を並べる連郭式の山城です。尾根先端のⅥ郭から山頂の本丸までの比高差は約40mで、各郭は段差の激しい切岸と側面の急峻な斜面で防御されており、単純な山城とは言えません







イメージ 4

 本丸は、ほぼ三角形(最大幅で東西55m、南北38m程)で北西と北東(藪のため未確認)に虎口が開いています。南端に楕円形の土壇(右写真)があり櫓台と思われます。西が斜面に石積みが見られますが、21年の調査で本丸周辺が総石垣であったことが判明したようです。

イメージ 2
イメージ 3
イメージ 5
北西虎口付近からの本丸

北西虎口

西側斜面に残る石積み



イメージ 6イメージ 7
本丸南端の土壇下の南尾根を遮断する堀切(左)で、更にその先に2条の浅い堀切(右)が設けられています。






イメージ 8
南尾根から本丸に戻り、堀切を越えてⅡ郭に行きました。この郭はへの字形をした40×10mほどの広さがです。大手筋の最終防御拠点の郭といえるようです。Ⅱ郭やⅢ郭にも石積みが残っているようですが、確認していません。残念!イメージ 9






Ⅲ郭で広さが40×15mほどですイメージ 10。Ⅱ郭の城壁は10mほどの城壁で鋭い角度てす。イメージ 11






西側中央部に枡形虎口があります。イメージ 12




Ⅳ郭で、広さは35×15mほどです。イメージ 14






Ⅲ郭の城壁は、4〜5m程です。
イメージ 13

北東端に虎口(概念図では内枡形としています)があります。
イメージ 15




Ⅴ郭で、藪っていましたので、ここで終わりにして引き返しました。





連郭式で郭を並べていると、防御としては堀切で遮断するのが通常ですが、国吉城では弱点と思われる北西尾根の緩斜面を利用して、郭を長くすることで5〜10mの城壁を確保したといえるようです。こんな防御の方法もあるものと感心しました。

参考文献
資料館のパンフレット
「図説中世城郭事典Ⅱ」村田修三編 新人物往来社
『全国国衆ガイド」 大石泰史編 星海社新書 

この記事に

開く コメント(0)

国吉城−その壱ー

 国吉城は、三方郡美浜町佐柿にある比高140m程の山城です。当城は、若狭の東側防御の拠点城郭として、越前国境の要衝椿峠を見下ろす城山に築かれています。朝倉氏との激しい攻防千にも耐え、楽所しなかった城としても著名です。 イメージ 1                訪城日:2016.10.7 晴れ
 城址へは、舞鶴若狭道若狭美浜ICを降り、国27号東美浜バイパスを西進し、2.6km先で左折して直進します。(目安は、国吉城トンネを出て約700m)
 そのまま道なりに500mほどで見学者用駐車場につきます。歴史資料館付近も駐車可のようです。
 山上の城址へは、粟屋勝久居館跡を左手に見ながら九十九折の道を登って行きます。






 国吉城は、若狭守護武田氏の四宿老の一人粟屋勝久が越前国境警備イメージ 2の城として弘治2年(1556)に、佐柿の古城跡に築城したとされています。
 粟屋氏は、甲斐源氏安田氏の一族で、南北朝期に安芸に移り安芸武田氏に仕え、永享12年(1440)若狭守護に任ぜられた武田信栄に従って若狭に入り、若狭防衛の要として、西の逸見氏、東の粟屋氏として配置された。
 天文7年(1538)、粟屋元隆が武田氏に叛乱を起こし、朝倉氏の支援を得た守護家により鎮圧され、小浜の粟屋惣領家の所領は悉く取り上げらます。その跡を継いだのが三方郡の一族の勝久と考えられるようです。
 元隆の叛乱以後、守護家の内紛・家臣離反、相互対立などで武田氏による領国支配は失われ、朝倉氏の介入を受けるようになっていきます。勝久の国吉城築城は、朝倉氏に備え、若狭を守る危機感だったのでしょう。
 永禄4年(1561)逸見氏と共に砕導山城に立て籠もり、武田義統に叛乱を起こしますが、朝倉軍の支援を得た義統により鎮圧されます。その後、粟屋勝久は武田氏から離れたため、義統の依頼による朝倉勢の攻撃を受けます。それが、永禄6年から始まる「国吉城攻城戦」です。6年間の籠城戦を戦い抜き、元亀元年(1570)の織田信長の朝倉攻めでは、信長か着陣して越前攻めの拠点として使われます。天正元年(1573)信長にる朝倉氏滅亡後、本領を安堵され丹羽長秀の与力とされます。イメージ 3
 本能寺の変後、粟屋氏は他国に転出し、木村定光が入りました。翌年、国吉城・後瀬山城・高浜城を除いて若狭国内の大部分の城砦が破却されます。木村氏以後、堀尾氏・丹羽氏・浅野氏・木下氏・京極氏が若狭を領し、国吉城に城代を置いています。元和元年(1615)の「一国一城令」で廃城になったと思われます。
※図は、現地説明板と資料館にあるものです。
イメージ 4
 麓の居館跡の西側に平成21年(2009)に開設された「若狭国吉城歴史資料館」です。

イメージ 5






 居館跡とその背後にある国吉城の遠景です。この右側から登って行きます。イメージ 6

登城口で、獣除けのフェンスが設けられ、「◎熊出没注意」の看板などあり、熊ベルを出しました。九十九折の道は、とても整備されていましたが、階段が続き結構きつかったですね。イメージ 7




登城口から15分(ゆっくりペース)ほどて「伝二の丸跡」に着きます。二の丸と伝わるようですが、大手口の防御拠点としての出砦だったのではないかと思われます。イメージ 8


 イメージ 9見事な土塁造りの食違い虎口です。規模は、40×12〜4m程で南側に高2mの土塁を設けています。



イメージ 10

 食違い虎口を入り、郭奥西端から撮ったもので
す。イメージ 11







伝二の丸から主郭に向かう稜線上に設けられた段郭群。イメージ 12

本丸とⅡ郭を区切る堀切の手前イメージ 13の道沿いに石積みが見られました。→拡大

イメージ 14




本丸とⅡ郭を区切る上巾5mイメージ 15ほどの堀切です。ここも石積みされているようです。


イメージ 16



本丸北西虎口です。イメージ 17








不均等な石積みで桝形を意識した感じですが、はっきりしませんね。イメージ 18









本丸北西虎口辺りからの本丸内部です。

この続きは、−その弐ーで。

参考文献
資料館のパンフレット
「図説中世城郭事典Ⅱ」村田修三編 新人物往来社
『全国国衆ガイド」 大石泰史編 星海社新書 


この記事に

開く コメント(0)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事