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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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 昨日は一日外出していたので「売買なし」の日だった。すごく久しぶりの気がする。
今年になって営業日が100日以上あって、売買なしの日は多分5日もないだろう。

 ワーカホリックというか逆張りジャンキーというか、「身体が値動きを見ると自動的に反射行動を起こす」という脳の構造になっているので、見れば動くのだが、その動くのは「利食いで現金を増やす」ためか「その利食いのために再度仕掛けるのか』のどちらか、あるいは両方の為である。つまりこの二つがないのなら動かない=動く意味が無いということである。
 猫次郎はリアリストだから、金にならない仕事は基本しないのである。仕事=金=相場ということであり、必要な金は相場から取ってくるのは、爺さんが山に芝刈りに、婆さんが川に洗濯に行くのと同じである。すると川上から大きな桃がドンブラコ、ドンブラコ、と流れてくるのでした、、、。と民話にはある。

 僕は芝刈りはしないが、素人狩りは毎日ヤル。桃が流れてくることはないが、鴨はいくらでもやってくる。政府が老後2000万足りんから、みんな投資して資産形成するように!というお達しを出したりすると、これまた肥った馬鹿鴨がネギ背負って相場にのこのこ出てくる。それでNISAとか税金なしで買ったら得をすると騙されて(だって素人が相場やっても100%どうせ利食いできないんだから、取れない所得に減税しても政府は損はしないでしょ?)株を買う。しかも長期に現物で塩漬けで、、。これを上手に食うには「売り」つまり空売りしかないので、プロ相場師も胴も(証券会社も)どんどん空で売るんだね。(先物を売るのね。)
先週もゴールドマンもモルスタも先物をガンガンと売っている。だから1月からどんどんと売り越しなんだね。これで相場が上がるわけがない。空売り比率が45%を超えたら上がりっこないのだが、素人は現物NISA口座で買うしかできないのだから(NISAは信用売りは制度上出来ません。)全員が損をするように最初から設計されているわけよ。

 

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自民党の政治家は海外のヘッジファンドに10億、100億単位で金の運用を預けているのだから、たぶん安倍や麻生は日本株が下がるほうが儲かるだろうなあ、、。(これ俺の妄想だから事実は知らないな。俺が政治家なら当然そうするってことよ。)だってこんな酷い景気の状態で消費税を強行するのだから不景気を通り越して恐慌に突入するぐらいはあの手の馬鹿だって当然わかっててヤルということは、運用を委託しているファンドがショートしているに決まっている。マッチポンプの猿芝居なんだろうなあと思う。ドルをショートして、日本株をショートして、消費税を上げれば株が暴落して大儲けという事なんだろう。こんなのが財務大臣なんだから呆れるわ。でも相場やってるのは所詮汚い世界だから、そんなのばかりなんだよね。

 罫線読みの定説 その一

日本株の下げ相場の戻りの平均周期は 2週と4週です。
「先週は戻りの2週目、4週目に当たるので、戻った処を叩いておけ」というのは空売りの基本の基本動作。ということで勝手に10名ほどに猫提灯を発行した。さてこの後の8週目に安値がくるのか?が次の検証課題だろう。自分で体験しないと納得できないだろうと思う。

半袖では風邪をひく。

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鎌倉は素晴らしい!同じ観光地と言っても熱海とは桁違いに文化度が高い。住んでいる住民の質と歴史の差異なんだろうと思う。頼朝が鎌倉幕府を作るのは1192年だから800年以上の歴史があるこの地には、様々な権力闘争があったのだろう。名刹も多いし、たたずまいは優雅である。禅寺は特に格調が高い。
 紫陽花の季節ということで、定番の明月院にも寄ったが人、人、人だった。金曜の午後でこれだと、土日の混雑は想像を絶する。

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 鎌倉は美味しい店がたくさんある。最中や羊羹の名店というのがあって、虎屋より高くて旨い店がある。
北鎌倉駅にある松花堂のあがり羊羹は知る人ぞ知る名品だ。実に上品で旨いから、1万円の交通費をかけて
2本4000円の羊羹と最中を僕は買いに行く。爺さん婆さんが40年も前に始めた小さな店だが、他にはない味わいで貴重だ。江の電の由比ケ浜駅の隣にある豊龍(フェンロン)という飲茶店も秀逸である。横浜中華街の一番店より旨いとも言える。ここのネギチャーシュー麺は最高である。
 年を取ると「食う」以外に楽しみがほとんどない。それでも鎌倉を8キロほどテクテクと歩いてお腹を減らして食事をするのは素晴らしい休日の使い方だと思う。帰りに古本屋で1冊、湘南Tサイトでこれまた1冊買って読まない本が少し積上ってきた。
 アンソニー ドーアの長編を慈しむように少しづつ読んでいる。昨日買ったのは、ポールオースターの新訳(柴田元幸訳)だ。梅雨寒で熱海は18度。半袖では風邪をひく。

鎌倉!

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いつもの古本屋、游古堂
安吾論を拾う、不良な人生の為に、

サル化する世界

「ポピュリズムと民主主義について」という標題である媒体から寄稿を依頼された。字数が限られていたので、言いたいことを書ききれなかった。ロングヴァージョンをここに掲げる。
「ポピュリズム」というのは定義のむずかしい言葉である。政治用語として頻用されているが、それは必ずしもその語の定義についての集団的合意が成立していることを意味しない。
 術語の定義は、ふつう同一カテゴリーに属する他の語との差異に基づいて理解される。だから、「民主主義」の定義ははっきりしている。democracyは誰が主権者であるかによる分類法であるから、これの対義語は「王政(monarchy)」や「貴族政(aristocracy)」や「寡頭政(oligarchy)」や「無政府状態(anarchy)」などである。だから、誰かが「民主主義を廃絶せよ」と主張したとすれば、その人は代替するどれかの政体の支持者であることを明らかにしなければならない。
 だが、「ポピュリズム」はそうはゆかない。というのは、ポピュリズムについては、その対義語が何であるかについての合意がまだ存在しないからである。
 欧米の政治学の論文を読むと、ポピュリズムはほぼ例外なく「これまでの秩序を揺るがす不安定なファクター」という意味で使われている。だが、その時の「これまでの秩序」が何を指示するかはその語が利用される文脈によって、ひとつひとつ違っている。だから、トランプの統治についても、ドイツの移民政策についても、イギリスの貿易政策についても、ヴァチカンの宗教政策についても、「これまでの秩序」を揺るがす動きには「ポピュリズム」というタグが付けられる。それらのすべてに一貫している定義を取り出すことは難しい。
 こういう時、一意的に定義されていない語でものごと論ずる愚を冷笑する人がいるけれど、私はそれには与さない。「一意的に定義されていない語」が頻用される場合には、間違いなくそこには「これまでの言葉ではうまく説明できない新しい事態」が発生しているからである。そういう場合は、用語の厳密性よりも、「新しい事態」の前景化を優先してよいと私は考えている。
 では、ポピュリズムという一意的な定義が定まらない語によって指称されている「新しい事態」とは何なのか?
 私見によれば、ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことである
 個人的な定義だから「それは違う」と口を尖らす人がいるかも知れないけれど、別にみなさんにこの意味で使ってくれと言っているわけではない。
「今さえよければいい」というのは時間意識の縮減のことである。平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。 
 春秋時代の宋に狙公という人がいて、サルを飼っていた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌していたが、手元不如意になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。
 このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」と分かっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。
 「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟(「今さえよければ、それでいい」)のことであるが、「自分さえよければ、他人のことはどうでもいい」というのは自己同一性の空間的な縮減のことである。
 集団の成員のうちで、自分と宗教が違う、生活習慣が違う、政治的意見が違う人々を「外国人」と称して排除することに特段の心理的抵抗を感じない人がいる。「同国人」であっても、幼児や老人や病人や障害者を「生産性がない連中」と言って切り捨てることができる人がいる。彼らは、自分がかつて幼児であったことを忘れ、いずれ老人になることに気づかず、高い確率で病を得、障害を負う可能性を想定していないし、自分が何かのはずみで故郷を喪い、異邦をさすらう身になることなど想像したこともない。見知らぬ土地を、飢え、渇いて、さすらい、やむにやまれず人の家の扉を叩いたときに、顔をしかめて「外国人にやる飯はないよ」と言われたときにどんな気分になるものかを想像したことがない。
 自分と立場や生活のしかたや信教が違っていても、同じ集団を形成している以上、「なかま」として遇してくれて、飢えていればご飯を与えてくれ、渇いていれば水を飲ませてくれ、寝るところがなければ宿を提供することを「当然」だと思っている人たち「ばかり」で形成されている社会で暮らしている方が、そうでない社会に暮らすよりも、「私」が生き延びられる確率は高い。
 噛み砕いて言えば、それだけの話である。
「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。他者とともにあるときに、どういうルールに従えばいいのか。別に難しい話ではない。「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると自己利益が増大するかどうか」を自らに問えばよいのである。
 例えば、渋滞している高速道路で走行禁止の路肩を走るドライバは他のドライバーたちが遵法的にじっと渋滞に耐えているときにのみ利益を得ることができる。全員がわれ先に路肩を走り出したら、彼の利益は失われる。だから、彼は「自分以外のすべての人間が遵法的であり、自分だけがそうでないこと」を、つまり、「自分のようにふるまう人間が他にいない世界」を願うようになる。これが「非倫理的」ということである。これはある種の「呪い」として機能する。だって「私のような人間がこの世に存在しませんように」と熱心に祈っているわけなんだから。この「呪い」は弱い酸のようにゆっくり、でも確実に彼の生命力を殺いでゆくことになる。
 もう一度言うが、倫理というのは別に難しいことではない。いまここにはいない未来の自分に、あるいは過去の自分に、あるいは「そうであったかもしれない自分」に、「そうなるかも知れない自分」を「自分の変容態」として、受け容れることである。そのようなすべての「自分たち」に向かって、「あなたがたは存在する。存在する権利がある。存在し続けることを私は願う」という祝福をおのれの固有名において贈ることである。
 
 倫理的な人というのが「サル」の対義語である。
 だから、ポピュリズムの対義語があるとすれば、それは「倫理」である。私はそう思う。たぶん、同意してくれる人はほとんどいないと思うけれど、私はそう思う。
 自己同一性が病的に萎縮して、「今さえよければ、自分さえよれけば、それでいい」と思い込む人たちが多数派を占め、政治経済や学術メディアでそういう連中が大きな顔をしている歴史的趨勢のことを私は「サル化」と呼ぶ。
 「サル化」がこの先どこまで進むのは、私にはよくわからない。けれども、サル化がさらに亢進すると、「朝三暮四」を通り越して、ついには「朝七暮ゼロ」まで進んでしまう。論理的にはそうなる。そのときにはサルたちはみんな夕方になると飢え死にしてしまうので、そのときにポピュリズムも終わるのである。
 哀しい話だ。
 「サルはいやだ、人間になりたい」という人々がまた戻ってくる日が来るのだろうか。来るとよいのだが。
2019-05-27 16:39

  • 内田さんより全文転載

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 僕と同世代の人の多くが定年退職の時期を迎えている。元気な人ならあと20年ぐらいは生きるのだろう。リーマンは今までの毎日会社に行って25日に金が振り込まれるという生活サイクルが、今度はどこにも行く場所がなくなり、2ヶ月に1回15日に年金が振りこまれる暮らしに変わる。それでまともに食えれば良いが、多分不足する人が大半なんだろうと思う。それでも少しアルバイトで良いかと思えば、時給1000円ぐらいのコンビニバイトを1日8時間20日もやれば16万、税金引いて14万ぐらいにはなるだろう。それで良いならそういう仕事をすれば良い。金に名前はついていないから、どんな金でも金は金である。でもそんなかったるい、長時間の奴隷労働なんて嫌な人は相場をやっても良い。実際に感覚と操作に上達すると、毎月何百万も1日数時間の作業で取れるし、億なんて金は少しプロ的な玉操作とまとまった資金さえあれば1年から数年で作ることが実際には可能である。どういうレベルの金が裕福な老人には必要なのか?というサイズ感は以下である。

  「孫の成人式にポルシェやBMWをポンと買ってやりたいと思えば、コンビニバイトじゃどうやっても多分無理だろう。」ということだ。別荘を買ったり、長期の豪華クルーズをしたり外車を買ったりするような贅沢をするにはまとまった金がいるのである。いつでも連続的に浪費ができる人=成功した相場師とはそういう男のことである。こういう程度のサイズ感が相場師の浪費のサイズ感であり、そういう仕事を期待される仕事の質ということなのである。ざっくり言って、麻生の言う年金不足分2000万の10倍、最低でも2億はいるだろう。

 年を取って身体が若い時のように活発に動くことができなくなり定職がなくなってもちゃんと一人前の所得や財産があるのは大事だ。まず金が無いという卑屈さがなくなる。自立して誰の世話にもならず金を払えるというのは自由人の大前提である。財布に50万でも100万でも入っている、自分の小遣い用の口座に最低でも1億ぐらいは入っているという状態なら、大抵のものは値札を見ないで好きなだけ即決で買えるのだから「考えて悩む」とか「我慢する」ということが全く必要ない。反面、工面する必要がないから有り難みは減る。「欲しいものは全て複数、最高なものを既に持っている」のが普通なのだ。

 「爺ちゃん、婆ちゃんの家に行くと大きな外車に乗って映画館や遊園地に連れて行って貰える、普段買ってもらえない服を何着も買って貰えるし、寿司や焼き肉などごちそうをいくらでもたくさん食べられる。冬休みはハワイに行くし夏休みは遊園地にもモーターボートにも乗せて貰える。」
こういう物質的な幸福な子供時代を経験できることは幸運な子供である。フワーっと素直に育つだろうし、金がある裕福な家が大事なことだと思えば、自分もそうなりたいと思うだろう。子供がなりたい大人でいるというのが大人にとっても一番必要な事実なのだ。子供は大人よりも正直だからである。

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