スーダン日記

ご無沙汰しております。

近況

今年は、僕にとっても動きの激しい1年になった。イメージ 1
 
上半期は、アフリカ部でアフリカ開発会議(TICADV)の貢献策づくり、広報・イベントなどを担当させて頂いた。
 
上半期は、海外出張はゼロだったが、色々なセミナーでアフリカのお話をさせて頂いたり、NHKの「視点論点」という番組にも出演させて頂いた。
 
スタジオから出演するのは2度目だが、この番組は、ほぼ10分間ノーカットで、一人で約2900字の原稿を説明する。インタビューならやりとりもあるが、一人で10分話すのは結構孤独だった。
 
イメージ 2TICADVの本番は、1週間横浜に泊まり込み、イベントの開催の裏方や会談の裏方に走り回った。
 
本当に、忙しかった1か月だった。
 
そして、TICADVが終わると同時に、地球環境部に異動。僕のもともとの専門分野(?)の「森林保全」の事業を担当する部署に移った。
 
また、現場が近い部署に戻り、ここ数カ月は現地調査に明け暮れている。
 
6月頃から、滞っていた「スーダン本」の作業が再開された。
 
イメージ 3もともと、本ブログにも一部掲載させて頂いた、元原稿は16万字程度あり、320ページほどあったが、正味200ページ以下にするということで、ライターの方の編集でバッサリとカット。その後、細かい修正作業を3か月ほど繰り返し、やっと10月に入り、脱稿。
 
正式な発行は10月15日だが、見本が昨日(10月10日)に届いた。ちょうど、その日は、スーダン事務所で一緒に働いた同僚との久しぶりの飲み会。
 
最近、帰国したばかりの人、結婚した人、これから新しい任地に向かう人、それぞれだが、皆、元気で活躍しているのが、何よりうれしい。
 
 
 

2013年

最近は、近況をFaceBookにアップしているためか、ブログから遠ざかってしまった。
昨年は、2013年6月に開催されるアフリカ開発会議(TICADV)の担当をしているため、その準備でアフリカ出張(年間11回)に明け暮れた。
また、年末には一緒に働いた同僚がチュニジアで交通事故に遭い亡くなるという悲しい出来事もあった。
 
■忘年会
 年末の12月22日は、和田前大使を囲んでスーダン関係者(大使館、国連、NGO、自衛隊、JICAほか)で盛大な忘年会が行われた。大使から、「南スーダン独立後、悪化してきた南北スーダンの関係も改善が見られて良かったのではないか」と2012年を振り返ってのご挨拶があった。
 イメージ 1
 
 このブログでも何度も書いているように、南北は共存していかなければならず、闘争に労力を費やすよりも共同で開発を進める方が何倍も住民のためになるのだが、現実はそう容易ではなく、現地で良く言われるように、「右手で握手をしつつ、左手で殴る」ということが日常茶飯事で、大きな懸案事項のひとつであった石油収入の配分(正確にはパイプライン使用料)が決着したが、国境付近での攻撃が散発的に発生しているようだ。
領土の問題は、より根幹にかかわる問題で難しいと思うが、なんとか解決の道を探って欲しい。
 
■2013年にあたり
(1)TICADV
まずは、現在の「アフリカ開発会議(TICADV)」関係の仕事に全力で取り組み、JICAの目指す「アフリカも日本も元気なる援助」を実現させる。TICADVにあわせて、向こう5年間でJICAがアフリカでどのよう戦略で事業展開するかについて纏める作業が、年明けから待っている。また、アフリカについて、日本の市民の皆さんに理解して頂く広報活動も僕の任務だ。
(2)現場
早いもので、今年5月にはスーダンから帰任して2年を迎える。6月のTICADV会合が終了したら、できればなるべく早くアフリカの現場に戻りたい。(そのためにも今年は東京の生活で完全にリバウンドしてしまった体重を減らすことが最重要課題。飲酒量、食事を減らして運動に心がける。わかっているけど、これまた容易ではない。)
(3)出版
 一昨年の12月に原稿を作成し終えていた、「スーダンの平和のために」(仮題)もいよいよ来週から出版社の編集作業が開始し、今年の前半には出版されるようなので、これも早く仕上げたい。止まっているオリジナル原稿もアップも再開しようと思う。
 
やらなければならない事が沢山あるが、なにより今年も皆さんと共に安全で平和な1年が過ごせますように。。。

Cさんとの再会

月曜日
昨年6月の記事で書いたCさんらに再会することが出来たので書きたい。
 
バシール大統領が、「南部が独立した場合には、北)スーダンに居住していた南部系の人たちを『外国人』として扱う」と明言していたために、不安を抱いた人たちは、昨年7月前後に大量に南部に帰還した。(2009年〜2011年の累計は約25万人とされる)。ただし、南北政府の未解決の問題についての継続交渉が続いていたため、暫定的に2012年4月までは、北に在住する南部系住民の滞在(就労)が認められていた。
 
その期限が過ぎ、今年4月以降は南部系の人たちは、外国人としての登録をしないと就労が出来ないことになった(他の人の情報によれば、一人当たり月100ドル相当もの登録料を払わなければ、滞在許可が延長できず、家族の多い通常の労働者には負担できない金額だ)
イメージ 1
 CさんがJICA南スーダン事務所のスタッフとして働くことが出来ていると聞いていたので、今回の出張での再会を楽しみにしていた。
 
Cさんは、事務所でも現業職だったので、給与も安いため、コスティから、約3週間かけ貨物船に乗ってやってきたという。
 
すっかり疲れ切っているかと思ったら、意外に元気で「問題なかったですよ」とこともなげだが、昨年会った家族の暮らしぶりも見たかったため、彼の家を訪問した。
 
イメージ 2南スーダン事務所からは、車で約45分かかるロロゴという貧しい人たちが住む地区で、発展しているジュバ中心部と違い、路上はゴミだらけ。
 
到着したCさんの家には、奥さんと3人の小さなお子さんが待っていた。とにかく、昨年6月に離れ離れになってから1年弱。Cさんの家族が再び一緒に生活することが出来て本当に良かったと思った。
 
しかし、家は、トタン屋根に壁は木材の骨組みに泥を塗っただけの質素なものだが、これでも家賃が月200SSDG(約3000円)と彼らにとっては高い。
 
水は少し離れた井戸まで汲みに行き、トイレも共同の粗末なもの。あとでスタッフに聞いた話だと、Cさんの幼い子供たちはこちらに来てから、マラリアや感染症などの病気にかかり大変だったらしい。
 
あまり時間がないので、早々に失礼することにしたが、彼らの不安や状況を思うと涙がこぼれた。
生活の足しになるようにわずかばかりの心付けを渡し、Cさんの家を後にした。

PKOキャンプ

イメージ 1月曜日
日曜日は、一日NGO団体の皆さんと会議+懇親会、月曜日は、南スーダン政府やUNHCR、IOMなどを回って情報収集を行った。夕方、自衛隊の幹部の方のご厚意により、PKOキャンプを見学させて頂いた。ジュバの空港脇のUNMISSサイトの一番奥に位置する。同じサイトには、ルワンダ、インド、バングラデシュ、カンボジアなどのキャンプがある。
 
本部事務所前には日本の国旗国連旗。やはり、日本人のプレゼンスがまだまだ小さい南スーダンで、日本の国旗が上がっているのを見るのは、うれしい。
イメージ 2まだ建設途上とのことだが、キャンプの中をご案内いただく。
 
まずは医務棟
 
ここは国連のレベル1医療施設(応急措置のみ手術はしない)に指定されているとのことだが、コンテナの中にはレントゲン、各種検査機材などがびっしりと効率よく詰まっている。この医療コンテナは、東日本大震災の際にも東北で活躍した実績があるとのことだ。
 
2名の医務官をはじめ多くのスタッフの方々が勤務されている。
 
イメージ 3次に宿泊棟
 
現在は全部が出来上がっておらず、まだテントで寝泊まりしている隊員もいるとのことだが、あと1か月ぐらいで全員がコンテナに引っ越しできるとのことだ。僕もジュバのテントホテルに泊まった経験があるが、エアコンがないので、昼間は暑くて中には居られないため、休日の休息がしづらい(木の下でビールを飲むしかない)。
 
40フィートのコンテナに、幹部は2名、一般要員は、3名の相部屋だという。部屋の中は私物があったので、写真は遠慮したが、共用の冷蔵庫があるだけで質素な部屋だ。
(相部屋は滞在が長くなるとストレスかも)
イメージ 4
次に食堂。食事を作るのも隊員の方。
 
今日の夕食の現物が出ていたが、力仕事をする方には少々物足りないのではないか?という印象だが、一日3300カロリーは確保されているという。
 
(力仕事をしない自分の食事のカロリーは明らかにこれを上回っている。。。恐ろしい)。
 
 
 
 
イメージ 5次に浴室
現在、女性隊員は2名だが、ちゃんと一番風呂は女性に割り当てられているとのこと。女性による「安全確認」の結果、利用されている方がいないとのことで、中を見せて頂く。湯船があり、気持ちよさそうだ。
300名以上の隊員と100台以上の車両を使った大きなオペレーションで、物量の多さには驚いた。これまで南北スーダンで見たどのPKOキャンプよりも整っていると思う。
イメージ 6他にも浄水器(逆浸透膜)を搭載した車両や洗濯機を搭載した車両まである。当然、車両整備工場もある。
■■■
僕らJICAやNGOは、6年前のまだコンテナのホテルもない時代から、手荷物ひとつで、ジュバに乗り込み、現地のものを食べて活動してきた。
 
今よりももっと物もなく、厳しかった時代が続いたが、独立行政法人だからという事で、安全対策もなど含め間接経費は年々圧縮されている。
 
当然、医師や看護師の派遣もあるわけもなく、率直に言えば、『一種の理不尽さ』も感じる。
 
イメージ 7もし、日本が国策として、このような生活環境が劣悪な国を支援するならば、今よりももっと厳しく何もなかった時代に、NGOやJICAが、せめて、こうした医療や通信など施設の10分の1でも支援が得られたらどれほど心強く、効率的に仕事ができただろうか?
■■■ 
ただ、自衛隊の方々は、常にマスコミ、国民や政治家の注目を集めており、我々民間人にはない非常に大きなプレッシャーの中で、仕事をされており、非常に神経を使われており、大きなストレスだと思うが、是非日本人が誇れるような仕事を期待したい。
 
お忙しい中、ご案内いただいた自衛隊の方どうもありがとうございました。
イメージ 1土曜日 その2
今日はジュバまで戻る予定で、ジョングレイの滞在時間は約3時間しかない。PWJの事業地のひとつである首都から40キロほど南のPariak村(Boma)に案内していただく。
 
村役場のチーフが不在なので、小学校から視察。ここでは、JPFの資金により、PWJが学校の敷地に立派なトイレを建設し、「衛生クラブ」などのソフト面も合わせて支援していると言う。
 
子供たちによりきれいに掃除されているのだというが、完成してから2年も経過する割にはあまりにきれいすぎる感じがする。
イメージ 2
 
校長先生の説明が嘘だというつもりはないが、現実に、アフリカでは管理強化を申し入れるとトイレをロックして生徒に使わせないようするところが多く、僕もそういう場所を数多く見てきた。
 
他団体が昨年支援して建設したという新しい校舎に入り、校長先生の説明を受ける。
校長先生自身も1993年からSPLA兵士とし手内戦に参加したが、2003年からは教師に戻り、2008年からこの学校の校長に就任している。彼は「教育は平和の証だ」と情熱的に語る。
 
「8学年あり、1800人ほどの生徒がいるが、教室は3つだけで、5学年は木の下で授業をしており、夕方は成人教育を行っているという。この学校も他と同様、5年生以降の女子生徒が極端に少ない。12,13歳頃になると結婚する生徒が多いためらしい。ここでは特に女子教育に関する特別な取り組みをやっていない。PWJは早い時期から支援してくれたNo.1のNGOだ。感謝している」との言葉が述べられた。
 
イメージ 3
次は村役場に戻り、村の会計責任者のジャコブさんに、軒下でお話を伺った。
「内戦中はボーは政府軍が駐留しており、幹線道路を兵士がパトロールしていたため、移動は不自由で、多くの人は国外へ脱出して限られて人数だけが残った。自分は、年老いた両親が村に残っていたので、内戦が終わる前の1999年に避難先のウガンダから戻って来た。当然家畜も失っており、白ナイル川の魚を食べたり、貴のみを食べて飢えをしのいだ。2005年に内戦が終わってしばらくした、2007年頃から人々が沢山戻ってくるようになった。」
 
イメージ 4興味深く、話を伺っていると、雷とともに非常に強い雨が降り、皆びしょびしょ。肝心なところだけに絞って質問を続けた。
 
「その当時の問題は、①医療施設がない、②井戸が足りない、③治安が悪い、の3つぐらいだったと思う。(牛はなかったが、)WFPから食糧援助を受け取ることが出来た。今現在の村の課題は、①もっと近代的な医療施設、②村内の道路、③農機具の支援、④学校が不足している。ただ、こうした課題はあるものの一度戻って来た帰還民がまたウガンダなどに戻るケースはそう多くない。」
とのことだった。
イメージ 5
 
このあと、PWJが支援した保健所を視察する予定であったが、あまりの豪雨に断念して、ボーに戻った。
 
空港に向かう前に、PWJの皆さんと調査団で記念撮影。皆さん、これからも頑張って下さい!
 
このあと、無事飛行機は飛び、午後5時半にはジュバに戻ることが出来た。
 
 
 

3日遅れのパガック脱出

土曜日
イメージ 1昨夜も雨を心配したが、朝起きてみると曇ってはいるが、雨は降らなかったようだ。朝から、JPFのIさんが、衛星携帯を飛行機会社に天候を伝え、チャーターフライトを要請している。10時過ぎには飛行機が来てくれるそうだ。
 
それまで雨が降らなければ、予定より3日遅れで、やっと脱出となる。一緒に来ている外務省のHさんが、飛行機の音がする」と何度も外に出ているが、どうも発電機の音が、飛行機の爆音に聞こえるらしい(幻聴?)。
 
予定より30分ほど遅れて、セスナが飛来。一同ほっとした。
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これで、5日間お世話になった、ADRAのパガックの宿舎ともお別れだ。飛行機が来ると地元の人が多く集まってきて、軍人が子供たちに「さがれさがれ!」と交通整理を始めている。
イメージ 3
 
ジュバから連れてきたというADRAのマスコット犬「ムーミン」もお見送りしてくれる。
 
イメージ 4一人ひとりの体重と荷物の自己申告をすると、パイロットが長い時間かかって電卓で合計している。なんでも1トンを越えてはいけないそうだ。(パガック滞在で、体重は増えたので心配)
 
今日はまだ時間があるので、帰路にあたるジョングレイ州の州都にあたるボーピースウィンズ(PWJ)の事業を調査させてもらってから、ジュバに戻る予定。
 
1時間半ほどでボーに到着すると、まず空港に立派なターミナルビルが立っていることにびっくり。2年前には、滑走路以外には何もなかったのに大きな変化だ。
 
ボーに到着するなり、雨が降ってきた。この雨でまた足止めを食らうのかと、一瞬心配したが、ボーの空港は同じ未舗装でもラテライトを播いて、固めてあるので、少々の雨は大丈夫だとパイロットは言う。
 
迎えに来てくれたPWJのスタッフの方のご案内で、視察先に向かった。。。(つづく)
 

エチオピア国境

木曜日
朝起きたら、地面が濡れている。昨夜寝るときには星が見えていたのに、夜中に雨が降ったようだ。滑走路には水たまり。今日も飛行機が着陸できないそうで、1泊のはずのパガックに3泊することになった。
 
昼間、発電機を動かしてVSAT(衛星を利用したインターネット接続)を付けてもらったが、スピードが遅すぎ業務のメールが読めず、仕事もできない(言い訳だが・・)。


イメージ 1午後、晴れ間が見えてきたので、歩いて1時間ほどというエチオピア国境に行くことにした。
 
エチオピアに向かう道は、整備された道はなく、トウモロコシ畑や野原を突っ切るだけの道をひたすら歩く(乾季は、車がこの野原の轍を適当に進むのだそうだ)。
 
生活物資やセメントの袋を頭にのせて運ぶ女性とすれ違う。雨季のパガックへの物資輸送は、人で運ぶか、軽飛行機ぶしかない。
(因みに通りかかったご婦人は、UNICEFの仕事でセメント袋1つ運んで、30ポンド(約450円)もらうそうだ。破格の賃金労働だ。)
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暑いなあと思っているとようやく、国境の小川にかかる橋に到着。国境と言っても、特にゲートも立派な建物もなく、南スーダン側はテントにSPLAの兵士が居て(兵士がいるテントの後ろには戦車が隠してあった(丸見えだが)。
 
このあたりは地元の人は自由に行き来しているので、兵士にちょっと橋あたりをウロウロしてよいか尋ねて許可をもらった(写真はダメ)。
 
エチオピアが昨年?掛けたという新しい橋を渡ると、エチオピア側は舗装こそしていないが雨季も車が通れる立派な道路。
 
イメージ 4イメージ 3
橋の100メートルぐらい先に小さなお店があるので入ってみること。コーラ1本10ブル(=約50円)で頂く。お店の隅にインジェラを焼くかまどがあるので、あるかどうか尋ねると、エチオピア人の主人が、「日本人なら友達だから、ただでよい。」と、ごちそうしてくれた。
 
生地は少し色がついているが、程よい酸っぱさで、トマトソースもピリッと辛く、非常においしい。
エチオピアの友情に感謝だ。
イメージ 5
来た道を引き返し、また市場でのどが渇いたので、エチオピアビールを一口頂き、宿舎に戻る。
(因みにパガック側のバーではコーラ1本が8ポンド(約120円)。人力で1時間かかるから仕方ないが、とても庶民が飲める値段ではない)
 
午後ずっと晴れていたので、滑走路を見ると、ほとんど乾いており、子供たちがサッカーをしている。滑走路でサッカーをする景色も他ではなかなかないかもしれない。
 
このまま、晴れれば明日は飛行機が来てくれるだろう。飛行機のアレンジの関係から結局明日はまっすぐジュバに戻る予定なのだが・・・

帰還民の町

水曜日
イメージ 1先日の夕方から降り始めた雨は、夜中も断続的に降り続き、朝起きると一面「田んぼ」状態。さすがのセスナもこれでは着陸できない。JPFのIさんが、ジュバに衛星携帯電話をかけて、航空会社と状況を連絡している(因みにパガックは地上波の携帯電話は使用できない)。
 
結果から言うと水曜日は雨は降らなかったが、結局飛行機が着陸できる状態にはならなかったため、本日のアユッド経由ボーへの移動はキャンセルし、パガックにもう1泊することとなった。
雨季の調査なのである程度覚悟していたが、どこかの調査地を1か所減らさないといけない。
イメージ 2
さて、本日は、昨日会えなかったチーフ(左の緑色のシャツ)に会う。このチーフ自身、2007年に帰還したとのことだが、昔話を良く知っている。
 
昨日同様、内戦前からの話を聞いていると、内戦が始まる前は、今のパガックはブッシュで、80年代終わりごろに、5家族ほどが住む場所だったが、エチオピアから戻って来た住民がこの場所に住みついてどんどん人口が膨らんだという。
その理由の説明はなかったが、このパガックの滑走路脇に、人道支援のNGOの事務所などがあったことから、どうも、帰還した人にとっては、水や食糧の配給地に近いというのが理由のようだ、
 
イメージ 3ということは、このパガックはNGO事務所の周りに『帰還民が集まってできた街』で、エチオピアにも近く、買い物などにも便利で、しかも安全という条件がそろったもののようだ。
 
お話を伺った大きな木の下は、裁判所になっているということで、周りに柵が出来ている。2005年からPayamという暫定自治政府の地方行政府が置かれているが、裁判については、伝統首長であるチーフ(村人の選挙で選ばれる)により行われているとのことだ。アフリカでは、こうした近代的行政府と伝統首長制度が併存することは珍しくないが、ここでは、両者の関係は微妙なようだ。
イメージ 4
チーフとの話が終わった後は、ADRAが支援している幼稚園を訪問した。
 
この幼稚園は、地元の人たちが自主運営する幼稚園で、先生方もケアする女性もすべてボランティアとのことで、生徒は200名以上が通っている。
全員裸足で、一目で栄養状態が悪いとわかる小さな子供も多く、この地域の貧しさが分かる。
 
かつては、WFPが子供たちに給食を配っていたが、それが中止されたため、ADRAが引き継いで支援しているとのこと。
 
イメージ 5Way Stationと同じく、行政に財政的な能力がなく、コミュニティも貧しい場合には、こうした援助は一度始めると、いつまで続けるのか、いつやめるのかを判断するのが難しい。
 
ADRAのKさんも、この事業の持続性について心配をしており、幼稚園の敷地で野菜作りするなど出来る工夫をされているようだ。
 
先ほどのチーフとの話では、『孤児』も多く、水や農業の他に、こうした支援も是非欲しいと言及されていた。
 
さて、明日木曜日は、アユッドでピースウィンズジャパンの事業地での調査を行った後、ジョングレイ州の州都であるボーへ移動予定。明日は雨が降らないでほしい・・・

パガックの内戦後

火曜日
イメージ 1早速、ADRAが運営する「Way Station」を訪問する。Way Stationとは、エチオピアに逃れた難民が国境を越えて、スーダンに戻ってくる際に、受け入れるセンターのことで、国境から数キロのパガックの町外れにある。
 
エチオピアからの難民帰還が盛んだった2007、08年頃は、UNHCRがバスでエチオピア側の難民キャンプから帰還民を輸送したため、1日に200名以上が到着したこともあるという。このWay Stationでは、健康やHIVなどに関する座学などが行われ、帰還民たちは、ここで1泊して支援物資(食糧や農具など)を受け取り、それぞれの村に戻ることになっている。
イメージ 2
 
ARDAは、村に戻る住民をトラックで輸送するなどの支援も行ったという。
 
難民などの帰還のピークは、人口センサス(2008年)の前で、それ以降はUNHCRなどによる組織的な機関のオペレーションは行われていない。
 
帰還のオペレーションのために建設されたこのWay Stationを、現在では、帰還した地域住民のための職業訓練(ADRAだけでなく他のNGOも活用)や住民の各種集まりなどに活用されているという。
 
ただ、まだ地元行政府(Payam(州の下がCounty、その下がPayamで人口は数万人程度))や住民組織にこのセンターを運営する体制や予算はなく、地域の住民が自分たちで運営できるまで、ADRAが支援を続けるというが、まだ時間がかかりそうだ。
 
イメージ 3
町中に歩いて戻ってきて、木の下のお茶屋さんで休憩する。子供を抱いた夫人(緑のシャツ)は、ADRAの職業訓練を受けて、現金収入を得るためにこのお茶屋さんを始めたとのこと。
 
エチオピアから夫婦で帰還し、夫はしばらく農業などの賃金労働を行っていたが、生活を支えるために働いているという(因みに夫は中学校に通うために隣の州の親戚に家に行ってしまったとのこと)。
 
彼女の場合は、未亡人ではないが、内戦で夫を失った未亡人は多く、パガックで収入の道がない女性は、エチオピア領に仕事を求めていくという。
イメージ 4
 
次にPayamの事務所に行って、聞き取り調査を行う。内戦から現在までのお話を時代を追って伺う。
「この地域は、内戦中(特に92年頃)スーダン軍が大規模な殺戮を行い、ほとんどの人は、スーダンを出て、エチオピアやケニア、北スーダンへ脱出してしまった。」
 
「2005年にCPA(和平協定)が締結されたが、多くの人たちはこれで本当に平和が来るか信じられず、本格的に帰還が始まったのは、2006年以降。当時は、食糧も不足したし、水や医療でも大変苦労した。」
 
「その後、人口センサスや総選挙、独立を問う住民投票、南スーダン独立(南スーダン人追放)などの政治的な節目ごとに非常にたくさんの人がパガックに戻って来た(概ね2008年までに半分が帰還し、2012年現在の人口は2008年の約2倍になっているという)
 
「現在の問題は雇用。NGOなどの他には雇用がなく、食糧援助を受けている状態であり、農業などの振興が必要。現在は、南北スーダンの関係が悪化しているが、治安は全く問題ない。」
 
イメージ 6同行してくださったADRAの方によれば、「パガックはGPSで見るとエチオピア領内にあるため、スーダン国境に近がスーダン軍が空爆をしづらいと言われている」そうだ。
 
会えなかったチーフには、翌朝会うことにして、マーケットを経由して、宿泊先のADRAのコンパウンドに戻ることにする。
 
町の中心には、前夜の雨の水がたまり、ドロドロの広場のまわりに20軒ぐらいの店が並んでいる。物はすべてエチオピアから入ってくるとのことで、商人はほとんどエチオピア人で、通貨もエチオピアのブルが流通している。
 
イメージ 5 市場のはずれにビールを出すお店を発見。日没近かったので、試しに少しいただく。
 
写真の通り、2種類のビールがあったが、電気がない町のため冷えていないのが、残念。値段も1本4ポンド(60円)ぐらいだが、地元の人たちには高級品だろう。
 
外では雨が降り始めた。翌日のフライトがとても心配だ。

エチオピア領?の町

火曜日
イメージ 2この日は、ジュバからパガックに向かう。パガックは、非常に大雑把にいえば、スーダン・南スーダン・エチオピアの3つの国の国境に近い南スーダン領で、内戦中政府軍により地元ヌエル人が迫害を受け、ほとんどの住民がエチオピアに避難した地域だ。
 
新兵器のiPhoneのアプリ「Walkmeter」を使い、GPSで場所を確認するが、Googleマップではやはり、エチオピア領内と表示される。(資源が出ない国境線には南スーダンは関心がないのか?) 地図リンク 
(ネットがつながってなくても位置を記録し、後でネットにつなぐと地図に軌跡が表示されるこのアプリは優れもの。お勧めです)
 
イメージ 1
パガックでは、日本のNGO「ADRAジャパン」JPFUNHCRの資金を得て、2006年後半から、帰還民や地元民の支援を行っているが、雨季に通行できる道が通じておらず、軽飛行機が唯一の交通手段だが、雨が降ると未舗装の滑走路(エア・ストリップ)がぬかみ着陸できないために『陸の孤島』になってしまう。物資輸送もコストがかかり厳しい現場だ。
 
南スーダンは、雨季に入っているため、天候が気がかりだったが、前夜少し雨が降ったが、当日は晴れが幸いした。
 
イメージ 3調査チーム、ADRAの現地スタッフ、支援用の機材を満載したセスナキャランバは、午前9時半にジュバを離陸し、2時間後、滑走路上空を低空飛行をしたパイロットの決断で、なんとかパガックに着陸することができた。
 
まずは、ADRAジャパンのパガックに駐在して活動している幸村さんの出迎えを受ける。幸村さんは外国人一人でこの現場を動かす、パワフルな女性だ(池上さんではないが、ここでも日本人女性が大活躍)。滑走路に隣接したADRAジャパンの事務所で、簡単な打ち合わせをして、昼食を頂いた。
 
その後は、かつてエチオピアから戻ってくる難民を受け入れたWay Stationの訪問や村のチーフやパヤムの役場を訪問して、聞き取り調査を行ない、内戦の頃やその後の復興段階について情報を収集した。(つづく)

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