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火曜日
エチオピアからの難民帰還が盛んだった2007、08年頃は、UNHCRがバスでエチオピア側の難民キャンプから帰還民を輸送したため、1日に200名以上が到着したこともあるという。このWay Stationでは、健康やHIVなどに関する座学などが行われ、帰還民たちは、ここで1泊して支援物資(食糧や農具など)を受け取り、それぞれの村に戻ることになっている。
ARDAは、村に戻る住民をトラックで輸送するなどの支援も行ったという。
難民などの帰還のピークは、人口センサス(2008年)の前で、それ以降はUNHCRなどによる組織的な機関のオペレーションは行われていない。
帰還のオペレーションのために建設されたこのWay Stationを、現在では、帰還した地域住民のための職業訓練(ADRAだけでなく他のNGOも活用)や住民の各種集まりなどに活用されているという。
ただ、まだ地元行政府(Payam(州の下がCounty、その下がPayamで人口は数万人程度))や住民組織にこのセンターを運営する体制や予算はなく、地域の住民が自分たちで運営できるまで、ADRAが支援を続けるというが、まだ時間がかかりそうだ。
町中に歩いて戻ってきて、木の下のお茶屋さんで休憩する。子供を抱いた夫人(緑のシャツ)は、ADRAの職業訓練を受けて、現金収入を得るためにこのお茶屋さんを始めたとのこと。
エチオピアから夫婦で帰還し、夫はしばらく農業などの賃金労働を行っていたが、生活を支えるために働いているという(因みに夫は中学校に通うために隣の州の親戚に家に行ってしまったとのこと)。
彼女の場合は、未亡人ではないが、内戦で夫を失った未亡人は多く、パガックで収入の道がない女性は、エチオピア領に仕事を求めていくという。
次にPayamの事務所に行って、聞き取り調査を行う。内戦から現在までのお話を時代を追って伺う。
「この地域は、内戦中(特に92年頃)スーダン軍が大規模な殺戮を行い、ほとんどの人は、スーダンを出て、エチオピアやケニア、北スーダンへ脱出してしまった。」
「2005年にCPA(和平協定)が締結されたが、多くの人たちはこれで本当に平和が来るか信じられず、本格的に帰還が始まったのは、2006年以降。当時は、食糧も不足したし、水や医療でも大変苦労した。」
「その後、人口センサスや総選挙、独立を問う住民投票、南スーダン独立(南スーダン人追放)などの政治的な節目ごとに非常にたくさんの人がパガックに戻って来た(概ね2008年までに半分が帰還し、2012年現在の人口は2008年の約2倍になっているという)」
「現在の問題は雇用。NGOなどの他には雇用がなく、食糧援助を受けている状態であり、農業などの振興が必要。現在は、南北スーダンの関係が悪化しているが、治安は全く問題ない。」
会えなかったチーフには、翌朝会うことにして、マーケットを経由して、宿泊先のADRAのコンパウンドに戻ることにする。
町の中心には、前夜の雨の水がたまり、ドロドロの広場のまわりに20軒ぐらいの店が並んでいる。物はすべてエチオピアから入ってくるとのことで、商人はほとんどエチオピア人で、通貨もエチオピアのブルが流通している。
写真の通り、2種類のビールがあったが、電気がない町のため冷えていないのが、残念。値段も1本4ポンド(60円)ぐらいだが、地元の人たちには高級品だろう。
外では雨が降り始めた。翌日のフライトがとても心配だ。
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