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今年は、僕にとっても動きの激しい1年になった。
上半期は、アフリカ部でアフリカ開発会議(TICADV)の貢献策づくり、広報・イベントなどを担当させて頂いた。
上半期は、海外出張はゼロだったが、色々なセミナーでアフリカのお話をさせて頂いたり、NHKの「視点論点」という番組にも出演させて頂いた。
スタジオから出演するのは2度目だが、この番組は、ほぼ10分間ノーカットで、一人で約2900字の原稿を説明する。インタビューならやりとりもあるが、一人で10分話すのは結構孤独だった。
本当に、忙しかった1か月だった。
そして、TICADVが終わると同時に、地球環境部に異動。僕のもともとの専門分野(?)の「森林保全」の事業を担当する部署に移った。
また、現場が近い部署に戻り、ここ数カ月は現地調査に明け暮れている。
6月頃から、滞っていた「スーダン本」の作業が再開された。
正式な発行は10月15日だが、見本が昨日(10月10日)に届いた。ちょうど、その日は、スーダン事務所で一緒に働いた同僚との久しぶりの飲み会。
最近、帰国したばかりの人、結婚した人、これから新しい任地に向かう人、それぞれだが、皆、元気で活躍しているのが、何よりうれしい。
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最近は、近況をFaceBookにアップしているためか、ブログから遠ざかってしまった。
昨年は、2013年6月に開催されるアフリカ開発会議(TICADV)の担当をしているため、その準備でアフリカ出張(年間11回)に明け暮れた。
また、年末には一緒に働いた同僚がチュニジアで交通事故に遭い亡くなるという悲しい出来事もあった。
■忘年会
年末の12月22日は、和田前大使を囲んでスーダン関係者(大使館、国連、NGO、自衛隊、JICAほか)で盛大な忘年会が行われた。大使から、「南スーダン独立後、悪化してきた南北スーダンの関係も改善が見られて良かったのではないか」と2012年を振り返ってのご挨拶があった。
このブログでも何度も書いているように、南北は共存していかなければならず、闘争に労力を費やすよりも共同で開発を進める方が何倍も住民のためになるのだが、現実はそう容易ではなく、現地で良く言われるように、「右手で握手をしつつ、左手で殴る」ということが日常茶飯事で、大きな懸案事項のひとつであった石油収入の配分(正確にはパイプライン使用料)が決着したが、国境付近での攻撃が散発的に発生しているようだ。
領土の問題は、より根幹にかかわる問題で難しいと思うが、なんとか解決の道を探って欲しい。
■2013年にあたり
(1)TICADV
まずは、現在の「アフリカ開発会議(TICADV)」関係の仕事に全力で取り組み、JICAの目指す「アフリカも日本も元気なる援助」を実現させる。TICADVにあわせて、向こう5年間でJICAがアフリカでどのよう戦略で事業展開するかについて纏める作業が、年明けから待っている。また、アフリカについて、日本の市民の皆さんに理解して頂く広報活動も僕の任務だ。
(2)現場
早いもので、今年5月にはスーダンから帰任して2年を迎える。6月のTICADV会合が終了したら、できればなるべく早くアフリカの現場に戻りたい。(そのためにも今年は東京の生活で完全にリバウンドしてしまった体重を減らすことが最重要課題。飲酒量、食事を減らして運動に心がける。わかっているけど、これまた容易ではない。)
(3)出版
一昨年の12月に原稿を作成し終えていた、「スーダンの平和のために」(仮題)もいよいよ来週から出版社の編集作業が開始し、今年の前半には出版されるようなので、これも早く仕上げたい。止まっているオリジナル原稿もアップも再開しようと思う。
やらなければならない事が沢山あるが、なにより今年も皆さんと共に安全で平和な1年が過ごせますように。。。 |
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月曜日
昨年6月の記事で書いたCさんらに再会することが出来たので書きたい。
バシール大統領が、「南部が独立した場合には、北)スーダンに居住していた南部系の人たちを『外国人』として扱う」と明言していたために、不安を抱いた人たちは、昨年7月前後に大量に南部に帰還した。(2009年〜2011年の累計は約25万人とされる)。ただし、南北政府の未解決の問題についての継続交渉が続いていたため、暫定的に2012年4月までは、北に在住する南部系住民の滞在(就労)が認められていた。
その期限が過ぎ、今年4月以降は南部系の人たちは、外国人としての登録をしないと就労が出来ないことになった(他の人の情報によれば、一人当たり月100ドル相当もの登録料を払わなければ、滞在許可が延長できず、家族の多い通常の労働者には負担できない金額だ)。
CさんがJICA南スーダン事務所のスタッフとして働くことが出来ていると聞いていたので、今回の出張での再会を楽しみにしていた。
Cさんは、事務所でも現業職だったので、給与も安いため、コスティから、約3週間かけ貨物船に乗ってやってきたという。
すっかり疲れ切っているかと思ったら、意外に元気で「問題なかったですよ」とこともなげだが、昨年会った家族の暮らしぶりも見たかったため、彼の家を訪問した。
到着したCさんの家には、奥さんと3人の小さなお子さんが待っていた。とにかく、昨年6月に離れ離れになってから1年弱。Cさんの家族が再び一緒に生活することが出来て本当に良かったと思った。
しかし、家は、トタン屋根に壁は木材の骨組みに泥を塗っただけの質素なものだが、これでも家賃が月200SSDG(約3000円)と彼らにとっては高い。
水は少し離れた井戸まで汲みに行き、トイレも共同の粗末なもの。あとでスタッフに聞いた話だと、Cさんの幼い子供たちはこちらに来てから、マラリアや感染症などの病気にかかり大変だったらしい。
あまり時間がないので、早々に失礼することにしたが、彼らの不安や状況を思うと涙がこぼれた。
生活の足しになるようにわずかばかりの心付けを渡し、Cさんの家を後にした。
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日曜日は、一日NGO団体の皆さんと会議+懇親会、月曜日は、南スーダン政府やUNHCR、IOMなどを回って情報収集を行った。夕方、自衛隊の幹部の方のご厚意により、PKOキャンプを見学させて頂いた。ジュバの空港脇のUNMISSサイトの一番奥に位置する。同じサイトには、ルワンダ、インド、バングラデシュ、カンボジアなどのキャンプがある。
本部事務所前には日本の国旗と国連旗。やはり、日本人のプレゼンスがまだまだ小さい南スーダンで、日本の国旗が上がっているのを見るのは、うれしい。
まずは医務棟。
ここは国連のレベル1医療施設(応急措置のみ手術はしない)に指定されているとのことだが、コンテナの中にはレントゲン、各種検査機材などがびっしりと効率よく詰まっている。この医療コンテナは、東日本大震災の際にも東北で活躍した実績があるとのことだ。
2名の医務官をはじめ多くのスタッフの方々が勤務されている。
現在は全部が出来上がっておらず、まだテントで寝泊まりしている隊員もいるとのことだが、あと1か月ぐらいで全員がコンテナに引っ越しできるとのことだ。僕もジュバのテントホテルに泊まった経験があるが、エアコンがないので、昼間は暑くて中には居られないため、休日の休息がしづらい(木の下でビールを飲むしかない)。
40フィートのコンテナに、幹部は2名、一般要員は、3名の相部屋だという。部屋の中は私物があったので、写真は遠慮したが、共用の冷蔵庫があるだけで質素な部屋だ。
(相部屋は滞在が長くなるとストレスかも)
次に食堂。食事を作るのも隊員の方。
今日の夕食の現物が出ていたが、力仕事をする方には少々物足りないのではないか?という印象だが、一日3300カロリーは確保されているという。
(力仕事をしない自分の食事のカロリーは明らかにこれを上回っている。。。恐ろしい)。
現在、女性隊員は2名だが、ちゃんと一番風呂は女性に割り当てられているとのこと。女性による「安全確認」の結果、利用されている方がいないとのことで、中を見せて頂く。湯船があり、気持ちよさそうだ。 300名以上の隊員と100台以上の車両を使った大きなオペレーションで、物量の多さには驚いた。これまで南北スーダンで見たどのPKOキャンプよりも整っていると思う。
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僕らJICAやNGOは、6年前のまだコンテナのホテルもない時代から、手荷物ひとつで、ジュバに乗り込み、現地のものを食べて活動してきた。
今よりももっと物もなく、厳しかった時代が続いたが、独立行政法人だからという事で、安全対策もなど含め間接経費は年々圧縮されている。
当然、医師や看護師の派遣もあるわけもなく、率直に言えば、『一種の理不尽さ』も感じる。
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ただ、自衛隊の方々は、常にマスコミ、国民や政治家の注目を集めており、我々民間人にはない非常に大きなプレッシャーの中で、仕事をされており、非常に神経を使われており、大きなストレスだと思うが、是非日本人が誇れるような仕事を期待したい。
お忙しい中、ご案内いただいた自衛隊の方どうもありがとうございました。
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今日はジュバまで戻る予定で、ジョングレイの滞在時間は約3時間しかない。PWJの事業地のひとつである首都から40キロほど南のPariak村(Boma)に案内していただく。
村役場のチーフが不在なので、小学校から視察。ここでは、JPFの資金により、PWJが学校の敷地に立派なトイレを建設し、「衛生クラブ」などのソフト面も合わせて支援していると言う。
子供たちによりきれいに掃除されているのだというが、完成してから2年も経過する割にはあまりにきれいすぎる感じがする。
校長先生の説明が嘘だというつもりはないが、現実に、アフリカでは管理強化を申し入れるとトイレをロックして生徒に使わせないようするところが多く、僕もそういう場所を数多く見てきた。
他団体が昨年支援して建設したという新しい校舎に入り、校長先生の説明を受ける。
校長先生自身も1993年からSPLA兵士とし手内戦に参加したが、2003年からは教師に戻り、2008年からこの学校の校長に就任している。彼は「教育は平和の証だ」と情熱的に語る。
「8学年あり、1800人ほどの生徒がいるが、教室は3つだけで、5学年は木の下で授業をしており、夕方は成人教育を行っているという。この学校も他と同様、5年生以降の女子生徒が極端に少ない。12,13歳頃になると結婚する生徒が多いためらしい。ここでは特に女子教育に関する特別な取り組みをやっていない。PWJは早い時期から支援してくれたNo.1のNGOだ。感謝している」との言葉が述べられた。
次は村役場に戻り、村の会計責任者のジャコブさんに、軒下でお話を伺った。
「内戦中はボーは政府軍が駐留しており、幹線道路を兵士がパトロールしていたため、移動は不自由で、多くの人は国外へ脱出して限られて人数だけが残った。自分は、年老いた両親が村に残っていたので、内戦が終わる前の1999年に避難先のウガンダから戻って来た。当然家畜も失っており、白ナイル川の魚を食べたり、貴のみを食べて飢えをしのいだ。2005年に内戦が終わってしばらくした、2007年頃から人々が沢山戻ってくるようになった。」
「その当時の問題は、①医療施設がない、②井戸が足りない、③治安が悪い、の3つぐらいだったと思う。(牛はなかったが、)WFPから食糧援助を受け取ることが出来た。今現在の村の課題は、①もっと近代的な医療施設、②村内の道路、③農機具の支援、④学校が不足している。ただ、こうした課題はあるものの一度戻って来た帰還民がまたウガンダなどに戻るケースはそう多くない。」
とのことだった。
このあと、PWJが支援した保健所を視察する予定であったが、あまりの豪雨に断念して、ボーに戻った。
空港に向かう前に、PWJの皆さんと調査団で記念撮影。皆さん、これからも頑張って下さい!
このあと、無事飛行機は飛び、午後5時半にはジュバに戻ることが出来た。
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