スーダン日記

ご無沙汰しております。

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帰還民の町

水曜日
イメージ 1先日の夕方から降り始めた雨は、夜中も断続的に降り続き、朝起きると一面「田んぼ」状態。さすがのセスナもこれでは着陸できない。JPFのIさんが、ジュバに衛星携帯電話をかけて、航空会社と状況を連絡している(因みにパガックは地上波の携帯電話は使用できない)。
 
結果から言うと水曜日は雨は降らなかったが、結局飛行機が着陸できる状態にはならなかったため、本日のアユッド経由ボーへの移動はキャンセルし、パガックにもう1泊することとなった。
雨季の調査なのである程度覚悟していたが、どこかの調査地を1か所減らさないといけない。
イメージ 2
さて、本日は、昨日会えなかったチーフ(左の緑色のシャツ)に会う。このチーフ自身、2007年に帰還したとのことだが、昔話を良く知っている。
 
昨日同様、内戦前からの話を聞いていると、内戦が始まる前は、今のパガックはブッシュで、80年代終わりごろに、5家族ほどが住む場所だったが、エチオピアから戻って来た住民がこの場所に住みついてどんどん人口が膨らんだという。
その理由の説明はなかったが、このパガックの滑走路脇に、人道支援のNGOの事務所などがあったことから、どうも、帰還した人にとっては、水や食糧の配給地に近いというのが理由のようだ、
 
イメージ 3ということは、このパガックはNGO事務所の周りに『帰還民が集まってできた街』で、エチオピアにも近く、買い物などにも便利で、しかも安全という条件がそろったもののようだ。
 
お話を伺った大きな木の下は、裁判所になっているということで、周りに柵が出来ている。2005年からPayamという暫定自治政府の地方行政府が置かれているが、裁判については、伝統首長であるチーフ(村人の選挙で選ばれる)により行われているとのことだ。アフリカでは、こうした近代的行政府と伝統首長制度が併存することは珍しくないが、ここでは、両者の関係は微妙なようだ。
イメージ 4
チーフとの話が終わった後は、ADRAが支援している幼稚園を訪問した。
 
この幼稚園は、地元の人たちが自主運営する幼稚園で、先生方もケアする女性もすべてボランティアとのことで、生徒は200名以上が通っている。
全員裸足で、一目で栄養状態が悪いとわかる小さな子供も多く、この地域の貧しさが分かる。
 
かつては、WFPが子供たちに給食を配っていたが、それが中止されたため、ADRAが引き継いで支援しているとのこと。
 
イメージ 5Way Stationと同じく、行政に財政的な能力がなく、コミュニティも貧しい場合には、こうした援助は一度始めると、いつまで続けるのか、いつやめるのかを判断するのが難しい。
 
ADRAのKさんも、この事業の持続性について心配をしており、幼稚園の敷地で野菜作りするなど出来る工夫をされているようだ。
 
先ほどのチーフとの話では、『孤児』も多く、水や農業の他に、こうした支援も是非欲しいと言及されていた。
 
さて、明日木曜日は、アユッドでピースウィンズジャパンの事業地での調査を行った後、ジョングレイ州の州都であるボーへ移動予定。明日は雨が降らないでほしい・・・

パガックの内戦後

火曜日
イメージ 1早速、ADRAが運営する「Way Station」を訪問する。Way Stationとは、エチオピアに逃れた難民が国境を越えて、スーダンに戻ってくる際に、受け入れるセンターのことで、国境から数キロのパガックの町外れにある。
 
エチオピアからの難民帰還が盛んだった2007、08年頃は、UNHCRがバスでエチオピア側の難民キャンプから帰還民を輸送したため、1日に200名以上が到着したこともあるという。このWay Stationでは、健康やHIVなどに関する座学などが行われ、帰還民たちは、ここで1泊して支援物資(食糧や農具など)を受け取り、それぞれの村に戻ることになっている。
イメージ 2
 
ARDAは、村に戻る住民をトラックで輸送するなどの支援も行ったという。
 
難民などの帰還のピークは、人口センサス(2008年)の前で、それ以降はUNHCRなどによる組織的な機関のオペレーションは行われていない。
 
帰還のオペレーションのために建設されたこのWay Stationを、現在では、帰還した地域住民のための職業訓練(ADRAだけでなく他のNGOも活用)や住民の各種集まりなどに活用されているという。
 
ただ、まだ地元行政府(Payam(州の下がCounty、その下がPayamで人口は数万人程度))や住民組織にこのセンターを運営する体制や予算はなく、地域の住民が自分たちで運営できるまで、ADRAが支援を続けるというが、まだ時間がかかりそうだ。
 
イメージ 3
町中に歩いて戻ってきて、木の下のお茶屋さんで休憩する。子供を抱いた夫人(緑のシャツ)は、ADRAの職業訓練を受けて、現金収入を得るためにこのお茶屋さんを始めたとのこと。
 
エチオピアから夫婦で帰還し、夫はしばらく農業などの賃金労働を行っていたが、生活を支えるために働いているという(因みに夫は中学校に通うために隣の州の親戚に家に行ってしまったとのこと)。
 
彼女の場合は、未亡人ではないが、内戦で夫を失った未亡人は多く、パガックで収入の道がない女性は、エチオピア領に仕事を求めていくという。
イメージ 4
 
次にPayamの事務所に行って、聞き取り調査を行う。内戦から現在までのお話を時代を追って伺う。
「この地域は、内戦中(特に92年頃)スーダン軍が大規模な殺戮を行い、ほとんどの人は、スーダンを出て、エチオピアやケニア、北スーダンへ脱出してしまった。」
 
「2005年にCPA(和平協定)が締結されたが、多くの人たちはこれで本当に平和が来るか信じられず、本格的に帰還が始まったのは、2006年以降。当時は、食糧も不足したし、水や医療でも大変苦労した。」
 
「その後、人口センサスや総選挙、独立を問う住民投票、南スーダン独立(南スーダン人追放)などの政治的な節目ごとに非常にたくさんの人がパガックに戻って来た(概ね2008年までに半分が帰還し、2012年現在の人口は2008年の約2倍になっているという)
 
「現在の問題は雇用。NGOなどの他には雇用がなく、食糧援助を受けている状態であり、農業などの振興が必要。現在は、南北スーダンの関係が悪化しているが、治安は全く問題ない。」
 
イメージ 6同行してくださったADRAの方によれば、「パガックはGPSで見るとエチオピア領内にあるため、スーダン国境に近がスーダン軍が空爆をしづらいと言われている」そうだ。
 
会えなかったチーフには、翌朝会うことにして、マーケットを経由して、宿泊先のADRAのコンパウンドに戻ることにする。
 
町の中心には、前夜の雨の水がたまり、ドロドロの広場のまわりに20軒ぐらいの店が並んでいる。物はすべてエチオピアから入ってくるとのことで、商人はほとんどエチオピア人で、通貨もエチオピアのブルが流通している。
 
イメージ 5 市場のはずれにビールを出すお店を発見。日没近かったので、試しに少しいただく。
 
写真の通り、2種類のビールがあったが、電気がない町のため冷えていないのが、残念。値段も1本4ポンド(60円)ぐらいだが、地元の人たちには高級品だろう。
 
外では雨が降り始めた。翌日のフライトがとても心配だ。

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